佐藤尚武の情報(さとうなおたけ) 外交官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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佐藤尚武と関係のある人
長岡春一: 1933年、リットン報告書の採択の際に松岡洋右・佐藤尚武らと共に、国際連盟総会の議場から退場。 阿南惟幾: ソ連との交渉は佐藤尚武駐ソビエト連邦大使に託されていたが、ヤルタ会談によって既に対日参戦を決定していたソ連にあしらわれて、佐藤は6月9日に「日ソ友好強化は絶望的」と報告している。 前川國男: 渡仏に際しては母方の伯父であった外交官の佐藤尚武を頼った。 ハリー=トルーマン: 戦争に勝てないと判断した大日本帝国政府は、7月12日にソ連にいる日本特命全権大使(佐藤尚武)宛てに、ソ連に和平の仲介を依頼する特使を派遣する予定であることを伝えるよう打電した。 東郷茂徳: 駐ソ日本大使だった佐藤尚武は戦後に「貴重な一カ月を空費した事は承服できない」と語っている。 下条康麿: 下条は同じ無所属で当選した河井彌八、松平恒雄、佐藤尚武、田中耕太郎、高橋龍太郎、山本有三らと語らって緑風会を結成する。 東郷茂徳: モスクワにあってソ連の動向を探っていたソ連大使の佐藤尚武はソ連を仲介とした和平交渉の斡旋を求める東郷の訓令に反対する意見を具申したが、東郷の受け入れるところとはならなかった。 小日山直登: 妻は佐藤愛麿の娘であり、佐藤尚武とは義兄弟となる。 木村俊夫: 佐藤尚武 愛新覚羅溥儀: その後1945年8月8日に、先立って行われたヤルタ会議でのイギリスやアメリカなどのほかの連合国との密約により、ソ連政府はモスクワに終戦仲介依頼に来ていた駐ソ連日本特命全権大使佐藤尚武に対し、1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約の一方的な破棄と宣戦布告を通告し、その数十分後にソ連軍の大部隊が北西の外蒙古および北東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面の3方向からソ満国境を越えて、日本の同盟国である満洲国に侵攻した。 有田八郎: 同年9月10日、日中戦争への対処を行うために新設された外交顧問に佐藤尚武とともに就任するが、対中国機関問題が擱座したため同年9月29日に辞任。 向井忠晴: 一橋ではテニス部で選手として活躍したほか、学業においては同級の佐藤尚武(元参議院議長)や福島喜三次(元三井合名理事)と首席の座を争った。 倉成正: 佐藤尚武 |
佐藤尚武の情報まとめ
佐藤 尚武(さとう なおたけ)さんの誕生日は1882年10月30日です。大阪出身の外交官のようです。
事件、引退、兄弟に関する情報もありますね。1971年に亡くなられているようです。
佐藤尚武のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月30日 - 1971年(昭和46年)12月18日)は、日本の外交官、政治家。林内閣外務大臣、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使、戦後には参議院議長(第2・3代)等を歴任した。 旧弘前藩士で当時大阪府警部であった田中坤六の次男として大阪府に生まれる。同じく弘前藩士で外交官の佐藤愛麿(後に在米特命全権大使)の養子となる。旧制正則中学校(正則高等学校の前身)卒。1904年(明治37年)、東京高等商業学校(一橋大学の前身)全科卒。同専攻部領事科へ入学。一橋では同級生の向井忠晴(三井総元方理事長や大蔵大臣を歴任)や福島喜三次(元三井合名理事)と首席を争った。後年、向井に駐米大使を打診したが飛行機嫌いであるとして固辞されている。 1905年(明治38年)、外交官及び領事官試験に合格し外務省入省。在ロシア公使館外交官補(のち三等書記官)、ハルビン領事(のち総領事)、在スイス公使館一等書記官、在フランス大使館参事官、在ポーランド公使を歴任した。ロシア革命が勃発した当時はハルビン総領事の職にあり、1917年12月にボリシェヴィキ勢力がハルビンの制圧を図った際には、他のハルビン駐在連合国領事らと領事団を結成して当時の中華民国政府(北京政府)に介入を要請し、中国軍によってハルビンのボリシェヴィキ関係者は排除された。このあとハルビンでは陸軍を中心としてグリゴリー・セミョーノフやドミートリー・ホルヴァート(ロシア語版)といった反革命勢力の人物を擁立する動きがあった。日本は1918年8月からシベリア出兵に踏み切るが、佐藤は外務省関係に多かった「出兵に熱心な者」の一人と評されている。 1926年(大正15年)9月8日、駐ポーランド大使のまま国際連盟組織委員会委員に就任。1927年(昭和2年)に国際連盟帝国事務局長、1929年(昭和4年)のロンドン海軍軍縮会議では事務総長を勤め、1930年(昭和5年)、駐ベルギー特命全権大使に就任する。このベルギー大使在任時の1931年9月、国際連盟第12回総会に出席中満洲事変勃発の報が入り、直後の国際連盟第65回理事会で佐藤は中国の理事からの非難に直面することとなる。続く第66回理事会は第一次上海事変のあとに開かれ、ここで佐藤は世界からの非難を一身に受けながら日本の立場の説明をおこなうとともに、政府に対しては自制を訴えた。しかし日本は満洲国を承認、1933年(昭和8年)の国際連盟総会でリットン調査団による報告書の採択の際は、代表団の一員として首席代表松岡洋右や駐フランス大使長岡春一とともに議場を退席した。同年、駐フランス特命全権大使。1935年(昭和10年)、入省30年を迎えたのを機に辞任を申し出、翌年退任する。 1937年(昭和12年)、日本への帰国早々林内閣で外務大臣に就任。佐藤は入閣の条件として、平和協調外交、平等の立場を前提とした話し合いによる中国との紛争解決、対ソ平和の維持、対英米関係の改善の4つを林首相らに提示し、これを確認した上で就任を受諾した。だが、就任直後の帝国議会で、持論の中国との話し合いを説き、戦争勃発の危機は日本の考え方次第であると述べた内容が、軍部や右翼から「軟弱外交」と非難を浴びることになった。そうした状況でも関東軍が推し進めた華北分離工作に反対し、中国との対立を避けるためにその具体策として日華貿易協会会長児玉謙次を団長とする経済使節団を中国に派遣した。使節団の一行は、3月12日に神戸港を出帆して中国に渡り、蔣介石と会見し、中国政府要人及び経済人と26日まで幾度か会合し、協議した。しかし林内閣の総辞職とともに退任。その直後に盧溝橋事件が起きた。 1938年(昭和13年)9月10日、日中戦争への対処を行うために新設された外交顧問に有田八郎とともに就任するが、対中国機関問題が擱座したため同年9月29日に辞任。1940年(昭和15年)、駐イタリア特命全権大使。1941年(昭和16年)、外務省外交顧問。1942年(昭和17年)、東郷茂徳外務大臣に請われ、建川美次の後任として駐ソビエト連邦特命全権大使就任。大使補佐には守島伍郎が充てられる体制が採られた。1946年(昭和21年)、枢密顧問官。 1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙に青森県選挙区から出馬し参議院議員に当選。以後、第3回、第5回通常選挙で当選し、連続3期務めた。参議院議員時代に緑風会の結成に参加した。阿波丸事件において賠償権放棄の決議案提出に提出者の1人として関わるが、その内容には批判的だった。1947年、出淵勝次の死去に際しては、参議院本会議で弔意決議案を提出した。参議院では、1948年(昭和23年)、参議院外交委員長、1949年(昭和24年)参議院議長などを歴任。その他、1953年(昭和28年)から1971年(昭和46年)まで、伊勢神宮奉賛会初代会長。また日本国際連合協会・日本ユニセフ協会会長等も務めた。 1956年(昭和31年)12月の国際連合加盟に際し、日本国政府代表として重光葵外務大臣に同行し国際連合総会に出席。 1965年(昭和40年)7月、第7回通常選挙に出馬せず引退。1970年(昭和45年)10月27日、第4回鹿島平和賞受賞(国連活動ほか)。墓所は谷中霊園。 駐ソ連大使の任命は、日本にとって戦局が悪化する中で、日ソ中立条約を締結していたソビエト連邦との中立維持がその最大の目的であった。佐藤は中立条約締結時に当時の松岡外相が約束していた北樺太の石油・石炭利権の移譲、および日ソ漁業条約の更新を1944年(昭和19年)3月に調印にこぎ着けた。また、日本からは仲介による独ソ和平に向けた交渉を要請され、佐藤はそれに従ったものの、イデオロギーなどで全面的に対立する両国が和平に応じる見込みはないという電報を外務省宛に送っている。独ソ和平に消極的な佐藤の態度に対し、日本国内では陸軍から佐藤の更迭論まで出たが、重光葵外相が交代に反対し、廣田弘毅元首相を特使として派遣できるようソ連と交渉して陸軍をなだめることになった。佐藤はこれに基づいて、1944年9月にヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員に特使派遣を申し入れたが、「特使派遣が何を目的とするか疑問である」という理由で拒絶された。だが、その後も重光からは陸軍の意を受ける形で、日ソ関係の強化と独ソ和平仲介への交渉を求められ、そのたびに佐藤は「中立関係の維持そのものが問題になりつつある」と否定的な返答を繰り返した。こうした日本から寄せられる「日ソ関係改善論」について、戦後に佐藤は「かつて軟弱といわれた自分以上の軟弱外交ではないか」と「せせら笑った」と回想している。 それだけに、条約の期限1年前までとされた中立条約の廃棄通告期限(1945年4月25日)が近づくと心中穏やかではなく、期日をやり過ごして自動延長を待ちたいと神頼みするほどであった。だが、4月5日にモロトフと会見した佐藤はその場で条約の1年後の廃棄を通告される。これを受けて佐藤が日本に送った電報では、ソ連の狙いは米英に好意を得るためのジェスチャーで対日参戦への決意を固めたものではない、このジェスチャーも米英にとってはむしろ迷惑に感じて米英とソ連の摩擦が増大する可能性もあると記した。同時に佐藤は「もしもヤルタ会談で決定した上で廃棄通告が出されたものだとすれば、自分の観察は根底から覆ることになる」と別の可能性にも触れていたが、「問題はそこまで深刻ではない」とこれを軽視することになった。 1945年5月のドイツ敗戦後、日本国内ではソ連を通じた「無条件降伏ではない和平」の仲介を求める動きが起きる。佐藤は既に戦争の大勢は決まった以上、ソ連が仲介の役に立つ可能性は少ないと判断して早期終戦を促す機密電報を東京の本省に送っている。7月に昭和天皇の意向で近衛文麿を和平交渉の特使としてモスクワに派遣することが決まると、7月12日に東郷茂徳外務大臣は佐藤に対して、特使派遣をモロトフに申し入れるよう訓令した。だが、モロトフとはポツダム会議の準備という理由で会うことはできず、外務人民委員代理のソロモン・ロゾフスキーに依頼を伝えている。佐藤は東郷外相の指示に従って行動したが、ここでも本省に対して具体的な条件を欠いた特使派遣の依頼ではソ連を動かすことはできないとして、無条件降伏に近い和平しかないという電報を送った。 佐藤は7月18日にロゾフスキーから「天皇のメッセージに具体的提議がないこと、特使の使命が不明確であること」を理由に特使を拒絶する回答を受ける。佐藤は東郷の指示で再度特使派遣をソ連側に申し入れる一方、ポツダム宣言直前の1945年7月20日に東郷に当てた長文の電報では、「すでに抗戦力を失ひたる将兵および我が国民が全部戦死を遂げたりとも、ために社稷は救はるべくもあらず。七千万の民草枯れて上(引用者注:天皇)御一人安泰たるを得べきや。(中略)過去の惰性にて抵抗を続けおる現状を速やかに終止し、以て国家滅亡の一歩手前にてこれをくい止め、七千万同胞の塗炭の苦しみを救い、民族の生存を保持せんことをのみ念願す」と早期に「皇室の維持」のみを条件とした無条件降伏に近い講和を結ぶように要求していた。 佐藤は日本からの和平交渉特使派遣の回答をモロトフに求めていたが、ようやく8月8日に実現したクレムリンでの会見の席で、モロトフから対日宣戦布告を通知されることになった。佐藤は戦後「貴重な一カ月を空費した事は承服できない」と語っている。 フランス語、ロシア語が非常に堪能で、英語、ドイツ語も習得していた。 入省直後に外交官補として在勤したサンクトペテルブルクで、ロシア語とフランス語の個人授業を三年間受けている。当時の帝政ロシア首脳部では、フランス語が共通語であったこともあり、外交官補時代の佐藤はロシア語よりもフランス語が上達したという。次いでハルビン在勤となるが、当時のハルビンは東清鉄道が敷設され、ロシアの植民地のような状況でロシア語が共通語であったことから、佐藤はハルビンでロシア語を上達させた。 フリーメイソンのメンバーであったと記録に残っている。 1906年(明治39年)2月10日 - 従七位 1907年(明治40年)9月14日 - 勲六等瑞宝章 1908年(明治41年)12月11日 - 正七位 1911年(明治44年)9月20日 - 従六位 1913年(大正2年)12月27日 - 勲五等瑞宝章 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正) 1916年(大正5年)
4月1日 - 双光旭日章 1918年(大正7年)7月31日 - 従五位 1919年(大正8年)12月25日 - 勲四等瑞宝章 1920年(大正9年)11月1日 - 勲三等瑞宝章 1921年(大正10年)9月10日 - 正五位 1923年(大正12年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章 1925年(大正14年)10月15日 - 従四位 1928年(昭和3年)
11月16日 - 大礼記念章(昭和) 1930年(昭和5年)11月1日 - 正四位 1931年(昭和6年)10月31日 - 勲一等瑞宝章 1933年(昭和8年)11月15日 - 従三位 1934年(昭和9年)4月29日 - 勲一等旭日大綬章・昭和六年乃至九年事変従軍記章 1937年(昭和12年)3月15日 - 正三位 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1971年(昭和46年)12月18日 - 従二位勲一等旭日桐花大綬章 1908年(明治41年)6月9日 - ロシア帝国:神聖アンナ第三等勲章 1914年(大正3年)12月25日 - スペイン王国:イサベルラカトリック第三等勲章(英語版) 1924年(大正13年)2月21日 - フランス共和国
ランストリュクションピュブリック記章オフイシエー 1934年(昭和9年)5月29日
ルクセンブルク大公国:クーロンヌドシエーヌ勲章(英語版)グランクロア 1937年(昭和12年)4月2日- フランス共和国:レジオンドヌール勲章グランクロア 1941年(昭和16年)3月3日 - イタリア王国:サンティッシママウリチオエラッザロ勲章グランコルドーニ 生家である田中家は、弘前藩士で田中太郎五郎の子孫である。田中太郎五郎吉祥は津軽家家臣で天正7年(1579年)、六羽川合戦の折、主君津軽為信の身代わりとなって討ち死にし、合戦の勝利に導いた。その功に田中家は津軽の功臣として嫡子田中宗右衛門に100石を加増し、その館跡が田中館跡として伝えられている。 実父:田中坤六 - 山形県警部長、佐賀県警部長、三重県警部長、沖縄県警部長、台北県警部長兼台湾総督府法院検察官を歴任。 養父:佐藤愛麿 - 駐オーストリア・ハンガリー帝国大使や駐米大使を歴任。 妻:佐藤ふみ - 佐藤愛麿の娘。 長女:房子 - 夫・成田勝四郎は駐西ドイツ大使や終戦連絡中央事務局第一部長、国連政府代表団代表などを歴任。 義弟:前川貫一 - 妹・菊枝の夫。内務省官僚で河川技術者。長男は前川國男(建築家)、三男は前川春雄(第24代日本銀行総裁)。 義弟:佐々木嘉太郎 - 妹・栄枝の夫。戦前の青森屈指の大富豪。「布嘉」の屋号で知られ、1944年に五所川原の大火で焼け落ちた自宅「布嘉屋」は、東北一の大豪邸で知られた。 義兄弟:小日山直登 - 佐藤愛麿の娘の夫。南満州鉄道総裁、運輸大臣。 『回顧八十年』時事通信社、1963年4月25日。NDLJP:2983869。
『二つのロシア』世界の日本社、1948年 - 黒田乙吉・柳澤健との共著、他は戦前・戦後共に講演冊子である 監修『国際連盟における日本 日本外交史14』鹿島平和研究所編、鹿島研究所出版会、1972年 ^ 『官報』第973号、明治19年9月27日。 ^ 「ロータリーは遂に日本に来た ~つづき~」 福岡西ロータリークラブ ^ 「三井財閥最後の大物 向井忠晴(むかい・ただはる)」 三井広報委員会 ^ 麻田、2016年、pp.45 - 46 ^ 麻田、2016年、p.49 ^ 麻田、2016年、p.84。ほかに本野一郎・内田康哉(いずれもこの時期の外相)、松岡洋右・川上俊彦らが挙げられている。 ^ 石井全権が総会副議長に『大阪毎日新聞』大正15年9月9日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p189 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ NHK取材班、1995年、p76 - 78 ^ 両顧問が辞表、対中国中央機関問題で『東京日日新聞』昭和13年9月30日(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p66 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 佐藤尚武を中ソ大使に、守島公使が補佐『朝日新聞』昭和17年3月1日夕刊(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p43 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 「伊勢神宮崇敬会会長にパナ副会長・松下正幸さん 松下幸之助は第3代会長」 伊勢志摩経済新聞2017年07月07日 ^ NHK取材班、1995年、p32 ^ NHK取材班、1995年、p66 ^ NHK取材班、1995年、p68 - 74 ^ NHK取材班、1995年、p74。この記述は1946年の講演の速記録からの引用。 ^ NHK取材班、1995年、pp.86 - 88 ^ 長谷川、2011年、pp97 - 100 ^ 長谷川、2011年、pp.97 - 100 ^ NHK取材班、1995年、p223 ^ 長谷川、2011年、p259 ^ NHK取材班、1995年、p233 ^ 長谷川、2011年、p299 ^ NHK取材班、1995年、pp.237 - 240 ^ 長谷川、2011年、pp.300 - 301 ^ 読売新聞戦争責任検証委員会『検証 戦争責任 2』中央公論新社、2006年10月、227頁。ISBN 4-12-003772-X。 ^ 赤間剛 1983, p. 81 ^ 「佐藤尚武」 アジア歴史資料センター Ref.A06051184500 ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。 ^ 『官報』第7497号「叙任及辞令」1908年6月24日。 ^ 『官報』第723号「叙任及辞令」1914年12月28日。 ^ 『官報』第3450号「叙任及辞令」1924年2月26日。 ^ 『官報』第2223号「叙任及辞令」1934年6月1日。 ^ 『官報』第3076号「叙任及辞令」1937年4月7日。 ^ 『官報』第4247号「叙任及辞令」1941年3月6日。 ^ 『官報』第2745号、明治25年8月20日。 ^ 『官報』第2871号、明治26年1月26日。 ^ 「台北県警部長兼台湾総督府法院検察官田中坤六依願本官並兼官被免ノ件」明治29年11月20日。 ^ 秦郁彦『戦前日本官僚制の制度・組織・人事』「主要官僚の履歴」 ^ 元の原稿は、佐藤がモスクワ赴任時に口述を行い、同郷の坂田二郎(1909-1991、当時同盟通信・特派員で駐在、戦後は共同通信社、NHK解説委員)が筆記担当した。回想記『ペンは剣よりも』(サイマル出版会、1983年)第5章より 赤間剛『フリーメーソンの秘密 世界最大の結社の真実』三一書房、1983年。 麻田雅文『シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争』中公新書、2016年 NHK取材班『太平洋戦争 日本の敗因6 外交なき戦争の週末』角川書店〈角川文庫〉、1995年 栗原健、海野芳郎、馬場明『佐藤尚武の面目』原書房、1981年 長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年。元版・中央公論新社、2006年 秦郁彦編 『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年 吉村道男監修『日本外交史人物叢書 第17巻 回顧八十年』ゆまに書房、2002年 半藤一利『ソ連が満洲に侵攻した夏』文藝春秋〈文春文庫〉、2002年8月。ISBN 978-4167483111。 林内閣 ソ連対日宣戦布告 表 話 編 歴 松平恆雄 佐藤尚武 河井彌八 松野鶴平 重宗雄三 河野謙三 安井謙 徳永正利 木村睦男 藤田正明 土屋義彦 長田裕二 原文兵衛 斎藤十朗 井上裕 倉田寛之 扇千景 江田五月 西岡武夫 平田健二 山崎正昭 伊達忠一 山東昭子 尾辻秀久 関口昌一 議院 貴族院 参議院 衆議院 表 話 編 歴 佐藤尚武 野田俊作 櫻内辰郎 大隈信幸 有馬英二 徳川頼貞 佐藤尚武 石黒忠篤 山川良一 梶原茂嘉 小瀧彬 笹森順造 寺本広作 青柳秀夫 杉原荒太 鹿島守之助 草葉隆圓 木内四郎 近藤鶴代 井上清一 岡崎真一 黒川武雄 青柳秀夫 小柳牧衞 寺尾豊 木内四郎 赤間文三 三木與吉郎 山本利壽 長谷川仁 松平勇雄 八木一郎 平島敏夫 伊藤五郎 二木謙吾 高橋雄之助 寺本広作 安孫子藤吉 菅野儀作 石破二朗 秦野章 稲嶺一郎 増田盛 後藤正夫 平井卓志 最上進 宮澤弘 森山眞弓 堀江正夫 山東昭子 岡野裕 大鷹淑子 野沢太三 井上章平 田村秀昭 木庭健太郎 釘宮磐 寺澤芳男 大久保直彦 廃止 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 ジョン・イング 本多庸一 菊池九郎 菊池きく子 本多みよ子 本多斎 山鹿元次郎 古坂啓之助 沢井弘之助 山鹿旗之進 山田寅之助 長谷川朝吉 脇山義保 伊藤春山 菊池軍之助 川村敬三 佐藤愛麿 珍田捨巳 東奥義塾(1872) 弘前公会(1875) 青森公会(1878) 来徳女学校(1886) 静岡バンド(1876) 弘前バンド(1876) 阪神バンド(1870) 松江バンド(1890) 表 話 編 歴 開設1907 川上俊彦1907- 本多熊太郎1912- 松島肇 佐藤尚武 N/A 山内四郎-1925 天羽英二1925-1927 八木元八1928- 大橋忠一1931-1932 森島守人-1935 佐藤庄四郎 久保田貫一郎1939-1942 N/A 宮川舩夫1944-1945 閉鎖1945 表 話 編 歴 川上俊彦1920-1923 佐藤尚武1923-1927 松島肇1928-1931 河合博之1931-1933 伊藤述史1933-1937 酒匂秀一1937-1939 大使交換中断 太田三郎1957-1961 河崎一郎1961-1967 金山政英(英語版)1967-1968 中村茂1968-1971 力石健次郎1971-1972 根本驥1972-1975 高杉幹二1975-1977 堀新助1978-1980 原冨士男1980-1983 松原進1983-1987 秋保光孝1987-1990 山下新太郎1990-1992 兵藤長雄1993-1997 佐藤俊一1997-2000 上田秀明2000-2003 小野正昭2003-2006 田邊隆一2006-2009 楠本祐一2009-2011 山中誠2011-2016 松富重夫2016-2018 川田司2018-2020 宮島昭夫2020- 表 話 編 歴 柳原前光1873 代理公使(未赴任) 鮫島尚信1878-1880 長岡護美1880-1882 蜂須賀茂韶1883-1887 西園寺公望1887-1891 青木周蔵1892-1898 井上勝之助1898 本野一郎1898-1901 加藤恒忠1902-1906 秋月左都夫1907-1909 鍋島桂次郎1910-1913 阿部守太郎1913 (未赴任) 陸奥広吉1914 (未赴任) 安達峰一郎1917-1921 大使館昇格1921 安達峰一郎1921-1928 永井松三1928-1930 佐藤尚武1931-1933 有田八郎1934-1935 来栖三郎1936-1939 栗山茂1939-1940 大使交換中断 与謝野秀1951-1952 在外事務所長 荒川昌二1952-1955 武内竜次1955-1957 倭島英二1957-1960 下田武三1961-1963 湯川盛夫1963-1968 小田部謙一1968-1971 安倍勲1971-1976 西堀正弘1976-1979 徳久茂1979-1983 山本鎮彦1983-1987 加藤吉彌1987-1990 矢田部厚彦1990-1992 加藤淳平1992-1994 中村順一1994-1997 兵藤長雄1997-2000 佐藤俊一2000-2003 内藤昌平2003-2006 林梓2006-2009 横田淳2009-2012 坂場三男2012-2014 石井正文2014-2017 林肇2017-2019 下川眞樹太2019-2022 三上正裕2022- 表 話 編 歴 向山黄村1866-1868 鮫島尚信1870-1873 少弁務使→中弁務使→弁理公使 / 1873-1875 /1878-1880 井田譲1881-1883 蜂須賀茂韶1882-1887 田中不二麿1887-1890 野村靖1891-1893 曾禰荒助1893-1897 栗野慎一郎1897-1901 本野一郎1901-1906 大使館昇格 栗野慎一郎1906-1912 石井菊次郎1912-1915 松井慶四郎1915-1920 石井菊次郎1920-1927 安達峰一郎1927-1929 芳澤謙吉1930-1932 長岡春一1932-1933 佐藤尚武1933-1935 杉村陽太郎1937-1938 沢田廉三1939-1940 加藤外松1941-1942 三谷隆信1942-1946 大使交換中断1946 萩原徹1950-1952 萩原徹1952臨時代理大使 西村熊雄1952-1956 古垣鉄郎1957-1961 萩原徹1961-1967 松井明1967-1970 中山賀博1970-1975 北原秀雄1975-1979 井川克一1979-1982 内田宏1982-1984 本野盛幸1984-1989 木内昭胤1989-1992 矢田部厚彦1992-1994 松浦晃一郎1994-1999 小倉和夫1999-2002 平林博2002-2006 飯村豊2006-2009 齋藤泰雄2009-2011 小松一郎2011-2013 鈴木庸一2013-2016 木寺昌人2016-2019 伊原純一2019-2022 下川眞樹太2022- 表 話 編 歴 在オーストリア=ハンガリー弁理公使が兼轄 佐野常民1873 河瀬真孝1873 昇格 河瀬真孝1873-1877 西郷従道1878 (未赴任) 鍋島直大1880-1882 浅野長勲1882-1883 田中不二麿1884-1887 徳川篤敬1887-1890 中島信行1893 高平小五郎1894-1896 栗野慎一郎1896-1897 牧野伸顕1897-1899 大山綱介1899-1906 昇格 高平小五郎1907-1908 林権助1908-1916 伊集院彦吉1916-1919 落合謙太郎1920-1926 松田道一1926-1929 吉田茂1931-1932 松島肇1932-1934 杉村陽太郎1934-1936 堀田正昭1936-1937 白鳥敏夫1938-1939 天羽英二1939-1940 佐藤尚武1940 堀切善兵衛1940-1942 日高信六郎1942-1943 イタリア王国と国交断絶、イタリア社会共和国が国交継承 日高信六郎1943-1945 イタリア社会共和国が崩壊 イタリア共和国と国交再開を合意1951 井上孝治郎1951-1952 イタリア共和国と国交再開1952 井上孝治郎1952全権公使 原田健(英語版)1952-1955 太田一郎1956-1959 鈴木九萬1959-1961 門脇季光1961-1963 中川融1964-1965 与謝野秀1965-1967 田付景一1967-1969 高野藤吉1969-1972 竹内春海1972-1975 藤山楢一1975-1979 影井梅夫1979-1982 堀新助1982-1984 西田誠哉1984-1987 手島冷志1987-1990 浅尾新一郎1990-1992 渡辺幸治1992-1993 英正道1993-1997 瀬木博基1997-2000 林暘2000-2002 松原亘子2002-2005 中村雄二2005-2008 安藤裕康2008-2011 河野雅治2011-2014 梅本和義2014-2017 片上慶一2017-2020 大江博2019-2022 鈴木哲2022- 表 話 編 歴 澤宣嘉1873(未赴任) 榎本武揚1874-1880 柳原前光1880-1883 花房義質1883-1887 西徳二郎1887-1897 林董1897-1900 小村壽太郎1900 珍田捨巳1900-1901 栗野慎一郎1901-1904 国交断絶(日露戦争) 本野一郎1906-1908 大使館昇格1908 本野一郎1908-1916 内田康哉1916-1918 国交断絶(ロマノフ朝の崩壊から日ソ基本条約締結まで、日本は反革命の白系ロシア人勢力を支援してソビエト連邦と対立) 田中都吉1925-1930 広田弘毅1930-1932 太田為吉1932-1936 重光葵1936-1938 東郷茂徳1938-1940 建川美次1940-1942 佐藤尚武1942-1946 国交断絶(第二次世界大戦末期から日ソ共同宣言まで) 門脇季光1957-1961 山田久就1961-1963 下田武三1963-1965 中川融1965-1970 新関欽哉1971-1973 重光晶1974-1978 魚本藤吉郎1978-1982 高島益郎1982-1984 鹿取泰衛1984-1987 武藤利昭1987-1990 枝村純郎1990-1991 枝村純郎1991-1994 渡辺幸治1994-1996 都甲岳洋1996-1999 丹波實1999-2002 野村一成2002-2006 齋藤泰雄2006-2009 河野雅治2009-2011 原田親仁2011-2015 上月豊久2015-2023 武藤顕2023- 表 話 編 歴 佐藤尚武 津島文治 寺下岩蔵 松尾官平 三上隆雄 山崎力 平山幸司 滝沢求 平野善治郎 工藤鉄男 笹森順造 山崎竜男 松尾官平 田名部匡省 山崎力 田名部匡代 FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research SNAC IdRef 参議院議長 青森県選出の参議院議員 昭和時代の参議院議員 昭和時代戦前の閣僚 日本の外務大臣 日本の枢密顧問官 在ポーランド日本大使 在ベルギー日本大使 在フランス日本大使 在イタリア日本大使 在ソビエト連邦日本大使 戦前日本の大使 大正日本の公使 昭和日本の公使 国際連盟日本代表 外交顧問 日本のフリーメイソン 正則高等学校出身の人物 一橋大学出身の人物 大阪府出身の人物 従二位受位者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 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2024/11/20 03:36更新
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satou naotake
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