もしもし情報局 > 1943年 > 11月18日 > アニメ演出家

出崎統の情報 (でざきおさむ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

出崎統の情報(でざきおさむ) アニメ演出家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

出崎 統さんについて調べます

■名前・氏名
出崎 統
(読み:でざき おさむ)
■職業
アニメ演出家
■出崎統の誕生日・生年月日
1943年11月18日 (年齢67歳没)
未年(ひつじ年)、蠍座(さそり座)
■出身地・都道府県
東京出身

(昭和18年)1943年生まれの人の年齢早見表

出崎統と同じ1943年生まれの有名人・芸能人

出崎統と同じ11月18日生まれの有名人・芸能人

出崎統と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


出崎統と関係のある人

横田守: 続いて劇場アニメ版『AIR』では企画段階で関わり、出崎統を監督としてスタッフへ推薦した。


有里紅良: 11人いる!(1986年、キティ・フィルム制作、出崎統・富永恒雄共同監督)


丸山正雄: マッドハウス初期に大きな影響を受けたクリエイターに、出崎統監督と平田敏夫監督の名前を挙げ、「スタジオの両輪だった」と語っている。


吉田喜昭: 『巨人の星』 : 総指揮梶原一騎、監督長浜忠夫・出崎統、原作梶原一騎・川崎のぼる、構成山崎晴哉、声の主演古谷徹、製作三協映画、配給富士映画、1982年8月21日公開(映倫番号 110709) - 松岡清治・辻真先・山崎忠昭・斉藤次郎・佐々木守・松本力・佐脇徹と共同で脚本協力


鈴木清司: 出崎統


菅谷政子: 同じ東京都立北園高等学校出身の出崎統監督作品で重用され、特に『エースをねらえ!』では、主人公・岡ひろみの親友である愛川マキ役を全シリーズにわたって演じた。


鈴木良武: 虫プロ時代の先輩たち出崎統、杉井ギサブロー、奥田誠治、吉川惣司らが設立したアートフレッシュへ。


出﨑統: クレジットタイトル上では「出崎統」と表記されることもある。


有里紅良: B・B(1990-1991年、マジックバス制作、出崎統監督)


吉田喜昭: 『ジャングル黒べえ』 : 企画楠部三吉郎・引野芳照・石井照子、監督出崎統、原作藤子不二雄、声の主演肝付兼太、製作東京ムービー、1973年3月2日 - 同年9月28日放映(連続テレビアニメ映画・全31回・全61話)


吉田喜昭: 従来、学習雑誌等の仕事もしていたが、1976年(昭和51年)7月には、アニメーター、アニメ演出家の出崎統(筆名さきまくら、1943年 - 2011年)が絵を描き、吉田が文章を書くスタイルで絵本『ドングドンとことだま大王』を上梓する。


江守徹: 同校で美術部・演劇部を掛け持ち、同級生に吉田日出子、出崎統がいる。


近藤勝也: 1982年、東京デザイナー学院を中退して出崎統と杉野昭夫が率いるスタジオあんなぷるへ入社する。


水谷優子: 出崎統、あかほりさとる作品によく声をあてていた。


杉野昭夫: 特に『あしたのジョー』『エースをねらえ!』『家なき子』『宝島』などに代表される、出崎統監督とコンビを組んでキャラクターデザイン・作画監督を務めた作品群が著名。


幾原邦彦: 影響を受けたアニメーション監督として、出崎統や押井守の名を挙げている。


森絵都: 白鯨伝説(第3話:出崎統と共同)


杉野昭夫: 杉野は虫プロに入社する前から貸本で出崎統の漫画を読んでおり、憧れていた。


吉川惣司: 宝島社の『別冊宝島737号完全保存版ルパン三世PERFECT BOOK』のインタビューで大塚康生は日本のアニメ界を代表するメンバーとして宮崎駿、高畑勲、出崎統、吉川惣司を挙げている。


西久保瑞穂: 1979年に退社し、テレビアニメ『ベルサイユのばら』『あしたのジョー2』などで出崎統に師事した。


吉田喜昭: 『ジャングル黒べえ』 : 監督出崎統、原作藤子不二雄、声の主演肝付兼太、製作東京ムービー、配給東宝、1973年3月17日公開(映倫番号 23583)


吉川惣司: 1964年、杉井ギサブロー、出崎統、奥田誠治らとともにアートフレッシュの創設に参加。


川尻善昭: 出崎統と杉野昭夫の推薦を受け『ムーミン』で正式に原画へ昇格。


久米田康治: アニメでは出崎統作品のファンで、特に『おにいさまへ…』はお気に入りという。


杉井ギサブロー: 1964年に出崎統、奥田誠治、吉川惣司らと虫プロから独立して、アートフレッシュを設立。


中村隆太郎: 監督の出崎統からは「第2の杉野だ」として高く評価され、目をかけられていた。


吉田喜昭: 『空手バカ一代』 : 企画小澤英輔・稲田伸生、監督岡部英二・出崎統、原作梶原一騎・つのだじろう、声の主演田中信夫、製作東京ムービー、1973年10月3日 - 1974年9月25日放映(連続テレビアニメ映画・全47回)


丸山正雄: 1972年、経営危機を迎えた虫プロから出崎統、りんたろう、川尻善昭ら、その後の日本のアニメ文化を牽引することになる作り手たちと共に独立して有限会社マッド・ハウス(現:株式会社マッドハウス)を設立、1980年には代表取締役社長に就任する。


出崎統の情報まとめ

もしもしロボ

出崎 統(でざき おさむ)さんの誕生日は1943年11月18日です。東京出身のアニメ演出家のようです。

もしもしロボ

概要、作品作りなどについてまとめました。映画、卒業、テレビ、退社、病気、ドラマ、結婚に関する情報もありますね。67歳で亡くなられているようです。

出崎統のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

出﨑 統(でざき おさむ、1943年11月18日 - 2011年4月17日)は、日本のアニメ監督、演出家、脚本家、漫画家。東京都目黒区生まれ。クレジットタイトル上では「出崎統」と表記されることもある。別名義として「崎枕」「さきまくら」「斉九洋」「斎九陽」「松戸館」「松戸完」「矢吹徹」「多井雲」など。生前は日本映画監督協会会員。アニメ監督、プロデューサーの出﨑哲は実兄。

1943年、東京都目黒区で、航空科学専門学校の教授であった出﨑晶の次男として誕生。明治時代に福島県相馬郡(現・福島県相馬市)で干拓事業を行った出﨑栄太郎の曾孫にあたる。終戦後に相馬に移り住んだが、小学1年生のときに父が結核で死去。以後は東京都渋谷区や板橋区に転居し、母子家庭で育つ。小学4~5年生の頃より手塚治虫に憧れてストーリー漫画を描くかたわら、学校をさぼって映画館に通うほどの映画好きであった。その頃観た映画の中では『カサブランカ』が特に印象に残っていると語っていた。

1959年、東京都立北園高等学校に入学。同級生に江守徹、吉田日出子がいた。1年生のとき、貸本漫画誌『街』の新人コンクールで受賞し、貸本漫画家としてデビュー。『街』(セントラル文庫)などの雑誌で「ホオに傷のある男」「天使達」など多数の読み切り作品を発表した。貸本漫画全盛期をよく知る漫画家のすがやみつるは、当時の出﨑の作風を「都会派アクション」と評し、バラリと前髪がたれたハンサムな若者が進駐軍払い下げのグリースガンをぶっ放すマンガばかり描いていた旨を記している。しかし本人曰く、2年生のときに貸本業界の斜陽によって原稿依頼が来なくなったため、一旦漫画から足を洗って、同校卒業後に東芝に就職。1年半、工場勤務に従事する。

翌1963年のゴールデンウイーク中、虫プロダクションの求人新聞広告を見つけ、同社のアニメーター採用試験を受験。応募約500人中、採用3人という難関を突破する。本人の談によると、当然動画テストの試験はあったが、出﨑の漫画を読んだことがあった虫プロスタッフの杉井ギサブローが「こいつなら採用しても大丈夫」と強く推したことが決め手だった。杉井はその際の印象を、面接時から独特の世界、明確な作家性、映像言語を持っていたと述懐している。

これにより工場勤務を辞め、9月に同社に入社。1月から放送を開始していた初の本格的連続テレビアニメ『鉄腕アトム』の第39話「赤い猫の巻」(9月24日放送)で動画デビューを果たし、第51話「子象プーラの巻」(12月17日放送)では第二原画に昇格。入社3ヵ月ほどで4人の新人スタッフを束ねるポジションを与えられるなどの大抜擢を受ける。

1964年、『鉄腕アトム』第66話「スペース・バイキングの巻」(4月4日放送)で原画担当となる。同年、先輩の高木厚に誘われ、アルバイトで東京ムービー制作作品『ビッグX』の絵コンテを担当。この当時から、シナリオを読んでつまらないと感じたら、独断によるストーリー改変を行って絵コンテを描いていた。同じくアルバイト仕事を受けていた杉井らとともに高木の自宅にスタジオを作り、虫プロに通いながらアルバイトをしていたが、やがてこれが虫プロの知るところとなる。

結局、杉井を代表とする有限会社アートフレッシュとして独立することが認められ、虫プロの同僚だった吉川惣司、宇田川一彦、タツノコプロの奥田誠治らとともに8月に同社に参加。同社が虫プロの下請けとして受注した『鉄腕アトム』や『悟空の大冒険』で、各話演出/作画監督を担当した。初の公式各話演出作品は1965年3月27日放送の『鉄腕アトム』第112話「サムソンの髪の毛の巻」。

1967年から放送がはじまった『悟空の大冒険』では、各話演出/作画監督の作業と並行して、虫プロ商事発行の月刊誌「COM」にて同作のコミカライズ版を7回にわたって連載。この頃に虫プロ内で演出に昇格した高橋良輔は、出﨑や富野由悠季(当時は喜幸)の仕事を見て彼らの天才ぶりにショックを受け、長期にわたって挫折感の中にいたことを後に語った。

1968年、出﨑が独自性を活かすには「出﨑一家」を構えた方がいいとの杉井の判断により、同社を退社してフリーとなる。1969年には劇場用映画『千夜一夜物語』で原画とストーリーボードを担当。同作の制作終盤には、逼迫する制作進行状況を助けるため構成助手としても関わった。その際にチームワークによる映画作りの面白さに目覚めたと本人は語っていた。その後、日米合作アニメ『フロスティ・ザ・スノーマン〜温かい雪だるま』の制作時に杉野昭夫と机を並べて原画を描き、直接的に互いを意識するようになる。

1970年4月から放送が開始された虫プロ制作の連続テレビシリーズ『あしたのジョー』で、初めて監督(チーフディレクター)を務める。同作の企画は、出﨑が自ら虫プロの企画室にいた丸山正雄に「どうしてもこれをやりたい」と持ちこんだものであった。出﨑の「実写を超えた迫力のあるものをつくる」という思いと、脚本家や各話演出家から上がってくるシナリオ、絵コンテには制作意図のズレがあり、出﨑はそれらの修正作業に時間を取られる。第1話「あれが野獣の眼だ!」で絵コンテを担当して以降、再び自分で1話分の絵コンテを全部描けたのは、第22話「まぼろしの力石徹」からだった。加えて、当時の制作進行を担当した下崎闊(真佐美ジュン)によれば、同作はスタッフ不足により、通常は1班が4週で1話を受け持つのに対し、2週に1本のペースで進められていた。このためスケジュールが非常に逼迫したが、そのなかで出﨑はさまざまな実験的アイデアを作品に盛り込み、同作を最高視聴率29.2%(本放送時/ビデオリサーチ調べ)を獲得するヒット作品に押し上げた。富野由悠季は後年、同作に各話演出で参加した際に出﨑の仕事を見て「日本のテレビアニメ界に天才がいる」と衝撃を受け、年下の出﨑を大先輩と敬い、頭を下げることができたと述べている。

『ジョー』終了後、1年ほど絵コンテマンとして活動した後、1972年10月にプロデューサーの丸山正雄、おおだ靖夫、作画監督の杉野昭夫とともに、演出の波多正美、原画の川尻善昭ら『ジョー』制作班を引き連れてマッドハウスを設立。直後に東京ムービーから、杉野とのコンビでちばてつやの『ユキの太陽』をアニメ化してほしいと打診があったが、企画段階で頓挫している。結局、マッドハウスのスタッフとして最初に監督(クレジット上は「演出」)した作品は『ジャングル黒べえ』となった。これにより、「本来の仕事」が決まるまでとの約束で引き受けていた創映社制作の『ハゼドン』のチーフディレクター職を、第1話「ハゼドンがやってきた!」の演出のみで降板している。

以後は東京ムービー制作作品『エースをねらえ!』『空手バカ一代』『はじめ人間ギャートルズ』『ガンバの冒険』『元祖天才バカボン』や、ダックスインターナショナル制作の『まんが世界昔ばなし』など、多数の連続テレビシリーズを手がけた。当時の東京ムービー作品では、東京ムービーから資金援助を受けて設立された虫プロ系のマッドハウスと、東京ムービーとは業務提携関係にあったAプロダクション(元東映動画のスタッフで構成)がつねに同一作品に参加していた。両者間には激しいライバル意識が存在していたが、Aプロ主力の一人だった芝山努が『ガンバ』『元祖』の制作を通じて出﨑演出に触れるうち、虫プロ的作風である「少ない動画枚数でメリハリをつけた動き」の追求をするようになるなど、出﨑には大きな影響力があった。『元祖』で初めて出﨑と仕事をした鈴木清司は、当時の出﨑はすでにアニメ界ではカリスマ的存在だったと述べている。

これらテレビシリーズと並行して、1974年には井上陽水の「闇夜の国から」のプロモーションフィルムや実写作品『純愛山河 愛と誠』のオープニングなどの短編アニメも制作。「闇夜の国から」のプロデューサーを務めた山本又一朗は、同作品の制作時に出﨑の並々ならぬ才能を感じたことで、後にプロデュースを担当した劇場用映画『ゴルゴ13』の監督に出﨑を指名することになる。また1976年にはさきまくら名義で絵を担当し、アリス館から絵本『ドングドンとことだま大王』(ストーリー担当は脚本家の吉田喜昭)を発表するなど、多方面での活動が活発化している。

1977年、日本テレビが「開局25周年記念作品」と銘打ち、テレビアニメとしては空前の制作費を投入して制作した連続テレビシリーズ『立体アニメーション 家なき子』で、総監督と全話の絵コンテを担当。加えて、同作で用いられた、画面が立体的に見える特殊な撮影法の秘密漏洩を避けるため、全カットのレイアウトチェックも一人で担当した(本人の談によれば、クレジットで「画面設定」と表示される大橋学は、実際はレイアウトに携わっていないとのこと)。その後番組『宝島』を経て、1979年、かつての連続テレビシリーズの再編集ではない完全新規制作の劇場用映画『エースをねらえ!』で初の劇場用映画の監督を務めた。『家なき子』『宝島』『劇場版エース』はいずれも後述の杉野、小林、高橋との「出﨑カルテット」の連携で作られた作品であり、丸山正雄は『劇場版エース』において出﨑の作風が完成したとの認識を示している。また『劇場版エース』を出﨑の最高傑作とする評もある。この時代の出﨑の作品群に刺激され、福島敦子、森本晃司ら多くの人材がアニメ界に身を投じた。

1980年、長浜忠夫が監督を降板した連続テレビシリーズ『ベルサイユのばら』に、第19話「さよなら妹よ!」からチーフディレクターとして参加。同年9月放送の総集編「ベルサイユのばらと女たち」(最終回の翌週放送)まで同作を担当した。翌月から放送が開始された連続テレビシリーズ『あしたのジョー2』の制作開始を機にマッドハウスを離れ、杉野とスタジオあんなぷるを設立。アニメーションとして世界初のドルビー・ステレオ方式を採用した劇場用映画『SPACE ADVENTURE コブラ』、当時最新鋭のコンピューター・グラフィックス映像を組み込んだ劇場用映画『ゴルゴ13』などを手がける。小学校や公民館での巡回上映用映画『冒険者たち ガンバと7匹のなかま』(1984年公開/連続テレビシリーズ『ガンバの冒険』の再編集版)の作業を終えたのち、アメリカ進出をめざしていた東京ムービー社長・藤岡豊の命を受けて渡米する。『マイティ・オーボッツ』『バイオニックシックス』といったSF作品や、幼児向けの動物もの『Sweet Sea』『The Blinkins, the Bear and the Blizzard』など、日米合作アニメの制作に数年間携わった。

帰国後、1988年のOVA『エースをねらえ!2』で4年ぶりに日本国内向け作品を発表する。テレビにおける国内復帰作は、1989年から年1作のペースで放送が開始された『ルパン三世』テレビスペシャル。同シリーズでは、第1作『バイバイ・リバティー・危機一発!』を監督したのを皮切りに、1995年までの7年間で4本の監督、1本の監修を担当した。また、1991年には連続テレビシリーズ『おにいさまへ…』を監督。同作は、当時まだ一般家庭への普及率が低かった衛星放送(NHK-BS2)で放映されたが、庵野秀明や高橋留美子ら、アニメ/漫画業界内にも熱狂的なファンを生み出した。

『おにいさまへ…』を機に手塚プロダクション制作作品に携わるようになり、手塚治虫が制作を進めながら未完に終わっていた日伊合作の連続テレビシリーズ『手塚治虫の旧約聖書物語』を引き継いで完成させる。その後の1997年には杉野との共著「アニメーション制作技法」(1994年、創芸社)に掲載された未完のパイロットフィルム『4701白鯨』を原作とする完全オリジナル連続テレビシリーズ『白鯨伝説』をアニメ化、NHK-BS2にて放映。同作は放送中に制作会社が倒産し、第18話「白鯨伝説」をもって放送が中断されるが、1999年に手塚プロの制作によって再開され、完結した。

一方、1980年代末から1990年代にかけては、出﨑哲が設立したマジックバスが制作に関わった『華星夜曲』『修羅之介斬魔劍・死鎌紋の男』ほか、多数のOVA作品を手がけている。なかでも最大のヒット作となったのが、1993年からリリースが開始された手塚プロ制作の『ブラック・ジャック』である。原作と大きく異なる劇画調のキャラクターデザインを用いたこの作品は、2000年までに、OVA10話に加えて劇場用映画1本(第51回毎日映画コンクールアニメーション映画賞受賞)が制作された。また1998年には、再び山本又一朗のプロデュースにより15年ぶりに『ゴルゴ13』の新作『ゴルゴ13~QUEEN BEE~』を監督し、OVAで発表している。

2000年代には幼児向け作品『劇場版とっとこハム太郎』シリーズ全4作や、美少女ゲームを原作とした『AIR』『CLANNAD』劇場版など、自らの新境地となる作品の監督を務めた。また2005年には『スペースコブラ』以来23年ぶりとなる地上波での連続テレビシリーズ『雪の女王 The Snow Queen』を監督。制作途中で病気を患いながらも、62歳にして全36話の絵コンテを全て担当(うち2本のみ他者と共同)する。

さらに、28年ぶりにマッドハウス作品の監督となった2008年の『ウルトラヴァイオレット:コード044』と、トムス・エンタテインメントと手塚プロが共同で制作した2009年の『源氏物語千年紀 Genji』では共に1クール弱の放送期間ながら、キャリア初の連続テレビシリーズ全話に渡る監督・脚本・絵コンテ担当を実現した。この時、既に癌を発症しており、『ウルトラヴァイオレット』は丸山から最後の仕事として持ちかけられたものであった。

ただし『ウルトラヴァイオレット』では、あらすじはあってもシナリオ決定稿はなく、ほぼぶっつけ本番で直接絵コンテ作業を行う方式だった。『Genji』は『あさきゆめみし』からの企画変更に伴う制作スケジュールの逼迫により、第3話「夕顔」以降は週1話ペースでの絵コンテ制作というハードな状況となった。第10話「謀叛」と11話「若紫へ」に至っては、後に本人が、もうすぐアフレコが始まるという時にまだ後半の絵コンテを描いていたと語ったほど緊迫した状態であった。

『Genji』終了後は、2009年7月から放映される予定だった『COBRA THE ANIMATION』テレビシリーズ版の監督を務めることになっており、すでに2008年6月には記者会見も開かれていたが、土壇場で降板し肺癌の治療に入る。その後、11年ぶりに制作されたOVA『ブラック・ジャック』シリーズ2本に監修者として参加している途中の2011年4月17日、肺癌のため東京都三鷹市の病院で死去。67歳没。喪主は出﨑哲が務めた。

概要

テレビアニメの草創期より制作現場に入り、1970年に26歳で『あしたのジョー』(テレビ版)を監督。『エースをねらえ!』『ガンバの冒険』『立体アニメーション 家なき子』『宝島』『ベルサイユのばら』『あしたのジョー2』など1970年代~1980年代のテレビ/劇場版アニメをはじめ、67歳で死去するまでにテレビシリーズ、劇場用映画、OVAアニメを30タイトル以上監督した。全キャリアを通じ、作品発表のインターバルが1年以上空いたことは稀で、ときには2本以上のテレビシリーズ監督(チーフディレクター)を掛け持ちしたこともある。

劇画、ギャグ漫画、少女漫画、児童文学、内外の古典文学など幅広いジャンルをカバーした出﨑の作風について、アニメプロデューサーの山崎敬之は、絵をあまり動かさず、詩的に表現する演出であり、貸本漫画家の過去を持つことによりドラマを知っていると評した。本人は、若き日に『鉄腕アトム』の絵コンテチェックを受けた際、手塚治虫から、エンターテインメントを忘れないように、と声をかけられ、後々までその意味を考え続けたと語っていた。

作品作りの際の各セクション責任者には、深く信頼したメンバーを置くのが常だった。『あしたのジョー』からはじまったキャラクターデザイン・作画監督の杉野昭夫とのタッグは「アニメ界の黄金コンビ」と称され、よく知られていたが、加えて美術監督の小林七郎と撮影監督の高橋宏固もきわめて重要なスタッフであり、1970年代後半~1980年代前半にはこの4人で「出﨑カルテット」とも呼べるチームを形成していた。他にも、美術監督の河野次郎、作曲家の羽田健太郎、音楽監督の鈴木清司、声優の野沢那智、菅谷政子、大塚明夫、水谷優子、武藤礼子、井上和彦、勝生真沙子らが多数の出﨑作品に参加している。

作品作り

絵コンテへのこだわりと作品の独自解釈

週に1本放送される連続テレビアニメシリーズでは、スケジュールの都合上、数人がローテーションで各話の絵コンテを担当し、監督はそのチェック/修正指示を行って作品の方向性を統一するのが通例である。しかし出﨑は自身の監督作品において、一人の人間の感性に貫かれた作品でなければ、観る人は何を見たらいいのか判らないとの理由で、ほとんどの話数の絵コンテを自ら担当した。ちなみに富野由悠季の著書「∀の癒し」(ハルキ文庫)には出﨑と富野が「絵コンテが作品の表現を支配するパーセンテージは70%」と確認し合った事が述べられている。

正式にクレジットされた、ないしは担当した事が明らかな絵コンテの合計本数は500本超。日本アニメ界屈指の分量であり、これを上回る本数をこなしたのは富野由悠季や奥田誠治など数人にすぎない。ただし出﨑が彼等と大きく異なるのは、担当した全本数の内、約9割が自身の監督作品における絵コンテである事である。

「原作は、ある新しい世界を作る為のきっかけ」が持論。原作付き作品を異なる展開に改変するのはもとより、脚本家が書き上げ、会議で承認されたシナリオ決定稿すら叩き台として扱い、最終的なストーリーとセリフは絵コンテ段階で独自解釈による物語の咀嚼を行って決定した。アニメ界の先輩である杉井ギサブローが、そんなに脚本を変えるなら最初から自分で書けばどうかと質問した際、出﨑は、他人の脚本を元に自分のアイデアが生まれるので、他人の脚本は必要だが、その通りに進める必要も感じない旨を述べたとの事である。この脚本の変更に対し、『ガンバの冒険』では馬嶋満、『あしたのジョー2』では大和屋竺が抗議して途中降板している。両作に携わった飯岡順一は「自ら脚本を書けばよいのに、脚本がなければカットが割れない。絵コンテが描けない」と評している。

絵コンテ段階で原作や脚本から離れた作品になる理由を、兄の出﨑哲は「出﨑が登場人物に深く感情移入する為」と語る。出﨑作品においては、キャラクターの容姿や性格の設定は必ずしも原作通りではない。例えばロバート・ルイス・スティーヴンソン原作の『宝島』に登場する悪役ジョン・シルバーを、出﨑は「海賊の親分=ロマンの塊」との考えから、原作の記述より遥かに容姿端麗で、善悪を超越した「男の中の男」に設定している。こうして作り上げたキャラクターに様々な感情を移入しながら絵コンテを描き進める事で、結果として出﨑はストーリーを改変してしまった。

本人は絵コンテ制作中の自身の状態について、自分もキャラクターと共に作品世界に入り込む為、物語の結末は分からないとし、また、登場人物と一体となる事でセリフが自然に出てくるまで入り込むと述べていた。だがその一方で、作品世界全体を俯瞰できる視点がないと作品は成立しないとも語っている。鈴木清司によれば、その作業は、『白鯨伝説』終了時に円形脱毛症によって落武者の様な髪になったり、『雪の女王 The Snow Queen』の制作途中では病に罹る等、命を削っての精魂投入であった。

集団による分業で成り立つ商業アニメーションの現場で、終世この姿勢を貫いた事により、原作者や脚本家との軋轢が生まれる場合もあった。前述の様に『あしたのジョー』では山崎忠昭と雪室俊一が、脚本のあまりの改変ぶりを理由に降板する事態に発展。後に山崎と雪室は『日活アクション無頼帖』(ワイズ出版)で出﨑を激しく批判した。また『源氏物語千年紀 Genji』は、当初は大和和紀の漫画『あさきゆめみし』のアニメ化として制作が進んでいたが、出﨑が描いた第1話と第2話の絵コンテが原作とは、かなりテイストの違うものであった事に難色を示した大和側が原作を引き上げた末に、急遽立ち上げられた作品である。

一方、『あしたのジョー』原作者のちばてつやの様に、出﨑を「自分よりジョーを理解してらっしゃる」と絶賛している例もある。『ゴルゴ13』の原作者さいとう・たかをは、自作のアニメ映画化の際、「うん、面白かった。よくできてたね」と評している。また、池田理代子の様に『ベルサイユのばら』に続いて『おにいさまへ…』の監督を出﨑に任せた例もある。

出﨑が絵コンテを重視した、もう一つの理由として、貸本漫画家の過去を持つ事も挙げられる。本人は初めて絵コンテを担当した頃、自分の漫画に動き、声、音楽を付けられるという感覚を得られた事が楽しかったと語っている。つまり出﨑にとってアニメーションフィルムとは漫画や映画の延長線上に存在するものであり、「全ての場合において絵が動く事がアニメーションの基礎である」という考え方とは一線を画す演出スタイルを取っている。

絵コンテの特徴と評価

出﨑の絵コンテでは、カット割りにおいては必ずしも動きの繋がりは重視されない。また、視覚的効果を上げるだけでなく、ときにキャラクターの心理までも表現する大胆な画面レイアウトも大きな特徴。多くの場合、筆致が非常にラフなため絵・文字とも判読が困難で、「読むのだけでギャラが欲しい」と言った演出家もいるとのこと。

しかし小林七郎は出﨑の絵コンテについて、慣れると他の監督の絵コンテに比べて一番演出意図がわかりやすいと絶賛した。また、出﨑の絵コンテは単なる指示用の書類ではなく「たたき台」であるとし、そこに描かれている内容をさまざまなスタッフとともに議論、検討して、表現を引き出そうとしたとも語っている。実際に『エースをねらえ!』(劇場版)では、絵コンテのイメージを徹底するため、レイアウト原図を元に全てのカットごとに作画・美術・撮影の主要スタッフを集めて打ち合わせるという、前代未聞の作業を敢行している。出﨑とともにマッドハウスを設立した丸山正雄は、同社の若いスタッフが出﨑をまねた粗い筆致の絵コンテを描くことがあるが、出﨑の場合は絵が巧いので粗いタッチでも絵コンテが成立するのだと述べた。

初期監督作品では他者が絵コンテを担当した割合が比較的多いが、それらの大部分は出﨑自身が徹底的な手直しを行った。対して、出﨑が絵コンテマンとして制作した絵コンテが他者に改変された事例もいくつか存在する。『ルパン三世』(テレビ第1作)第13話「タイムマシンに気をつけろ!」と17話「罠にかかったルパン」では、当時Aプロダクションに所属していた宮崎駿と高畑勲による改変を受けた。もっとも同作の作画監督を務めた大塚康生によると、宮崎と高畑は基本的に「出﨑の絵コンテのままで面白いので、手をつけずにおこう」とのスタンスだったらしく、絵コンテ自体はあまり変えずに作画段階でニュアンスを変更した部分が大きかったとのことである。

アニメーターとしての仕事と評価

1970年代なかばまでは演出とアニメーターを兼務していた。『鉄腕アトム』(第1作)で動画デビューを果たした約1年半後には同作の作画監督に昇進。以後、『悟空の大冒険』、防災アニメ『ザ・ファイヤーGメン』でも作画監督を務めている。その他、『新宝島』、『どろろ』第11話「ばんもんの巻・その三」、『フロスティ・ザ・スノーマン』、『あしたのジョー』第14話「KOゴングはまだか!」、また虫プロの劇場用長編アニメ『千夜一夜物語』などで原画を描いた。

杉野昭夫はアニメーターとしての出﨑の実力を「相当描ける」と語っており、『千夜一夜物語』監督の山本暎一は、暗いイメージのシーンが巧かった旨の評価をしている。作画スタッフとしての参加が確認できる最後の作品は、1976年10月放送の『まんが世界昔ばなし』第2話「美女と野獣」(キャラクターデザイン)。 なお『哀しみのベラドンナ』に原画でクレジットされているが、これは配給会社への納入期日に間に合わせるために急遽仕上げたダミー版のための作業であり、その後リテイクの名目で完成した本編には出﨑が描いた絵は使用されていない。

後進の育成と業界への影響

かつて出﨑のもとで演出助手を務めた監督/演出家には、高屋敷英夫、竹内啓雄、大賀俊二、西久保瑞穂、松園公、桑原智、西田正義らがいる。桑原智は、出﨑は人材育成が上手だったとし、生き様に学ぶべきものがあったと述べている。また脚本家の森田真由美は、出﨑は教わる側が自覚的に何かをつかむまで妥協しなかった旨を語っている。

それ以外にも、出﨑に影響を受けた後進のアニメ監督やアニメーターは多い。押井守は『エースをねらえ!』(劇場版)を10回以上観て、「アニメーションを映画にする方法」を研究した旨を語っている。また庵野秀明も出﨑作品を研究しており、監督作『トップをねらえ!』に、『エースをねらえ!』へのオマージュとしてのパロディ的な要素を盛り込んだ。板垣伸は『WEBアニメスタイル』での連載コラム「板垣伸のいきあたりバッタリ!」第21回で熱烈な出﨑ファンであることを明かし、以後も同コラム内でたびたび出﨑作品についての感想・分析を書き記している。新房昭之はたびたび出﨑からの影響を口にし、出﨑の功績に対して世の中の評価が低い旨を述べている。

晩年には現代のアニメ業界について、自然現象を描ける人がいなくなったことや、アニメ会社が人を育てなくなったこと、お涙頂戴のためにキャラを適当に殺したりする風潮について苦言を呈していた。

幻の企画

出﨑が映像化を希望しながら、制作に至らなかった作品がいくつかある。『宝島』を制作した後には、劇場用映画としてハーマン・メルヴィルの「白鯨」を企画。杉野昭夫によるイメージイラストも制作され、プレゼンテーションがかけられた。これは実を結ばなかったが、アイデアを温め続け、後に同小説をモチーフにしたオリジナル作品『白鯨伝説』を制作している。長年にわたってジュール・ルナールの「にんじん」をアニメ化したいと話していた他、晩年には丸山正雄の要請により、オリジナル時代劇の草案も書き起こしていた。

人物

スポーツカーを好み、20代前半頃にはトヨタ・スポーツ800、20代後半でトヨタ・カローラのスポーツタイプ、60代でトヨタ・スープラに乗っていた。生前最後となった2011年1月のインタビューでは、若者がスポーツカーに乗りたがらなくなった風潮を嘆き、無駄を楽しむ余裕の大切さを訴えている。またアートフレッシュ~マッドハウス在籍時代は、自分の車に丸山正雄を乗せ、卓を囲む相手2人を探し歩く日々を送るほどの麻雀好きでもあったという。

愛煙家で、インタビュー時のスナップショットやプロフィール写真等でタバコを吸っている姿が多く見られた。前述した生前最後のインタビューは肺癌の治療中に病院から一時帰宅して受けたものだったが、その際も喫茶店の喫煙席を指定していたことが記事中に記されている。

インタビューや寄稿文によって、複数回の結婚歴があることや子どもがいることを明らかにしていた。

自作品について自賛することが多く、他者の作品を褒めることはしなかった。丸山正雄は、『時をかける少女』の細田守を「面白い」と評したのが唯一であったと証言している。

宮崎駿と犬猿の仲であったと伝わる。取材者には宮崎作品を見ないと明言していた。その理由は出崎が敬愛する手塚治虫のアニメ製作や自作を宮崎が辛辣に評価したからだという。宮崎は1989年の手塚没時にアニメ分野における手塚批判を行っていた。押井守によれば、宮崎の側も出崎を嫌っており、1985年頃に宮崎に『ルパン三世』の新作映画のオファーがあった際にそれを断って押井を監督に推薦したのは(押井版ルパン三世)、出崎に『ルパン三世』の監督をはやらせたくなくなかったためだという。ただ宮崎と共に仕事をしたことのあるアニメーターの遠藤正明は「あくまで(自分が)感じた印象」としながらも、宮崎は出崎を嫌っておらずカット割について「こういう時は出崎さんはこうするんだ」と説明するなどむしろ出崎をかなり意識していたと証言している。宮崎は出崎が監督した『SPACE ADVENTURE コブラ』に原画として参加しているが、これについては宮崎が当時在籍していたスタジオがヘルプとして参加したもので、ノンクレジットであり過去の仕事歴を振り返った記事でもコメントはない。

2024/06/11 01:24更新

dezaki osamu


出崎統と同じ誕生日11月18日生まれ、同じ東京出身の人

越智 正典(おち まさのり)
1928年11月18日生まれの有名人 東京出身

越智 正典(おち まさのり、1928年11月18日 - )は、日本のアナウンサー、野球評論家、スポーツライター。日本放送協会(NHK)アナウンサー→日本テレビ放送網(NTV)アナウンサー、のち運動部長…

横田 りか(よこた りか)
1992年11月18日生まれの有名人 東京出身

横田 りか(よこた りか、1992年〈平成4年〉11月18日 - )は、日本のタレント、レースクイーン、グラビアモデル。東京都出身。「りーのん」の愛称で知られる。 13歳の時にプラチナムプロダクシ…

渡辺 満里奈(わたなべ まりな)
1970年11月18日生まれの有名人 東京出身

渡辺 満里奈(わたなべ まりな、1970年11月18日 - )は、日本のタレント。東京都大田区出身。女性アイドルグループ『おニャン子クラブ』の元メンバーで、会員番号は36番。 夫はお笑いトリオ・ネプ…

岡崎 由佳(おかざき ゆか)
1985年11月18日生まれの有名人 東京出身

岡崎 由佳(おかざき ゆか、1985年11月18日 - )は、日本の歯科医師、タレント、モデル。身長:167cm、血液型:AB型。所属事務所はリップ。東京都出身。鶴見大学歯学部卒。 趣味 - 料理…

南 まりか(みなみ まりか)
1985年11月18日生まれの有名人 東京出身

南 まりか(みなみ まりか、1985年11月18日 - )は、日本のタレント、元グラビアアイドル。愛称は、まりかさん。 東京都出身。サンズエンタテインメント所属。 夫はプロサッカー選手・小池純輝。…

加藤 暁(かとう ぎょう)
1971年11月18日生まれの有名人 東京出身

加藤 暁(かとう ぎょう、1971年11月18日 - )は、日本のフリーアナウンサー。 東京都練馬区出身、東京大学教育学部附属中学校、早稲田高校、早稲田大学第一文学部卒業。大学時代はアナウンス研究…

白幡 いちほ(しらはた いちほ)
1990年11月18日生まれの有名人 東京出身

白幡 いちほ(しらはた いちほ、1990年11月18日 - )は、日本の女性タレント、シンガーソングライター、作詞家、プロデューサー、経営者、元お笑いタレント、元アイドル。2021年より『ichiho…

小泉 まき(本名・旧芸名:小泉 真希)
1981年11月18日生まれの有名人 東京出身

2002年:文学座附属演劇研修所に入所 2005年:新国立劇場研修所に入所 小泉 まき(本名・旧芸名:小泉 真希、1981年11月18日 - )は、東京都出身の女優。東京俳優生活協同組合及び中野成樹…

高瀬 哲朗(たかせ てつお)
1958年11月18日生まれの有名人 東京出身

高瀬 哲朗(たかせ てつお、1958年11月18日 - )は、日本の俳優である。東京都出身。文学座所属。 1981年 初舞台『ハムレット』(文学座本公演)東横劇場 1984年 『続・二号』(本…

田中 伸子(たなか のぶこ)
1976年11月18日生まれの有名人 東京出身

田中伸子(たなか のぶこ、1976年11月18日 - )は、日本のファッションモデル、女優。東京都出身。身長169cm、B77-W58-H84、靴のサイズは24.5cm。所属は株式会社エンライトメント…

香那(かな)
1983年11月18日生まれの有名人 東京出身

香那(かな、1983年11月18日 - )は、日本の元ファッションモデル。夫はロンドンブーツ1号2号の田村淳。所属事務所は、元はエスプリモデルズだったが、エスプリモデルズが2011年にフロントに吸収合…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


出崎統と近い名前の人

出﨑 統(でざき おさむ)
1943年11月18日生まれの有名人 東京出身

出﨑 統(でざき おさむ、1943年11月18日 - 2011年4月17日)は、日本のアニメ監督、演出家、脚本家、漫画家。東京都目黒区生まれ。クレジットタイトル上では「出崎統」と表記されることもある。…

出崎 弘(でざき ひろし)
1958年2月27日生まれの有名人 東京出身

2月27日生まれwiki情報なし(2024/06/15 19:15時点)

出崎 哲(でざき てつ)
1940年6月26日生まれの有名人 東京出身

出﨑 哲(でざき さとし、1940年6月26日 - )は、日本のアニメ監督、プロデューサー、脚本家、演出家。 マジックバス代表取締役会長兼社長。日本アニメーター・演出協会(JAniCA)会員。東京都…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
出崎統
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手) 石山順征

グループ

でんぱ組.inc Prizmmy☆ CoverGirls LinQ 乙女新党 愛乙女★DOLL ライムベリー Silent Siren 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「出崎統」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました