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孝明天皇と関係のある人
島津久光: 久光が在藩を続けた約3年間に中央政局は、元治元年(1864年)の禁門の変(7月19日)、第一次長州征討、慶応元年(1865年)の将軍進発(5月16日)、条約勅許(10月5日)、慶応2年(1866年)1月21日の薩長盟約の締結、第二次長州征討、将軍・徳川家茂の薨去(7月20日)、徳川慶喜の将軍就職(12月5日)、孝明天皇の崩御(同月25日)、慶応3年(1867年)の祐宮睦仁親王(明治天皇)の践祚(1月9日)、等々と推移する。 山田顕義: 文久3年(1863年)3月31日、孝明天皇の攘夷祈願の賀茂神社行幸に際して、御前警護のため毛利定広に随行した。 徳富蘇峰: の計100巻となっており、とくに幕末期の孝明天皇時代に多くの巻が配分されている。 三条実美: 正月27日には孝明天皇から七卿と長州藩攘夷派を批判する詔旨が出された。これは実美らが下賤な攘夷派の暴説を信用し、孝明天皇の「命を矯て」軽率に攘夷と討幕を行おうとしたとし、長州藩の尊攘派も「必ず罰せずんばある可からず」と批判されていた。 三条実美: この時期、実美らを始めとする、朝廷の権力を増大させようという朝廷改革派が勢力を伸長したが、攘夷論者ではあるが幕府への大政委任論の立場に立つ孝明天皇の考えとは大きく異なるものであった。 明治天皇: 西郷隆盛: 8月、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため江戸に赴いたが、できずに京都へ帰った。 明治天皇: 孝明天皇も祐宮の病気のことを心配していたと推察されるが、当時の慣行では、天皇が臣下の中山邸に行幸して祐宮を見舞うことは考えられないことであり、見舞いには行けなかった。こうして祐宮は、孝明天皇や中山家の人々の愛情を受けて、最初の病を乗り切った。 東儀秀樹: 俳優としても活動しており、2008年放送のNHK大河ドラマ『篤姫』では孝明天皇役で出演した。 歩サラ: 幕末尽忠報国烈士伝 -MIBURO-(孝明天皇、榎本 武揚) 明治天皇: 生後30日目の10月22日、参内始で、祐宮は初めて孝明天皇に会った。 明治天皇: この時清涼殿には孝明天皇の遺体が安置されていたため、臨時の清涼殿として小御所で皇位継承の儀が行われた。 吉田松陰: 間部要撃策とは、老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策である。 和宮: 孝明天皇は議奏・武家伝奏に諮った上で、 明治天皇: 年が明け、慶応3年(1867年)正月、孝明天皇の山陵が泉涌寺境内に造営され、1月10日に御所の清涼殿で入棺の儀が行われた。 和宮: 孝明天皇は、侍従・岩倉具視に意見を求めた。 明治天皇: 8月13日、朝廷は尊皇攘夷派主導により、孝明天皇が神武天皇陵と春日社に攘夷を祈願するために大和に行幸し、ついで攘夷親征の軍議を行うと布告した。 明治天皇: 孝明天皇は、幕府と連携して、現実的な形で幕府に攘夷を実施させるという路線を、その後も取り続けた。その圧力で、文久3年4月11日(1863年5月28日)から翌日にかけて、孝明天皇は石清水八幡宮に攘夷祈願の行幸を行った。 明治天皇: 侍従として明治天皇に仕えた日野西資博によると、明治天皇は京都が大変好きで、1897年に英照皇太后(孝明天皇の皇后)が崩御し、京都の陵に参拝した時などは、種々の理由をつけて東京に帰ることを引き延ばし、4月17日から8月22日まで滞在した。 明治天皇: 還幸の理由は孝明天皇の三年祭と、一条美子(後の昭憲皇太后)の皇后冊立のためであった。 明治天皇: 孝明天皇がその報告を受けたのは常御殿北庭の花壇の菊の花を愛でながら一献傾けていた時で、皇子生誕の吉報にことのほか喜び、さらに杯を重ねたという。孝明天皇にはすでに二人の子が誕生していたが、明治天皇生誕時にはいずれもすでに薨去していた。当時の幼児死亡率は極めて高く、嘉永3年(1851年)11月に生まれた孝明天皇の第一皇女(生母は九条夙子(英照皇太后))は一宮と名付けられるも嘉永5年6月(1852年8月)に3歳で薨去しており(孝明天皇は3日遡って一宮に内親王を追贈し順子の名を与えている)、嘉永3年12月には第一皇子(生母は坊城伸子)も生まれているが、こちらは名づける前に即日生母ともども薨去した。そのため、孝明天皇にとっては、待望の第二皇子誕生であった。 和宮: とした上で、孝明天皇が国内の安定を願っている点を押さえて 明治天皇: 伊藤行雄は、岩倉具視は孝明天皇の侍従だったが、睦仁親王(明治天皇)が9歳の頃から14歳になった慶応3年3月まで、尊皇攘夷派の公家の圧力で朝廷から追放されていて以来朝廷を不在にしていたため、小御所会議の時点では、明治天皇と岩倉具視の間に信頼関係はまだ形成されていなかったと指摘し、そのことから親慶喜派の摂政二条斉敬や中川宮朝彦親王を中心とした朝廷の体制を、自分がよく知らない岩倉ら一部の中下級公家と薩長両藩を中心とした体制に変えていくことは、孝明天皇の取ってきた方針を大きく転換することでもあったから、おそらく強い不安を感じたのではないかとし、しかし明治天皇は外祖父・中山忠能や岩倉らの要望を拒否する気力も実力もまだなかったのだろうと推測している。かつて孝明天皇が息子の睦仁にひどい苛立ちを覚えたことがあったが、その理由が外祖父中山忠能、あるいは女官たちにより培われた睦仁の攘夷思想や反幕感情であった可能性は十分にあるとし、明治天皇はすでに父帝と異なる自身の政治思想を確立していて、会議の結論は天皇自身が事実望んで承認したものであった可能性は捨てきれないと論じる。 石丸謙二郎: 白虎隊(2007年) - 孝明天皇 和宮: 8月5日に孝明天皇が出された「御趣意書」を近衛忠煕、鷹司輔煕、一条忠香、三条実万は関東へ送るように命じられた。12月24日、間部を再度参内させた孝明天皇は公武一和の立場より将来、鎖国に戻るとの説明を受け入れた(心中氷解の沙汰書)。 山内明: 大奥(1968年 - 1969年、KTV) - 孝明天皇 徳川慶喜: 同年4月10日夜、翌日に予定されていた孝明天皇の石清水八幡宮行幸・攘夷祈願についての家茂の供奉を、「風邪発熱」(仮病)として急遽取りやめさせた。 和宮: この年の1月より酒井と九条は戊午の密勅にかかわった宮、公卿への辞官落飾(四公落飾)を孝明天皇から出させるように圧力を加えていた。 明治天皇: 孝明天皇は睦仁親王に天然痘が感染しないよう、全快するまで自分の近くに来ないよう命じたが、外祖父・中山忠能は睦仁親王を預かっていた間に、蘭学医・大村泰輔に頼んで睦仁親王に種痘を受けさせていた。そのことを孝明天皇に話すと、天皇は安心した。 和宮: ただし、孝明天皇は「御所風は和宮に限った特例である」としており、後の御台所がこれに倣う必要の無いことや、武家の棟梁たる将軍が御所風に影響されて柔弱にならぬよう気をつけるようとの意向を、文久2年(1862年)正月に和宮に宛てた手紙に記している。 |
孝明天皇の情報まとめ
孝明天皇(こうめいてんのう)さんの誕生日は1831年7月22日です。京都出身の皇族のようです。
事件、現在、兄弟、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。去年の情報もありました。1867年に亡くなられているようです。
孝明天皇のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)孝明天皇(こうめいてんのう、1831年7月22日〈天保2年6月14日〉- 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)は、日本の第121代天皇(在位: 1846年3月10日〈弘化3年2月13日〉‐ 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)。諱は統仁(おさひと)。称号は煕宮(ひろのみや)。 仁孝天皇の第4皇子。実母は正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣・鷹司政煕の娘で仁孝天皇女御の藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子。一世一元の詔発布前(日本における一世一元の制制定以前)、そして生涯平安京内で過ごした最後の天皇でもある。 今上天皇(第126代天皇・徳仁)の5世祖先である。 1831年7月22日(天保2年6月14日)、仁孝天皇の第4皇子として誕生する。煕宮(ひろのみや)と命名された。 傳役(養育係)は近衛忠煕が就き、1835年7月16日(天保6年6月21日)儲君。御乳人は押小路甫子。1835年11月8日(天保6年9月18日)、親王宣下により統仁親王となった。1840年4月16日(天保11年3月14日)、立太子の儀が行われ皇太子となり、1843年(天保14年)には侍講に中沼了三を迎えた。1846年2月21日(弘化3年1月26日)、仁孝天皇が崩御。3月10日(弘化3年2月13日)に践祚した。 1846年10月19日(弘化3年8月29日)、幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。翌1847年4月23日(弘化4年3月9日)、学習所(学習院)の開講式が行われた。6月8日(旧暦4月25日)、石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈った。10月31日(旧暦9月23日)、即位の大礼が行われた。11月4日(旧暦9月27日)、将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀した。代始の改元は、1848年4月1日(弘化5年2月28日)に行われ、元号は嘉永となった。また、侍講の中沼了三を学習院の儒官に任命した。 1850年5月19日(嘉永3年4月8日)に「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺へ命じた。1853年(嘉永6年)、徳川家定の将軍宣下の勅使として下向した三条実万は阿部正弘より叡慮があれば幕府が沿うようにすると説明を受けた。1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約が締結された。5月2日(旧暦4月6日)、内裏が炎上した。黒船来航、大地震(改元後も大地震が続発し一連の地震は安政の大地震と呼ばれる)、内裏炎上と続いたため、1855年1月15日(嘉永3年11月27日)に元号を安政と改元した。 1858年2月27日(安政5年1月14日)、日米修好通商条約の調印勅許を得る目的で堀田正睦(以下、堀田老中)が上京するため、近衛忠煕、鷹司輔煕、三条実万の三大臣および議奏、武家伝奏へ開国か鎖国か下問をした。3月10日(旧暦1月25日)には大納言以下蔵人頭以上に範囲を広げ下問をした。しかし、大勢は開国に賛成とも反対とも決められず、結果は公武一和にて決める「定見なし」であった。 太閤・鷹司政通(以下、鷹司太閤)と関白・九条尚忠(以下、九条関白)は、ともに内覧に任じられ政務の補佐にあたっていた。徳川斉昭の義兄であった鷹司太閤は開国論を主張したが、孝明天皇は容れなかった。3月2日(旧暦1月17日)、九条関白へ下した宸翰には「私の代よりかようの儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わんや、それに付いては、伊勢始めところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置くところ無きに至り候あいだ、誠に心配仕り候」とある。3月10日(旧暦1月25日)の宸翰には、堀田老中が上京して演説しようと開市開港は認めないし、ましてや畿内近国ではいうまでもないと述べている。 4月5日(旧暦2月22日)、朝廷は勅許を奏請した堀田老中に対して改めて衆論一和の上で勅許を求めるように沙汰をした。堀田は幕府が保証するため勅許をもらいたいという答書を4月18日(旧暦3月5日)に提出した。この頃には開国反対の立場にあった九条関白は幕府方へ転向した。逆に内覧を辞していた鷹司太閤は開国論であったはずが開国反対へまわった。九条関白は勅答案を起草するが内容は幕府への白紙委任であった。勅答は朝議を経て4月27日(旧暦3月14日)に堀田老中へ下すことになったが、4月25日(旧暦3月12日)、88人の公卿が列参して条約勅許へ反対の意思を示したことで孝明天皇も再考を示唆した(廷臣八十八卿列参事件)。『孝明天皇紀』では久我建通が4月24日(旧暦3月11日)に工作依頼の勅書を受け取って大原重徳、岩倉具視とともに行動に移したとされる。5月3日(旧暦3月20日)、堀田老中は御三家及び大名の意見をとりまとめ再奏するようにとの沙汰をした。 7月29日(旧暦6月19日)、幕府は日米修好通商条約に調印。この条約調印に関する奉書は8月6日(旧暦6月27日)に京都へ着き、朝廷では評議が開かれたが、孝明天皇は大変怒っていた様子であったと九条関白が日記に書いている(九条関白自身はこの会議へ出席しなかった)。翌8月7日(旧暦6月28日)の評議で九条関白に下した宸翰は譲位の意思を示していた。驚愕した一同は関東より御三家、大老・井伊直弼を上京させ事態の顛末を説明をする段取りをつけるとして諌止した。8月14日(旧暦7月6日)に大老と親藩の上京を求めた勅書が江戸についた。幕府は8月15日(旧暦7月7日)に井伊大老は多忙のため、御三家の当主は処罰したため上京はできないので、酒井忠義(以下、酒井所司代)と間部詮勝(以下、間部老中)を上京させるとした答書を作成し、8月17日(旧暦7月9日)に京都へ送った。その一方で8月19日(旧暦7月11日)に日露修好通商条約、8月26日(旧暦7月18日)に日英修好通商条約は勅許がないまま調印された。8月30日(旧暦7月22日)、近衛忠煕に再び攘夷の意思を示した宸翰を下した。 9月11日(旧暦8月5日)、近衛忠煕、鷹司輔煕、一条忠香、三条実万に対し、自身が出した「御趣意書」を関東へ送るように命じた。内覧の権限を持つ九条関白が朝議に出なければ勅書は成立しないため、近衛らは九条関白へ交渉し、具体的には9月13日(旧暦8月7日)の朝議のため参内を求めた。しかし九条関白は参内をしなかったため、近衛らは朝議における内覧を経ないで幕府と水戸藩へ「御趣意書」を出すことを決定した。九条関白は事後承諾をしたが勅書へ勝手に添書を付けた。この勅書は戊午の密勅と呼ばれる。9月2日(10月8日)、幕府寄りの九条関白へ辞職をせよとの内勅を出した。9月2日(10月8日)に辞表を受け取り、4日(10月10日)に内覧辞退の勅許を下した。幕府よりの答書を隠してきたこと、添書の偽造が露見したことによる。9月17日(10月23日)に間部老中が上京。水戸藩士の鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、鷹司家諸大夫の小林良典が捕縛された。10月19日(11月24日)、九条関白の辞表を取り下げ、内覧に任じた。10月25日、徳川家茂の将軍宣下が行われた。 10月24日(11月29日)、間部老中が参内したが、孝明天皇は出御しなかった。九条関白らに対して間部老中は無断調印に関し、幕府の本意ではないこと、海岸の防備を固めて、国力がついたら和戦のどちらかを選ぶものと言い訳(この説明を『孝明天皇記』巻八十九では分疏とあり、維新史では弁疏とある)をした。11月9日(12月13日)に宸翰で、開国は日本国の瑕瑾であり承知はできないとする意思を伝えた。間部老中は参内を繰り返し言い訳を続ける一方、皇族や公卿の家臣を逮捕させ続けた。12月24日(1859年1月27日)、間部老中を参内させ、鎖国に戻すという説明に心中氷解したという勅書を下した。12月30日(2月2日)、間部老中は帰府の許しを得たが幕府は宮や公卿を処罰する方針を固めていたので、すぐには実現しなかった。 安政6年1月10日(1859年2月12日)、幕府と九条関白からの圧力により、近衛忠煕と鷹司輔煕が辞官落飾、鷹司太閤と三条実万が落飾を奏請した。孝明天皇は九条関白へ幕府と掛け合ってもらいたいと宸翰を出したが、2月5日(3月9日)に酒井所司代から九条関白へ伝えられた幕府の内命には四公の辞官落飾だけでなく、青蓮院門跡尊融法親王、一条忠香らへの処分案もあった。その後も2月17日(3月21日)に九条関白を通じて落飾回避を幕府へ要請したが拒絶された。3月28日(4月30日)に辞官は勅許を下したが落飾を決めずにいると、酒井所司代から更に圧力を加えられ、4月22日(5月24日)に落飾の勅許を出した。 8月12日(9月8日)、幕府は朝廷に対して金五千両を献じ、摂家以下の堂上へ金二万両を贈り、8月15日(9月11日)、九条関白には功労に報いて家禄として千石を加増した。落飾した三条実万は不忠不直の人が恩賞を受けるのは「実に嘆息に堪へざる事、時勢悲しむ可し、悲しむ可し」と日記に残し、その1か月後に幽居先の一乗寺村で没した。三条前内府を含めて天皇に奉仕した者への受難、殉難は続いたが、その結果として献身的な情熱は熱狂的になってきた。「たとえ世間からは狂人、賊子と呼ばれ非難されようとも、天皇は自分たちの誠心を知っていてくださる」という行動論理を持つ人々が、安政の大獄の反動として生まれた。 1860年6月1日(万延元年4月12日)、幕府の命を受けた酒井所司代は和宮の将軍家降嫁を奏請した。これに対し6月22日(旧暦5月4日)付けで降嫁の願いを拒絶する宸翰を下した。酒井所司代は6月29日(旧暦5月11日)に独断で再度奏請したが、7月7日(旧暦5月19日)、再び拒絶する宸翰を出した。酒井所司代より報告を受けた幕府は老中連名で再要願書を提出、7月21日(旧暦6月4日)に上奏された。観行院の生家・橋本家は、元大奥上臈年寄の勝光院(和宮の大叔母)の説得をうけた。孝明天皇は、鎖国と攘夷実行の条件を付けての承知の意を示した。 8月20日(旧暦7月4日)、幕府は降嫁について三度目の奏請を行ったが、具体的に鎖国攘夷実行の誓約を含まなかったため、却下された。9月14日(旧暦7月29日)、酒井所司代は幕府の修正奏請を出し、今後七八カ年ないし十カ年の中で、その時の情勢に応じて応接を以て引き戻し(条約を破棄する)か、干戈を振って征討を加える(外国を撃攘する)かをとると誓約した。これにより孝明天皇は勅許を決断したが、当の和宮は繰り返しの説諭にも折れず降嫁を拒否した。9月29日(旧暦8月15日)に和宮はついに降嫁を受諾し、12月26日(旧暦11月15日)に江戸城に入った。 正親町三条実愛を通して建白された長州藩の長井雅楽の「航海遠略策」が嘉納され、1861年7月9日(文久元年6月2日)、長州藩主毛利慶親は御製の和歌を賜った。 12月(旧暦文久元年11月)、薩摩藩の島津久光と島津茂久が近衛忠房を通じて家来の中山実善を京都へ派遣し上京のために勅命を求めてくるが、容れることは無かった。しかし、12月から翌1862年1月(旧暦12月)に御製の和歌を下した。 1863年4月から5月(文久3年3月)に家茂が上洛してきたときは、攘夷の勅命を下し、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸した。 もっとも行幸が孝明天皇自身の意思であるか疑問が存在する。孝明天皇は1863年6月8日(文久3年4月22日)付の中川宮宛の書簡で、5月27日(旧暦4月10日)の石清水八幡宮行幸について体調不良にもかかわらず三条実美らに「無理にでも鳳輦に載せる」と脅迫されたと告白し、同年の八月十八日の政変直後に出されたと見られる日付不明の二条斉敬・中川宮・近衛忠煕宛の書簡では「表ニハ朝威ヲ相立候抔抔ト申候得共、真実朕之趣意不相立、誠我儘下ヨリ出ル叡慮而已」と述べ自分の真意とは異なる勅語(「大和行幸の勅」)が作成される現状を嘆いている。 その後、幕府・一会桑・薩摩藩・長州藩等の諸藩・公家・志士達の権力を巡る争奪戦に巻き込まれていくと、孝明天皇自身の権威は低下していくことになった。 1865年(慶応元年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は、艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出すこととした。だが、この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった。 このような状況の中で、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出するようになる。第二次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通は西郷隆盛に宛てた書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言し、岩倉具視は「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と暗に示唆して、「天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよ」と記している。こうした中で1866年10月8日(慶応2年8月30日)には、天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房が天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている。 京都守護職である会津藩主・松平容保への信任は特に厚かったと言われる。その一方で、尊攘派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計ったことなどもあり、長州藩には最後まで嫌悪の念を示し続けた。この嫌悪感については『孝明天皇記』に記録された書簡に明記されている。 遺品として時計が残るなど、西洋文明を全く否定していたわけではない。 孝明天皇が、即位の大礼や元旦の朝賀の際に着用した礼服(袞衣)が宮内庁に保管されている。通常、中国の皇帝や日本の皇室では天皇大帝を信仰しているため、祭服には北斗七星や織女(織女三星)がデザインされている。しかし、孝明天皇の礼服には、背中の中央上部に北斗七星が置かれているが、織女は置かれていない。又、宝鏡寺には孝明天皇遺愛の御所人形が所蔵されている。 現在孝明天皇は121代天皇として数えられているが、近衛家の陽明文庫には孝明天皇が「百廿二代孫統仁」と署名した宸翰が残されている。これは、当時北朝が正統とされていたからで、孝明天皇が生母新待賢門院に南朝の阿野廉子(新待賢門院)を無視した形で院号宣下したのもこの事情による。 女御
第二皇女:富貴宮(1858年 - 1859年) 養子:睦仁親王(明治天皇) 典侍
中山慶子(三位局)(1835年 - 1907年)
堀河紀子(1837年 - 1910年)
第四皇女:理宮(1861年 - 1862年) 今城重子(1828年 - 1901年) 今城尚子 養子・猶子
貞愛親王(伏見宮) 博経親王(知恩院門跡、還俗後は華頂宮) 智成親王(聖護院門跡、還俗後は北白川宮) 一世一元の詔発布前(日本における一世一元の制制定以前)の最後の天皇である。 弘化 嘉永 安政 万延 文久 元治 慶応 崩御後、漢風諡号「孝明天皇」が贈られた。諡を持つ最後の天皇(明治天皇以後の追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。勘申者は八条隆祐。 陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。 孝明天皇の埋葬にあたっては、文久の修陵事業で活躍した山陵奉行・戸田忠至(ただゆき)の建言を受け、従来の仏式葬の石塔から古式に改められ、歴代天皇墓所の泉涌寺裏山に、円墳を模した現陵が築かれた。ただし、葬儀そのものは泉涌寺において仏式で営まれた。歴代天皇で最後に仏式で葬儀が営まれた天皇となった。 皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに祀られている。また、平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮へ、平安京最後の天皇として1940年(昭和15年、皇紀2600年)に合祀された。そのほか、愛知県武豊町の玉鉾神社に祀られている。 1855年(嘉永7年、途中で安政に改元)に内裏が焼失した際は、翌年の再建までの間に聖護院や桂宮邸を仮御所としていた時期もある。 1867年1月16日(慶応2年12月11日)、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行われた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、翌1月17日(旧暦翌12日)に発熱する。天皇の持病である肛門脱を長年にわたって治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順の日記によれば、孝明天皇が発熱した1月17日(旧暦12日)、執匙(天皇への処方・調薬を担当する主治医格)であった高階経由が診察して投薬したが、翌18日(旧暦13日)になっても病状が好転しなかった。翌19日(旧暦14日)以降、伊良子光順など他の典薬寮医師も次々と召集され、昼夜詰めきりでの診察が行われた。 1月21日(旧暦慶応2年12月16日)、高階経由らが改めて診察した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患している可能性が浮上する。執匙の高階は痘瘡の治療経験が乏しかった為、経験豊富な小児科医2名を召集して診察に参加させた結果、いよいよ痘瘡の疑いは強まり、翌22日(旧暦17日)に武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表した。これ以後、天皇の拝診資格を持つ医師総勢15人により、24時間交代制での治療が始まった。 『孝明天皇紀』によれば、医師たちは天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。この「御容態書」における発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。 伊良子光順の日記における12月25日(新暦1月30日)の条には「天皇が痰がひどく、他の医師二人が体をさすり、光順が膏薬を貼り、他の医師たちも御所に昼夜詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された」と記されている。 中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」等という娘の慶子から報じられた壮絶な天皇の病状が記されているが、崩御の事実は秘され、実際には命日となった1月30日(旧暦25日)にも、「益御機嫌能被成為候(ますますご機嫌がよくなられました)」という内容の「御容態書」が提出されている。天皇の崩御が公にされたのは2月3日(旧暦29日)になってからのことだった。 孝明天皇は前述の通り悪性の痔(肛門脱)に長年悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の『中山忠能日記』にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)」との感想が記されている。なお、御所を警護していた江戸幕府による声明は無く、孝明天皇の没後に即位した明治天皇の摂政には、徳川慶喜の従兄弟である二条斉敬が就任した為、幕府上層部では毒殺説が唱えられることは無かった。 その後、明治維新を経て、皇室に関する疑惑やスキャンダルの公言はタブーとなり、学術的に孝明天皇の死因を論ずることも長く封印された。一方で、1909年(明治42年)に伊藤博文を暗殺した安重根が伊藤の罪として孝明天皇殺害をあげたり、大正天皇・貞明皇后に仕えた元女官・坂東登女子が宮中でも孝明天皇殺害説が語られていたことを示唆する発言をしているなど、噂は消えずに流れ続けていた。また1940年(昭和15年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している。ただし、堀河紀子は1862年(文久2年)には霊鑑寺に出家しており、孝明天皇が没した年には御所にいなかった。 第二次世界大戦後に、皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、変死説が論壇に出てくるようになった。最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した歴史学者・禰津正志(ねずまさし)である。禰津は、医師達が発表した「御容態書」が示すごとく天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も戦前の佐伯説と同様に、岩倉首謀・堀河実行説を唱えた。 次いで1975年(昭和50年)から1977年(同52年)にかけ、前述の伊良子光順の拝診日記が、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、伊良子光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。だがこれを発表した伊良子光孝は、断定こそ避けているものの、禰津と同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した。 1989年(平成元年)から1990年(同2年)にかけ、当時名城大学商学部教授であった原口清が2つの論文を発表する。 「孝明天皇の死因について」、「孝明天皇は毒殺されたのか」というタイトルが付けられたこれらの論文の中で原口は、 12月19日(新暦1月24日)までは紫斑や痘疱が現れていく様子を比較的正確にスケッチしていた「御容態書」が、それ以降はなぜか抽象的表現をもって順調に回復しているかのような記載に変わっていくこと 12月19日までの「御容態書」や、当時天皇の側近くにあった中山慶子の19日付け書簡に記された天皇の症状が、悪性の紫斑性痘瘡のそれと符合すること 中山慶子の12月23日(新暦1月28日)付け書簡では、楽観的な内容の「御容態書」を発表する医師たちが、実は天皇が予断を許さない病状にあり、数日中が山場である旨を内々に慶子へ説明していること などから、医師たちによる「御容態書」の、特に20日(新暦1月25日)以降に発表されたものの内容についてその信憑性を否定し、これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないことを説明。その上で、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと断定的に結論付けた。 また原口は別に記した論文の中で、諸史料の分析から岩倉が慶応2年12月(新暦の1867年1月から2月)の段階では「倒(討)幕」の意思を持っていなかったこと、孝明天皇の崩御が岩倉の中央政界復帰に直接結びついていないことなどを指摘し、岩倉が天皇暗殺を企てていたとする説についても否定した。 『徳川慶喜』(1998年) - 演:3代目花柳錦之輔 『新選組!』(2004年) - 演:9代目中村福助 『篤姫』(2008年) - 演:東儀秀樹 『龍馬伝』(2010年) - 演:阿部翔平 『八重の桜』(2013年) - 演:7代目市川染五郎 『西郷どん』(2018年) - 演:6代目中村児太郎 『青天を衝け』(2021年) - 演:2代目尾上右近 『大奥』(関西テレビ、1968年) - 演:山内明 『大奥』(関西テレビ、1984年) - 演:松橋登 『白虎隊』(テレビ朝日、2007年) - 演:石丸謙二郎 『大奥』(NHKドラマ10、2023年) - 演:茂山逸平 『朱雀門』(大映、1957年) - 演:夏目俊二 『燃えよ剣』(東宝・アスミックエース、2021年) - 演:2代目坂東巳之助 ^ 孝明天皇自身は、「百廿二代孫統仁」(122代)と自署していた。光格天皇も同様に現在のものから一代増えたものを使用しているが、この差異は、『本朝皇胤紹運録』にて現在は歴代天皇に数えられていない北朝の天皇を歴代天皇として数えていることから来る。 ^ 「七社とは、伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日の各社のことであり、七寺とは、仁和寺、東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺、東寺、広隆寺の各寺である。」藤田覚『幕末の天皇』、第4章(講談社学術文庫 2013年) ^ しかし「天皇も自分と同意見」だとして事態を動かす点は危惧していた。前述の下問は朝廷内部の世論を喚起させて鷹司太閤へ対抗しようとした工作との見方がある。 ^ 1866年2月2日(慶応元年12月17日)、典薬寮の高階経由・経徳らの建言による。天皇没後の戊辰戦争を受けて、1868年3月31日(慶応4年3月8日)に同じ高階親子の建言で撤回された。 ^ 第15代アメリカ合衆国大統領のジェームズ・ブキャナンより贈られたウォルサム社製。 ^ 安重根は伊藤博文を暗殺した15の理由うちの1つとして、「今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝(明治天皇)ノ御父君ニ当ラセラル御方(孝明天皇)ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス」と述べている(新聞集成明治編年史編纂会、1940年、p.171)。 ^ 坂東は「風呂の湯に毒が入れられた」旨の伝聞を述べている。 ^ 天皇史関係の書籍では著者名は主に「禰津正志」を使用。 ^ 伊良子光孝が医学史雑誌『医譚』の第47・48号(1976年)に天脈拝診日記を再発表した際に記述したところによると、拝診日記の最初の発表以降、孝明天皇毒殺の証拠を探ろうとして光孝のもとへ歴史研究者や作家の類がかなり押しかけてきたという。これに閉口したのか、光孝は天皇の死因について「真実は医師である自分にも判らない」として私見の開陳を避け、「討幕派が天皇毒殺をするなど考えられず、また考えたくもない」といった旨のことも述べている。 ^ 『宸翰栄華』「宸筆御懐紙」 ^ 「書陵部所蔵目録・画像公開システム,ギャラリーバックナンバー,『光格天皇宸翰南無阿弥陀仏』」 ^ 『孝明天皇』福地重孝 ^ 『孝明天皇紀』巻四P592 ^ 『孝明天皇紀』巻四P845-846 ^ 『孝明天皇紀』巻五P706-707 ^ 『明治天皇紀』巻一P643 ^ 1865年11月11日(慶応元年9月23日)付書簡『大久保利通文書』巻一P311 ^ 『岩倉具視文書』巻一P264 ^ 『孝明天皇紀』巻四P893 ^ 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年、786頁。 ^ 山口幸洋『大正女官、宮中語り』河西秀哉監修、創元社、2022年、76頁。 ^ 京都府医師会 編『京都の医学史』思文閣出版、1980年、1301頁。 ^ 原口清「孝明天皇の死因について」『明治維新史学史会報』第15号、1989年10月。 ^ 原口清(著)、藤原彰 他(編)「日本近代史の虚像と実像1」、大月書店、1990年。 ^ 原口清「孝明天皇と岩倉具視」『名城商学』第39巻別冊、1990年2月。 宮内省図書寮編 『孝明天皇実録 1・2巻』(ゆまに書房、2006年) ISBN 4843320404 平安神宮編 『孝明天皇紀』(全5冊:吉川弘文館、1981年)。1906年(明治39年)刊の復刻。NCID BN01623977 下橋敬長述・羽倉敬尚注 『幕末の宮廷』(平凡社〈東洋文庫〉、1979年)ISBN 4582803539 藤田覚 『幕末の天皇』(講談社選書メチエ、1994年/講談社学術文庫、2013年) ISBN 406292157X 佐々木克 『幕末の天皇・明治の天皇』(講談社学術文庫、2005年) ISBN 4061597345 家近良樹 『幕末の朝廷 若き孝明帝と鷹司関白』(中央公論新社〈中公叢書〉、2007年) ISBN 4120038831 家近良樹 『孝明天皇と「一会桑」 幕末・維新の新視点』(文春新書、2002年) ISBN 4166602217 阪本健一 『天皇と明治維新』(暁書房、1983年。ISBN 4900032166/皇學館大學出版部、2000年。ISBN 4876440972) 高橋秀直 『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年) ISBN 4642037772 原口清『王政復古への道 原口清著作集2』(岩田書院、2007年) ISBN 978-4872944778 李元雨『幕末の公家社会』(吉川弘文館、2005年) ISBN 4642034021 ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』(平凡社選書、2011年) ISBN 978-4582842319 蜷川新 『天皇 誰が日本民族の主人であるか』(光文社 1952年/長崎出版、1988年・2004年。ISBN 4860950445) 伊良子光孝『天脈拝診 孝明天皇拝診日記』(「医譚」復刊第47・48号、1976年) ISSN 0536-0307 京都府医師会 編 『京都の医学史』(思文閣出版、1980年) 全国書誌番号:80026728、NCID BN00717747。 徳富蘇峰・平泉澄校訂 『近世日本国民史』(時事通信社、1966年)
※時事通信社版は全100巻、50冊分は1979年から1996年にかけ文庫再刊された。 公武合体 攘夷論 一期一振 『孝明天皇』 - コトバンク 1831年7月22日 - 1867年1月30日 表 話 編 歴 1 神武天皇 2 綏靖天皇 3 安寧天皇 4 懿徳天皇 5 孝昭天皇 6 孝安天皇 7 孝霊天皇 8 孝元天皇 9 開化天皇 10 崇神天皇 11 垂仁天皇 12 景行天皇 13 成務天皇 14 仲哀天皇 15 応神天皇 16 仁徳天皇 17 履中天皇 18 反正天皇 19 允恭天皇 20 安康天皇 21 雄略天皇 22 清寧天皇 23 顕宗天皇 24 仁賢天皇 25 武烈天皇 26 継体天皇 507?-531? 27 安閑天皇 531?-535? 28 宣化天皇 535?-539? 29 欽明天皇 539?-571? 30 敏達天皇 572?-585? 31 用明天皇 585?-587? 32 崇峻天皇 587?-592? 33 推古天皇 592-628 34 舒明天皇 629-641 35 皇極天皇 642-645 36 孝徳天皇 645-654 37 斉明天皇 655-661 38 天智天皇 661-671 39 弘文天皇 671-672 40 天武天皇 673-686 41 持統天皇 686-697 42 文武天皇 697-707 43 元明天皇 707-715 44 元正天皇 715-724 45 聖武天皇 724-749 46 孝謙天皇 749-758 47 淳仁天皇 758-764 48 称徳天皇 764-770 49 光仁天皇 770-781 50 桓武天皇 781-806 51 平城天皇 806-809 52 嵯峨天皇 809-823 53 淳和天皇 823-833 54 仁明天皇 833-850 55 文徳天皇 850-858 56 清和天皇 858-876 57 陽成天皇 876-884 58 光孝天皇 884-887 59 宇多天皇 887-897 60 醍醐天皇 897-930 61 朱雀天皇 930-946 62 村上天皇 946-967 63 冷泉天皇 967-969 64 円融天皇 969-984 65 花山天皇 984-986 66 一条天皇 986-1011 67 三条天皇 1011-1016 68 後一条天皇 1016-1036 69 後朱雀天皇 1036-1045 70 後冷泉天皇 1045-1068 71 後三条天皇 1068-1072 72 白河天皇 1072-1086 73 堀河天皇 1086-1107 74 鳥羽天皇 1107-1123 75 崇徳天皇 1123-1141 76 近衛天皇 1141-1155 77 後白河天皇 1155-1158 78 二条天皇 1158-1165 79 六条天皇 1165-1168 80 高倉天皇 1168-1180 81 安徳天皇 1180-1185 82 後鳥羽天皇 1183-1198 83 土御門天皇 1198-1210 84 順徳天皇 1210-1221 85 仲恭天皇 1221 86 後堀河天皇 1221-1232 87 四条天皇 1232-1242 88 後嵯峨天皇 1242-1246 89 後深草天皇 1246-1259 90 亀山天皇 1259-1274 91 後宇多天皇 1274-1287 92 伏見天皇 1287-1298 93 後伏見天皇 1298-1301 94 後二条天皇 1301-1308 95 花園天皇 1308-1318 96 後醍醐天皇 1318-1339 97 後村上天皇 1339-1368 98 長慶天皇 1368-1383 99 後亀山天皇 1383-1392 北1 光厳天皇 1331-1333 北2 光明天皇 1336-1348 北3 崇光天皇 1348-1351 北4 後光厳天皇 1352-1371 北5 後円融天皇 1371-1382 100 後小松天皇 1382-1412 101 称光天皇 1412-1428 102 後花園天皇 1428-1464 103 後土御門天皇 1464-1500 104 後柏原天皇 1500-1526 105 後奈良天皇 1526-1557 106 正親町天皇 1557-1586 107 後陽成天皇 1586-1611 108 後水尾天皇 1611-1629 109 明正天皇 1629-1643 110 後光明天皇 1643-1654 111 後西天皇 1654-1663 112 霊元天皇 1663-1687 113 東山天皇 1687-1709 114 中御門天皇 1709-1735 115 桜町天皇 1735-1747 116 桃園天皇 1747-1762 117 後桜町天皇 1762-1770 118 後桃園天皇 1770-1779 119 光格天皇 1779-1817 120 仁孝天皇 1817-1846 121 孝明天皇 1846-1866 122 明治天皇 1867-1912 123 大正天皇 1912-1926 124 昭和天皇 1926-1989 125 明仁 1989-2019 126 徳仁 2019- 前の数字は代数。南朝を正統とする。 名前の赤背景は女性天皇。 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚。 後の数字は在位年。なお、江戸時代以前は日付までを考慮した厳密な和暦からの換算は行なっていない。 表 話 編 歴 天皇の一覧 皇后の一覧 皇室系図の一覧 元号の一覧 宮家一覧 男性皇族一覧 天皇 今上天皇 后位 皇后 皇太后 太皇太后 上皇后 皇太子 皇太子妃 親王 親王妃 内親王 王 王妃 女王 大妃 摂政 摂政宮 入道親王 法親王 太上天皇 上皇 太上法皇 准太上天皇 大行天皇 後宮 妃位 妃 皇太妃 太皇太妃 夫人位 夫人 皇太夫人 太皇太夫人 准三宮 中宮 女御 更衣 御息所 御匣殿別当 大兄 国母 皇族 旧皇族 内廷皇族 宮家 直宮家 女性天皇 女系天皇 女性宮家 院宮王臣家 伯家 華族 王公族 朝鮮貴族 即位 践祚 譲位 崩御 薨去 皇籍 臣籍降下(皇籍離脱) 降嫁 親王宣下 皇別 皇位 皇嗣 皇別摂家 皇位継承 皇位継承順位 陛下 殿下 御称号 宮号 尊号 全名 諡 諱 お印 宮中三殿 賢所 皇霊殿 神殿 天照大神 皇祖神 伊勢神宮 神 日本神話 神道 神社本庁 日本の元首 日本国憲法第1章 国事行為 国事行為臨時代行 国事行為の臨時代行に関する法律 天皇の退位等に関する皇室典範特例法 行幸・行啓 園遊会 皇室典範(旧皇室典範) 皇室経済法 皇室経済会議 皇室経済法施行法 皇室会議 皇室財産 皇室費用(宮廷費・内廷費・皇族費) 皇室令 皇室服喪令 皇統譜 宮内庁法 宮内庁御用達 最高敬語 永世皇族制 象徴天皇制 天皇制 皇室裁判所 皇族軍人 名誉総裁 神武天皇即位紀元(皇紀) 即位の礼 大喪の礼 退位の礼 立太子の礼 立皇嗣の礼 講書始 歌会始 雅楽 蹴鞠 鴨場 古式馬術 打毬 大祓 信任状捧呈式 認証官任命式 一般参賀 新年祝賀の儀 納采の儀 命名の儀 賜剣の儀 深曽木の儀 斂葬の儀 四方拝 先帝祭 大嘗祭 大饗の儀 天皇誕生日(天長節) 皇后誕生日(地久節) 鎮魂祭 招魂祭 紀元節祭 神嘗祭 元始祭 皇霊祭 歳旦祭 新嘗祭 神武天皇祭 皇妣たる皇后の例祭 紀元二千六百年記念行事 三種の神器
八尺瓊勾玉 天叢雲剣 正倉院 三の丸尚蔵館 御府 国璽 御璽 一期一振 桂本万葉集 小烏丸 鶴丸 唐本御影 平野藤四郎 法華経義疏 大刀契 流星刀 坂家宝剣 壺切御剣 鶯丸 鬼丸国綱 皇居 京都御所 大宮御所 東宮御所 吹上御所 紅葉山御養蚕所 仙洞御所 比丘尼御所 御用邸 桂離宮 赤坂御用地 赤坂離宮 高輪皇族邸 修学院離宮 離宮 天皇陵(宮内庁治定陵墓の一覧) 豊島岡墓地 明治宮殿 宮内庁
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2024/11/17 04:27更新
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