もしもし情報局 > 7月22日 > 皇族

孝明天皇の情報 (こうめいてんのう)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

孝明天皇の情報(こうめいてんのう) 皇族 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

孝明天皇さんについて調べます

■名前・氏名
孝明天皇
(読み:こうめいてんのう)
■職業
皇族
■孝明天皇の誕生日・生年月日
1831年7月22日
卯年(うさぎ年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
京都出身

孝明天皇と同じ1831年生まれの有名人・芸能人

孝明天皇と同じ7月22日生まれの有名人・芸能人

孝明天皇と同じ出身地京都府生まれの有名人・芸能人


孝明天皇と関係のある人

岩倉具視: 7月6日には長州藩京屋敷において毛利敬親が孝明天皇の悲願破約攘夷を実現させるために尽力・周旋をするという攘夷の立場を明確に藩論と定めると家臣たちに言い渡した。


明治天皇: 9月3日には式部大輔・文章博士の唐橋在光が諱を勧進し、「與仁」「履仁」「睦仁」の三号を選定して孝明天皇に奏上した。8歳を迎えた後の9月28日(11月10日)親王宣下の儀式が行われ、居並ぶ諸卿の前で孝明天皇の宸筆による「睦仁(むつひと)」の二字が示された。


東久世通禧: 天保13年(1842年)、東宮統仁親王(後の孝明天皇)付きの御児として召し出され、所謂「御学友」的な存在として位置づけられていた。


明治天皇: 孝明天皇は、幕府と連携して、現実的な形で幕府に攘夷を実施させるという路線を、その後も取り続けた。その圧力で、文久3年4月11日(1863年5月28日)から翌日にかけて、孝明天皇は石清水八幡宮に攘夷祈願の行幸を行った。


松橋登: 大奥 第48話「悲恋の皇女和宮」・第49話「江戸城のおさな妻」(1984年、KTV) - 孝明天皇


明治天皇: 権大納言正親町実徳による手習いを経て、安政6年(1859年)3月30日、孝明天皇の命により、有栖川宮幟仁親王が祐宮の習字の師範に就いた。


島津久光: しかし帰藩後も、尊攘派と対立関係にあった中川宮や近衛忠煕・忠房父子、また、尊攘派の言動に批判的だった孝明天皇から再三、上京の要請を受ける。


和宮: 12月25日、孝明天皇が崩御し、和宮は1年余りの間に母・夫・兄を次々と失うこととなった。


和宮: 家茂は2月19日に二条城に入り、3月7日に参内、11日には孝明天皇の加茂行幸に供奉した。


明治天皇: 京都到着後、12月25日(2月6日)に孝明天皇三年祭で後月輪東山陵を親拝。


岩倉具視: 孝明天皇は6月20日に条約破棄と攘夷を条件に和宮降嫁を認める旨を九条尚忠を通じて京都所司代に伝えた。


ジェームズ=ブキャナン: 孝明天皇にはウォルサムの懐中時計を贈呈している。


明治天皇: 孝明天皇崩御で15代将軍徳川慶喜を中心とし、京都守護職・松平容保(会津藩主)、京都所司代・松平定敬(桑名藩主)からなる「一会桑政権」は大打撃を受けていた。彼らは、元治元年(1864年)頃から、公武合体派の孝明天皇の庇護によって、京都を中心に幕府や朝廷の政治をリードしていたが、朝廷内最大の権力者の支援を、これからは受けられなくなったからである。


徳富蘇峰: 蘇峰は、全体の3分の1近くをあてるほど孝明天皇時代すなわち幕末維新の激動に格別の意義を探っていた。


和宮: 孝明天皇は、侍従・岩倉具視に意見を求めた。


明治天皇: 3月19日、孝明天皇が将軍家茂に拝謁を許した際に、天皇は睦仁親王を同席させ、睦仁親王は初めて家茂を引見した。


明治天皇: 当時、産殿の建設には、総工費100両が必要とされたが、年収200石の公家だった中山家には過重にすぎたため、忠能は朝廷に200両の拝借を願い出たが、関白鷹司政通から前例は100両として退けられ、忠能に100両、大叔母中山績子(孝明天皇の後宮の女官長格の「大典侍」)名義で50両の合計150両が中山家に貸し出され、その資金を使って六畳、十畳二間の産殿を建設した。


岩倉具視: しかし先立つ11日に実母の吉子(勧修寺経逸の娘)が死去したため、喪に服するため参内を遠慮し、将軍誓書はかわりに千種有文が12月25日に孝明天皇に提出している。孝明天皇はこれに大変喜び、岩倉の復帰後の2月11日には岩倉を召して「勲功の段感悦す」とまでいってその功労をねぎらった。


明治天皇: 孝明天皇は、祐宮が自身の所に出向くたびに、祐宮に和歌5題を作らせて、それができるといつも菓子を与えた。


明治天皇: 条約に反対だった孝明天皇は、幕府が独断でアメリカとの条約に調印したこと、さらにロシア・イギリス・フランスとも条約を結ぶ方針であることを聞いて激昂し、8月7日に幕府への強い抗議と条約の撤回を求めた御趣意書を幕府に下すように厳命したが、関白九条尚忠は幕府との関係を慮って、文面を穏やかなものに変えることを望んだが、結局左大臣近衛忠煕が、薩長両藩をはじめとする有力諸藩に内密の勅命を伝える解決案を提示し、天皇は容認した。幕府は権威回復のため、公武合体の目的で、孝明天皇の異母妹和宮親子内親王を将軍徳川家茂と結婚させようと、働きかけるようになったが、孝明天皇は、これが幕府の露骨な政略であること、和宮が有栖川宮熾仁親王と婚約済みであったことから難色を示したが、侍従・岩倉具視の献策を容れ、和宮の降嫁を条件に、攘夷を行って10年以内に条約を撤廃することを幕府に約束させ、万延元年(1860年)8月に嫁がせた。これは条約撤廃という強硬論を含むが、直ちに実行するものではないので、当時の日本の対外政策論の中においては、現実論とされ、孝明天皇の支持を得た。


木戸孝允: しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難するところを直訴に及ぼうと待った。


西園寺公望: 孝明天皇が設置した学習院で学び、11歳の時からは御所に出仕し、祐宮(後の明治天皇)の近習となった。


明治天皇: 還幸の理由は孝明天皇の三年祭と、一条美子(後の昭憲皇太后)の皇后冊立のためであった。


岩倉具視: 慶応2年(1866年)6月7日からはじまった第二次長州征伐は長州軍の決死の反攻で幕府軍の苦戦が続く中、7月18日には広島藩主・浅野長訓、岡山藩主・池田茂政、徳島藩主・蜂須賀斉裕ら外様雄藩が孝明天皇に征長軍解体の建白書を提出。


岩倉具視: また出発前には孝明天皇が随行する岩倉と千種有文を小座敷に呼び出して勅書を与え、老中にこの書状の中のことを問いただすよう命じた。


和宮: 8月5日に孝明天皇が出された「御趣意書」を近衛忠煕、鷹司輔煕、一条忠香、三条実万は関東へ送るように命じられた。12月24日、間部を再度参内させた孝明天皇は公武一和の立場より将来、鎖国に戻るとの説明を受け入れた(心中氷解の沙汰書)。


岩倉具視: 正親町三条実愛は、岩倉にまず孝明天皇の近習をやめるよう勧告し、岩倉はこれに従って7月24日に近習職を辞した。孝明天皇にまで親幕派と疑われ、8月20日に蟄居処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまう。


明治天皇: 孝明天皇がその報告を受けたのは常御殿北庭の花壇の菊の花を愛でながら一献傾けていた時で、皇子生誕の吉報にことのほか喜び、さらに杯を重ねたという。孝明天皇にはすでに二人の子が誕生していたが、明治天皇生誕時にはいずれもすでに薨去していた。当時の幼児死亡率は極めて高く、嘉永3年(1851年)11月に生まれた孝明天皇の第一皇女(生母は九条夙子(英照皇太后))は一宮と名付けられるも嘉永5年6月(1852年8月)に3歳で薨去しており(孝明天皇は3日遡って一宮に内親王を追贈し順子の名を与えている)、嘉永3年12月には第一皇子(生母は坊城伸子)も生まれているが、こちらは名づける前に即日生母ともども薨去した。そのため、孝明天皇にとっては、待望の第二皇子誕生であった。


和宮: 翌日の28日、孝明天皇は譲位の意思を示した。7月22日、孝明天皇は近衛忠煕に再び譲位の意思を示した宸翰を下した。


和宮: この年の1月より酒井と九条は戊午の密勅にかかわった宮、公卿への辞官落飾(四公落飾)を孝明天皇から出させるように圧力を加えていた。


孝明天皇の情報まとめ

もしもしロボ

孝明天皇(こうめいてんのう)さんの誕生日は1831年7月22日です。京都出身の皇族のようです。

もしもしロボ

人物、系譜などについてまとめました。事件、現在に関する情報もありますね。

孝明天皇のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

孝明天皇(こうめいてんのう、1831年7月22日〈天保2年6月14日〉- 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)は、日本の第121代天皇(在位: 1846年3月10日〈弘化3年2月13日〉‐ 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)。諱は統仁(おさひと)。称号は煕宮(ひろのみや)。

仁孝天皇の第4皇子。実母は正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣・鷹司政煕の娘で仁孝天皇女御の藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子。一世一元の詔発布前(日本における一世一元の制制定以前)、そして生涯平安京内で過ごした最後の天皇でもある。

今上天皇(第126代天皇・徳仁)の5世祖先である。

1831年7月22日(天保2年6月14日)、仁孝天皇の第四皇子として誕生。煕宮(ひろのみや)と命名された。

傳役(養育係)は近衛忠煕が就き、1835年7月16日(天保6年6月21日)儲君。御乳人は押小路甫子。1835年11月8日(天保6年9月18日)、親王宣下により統仁親王となった。1840年4月16日(天保11年3月14日)、立太子の儀が行われ皇太子となり、1843年(天保14年)には侍講に中沼了三を迎えた。1846年2月21日(弘化3年1月26日)、仁孝天皇が崩御。3月10日(弘化3年2月13日)に践祚した。

1846年10月19日(弘化3年8月29日)、幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。翌1847年4月23日(弘化4年3月9日)、学習所(学習院)の開講式が行われた。6月8日(旧暦4月25日)、石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈った。10月31日(旧暦9月23日)、即位の大礼が行われた。11月4日(旧暦9月27日)、将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀した。代始の改元は、1848年4月1日(弘化5年2月28日)に行われ、元号は嘉永となった。また、侍講の中沼了三を学習院の儒官に任命した。

1850年5月19日(嘉永3年4月8日)に「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺へ命じた。1853年(嘉永6年)、徳川家定の将軍宣下の勅使として下向した三条実万は阿部正弘より叡慮があれば幕府が沿うようにすると説明を受けた。1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約が締結された。5月2日(旧暦4月6日)、内裏が炎上した。黒船来航、大地震(改元後も大地震が続発し一連の地震は安政の大地震と呼ばれる)、内裏炎上と続いたため、1855年1月15日(嘉永3年11月27日)に元号を安政と改元した。

1858年2月27日(安政5年1月14日)、日米修好通商条約の調印勅許を得る目的で堀田正睦(以下、堀田老中)が上京するため、近衛忠煕、鷹司輔煕、三条実万の三大臣および議奏、武家伝奏へ開国か鎖国か下問をした。3月10日(旧暦1月25日)には大納言以下蔵人頭以上に範囲を広げ下問をした。しかし、大勢は開国に賛成とも反対とも決められず、結果は公武一和にて決める「定見なし」であった。

太閤・鷹司政通(以下、鷹司太閤)と関白・九条尚忠(以下、九条関白)は、ともに内覧に任じられ政務の補佐にあたっていた。徳川斉昭の義兄であった鷹司太閤は開国論を主張したが、孝明天皇は容れなかった。3月2日(旧暦1月17日)、九条関白へ下した宸翰には「私の代よりかようの儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わんや、それに付いては、伊勢始めところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置くところ無きに至り候あいだ、誠に心配仕り候」とある。3月10日(旧暦1月25日)の宸翰には、堀田老中が上京して演説しようと開市開港は認めないし、ましてや畿内近国ではいうまでもないと述べている。

4月5日(旧暦2月22日)、朝廷は勅許を奏請した堀田老中に対して改めて衆論一和の上で勅許を求めるように沙汰をした。堀田は幕府が保証するため勅許をもらいたいという答書を4月18日(旧暦3月5日)に提出した。この頃には開国反対の立場にあった九条関白は幕府方へ転向した。逆に内覧を辞していた鷹司太閤は開国論であったはずが開国反対へまわった。九条関白は勅答案を起草するが内容は幕府への白紙委任であった。勅答は朝議を経て4月27日(旧暦3月14日)に堀田老中へ下すことになったが、4月25日(旧暦3月12日)、88人の公卿が列参して条約勅許へ反対の意思を示したことで孝明天皇も再考を示唆した(廷臣八十八卿列参事件)。『孝明天皇紀』では久我建通が4月24日(旧暦3月11日)に工作依頼の勅書を受け取って大原重徳、岩倉具視とともに行動に移したとされる。5月3日(旧暦3月20日)、堀田老中は御三家及び大名の意見をとりまとめ再奏するようにとの沙汰をした。

7月29日(旧暦6月19日)、幕府は日米修好通商条約に調印。この条約調印に関する奉書は8月6日(旧暦6月27日)に京都へ着き、朝廷では評議が開かれたが、孝明天皇は大変怒っていた様子であったと九条関白が日記に書いている(九条関白自身はこの会議へ出席しなかった)。翌8月7日(旧暦6月28日)の評議で九条関白に下した宸翰は譲位の意思を示していた。驚愕した一同は関東より御三家、大老・井伊直弼を上京させ事態の顛末を説明をする段取りをつけるとして諌止した。8月14日(旧暦7月6日)に大老と親藩の上京を求めた勅書が江戸についた。幕府は8月15日(旧暦7月7日)に井伊大老は多忙のため、御三家の当主は処罰したため上京はできないので、酒井忠義(以下、酒井所司代)と間部詮勝(以下、間部老中)を上京させるとした答書を作成し、8月17日(旧暦7月9日)に京都へ送った。その一方で8月19日(旧暦7月11日)に日露修好通商条約、8月26日(旧暦7月18日)に日英修好通商条約は勅許がないまま調印された。8月30日(旧暦7月22日)、近衛忠煕に再び攘夷の意思を示した宸翰を下した。

9月11日(旧暦8月5日)、近衛忠煕、鷹司輔煕、一条忠香、三条実万に対し、自身が出した「御趣意書」を関東へ送るように命じた。内覧の権限を持つ九条関白が朝議に出なければ勅書は成立しないため、近衛らは九条関白へ交渉し、具体的には9月13日(旧暦8月7日)の朝議のため参内を求めた。しかし九条関白は参内をしなかったため、近衛らは朝議における内覧を経ないで幕府と水戸藩へ「御趣意書」を出すことを決定した。九条関白は事後承諾をしたが勅書へ勝手に添書を付けた。この勅書は戊午の密勅と呼ばれる。9月2日(10月8日)、幕府寄りの九条関白へ辞職をせよとの内勅を出した。9月2日(10月8日)に辞表を受け取り、4日(10月10日)に内覧辞退の勅許を下した。幕府よりの答書を隠してきたこと、添書の偽造が露見したことによる。9月17日(10月23日)に間部老中が上京。水戸藩士の鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、鷹司家諸大夫の小林良典が捕縛された。10月19日(11月24日)、九条関白の辞表を取り下げ、内覧に任じた。10月25日、徳川家茂の将軍宣下が行われた。

10月24日(11月29日)、間部老中が参内したが、孝明天皇は出御しなかった。九条関白らに対して間部老中は無断調印に関し、幕府の本意ではないこと、海岸の防備を固めて、国力がついたら和戦のどちらかを選ぶものと言い訳(この説明を『孝明天皇記』巻八十九では分疏とあり、維新史では弁疏とある)をした。11月9日(12月13日)に宸翰で、開国は日本国の瑕瑾であり承知はできないとする意思を伝えた。間部老中は参内を繰り返し言い訳を続ける一方、皇族や公卿の家臣を逮捕させ続けた。12月24日(1859年1月27日)、間部老中を参内させ、鎖国に戻すという説明に心中氷解したという勅書を下した。12月30日(2月2日)、間部老中は帰府の許しを得たが幕府は宮や公卿を処罰する方針を固めていたので、すぐには実現しなかった。

安政6年1月10日(1859年2月12日)、幕府と九条関白からの圧力により、近衛忠煕と鷹司輔煕が辞官落飾、鷹司太閤と三条実万が落飾を奏請した。孝明天皇は九条関白へ幕府と掛け合ってもらいたいと宸翰を出したが、2月5日(3月9日)に酒井所司代から九条関白へ伝えられた幕府の内命には四公の辞官落飾だけでなく、青蓮院門跡尊融法親王、一条忠香らへの処分案もあった。その後も2月17日(3月21日)に九条関白を通じて落飾回避を幕府へ要請したが拒絶された。3月28日(4月30日)に辞官は勅許を下したが落飾を決めずにいると、酒井所司代から更に圧力を加えられ、4月22日(5月24日)に落飾の勅許を出した。

8月12日(9月8日)、幕府は朝廷に対して金五千両を献じ、摂家以下の堂上へ金二万両を贈り、8月15日(9月11日)、九条関白には功労に報いて家禄として千石を加増した。落飾した三条実万は不忠不直の人が恩賞を受けるのは「実に嘆息に堪へざる事、時勢悲しむ可し、悲しむ可し」と日記に残し、その1か月後に幽居先の一乗寺村で没した。三条前内府を含めて天皇に奉仕した者への受難、殉難は続いたが、その結果として献身的な情熱は熱狂的になってきた。「たとえ世間からは狂人、賊子と呼ばれ非難されようとも、天皇は自分たちの誠心を知っていてくださる」という行動論理を持つ人々が、安政の大獄の反動として生まれた。

1860年6月1日(万延元年4月12日)、幕府の命を受けた酒井所司代は和宮の将軍家降嫁を奏請した。これに対し6月22日(旧暦5月4日)付けで降嫁の願いを拒絶する宸翰を下した。酒井所司代は6月29日(旧暦5月11日)に独断で再度奏請したが、7月7日(旧暦5月19日)、再び拒絶する宸翰を出した。酒井所司代より報告を受けた幕府は老中連名で再要願書を提出、7月21日(旧暦6月4日)に上奏された。観行院の生家・橋本家は、元大奥上臈年寄の勝光院(和宮の大叔母)の説得をうけた。孝明天皇は、鎖国と攘夷実行の条件を付けての承知の意を示した。

8月20日(旧暦7月4日)、幕府は降嫁について三度目の奏請を行ったが、具体的に鎖国攘夷実行の誓約を含まなかったため、却下された。9月14日(旧暦7月29日)、酒井所司代は幕府の修正奏請を出し、今後七八カ年ないし十カ年の中で、その時の情勢に応じて応接を以て引き戻し(条約を破棄する)か、干戈を振って征討を加える(外国を撃攘する)かをとると誓約した。これにより孝明天皇は勅許を決断したが、当の和宮は繰り返しの説諭にも折れず降嫁を拒否した。9月29日(旧暦8月15日)に和宮はついに降嫁を受諾し、12月26日(旧暦11月15日)に江戸城に入った。

正親町三条実愛を通して建白された長州藩の長井雅楽の「航海遠略策」が嘉納され、1861年7月9日(文久元年6月2日)、長州藩主毛利慶親は御製の和歌を賜った。

12月(旧暦文久元年11月)、薩摩藩の島津久光と島津茂久が近衛忠房を通じて家来の中山実善を京都へ派遣し上京のために勅命を求めてくるが、容れることは無かった。しかし、12月から翌1862年1月(旧暦12月)に御製の和歌を下した。

1863年4月から5月(文久3年3月)に家茂が上洛してきたときは、攘夷の勅命を下し、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸した。

もっとも行幸が孝明天皇自身の意思であるか疑問が存在する。孝明天皇は1863年6月8日(文久3年4月22日)付の中川宮宛の書簡で、5月27日(旧暦4月10日)の石清水八幡宮行幸について体調不良にもかかわらず三条実美らに「無理にでも鳳輦に載せる」と脅迫されたと告白し、同年の八月十八日の政変直後に出されたと見られる日付不明の二条斉敬・中川宮・近衛忠煕宛の書簡では「表ニハ朝威ヲ相立候抔抔ト申候得共、真実朕之趣意不相立、誠我儘下ヨリ出ル叡慮而已」と述べ自分の真意とは異なる勅語(「大和行幸の勅」)が作成される現状を嘆いている。

その後、幕府・一会桑・薩摩藩・長州藩等の諸藩・公家・志士達の権力を巡る争奪戦に巻き込まれていくと、孝明天皇自身の権威は低下していくことになった。

1865年(慶応元年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は、艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出すこととした。だが、この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった。

このような状況の中で、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出するようになる。第二次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通は西郷隆盛に宛てた書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言し、岩倉具視は「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と暗に示唆して、「天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよ」と記している。こうした中で1866年10月8日(慶応2年8月30日)には、天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房が天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている。

人物

京都守護職である会津藩主・松平容保への信任は特に厚かったと言われる。その一方で、尊攘派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計ったことなどもあり、長州藩には最後まで嫌悪の念を示し続けた。この嫌悪感については『孝明天皇記』に記録された書簡に明記されている。

遺品として時計が残るなど、西洋文明を全く否定していたわけではない。

孝明天皇が、即位の大礼や元旦の朝賀の際に着用した礼服(袞衣)が宮内庁に保管されている。通常、中国の皇帝や日本の皇室では天皇大帝を信仰しているため、祭服には北斗七星や織女(織女三星)がデザインされている。しかし、孝明天皇の礼服には、背中の中央上部に北斗七星が置かれているが、織女は置かれていない。又、宝鏡寺には孝明天皇遺愛の御所人形が所蔵されている。

現在孝明天皇は121代天皇として数えられているが、近衛家の陽明文庫には孝明天皇が「百廿二代孫統仁」と署名した宸翰が残されている。これは、当時北朝が正統とされていたからで、孝明天皇が生母新待賢門院に南朝の阿野廉子(新待賢門院)を無視した形で院号宣下したのもこの事情による。

系譜

孝明天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16.直仁親王
 
 
 
 
 
 
 
8.典仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17.讃岐(家女房)
 
 
 
 
 
 
 
4.119代天皇光格天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18.岩室宗賢
 
 
 
 
 
 
 
9.大江磐代
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19.おりん
 
 
 
 
 
 
 
2.120代天皇仁孝天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20.勧修寺顕道
 
 
 
 
 
 
 
10.勧修寺経逸
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21.稲葉恒通女
 
 
 
 
 
 
 
5.勧修寺婧子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11.池田数計子あるいは家女房
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1.121代天皇孝明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24.正親町実連
 
 
 
 
 
 
 
12.正親町公明
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25.広幡豊忠女
 
 
 
 
 
 
 
6.正親町実光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
13.家女房
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3.正親町雅子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 四辻実長
 
 
 
 
 
 
 
14. 四辻公亨
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7.四辻千栄子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中御門天皇
 
 
 
 
 
閑院宮直仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桜町天皇
 
 
 
 
 
典仁親王 (慶光天皇)
 
倫子女王
 
鷹司輔平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後桜町天皇
 
桃園天皇
 
美仁親王
 
光格天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後桃園天皇
 
 
 
 
 
仁孝天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桂宮淑子内親王
 
孝明天皇
 
和宮親子内親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2024/06/17 00:11更新

koumeitennou


孝明天皇と同じ誕生日7月22日生まれ、同じ京都出身の人

春野 恵子(はるの けいこ)
1973年7月22日生まれの有名人 東京出身

春野 恵子(はるの けいこ、1973年7月22日 - )は、東京都文京区出身の浪曲師。公益社団法人浪曲親友協会理事。父は獣医師、農学者の唐木英明。 白百合学園中学校・高等学校卒業、東京大学教育学部体…

星 ひとみ(ほし ひとみ)
1980年7月22日生まれの有名人 東京出身

公式サイト 星ひとみの天星術姓名判断 星 ひとみ(ほし ひとみ、1980年7月22日 - )は、東京都出身の日本の占い師、作家、元女優、元グラビアアイドルである。 株式会社Gオフィス所属。作家とし…

吉高 由里子(よしたか ゆりこ)
1988年7月22日生まれの有名人 東京出身

吉高 由里子(よしたか ゆりこ、1988年7月22日 - )は、日本の女優。本名は非公開。東京都出身。アミューズ所属。 高校1年生の時に原宿で買い物をしていた時に芸能事務所のウィルコーポレーション…

保泉 沙耶(ほずみ さや)
1988年7月22日生まれの有名人 東京出身

保泉 沙耶(ほずみ さや、1988年7月22日 - )は、東京都出身の女優。 身長160cm。B75cm・W56cm・H78cm。血液型はO型。 女優としては舞台での活動が圧倒的に多く、将来的には…

浜 かおる(はま かおる)
1947年7月22日生まれの有名人 東京出身

浜 かおる(はま かおる、1947年7月22日 - 2012年3月12日)は、女優。東京都出身。本名並びに旧芸名は浜川智子(はまかわ ともこ)。 1963年、日活映画『仲間たち』で舟木一夫の相手役…

仁藤 萌乃(にとう もえの)
1992年7月22日生まれの有名人 東京出身

仁藤 萌乃(にとう もえの、1992年〈平成4年〉7月22日 - )は、日本のアイドル、女優、タレント。女性アイドルグループAKB48およびalmaの元メンバー。「moeno」の名でYouTuberと…

中原 ひとみ(なかはら ひとみ)
1936年7月22日生まれの有名人 東京出身

中原 ひとみ(なかはら ひとみ、1936年〈昭和11年〉7月22日 ‐ )は、日本の女優。本名:土家 里子。愛称は「バンビ」。東京市(現東京都台東区)出身。アズユー所属。夫は江原真二郎。長男は土家歩、…

ゆりあんぬ(ゆりあんぬ)
1997年7月22日生まれの有名人 東京出身

ゆりあんぬ(1997年〈平成9年〉7月22日 - )は、日本の女性アイドル。女性アイドルグループ・平成墓嵐、劇場版ゴキゲン帝国-諸行無常-のメンバー。最終未来兵器mofu、劇場版ゴキゲン帝国、XTEE…

松宮 麻衣子(まつみや まいこ)
1978年7月22日生まれの有名人 京都出身

松宮 麻衣子(まつみや まいこ、1978年7月22日 - )とは、日本で1990年代半ばに活動したアイドル、歌手、タレントである。京都府京都市出身。特技は童歌が歌えることで、かなりのレパートリーをもっ…

小郷 知子(こごう ともこ)
1978年7月22日生まれの有名人 東京出身

小郷 知子(こごう ともこ、1978年7月22日 - )は、NHKのアナウンサー。 東京都世田谷区出身。東京都立青山高等学校、早稲田大学商学部卒業後、2002年に入局。 挿話 初任地は宮崎放送…

永山 耕三(ながやま こうぞう)
1956年7月22日生まれの有名人 東京出身

永山 耕三(ながやま こうぞう、1956年7月22日- )は、日本のテレビドラマディレクター、映画監督。フジテレビジョン役員待遇制作局第1制作センター専任局次長。 東京都出身。父は元松竹会長の永山武…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


孝明天皇と近い名前の人

菅野 こうめい(かんの こうめい)
1957年1月22日生まれの有名人 神奈川出身

1月22日生まれwiki情報なし(2024/06/16 20:57時点)

三浦 公明(みうら こうめい)
1932年3月8日生まれの有名人 千葉出身

三浦 公明(みうら こうめい、1932年〈昭和7年〉3月8日 - 2011年3月20日)は、日本の政治家、元千葉県君津市長(2期)。 長崎県出身。中央大学法学部卒。 君津市役所に入り、助役などを…

若秩父 高明(わかちちぶ こうめい)
1939年3月16日生まれの有名人 埼玉出身

若秩父 高明(わかちちぶ こうめい、1939年3月16日 - 2014年9月16日)は、埼玉県秩父郡高篠村(現:埼玉県秩父市)出身で花籠部屋に所属した大相撲力士。本名は加藤 高明(かとう こうめい)。…

望月 幸明(もちづき こうめい)
1924年5月25日生まれの有名人 山梨出身

望月 幸明(もちづき こうめい、1924年5月25日 - 2020年8月8日)は、日本の政治家。山梨県公選第4代知事。位階勲等は正四位旭日重光章。 山梨県南巨摩郡中富町(現在の身延町)出身。旧制身…

鈴木 孝明(すずき たかあき)
1981年10月7日生まれの有名人 静岡出身

鈴木 孝明(すずき たかあき、1981年10月7日 - )は、静岡県浜松市出身の元プロサッカー選手。ポジションはフォワード。 中学時代に、鈴木啓太らと共に全国中学校サッカー大会優勝を経験。その後、…

吉沢 孝明(よしざわ たかあき)
1960年8月13日生まれの有名人 群馬出身

吉沢 孝明(よしざわ たかあき、1960年8月13日 - )は、日本のアナウンサー(フジテレビジョン→フリーアナウンサー)。群馬県出身。キャスト・プラス所属。「吉澤 孝明」という表記が見られる。 体…

日吉 孝明(ひよし たかあき)
1983年8月21日生まれの有名人 東京出身

日吉 孝明(ひよし たかあき、1983年8月21日 - )は、日本の元子役・元俳優・元声優。東京都国立市出身。 1987年2月に劇団日本児童に入団、劇団日本児童に所属していた。『女弁護士 朝吹里矢…

榎木 孝明(えのき たかあき)
1956年1月5日生まれの有名人 鹿児島出身

榎木 孝明(えのき たかあき、1956年1月5日 - )は、日本の俳優・水彩画家。鹿児島県伊佐郡菱刈町(現:伊佐市)出身。 幼少の頃は、独りで絵を描くのが好きな目立たない大人しい子どもだったという…

藤本 孝明(ふじもと たかあき)
1953年2月27日生まれの有名人 兵庫出身

2月27日生まれwiki情報なし(2024/06/18 06:30時点)

伊東 孝明(いとう たかあき)
1971年5月4日生まれの有名人 東京出身

伊東 孝明(いとう たかあき、本名:伊藤 貴明、1971年5月4日 - )は、東京都出身の俳優・タレント。血液型O型。既婚。所属事務所はオスカープロモーション。 伊東四朗の次男。伊藤 隆明でデビュー…

高明(こうめい)
1979年9月21日生まれの有名人 北海道出身

高明(こうめい、1979年9月21日 - )は、日本の映画監督。本名、坂井 高明(さかい こうめい)。 株式会社BURST22代表取締役社長。 北海道札幌市で生まれる。幼少期から福島県南相馬市で育…

安倍 幸明(あべ こうめい)
1911年9月1日生まれの有名人 広島出身

9月1日生まれwiki情報なし(2024/06/13 10:00時点)

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
孝明天皇
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「孝明天皇」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました