岡本かの子の情報(おかもとかのこ) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
岡本 かの子さんについて調べます
■名前・氏名 |
岡本かの子と関係のある人
宮崎敦吉: ある日の蓮月尼 (岡本かの子作) 中城ふみ子: 小学校時代から文学少女であったふみ子が、家政学院時代に特に熱中して読んだのが岡本かの子であった。岡本かの子について、ふみ子は学生校友会の会誌に 谷崎潤一郎: 一中では、大貫雪之助(岡本かの子の兄)、土屋計左右、恒川陽一郎、吉井勇、辰野隆らと知り合う。 高良留美子: 『岡本かの子いのちの回帰』(翰林書房) 2004年 東直子: 岡本かの子著『家霊』(ハルキ文庫) 川端康成: 6月には、岡本かの子の「鶴は病みき」を同誌に紹介した。 平塚らいてう: 青鞜社は『青鞜』の他にも1912年(大正元年)末に岡本かの子の詩集『かろきねたみ』を皮切りに、翌1913年3月に『青鞜小説集』などを出版している。 長谷川時雨: 年齢順で、長谷川時雨、岡田八千代、田村俊子、柳原白蓮、平塚らいてう、長谷川かな女、深尾須磨子、岡本かの子、鷹野つぎ、高群逸枝、八木あき、坂西志保、板垣直子、中村汀女、大谷藤子、森茉莉、林芙美子、窪川稲子、平林たい子、円地文子、田中千代、大石千代子 /三上於菟吉、直木三十五、獅子文六、葉山嘉樹、大佛次郎など。 中城ふみ子: 岡本かの子を理想の女性像としたふみ子は、家政学院時代から女性であることを誇りに感じており、後に死の数カ月前に「幸福な少女時代、更になほ幸福な家政学院遊学時代」と回想したように、2年間の家政学院での学生生活を満喫した。 中澤まさとも: 岡本かの子「売春婦リゼット」(探偵) 栃折久美子: 『岡本かの子全集』 冬樹社 1975年 中城ふみ子: そして家政学院在学中に、「故岡本かの子へ」との注釈付きの 長山靖生: 岡本かの子『美少年 岡本かの子アムール幻想傑作集』(彩流社、2019.5) 石川淳: 『文學大概』(評論)小学館 1942、中央公論社、1947 のち角川文庫、中公文庫(旧版に「二葉亭四迷論」「岩野泡鳴論」「岡本かの子論」を併録) 棟方志功: 1949年(昭和24年)には岡本かの子の詩『女人ぼさつ』を題材とした板画『女人観世音』(にょにんかんぜおん)全十二柵を制作。 岡本敏子: 太郎が結婚を望まなかった理由については明確になっていないが、テレビでは「両親(岡本一平・岡本かの子)の結婚生活に嫌気を感じていたため結婚を嫌い」というように触れられることが多い。 平塚明: 青鞜社は『青鞜』の他にも1912年(大正元年)末に岡本かの子の詩集『かろきねたみ』を皮切りに、翌1913年3月に『青鞜小説集』などを出版している。 武田麟太郎: 岡本かの子追悼 岡本さんを悼む(文學界 1939年4月) 山尾悠子: 高校までは泉鏡花、谷崎潤一郎、岡本かの子などの全集を読んだ。 中城ふみ子: この句は、家政学院在学中にふみ子が私淑する岡本かの子を称え、詠んだ「絢爛の牡丹のさなかに置きてみて見劣りもせぬ生涯なりし」の改作である。岡本かの子に捧げられた元歌は、改作の結果、平凡な生き方ではない、絢爛な花の中に置いても見劣りしない人生、つまり短歌の世界で成功したいというふみ子自身の願いを述べた句となっている。 梶井基次郎: しつけに厳しく教育熱心なヒサはオルガンを弾きながら歌い、子供らに和歌の『百人一首』『万葉集』や古典の『源氏物語』『平家物語』『南総里見八犬伝』を読み聞かせ、与謝野晶子や岡本かの子の文学の話をした(基次郎は成人してからも、久野豊彦の『ナターシャ夫人の銀煙管』などを母から勧められたこともあった)。 岡本一平: この時美校の同級生、中井金三の仲介で大貫カノ(岡本かの子)と知り合い、後に和田英作の媒酌で2人は結婚するが岡本家に受け入れられず、2人だけの新居を構えた。 中澤まさとも: 岡本かの子「呼ばれし乙女」(慶四郎) 岡本一平: 私生活では前述・大貫カノ(岡本かの子)と美術学校卒業後の1910年(明治43年)に結婚し、長男の太郎ら3人(次男・長女は夭折)の子をもうけたが、自分の公認のもとで、妻の愛人を家族と同居させるという奇妙な夫婦生活を送る。 岡本一平: 妻は歌人・小説家の岡本かの子。 川端康成: 鎌倉の自宅書斎には、『岡本かの子全集』(冬樹社版)の「序文」の1枚目と2枚目の11行まで書いた原稿用紙と、1枚目の書き直しが8枚あった。 川端康成: この年から川端は、岡本かの子から小説指導を依頼され、どこの雑誌でも歓迎されなかった彼女の原稿に丁寧に目を通して励まし続けた。 岡本一平: 岡本かの子が青山に住んでいた頃、同宿の恒松安夫の中学時代の同窓・三明永無(川端康成の一高からの友人)が出入りし、1923年(大正12年)8月に三明を介して銀座のレストラン「モナミ」で、恒松安夫、一平、かの子、川端が会い、それ以降、一平・かの子夫婦と川端は長く親交を持つようになった。 伊藤野枝: 10月頃から平塚らいてうらの女性文学集団「青鞜社」に通い始め、社内外から集まった当時の錚々たる「新しい女」(与謝野晶子・長谷川時雨・国木田治子・小金井喜美子・岡本かの子・尾竹紅吉・神近市子ら)と親交を深めて刺激を受けた。 三枝和子: 『岡本かの子』新典社(女性作家評伝シリーズ) 1998 |
岡本かの子の情報まとめ
岡本 かの子(おかもと かのこ)さんの誕生日は1889年3月1日です。東京出身の作家のようです。
作品、評伝等などについてまとめました。卒業、結婚、病気に関する情報もありますね。49歳で亡くなられているようです。
岡本かの子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)岡本 かの子(おかもと かのこ、本名:岡本 カノ、旧姓:大貫(おおぬき)、1889年〈明治22年〉3月1日 - 1939年〈昭和14年〉2月18日)は、日本の大正・昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。 東京府東京市赤坂区青山南町(現東京都港区青山)生まれ。跡見女学校卒業。漫画家岡本一平と結婚し、芸術家岡本太郎を生んだ。 若年期は歌人として活動しており、その後は仏教研究家として知られた。小説家として実質的にデビューしたのは晩年であったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。耽美妖艶の作風を特徴とする。私生活では、夫一平と「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られる。 代々幕府や諸藩の御用達を業としていた豪商の大貫家の別邸で誕生。大貫家は、神奈川県橘樹郡高津村(現川崎市高津区)二子に居を構える大地主であった。腺病質のため父母と別居し二子の本宅で養育母に育てられるが、この病気は晩年まで続いた。養育母から源氏物語などの手ほどきを受け、同村にあった村塾で漢文を習い、尋常小学校では短歌を詠んだ。 16歳の頃、「女子文壇」や「読売新聞文芸欄」などに投稿し始める。この頃谷崎潤一郎と親交のあった兄・大貫晶川の文学活動がはじまり、谷崎ら文人が大貫家に出入りするようになり影響を受けるが、谷崎は終生かの子を評価しなかった。17歳の頃、与謝野晶子を訪ね「新詩社」の同人となり、「明星」や「スバル」から大貫可能子の名前で新体詩や和歌を発表するようになる。 19歳の夏、父と共に信州沓掛(現長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢)へ避暑、追分の旅館油屋に滞在した。同宿の東京美術学校生を通じて岡本一平と知り合う。21歳の時、和田英作の媒酌によって結婚、京橋の岡本家に同居するが、家人に受け入れられず2人だけの居を構える。翌年、長男・太郎を出産。赤坂区青山のアトリエ付き二階屋に転居する。 その後一平の放蕩や芸術家同士の強い個性の衝突による夫婦間の問題、さらに兄晶川の死去などで衝撃を受ける。一平は絶望するかの子に歌集『かろきねたみ』を刊行させた。しかし翌年母が死去、さらに一平の放蕩も再燃し家計も苦しくなった。その中で長女を出産するが神経衰弱に陥り、精神科に入院することになる。 翌年退院すると、一平は非を悔い家庭を顧みるようになるが、長女が死去。かの子は一平を愛することができず、かの子の崇拝者であった学生、堀切茂雄(早稲田大学生)と一平の了解のもと同居するようになり、次男を出産するが間もなく死去してしまう。 かの子と一平は宗教に救いを求め、プロテスタントの牧師を訪ねるが、罪や裁きを言うキリスト教には救われなかった。その後唯円の『歎異抄』によって生きる方向を暗示され、仏教に関するエッセイを発表するようになり、仏教研究家としても知られるようになった。 1929年(昭和4年)、『わが最終歌集』を刊行して小説を志すが、12月から一家をあげてヨーロッパへ外遊。太郎は絵の勉強のためパリに残り、かの子らはロンドン、ベルリンなどに半年ずつ滞在し、1932年(昭和7年)、太郎を残したままアメリカ経由で帰国。帰国後は小説に取り組むつもりだったが、世間はかの子に仏教を語ることを求め、仏教に関するラジオ放送、講演、執筆を依頼され、『観音経を語る』、『仏教読本』などを刊行した。 かの子が小説に専心したのは晩年の数年間だった。1936年(昭和11年)6月、芥川龍之介をモデルにした『鶴は病みき』を、川端康成の紹介で文壇(『文学界』)に発表し作家的出発を果たす。川端の知遇を得るきっかけは、青山に住んでいた頃、同居した恒松安夫の中学時代の同窓・三明永無(川端の一高からの友人)の紹介であった。1923年(大正12年)8月に銀座のモナミ(レストラン)で、夫・一平と共に初めて川端と会合して以降、3人は親交を持つようになり、かの子は1933年(昭和8年)頃から川端から小説の指導を受けていた。 パリに残した太郎への愛を、ナルシシズムに支えられた母と子の姿で描いた『母子叙情』、自由と虚無感を描き、当時の批評家に絶賛された『老妓抄』、女性が主体となって生きる姿を、諸行無常の流転を描いて確立させた『生々流転』などは代表作となったが、1939年(昭和14年)、油壷の宿にある青年と滞在中に脳溢血で倒れた。その頃には恋人ができた恒松安夫は去っていたが、岡本一平と同居していた新田亀三がかの子を献身的に看病するのである。2月に入って病勢が急変、2月18日に東京帝国大学附属病院小石川分院で死去。49歳没。戒名は雪華妙芳大姉。 作品小説鶴は病みき(1936年、信正社) 真夏の夜の夢(1937年、版画荘) 母子叙情(1937年、創元社) 金魚撩乱(1937年、中央公論社) 老妓抄(1938年、中央公論社) 河明り(1938年、創元社) 丸の内草話(1939年、青年書房) 生々流転(1940年、改造社) 鮨(1941年、中央公論社) 女体開顕(1943年、中央公論社) 歌集かろきねたみ(1912年、青鞜社) 愛のなやみ(1919年、愛のなやみ) 浴身(1926年、越山堂) わが最終歌集(1929年、改造社) 新選岡本かの子集(1940年、新潮社) 随筆・創作集等散華抄(1929年、大雄閣) かの子抄(1934年、不二屋書房) 観音経 付法華経(1934年、大東出版社) 仏教読本(1934年、大東出版社) 人生論(1934年、建設社) 女の立場(1937年、竹村書房) やがて五月に(1938年、竹村書房) 巴里祭(1938年、青木書店) 観音経を語る(1942年、大東出版社) 評伝等かの子の記(岡本一平、1942年、小学館) 母の手紙 母かの子・父一平への追想(岡本太郎、1979年、チクマ秀版社) かの子撩乱(瀬戸内晴美、1979年、講談社)のち文庫 一平かの子 心に生きる凄い父母(岡本太郎、1995年、チクマ秀版社) 奇妙なり―岡本一平とかの子の数奇な航海(舞台 竹内一郎作・演出) 2016年5月 紀伊国屋ホール 代表歌かの子よ汝が琵琶の実のごと明るき瞳このごろやせて何かなげける かの子かの子はや泣きやめて淋しげに添ひ臥す雛に子守歌せよ 桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり 今昔秀歌百選84番 ともすればかろきねたみのきざし来る日かなしくものなど縫はむ(選者:イーブン美奈子) 2024/06/18 15:45更新
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okamoto kanoko
岡本かの子と同じ誕生日3月1日生まれ、同じ東京出身の人
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