岸田國士の情報(きしだくにお) 劇作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
岸田 國士さんについて調べます
■名前・氏名 |
岸田國士と関係のある人
平田オリザ: 同作品で翌年第39回岸田國士戯曲賞を受賞。 ケラリーノ・サンドロヴィッチ: 1999年 - 『フローズン・ビーチ』で第43回岸田國士戯曲賞受賞 三谷幸喜: 2000年に上演した初のオリジナル・ミュージカル『オケピ!』で、岸田國士戯曲賞を受賞した。 渥美国泰: 『岸田國士論考-近代知識人の宿命の生涯』(1995年、近代文芸社) ISBN 4773337192 大笹吉雄: 2014年『最後の岸田國士論』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。 林りんこ: 岸田國士「チロルの秋」ステラ役 勝田久 演出 於:勝田声優学院内 安岡章太郎: 岸田國士は「いずれも稀にみるすぐれた才能を示した短篇小説だが、これだけとしては出来栄えにやや物足りないところがある」「この作者は、もっといいものの書けるひとだ」と評した。 栗山昌良: 演劇においても、1955年(昭和30年)第1回新劇戯曲賞(のちの岸田國士戯曲賞)の候補作品となる『絵姿女房』など矢代静一戯曲の数々の作品、また坂東玉三郎との泉鏡花作品等、多岐にわたり活躍。 加藤成亮: 2022年 - 上演台本『染、色』第66回岸田國士戯曲賞候補 竹内銃一郎: 1981年に『あの大鴉、さえも』で岸田國士戯曲賞。 小幡欣治: 工員、セールスマンなどを務める傍ら演劇界での活動を続け、1956年に「畸生児」で第2回新劇戯曲賞(後の岸田國士戯曲賞)を受賞。 杉宮匡紀: 岸田國士フェスティバル『恋愛恐怖症』(2021年、文学座) 久生十蘭: 1928年に上京し、岸田國士に師事。 森貞文則: (第55回岸田國士戯曲賞候補作)(1-2月、東京/兵庫) 延原謙: 妻は劇作家・フランス文学者岸田國士の妹の勝伸枝。 永井愛: 第44回岸田國士戯曲賞(「兄帰る」) 丸尾丸一郎: 劇団鹿殺し 十周年記念公演第一弾『スーパースター』(2010・第55回岸田國士戯曲賞候補作) 山岸門人: 劇団鹿殺し 十周年記念公演第一弾『スーパースター』(2010年) ※第55回岸田國士戯曲賞候補作 渡辺えり子: また同年、『ゲゲゲのげ』で岸田國士戯曲賞受賞 矢代静一: 壁画 (1955年) 第一回岸田國士戯曲賞・佳作(同賞第1回は大賞該当作なし) 塚本信夫: 1980年代初頭に一度劇団を離れるが、1988年の岸田國士作品連続公演より客演として劇団に復帰する。 獅子文六: 1932年、築地小劇場を脱退した友田恭助、田村秋子夫妻を中心に結成された新劇の団体「築地座」に、岸田國士、久保田万太郎、里見弴らと共に顧問として関わる。 松尾スズキ: 『ファンキー! 宇宙は見える所までしかない』で第41回岸田國士戯曲賞受賞。 芥川比呂志: 在学中からシングや岸田國士の戯曲を読み、15歳のとき『お察しください(A Comedy)』と題する戯曲を、附属中学の校友会誌「桐陰会雑誌」に発表。 森桃子: 第9回公演「君とならどんな夕暮れも怖くない」 ※第65回岸田國士戯曲賞最終候補作品 毛利菊枝: 杉村春子、山本安英らと同世代の新劇女優であり、岸田國士に師事。 重松花鳥: みおひめ公演「留守/頼母しき求縁」岸田國士作 しままなぶ演出 笠木泉: 2022年、戯曲「モスクワの海」で第66回岸田國士戯曲賞候補に選ばれる。 北村想: 1979年の『寿歌』を含む書籍『不・思・議・想・時・記』を、「名古屋プレイガイドジャーナル社」から半自費出版で刊行し、岸田國士戯曲賞候補となり、注目される。1984年には、『十一人の少年』で第28回岸田國士戯曲賞受賞。 柳美里: 2019年 - 3月、岸田國士戯曲賞の選考委員を務める。 |
岸田國士の情報まとめ
岸田 國士(きしだ くにお)さんの誕生日は1890年11月2日です。東京出身の劇作家のようです。
年譜、栄典などについてまとめました。映画、卒業、結婚に関する情報もありますね。63歳で亡くなられているようです。
岸田國士のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)岸田 國士(きしだ くにお、1890年(明治23年)11月2日 - 1954年(昭和29年)3月5日)は、日本の劇作家・小説家・評論家・翻訳家・演出家。 代表作に、戯曲『チロルの秋』(1924年)、『牛山ホテル』(1929年)、小説『暖流』(1943年)、『双面神』(1953年)など。 妹の勝伸枝は作家、本名は延原克子で翻訳家・延原謙の妻。長女は童話作家の岸田衿子、次女は女優の岸田今日子、甥に俳優の岸田森がいる。 映画脚本『ゼンマイの戯れ』(1926年)もある。 東京市四谷区(現・東京都新宿区)に和歌山県出身の陸軍軍人岸田庄蔵の長男として生まれる。岸田家は旧紀州藩士の家系であった。 陸軍士官学校を経て少尉に任官、久留米の歩兵第48連隊に配属される。 文学への思い止み難く、父の勘当を受けながらも軍籍を離れ、28歳で東京帝国大学文科大学に選科生として入学する。フランス文学や近代演劇を学び、鈴木信太郎・辰野隆・豊島与志雄・関根秀雄らと親交をむすぶ。著名な訳書はジュール・ルナール『にんじん』、『博物誌』、『ぶどう畑のぶどう作り』などで、今日でも重版されている。 仏領インドシナを経由してパリに遊学、ジャック・コポーが主宰する小劇場ヴィユ・コロンビエ座などに出入りし、当時フランスで盛んになっていた演劇純粋化運動に接していたが、1922年の父の死去により、翌年帰国する。 1932年新設された明治大学文芸科教授となる。1937年に顧問を務めていた築地座を解消し、新たに文学座を岩田豊雄・久保田万太郎らと創設する。 1940年から1942年まで大政翼賛会文化部長を務め、太平洋戦争後の1947年にGHQにより公職追放となる。 1954年、文学座の上演『どん底』(原作マクシム・ゴーリキー)の演出に携わっていたが、3月、舞台稽古中に脳卒中に襲われ病院に運ばれたが翌日死去。63歳没。 年譜1890年(0歳) - 11月に東京四谷右京町で近衛砲兵連隊付大尉、岸田庄藏・楠子の長男として生まれる。 1897年(7歳) - 東京 四谷尋常小學校に入学。 1899年(9歳) - 父の転勤に伴い、名古屋市棣棠尋常小学校(現・名古屋市立山吹小学校)へ転校。 1902年(12歳) - 名古屋第二高等小学校に入学。 1904年(14歳) - 9月、名古屋陸軍地方幼年学校に入学。 1907年(17歳) - 9月、東京にある陸軍中央幼年学校に進学するが、軍隊生活・軍人の気風に反発を覚える。この頃より、フランス文学に興味を持つようになる。 1910年(20歳) - 6月、幼年学校を卒業し、士官候補生として久留米歩兵第48連隊に配属となる。12月、陸軍士官学校へ進学する。 1912年(22歳) - 6月、士官学校を卒業。7月、見習士官として久留米連隊に復帰。12月、少尉に任官。 1914年(24歳) - 11月、休職願を出して、上京。 1917年(27歳) - 4月、東京帝国大学文科大学仏文科選科に入学。鈴木信太郎・辰野隆・豊島与志雄らと知悉を得る。 1919年(29歳) - 8月、渡仏を計画し、貨物船にて神戸より台湾へ渡航。高雄から香港へ渡る。同地にて三井物産仏印出張所長付通訳の職を得、ベトナム北部の港湾都市ハイフォンに赴任、そこで3ヵ月を過ごした後、マルセイユへ向けて渡航。 1920年(30歳) - 1月、マルセイユに到着後、パリへ移動。生活のため、はじめ日本大使館、後に国際連盟事務局に嘱託として勤務。フランス演劇史を研究する。 1922年(32歳) - 12月、父の訃報を受け、帰国準備にかかる。 1923年(33歳) - 7月、帰国。中野野方町に住む。8月、豊島与志雄に処女戯曲『古い玩具』を見せ、意見を求め山本有三に紹介される。 1924年(34歳) - 山本有三編集の「演劇新潮」3月号に『古い玩具』を発表し、注目される。戯曲『チロルの秋』を「演劇新潮」9月号に発表。11月、『文藝時代』同人となる。 1925年(35歳) - 戯曲『軌道』を「演劇新潮」新年号、戯曲『命を弄ぶ男ふたり』を「演劇新潮」2月号、戯曲『ぶらんこ』を「演劇新潮」4月号、戯曲『紙風船』を「文藝春秋」5月号に発表。 1927年(37歳)- 鳥取県米子市出身の村川秋子と結婚。 1929年(39歳) - 戯曲『牛山ホテル』を「中央公論」新年号に発表。長女・岸田衿子が生まれる。 1930年(40歳) - 戯曲『ママ先生とその夫』を「改造」10月号に発表。次女・岸田今日子が生まれる。 1931年(41歳) - 戯曲『淺間山』を「改造」7月号に発表。 1935年(45歳) - 戯曲『歳月』を「改造」4月号に発表。 1936年(46歳) - 長編小説『落葉日記』を「婦人公論」6月号より連載。 1937年(47歳) - 9月6日、久保田万太郎、岩田豊雄と共に劇団文学座を結成する。10月、文藝春秋の特派員となり北支戦線視察に赴く。 1938年(48歳) - 3月、明治大学文芸科長となり、演劇映画科を新設する。 1940年(50歳) - 10月、明治大学文芸科長を辞し、大政翼賛会文化部長に就任する。 1942年(52歳) - 7月、大政翼賛会の官僚化を不満とし、組織改編を機に、文化部長を辞任する。 1949年(59歳) - 3月、次女岸田今日子、文学座研究所に入所。戯曲『女人渇仰』を「文學界」9月号に発表。 1950年(60歳) -「演劇」と「文学」との立体化を目指し『雲の会』を結成。三島由紀夫、福田恆存、木下順二、千田是也、小林秀雄らが参加。この会がきっかけになって、椎名麟三、石川淳、中村光夫、大岡昇平、石原慎太郎、武田泰淳といった小説家が戯曲を書き、舞台化された。 1951年(61歳) - 戯曲『カライ博士の臨終』を「世界」新年号に発表。 1952年(62歳) - 3月、小説執筆中に脳神経麻痺を引起し、東大病院沖中内科に入院。5月、退院。 1954年(63歳) - 3月4日、神田一ツ橋講堂で舞台稽古を監督中に、再び脳卒中で倒れる。東京大学医学部附属病院沖中内科にて手当てを受けたが、翌日5日午前6時32分、永眠。8日、文学座にて無宗教による告別式が執り行われた。 栄典1913年(大正2年)2月20日 - 正八位 2024/06/25 13:42更新
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kishida kunio
岸田國士と同じ誕生日11月2日生まれ、同じ東京出身の人
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