星野一義の情報(ほしのかずよし) レーシングドライバー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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星野 一義さんについて調べます
■名前・氏名 |
星野一義と関係のある人
服部尚貴: 2001年に免停処分で出場ができなかった星野一義の代役としてホシノレーシングに一時的に加入。 松本恵二: カーグラフィック誌での対談企画で、星野一義は松本と出会った第一印象を「恵ちゃんは当時まだツーリングカーでカローラに乗っていて、背が高くてかっこいいし、見た目は負けるけどコースでは絶対に負けねぇと勝手に意気込んでたら、喋ると京都弁で顔のイメージと違ってて驚いちゃったね 笑」と述べている。 デビッド=クルサード: ブリヂストンの浜島裕英はタイヤ開発能力を「ミハエル・シューマッハ、星野一義と並ぶ」と評価している。 エディ=アーバイン: 初年度はランキング7位、1992年は8位、1993年は最終戦まで星野一義と壮絶なチャンピオン争いを演じ、総得点で星野を1点上回ったが、有効得点では同点となり、優勝回数の差(星野2勝、アーバイン1勝)でチャンピオンを逃した。 中嶋悟: 実質的に中嶋に対抗出来た日本人レーサーは星野一義のみとなっていた。 ミハエル=シューマッハ: 浜島曰く「テストドライバーとしてシューマッハに匹敵する能力を持つのは星野一義とデビッド・クルサードくらいである」元F1ドライバーのヘルムート・マルコは、シューマッハはテスト走行が無制限であり、タイヤメーカーと密接な協力関係を築くことができた時代背景から恩恵を受けていたと指摘している。 長谷見昌弘: 「長谷見とトミカ」は、「星野一義とカルソニック」「中嶋悟とEPSON・PIAA」と同じく、長年のパートナーとして広く認識されている。 片山敬済: 泉は1978年に、ヨーロッパのF2に参戦していた星野一義から「片山さんは、どうやってヨーロッパで戦っているんですか?」と尋ねられたことがある。 長谷見昌弘: 1992年のデイトナ24時間レースにおいて、林義正と水野和敏が率いる日産ワークスで、星野一義、鈴木利男と共に日本人ドライバーによる日本車初優勝を成し遂げる。 松本恵二: 緻密さと大胆さを併せもったレースぶりで、国内レースで星野一義や中嶋悟と並ぶトップ・ドライバーだった。 本山哲: 2月の日産の体制発表記者会見で行われた引退セレモニーでは、師匠である星野一義や後輩ドライバーから花束が贈呈された。 中嶋悟: ヒーローズでは先輩・星野一義と同等の争いを展開し、中嶋は「ナンバー1ドライバーは二人いらない」としてヒーローズからの離脱を決める。 ケケ=ロズベルグ: 」と述べ、「どんなに優れていても、例えば私は星野一義の日本での速さをよく知っている。 エディ=アーバイン: 全日本F3000時代の経験から星野一義に一目置くようになり、F1初優勝時のレース後記者会見で「日本にはホシノっていうバカっ速いドライバーがいて、なかなか勝たせてくれなかったんだよ」「今ここに自分が居られるのはホシノのおかげだ」と語り、2位入賞で同席していたハインツ=ハラルド・フレンツェン、3位のラルフ・シューマッハ(同じく日本での星野と戦ったキャリアがある)もその言葉を聞いて同意し頷いた。 関口雄飛: 2016年からはSUPER GTと平行して、星野一義が監督を務める強豪チームであるTEAM IMPULから念願のスーパーフォーミュラ参戦を果たした。 高原敬武: 1970年代に日本のトップカテゴリーで活躍し、星野一義が台頭するまで国内レース界で「高原時代」を築いた。 生沢徹: 1977年には全戦表彰台に立ち、星野一義を1点差で上回り富士GCシリーズチャンピオンとなった。 高原敬武: チームメイトはヒーローズレーシングを「(星野一義と)自分の二人のNo.1ドライバーはいらない」と飛び出し移籍してきた成長株の中嶋悟となった。 近藤真彦: ドライバーとして1984年に富士フレッシュマンレース第2戦に日産・マーチで参戦(フレッシュマンレースとして異例の35,400人の観客を動員)したのを皮切りに、「日本一速い男」の称号を持つレーサーの星野一義のもとでレース活動を始め、1988年から1993年にかけては全日本F3選手権に参戦した。 服部尚貴: 全日本F3000から発展した全日本選手権フォーミュラ・ニッポンには1996年のシリーズ発足時より参戦し、1996年シーズンではチームメイトのラルフ・シューマッハ、この年がフォーミュラカーラストイヤーとなった星野一義らと最終戦までチャンピオン闘いを繰り広げ、シリーズ2位となった。 ブノワ=トレルイエ: 2002年は母国フランスでの活動が多く、日本では全日本選手権フォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権にスポット参戦する程度だったが、2003年には星野一義率いるホシノインパルと契約を結び、フォーミュラ・ニッポンと全日本GT選手権にフル参戦を開始した。 鈴木亜久里: 大手運送会社のフットワークという大口スポンサーを掴んだことに加え、上述の松浦とのつながりからヤマハがコスワースDFVをベースに開発したコスワース・ヤマハOX77エンジン(5バルブ仕様)のワークスとなったことで勝てる体制を得て、1987年にはシリーズ2位、翌1988年には星野一義とのチャンピオン争いに勝ちシリーズチャンピオンを獲得した。 鈴木亜久里: 翌1986年、テスト中の事故で死去した萩原光の後任に指名され、ニスモにとって初挑戦となるル・マン24時間レースに星野一義・松本恵二とのトリオで初挑戦(結果はリタイア)。 マイク=サックウェル: 8月の第6戦富士スピードウェイでは中嶋悟、星野一義を寄せ付けない完勝劇を見せるなど活躍、ランキング5位を獲得した。 片山右京: 第5戦で2勝目を挙げるなど常に上位争いに加わり、着実にポイントを稼ぎライバルであったロス・チーバー、星野一義、小河等、エディ・アーバイン、フォルカー・ヴァイドラーらを下して、最終戦の富士スピードウェイにおいてシリーズチャンピオンとなる。 松本恵二: 1985年の全日本耐久選手権には日産陣営であるホシノレーシングに加入しての参戦、星野一義・萩原光と組みシルビアターボCニチラ(マーチ・85G)をドライブ。 森脇基恭: 以後ノバ・エンジニアリングの技術部長として、長谷見昌弘・星野一義・高橋国光らと組む形で全日本F2選手権や全日本耐久選手権などに参戦する。 星野一樹: 現・ホシノインパル代表、Team IMPUL総監督を務める星野一義の長男。 ディディエ=ピローニ: なかでも1977年11月6日のJAF鈴鹿グランプリには3年落ちのマーチ・742シャシーでの参戦のため予選では9番手であったが、雨となった決勝レースではスタートから5周の間に中嶋悟、桑島正美、星野一義をごぼう抜き。 稲田大二郎: レーシングドライバーでは土屋圭市との交流が深く、星野一義、高橋国光とも人脈を持つ。 |
星野一義の情報まとめ
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星野 一義(ほしの かずよし)さんの誕生日は1947年7月1日です。静岡出身のレーシングドライバーのようです。
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評価、性格・嗜好などについてまとめました。現在、父親、結婚、事故、引退、家族、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。星野一義の現在の年齢は76歳のようです。
星野一義のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)星野 一義(ほしの かずよし、1947年7月1日 - )は、日本の元レーシングドライバーである。現在は株式会社ホシノインパル代表取締役社長。静岡県安倍郡玉川村(現・静岡市葵区)出身。血液型:A型。現役時代は「日本一速い男」と呼ばれた。 レーシングドライバーの星野一樹は長男。 生家は生菓子の製造・販売業を営み、周囲と比して裕福な家庭に育った。野球少年だった星野は、父・又平が道楽で何台も自動車を所有していたこともあり、乗り物好きでもあった。中学生の時には無免許にもかかわらず、父親からオートバイを買ってもらい、それを乗り回したり改造したりしていたという。この頃には「オートバイ」や「モーターサイクリスト」などのオートバイ雑誌を読み漁っては、マン島TTレースやロードレース世界選手権(WGP)に参戦している北野元や高橋国光が駆るホンダのマシンに思いを馳せていた。 星野は東海大学第一高等学校(現・東海大学付属翔洋高等学校)を1年生の1学期が終わったところで中退し、しばらくは静岡市内のオートバイ販売店で働くが、ほどなくして当時東海大学に通っていた兄・幸雄を頼って神奈川県に移り、カワサキワークスライダーだった安良岡健に弟子入りを志願、安良岡の同僚だった三橋実が率いるカワサキ系モトクロスチーム「カワサキ・コンバット」に加入した。16歳になった星野は、ここで後に一緒にホシノインパルを立ち上げることになる金子豊と出会っている。しかし、1964年のデビューレースでは転倒し脳震盪のため搬送され入院というデビューだった。 1967年に夫人と結婚。翌1968年には同じカワサキ系ワークスチームの「神戸木の実レーシング」(片山義美が主宰)に移籍してカワサキの契約ライダーとなる。同年の全日本モトクロス選手権の90cc・125cc両クラスではチャンピオンを獲得し、タイトル獲得の褒美としてセニア最優秀選手に選ばれ、日本モーターサイクルスポーツ協会 (MFJ) からヨーロッパ視察旅行を与えられた。 星野はモトクロスの危険度の高さに見合った年収が得られないことに不満を感じており、練習場である富士スピードウェイ脇のダートコースから名物の30度バンクを駆け抜ける四輪レーサーを見て憧れを抱いていた。一度は収入面でモトクロス界より安定が見込めるオートレース転向も考えていたが、翌1969年にモトクロス仲間の歳森康師の推薦で日産自動車のワークスドライバーのテストを受け合格したのを機に、二輪から四輪へと転向した。1970年に日産に入社し、東京都大田区大森にあった日産宣伝部の契約ドライバー(俗に「大森ワークス」と呼ばれる)となり、主に当時「マイナーツーリング」と呼ばれた富士スピードウェイでのツーリングカーレースなどで活躍する。星野はスカイラインやフェアレディでのレース参戦を望んでいたが、星野の希望するこれらのマシンは一軍格である追浜ワークスの高橋国光、北野元、黒沢元治らが乗るものであり、日産での二軍に相当する大森ワークスの星野は新開発の前輪駆動(FF)車であるチェリーでの参戦を指示され、FF車が好きではない星野は内心「FFは(星野が嫌いな)アンダーステアも出るし、なんでFFでレースしなきゃいけないんだ」と思いながら参戦していたという。 1974年、大森ワークスの先輩(リーダー)である鈴木誠一と折半で、マーチF3のシャシーを購入し、FJ1300に参戦。エンジンは、鈴木たちが設立した東名自動車(現・東名パワード)がチューニングを手掛けた。星野はFJ1300のデビュー戦で優勝。この頃には第一子となる長女が誕生して一児の父となった。 1975年、国内トップカテゴリーの全日本F2000選手権に第2戦から参戦を開始。参戦した4レース全てでポールポジションを獲得し、うち2勝を挙げてシリーズチャンピオンを獲得した。この王者決定レース後、観戦に来ていた父親を見つけ、それまで観戦したいなどと一度も言ったことのない父が、実は静岡から離れた鈴鹿まで来てレースを見ていたことを初めて知った。その時の父親はチャンピオン獲得した星野を見て感極まっており、その顔を見たことは星野にとって生涯忘れられない記憶になったという。 1976年、ヒーローズレーシングに加入。全日本F2000では2勝を挙げランキング4位となる。10月に富士スピードウェイで行われたF1世界選手権イン・ジャパンにはヒーローズからスポット参戦。マシンは旧型のティレル・007で、決勝レースでは大雨の中一時3位を走行する健闘を見せるが、スペアタイヤが底をつきリタイアした(正確にはタイヤ自体は残っていたが、それを装着するホイールの予備がなかった)。以後、全日本F2選手権や全日本F3000選手権、富士グランチャンピオンレース、全日本FP選手権、全日本耐久選手権、全日本ツーリングカー選手権 (JTC) においてチャンピオンの常連となり、レースファンやメディアから「日本一速い男」と呼ばれるようになる。 1977年にはヒーローズでの2年目を迎え、前年に初の2000ccレース出場で好走を見せた6歳後輩となる新人中嶋悟が加入、星野のチームメイトとなった。F2000で星野は8戦中4勝を挙げチャンピオンを獲得。秋のF1日本GPにコジマエンジニアリングKE009にて参戦、11位完走を果たす。同年10月には第二子となる長男の一樹が誕生した。 1978年、ヒーローズでのNo.1ドライバーは完全に星野だったが、この年のF2000第3戦鈴鹿で中嶋がポール・トゥ・フィニッシュで星野を破って以降、徐々に両者の関係には緊張状態が生じる。同年、中嶋がイギリスF3に参戦するため、競技ライセンスをJAF競技ライセンスからイギリス王立自動車クラブ(RAC)発行のものに切り替えたこともあり、F2000タイトルは星野が獲得することになったが、シーズン終了後に中嶋が「チームにエース2人はいらないよ」とヒーローズから離脱、生沢徹の率いるチームi&iに移籍した。 同年6月、星野曰く「頭の中に常にあった」というヨーロッパ挑戦を実現させ、ヨーロッパF2第6戦ルーアン・レゼサールと第7戦ドニントン・パークの2戦にスポット参戦した。日本で連勝していた体制をそのまま持ち込み、ヒーローズのノバ532・BMW(ケン松浦チューン)にブリヂストンタイヤで参戦したが、ヨーロッパF2で多勢を占めていたマーチ782・BMWとグッドイヤータイヤのパッケージには予選タイムで及ばず、決勝もドライブシャフトのトラブルが立て続き2戦ともリタイア。当初予定では第10戦エンナまで参戦予定だったが、ドライブシャフトのスペアがなくなってしまったためドニントンパークのレースにて遠征を終了せざるを得なかった。この遠征には当時の金額で1,200万円を費やした。以後、星野はヨーロッパへの思いを封印し、国内レースへと集中することを決意した。 1980年、ドライバーとしてはヒーローズと契約更新するが、かねてより考慮していた自身の会社設立に動き、モトクロス時代の仲間である金子豊と共に「ホシノインパル」を設立。星野は当時32歳であったが、先輩レーサーを見ていてその定年が30代半ばで来ると感じ、現役トップの頃に自分で会社を作り、自動車を通じたビジネスを成功できれば、との思いがあった。なお、当初は飲食店での起業も考えたというが、自分には車しかないと考え、まずはホイールからやってみようとエンケイの鈴木順一社長に相談。しかし星野がデザインに携わったインパルホイールをエンケイ工場で試作木型にて立体化してみると、そのデザイン性の欠如と、商品としての魅力を感じないことに星野は愕然とし、目の前が真っ暗になったという。その星野の様子を見た鈴木は資料やデザイン提供などの協力で星野を助け、星野は後年「インパルが成功できたのはあの時鈴木社長が思いやりで僕を助けてくれたから」と感謝を述べている。金子とともに九州から北海道まで全国のホイールを取り扱うショップを巡る営業活動をレース活動の合間に地道に繰り返していたが、インパルのホイールは最初の2年間はヒット商品が出なかった。 創業から2年経過した頃に転機が訪れ、星野自身が参戦する富士スーパーシルエットレースで「シルビア・スーパーシルエット」にインパルのホイールを装着し、そのホイールを元に市販化されたホイール「D-01シルエット」に注文が殺到、生産が追い付かない大ヒット商品となり月に2万本は売れたという。これによりIMPULブランドの知名度は大きく向上し、ようやくビジネスが軌道に乗り始めた。 ホシノインパルの業績が軌道に乗ったのを受け、1983年に自らのレーシングチームとして「ホシノ・レーシング」を設立し、ヒーローズレーシングから独立。全日本F2選手権と富士グランチャンピオンレースおよびスーパーシルエットレースに自らのチームで参戦するようになった。また、同年から始まった全日本耐久選手権にもホシノレーシングから萩原光とのコンビで参戦を開始。6月にはイギリスのドニントン・パークで行われたヨーロッパF2選手権第8戦にスポット参戦(マシンはマーチ832・BMW)し、4位入賞を果たす。なお、この遠征により星野が不在の期間に日本で開催されたスーパーシルエット・レースでは、星野の代わりに萩原がシルビア・スーパーシルエットに乗り参戦した。 1984年4月、IMPUL本社にショールームをオープンさせ、星野も転居し東京が活動拠点となった。同年の全日本F2ではチャンピオンとなった中嶋の後塵を拝しランキング3位に終わり、中嶋が使用するのと同じホンダV6エンジンの搭載を熱望するようになっていた。星野は自身が日産ワークスを離れる覚悟を決めてホンダと交渉、翌年からF2でホンダエンジンを搭載する契約を結ぶ(日産との契約継続の経緯については後述)。 1985年、富士スピードウェイで開催されたWEC-JAPAN(富士1000km)に松本恵二と萩原光とのチームでマーチ・85G/日産を駆り参戦。決勝では雨によるコンディション不良でスタート順延などレース運営の混乱もある中、星野が首位で独走を見せる。チームメイトの松本による「今の路面を一番理解している星野がこのまま交代しない方が勝つ可能性が高まる」との意見もあり、星野が単独ですべて走り切り優勝。日本人として初の世界選手権レース優勝者となった。 1986年4月、弟子として行動を共にすることが多かった後輩・萩原光がテスト走行中の事故で死去する悲劇に見舞われる。2か月後のル・マン24時間レースに松本恵二と、萩原の代役として起用された鈴木亜久里とのトリオで日産・R86Vで参戦。結果はトラブルによりリタイヤだったが、以後1998年まで星野は日産のル・マン24時間レース挑戦の主軸として参戦を続けることになる。全日本F2では中嶋がチャンピオンとなり、星野はランキング2位と敗れる。同年夏には中嶋が翌1987年からフルタイムF1ドライバーとしてロータス・ホンダと契約したことを発表。結果的に星野はホンダエンジンを使用するようになって以後の2年も全日本F2ランキングで中嶋を打ち破ることができなかった。唯一意地を見せる結果となったのは、同年の全日本F2で星野3勝、中嶋は1勝と勝利数で上回った事であった。 1987年には国内でのホンダF1エンジンのテストドライバーの役割を中嶋から引継ぎ、ウィリアムズ・ホンダでのテスト走行を行ったほか、この年以後日本での開催が復活したF1日本グランプリでスポンサー持込などの条件付きでベネトンなどのF1シートに誘われることも複数件あったが、「プロのドライバーはお金を貰って走るもの。払って乗せてもらうのはあり得ない」という信念を貫き、F1スポット参戦を見送っている。同年より全日本F2から全日本F3000へとトップカテゴリーが再編された。中嶋という最大のライバルがいなくなったこともあり、星野は4勝を挙げチャンピオンを獲得するが、フットワーク/ムーンクラフトとのジョイントにより良い参戦体制を得た鈴木亜久里が台頭し2勝を挙げ、その挑戦を受ける立場となりつつあった。 この時期にはインパルのメインバンクからの勧めもあって東京都世田谷区の環状八号線沿いの土地を購入し、ホシノインパル本社およびファクトリーを三鷹から移転させる計画を進め、1988年4月にIMPUL新本社とショールームが落成し移転が完了した。同年の全日本F3000選手権ではチャンピオンを鈴木亜久里に奪われランキング2位で終える。有効ポイント制だったため、総獲得ポイントでは星野の方が2ポイント上回り、勝利数も同じ3勝と僅差での敗退であった。中嶋に続き鈴木亜久里も星野を破ってF1シートを獲得したこともあり、星野は日本のレース界からF1に行くために越えるべき「最後の壁」としてレース専門誌や東京中日スポーツなどで報じられることもあった。以後1991年の片山右京や、1993年のエディ・アーバインも星野とのF3000タイトル争いを経てF1レギュラードライバーとしてデビューする結果となった。 1990年のル・マン24時間レースでは日産・R90CPで出場し5位入賞を果たす。これを皮切りに海外レースでの実績として、1998年のル・マン24時間レースには日産・R390で出場し、日本人ドライバートリオによる初の3位表彰台に輝いた。他にも1992年には林義正と水野和敏の指揮でデイトナ24時間レースに日産・R91CPで出場し、2位を9周引き離して完全優勝するなどの実績を挙げている。このレースでは他にもファステストラップ1分38秒495や、24時間の平均速度181.923 km/hなど、多くの記録を塗り替えた。 1990年代に入ると全日本ツーリングカー選手権や全日本GT選手権にカルソニックカラーのスカイラインGT-Rで参戦し数多くの勝利を獲得、「カルソニックの星野」のイメージを強くした。 その傍らで全日本F3000選手権にも参戦を続けていたが、1997年シーズン開幕直前に持病の腰痛の悪化のため、国内トップのフォーミュラ・ニッポンからの引退を発表。以降も全日本GT選手権には5シーズン参戦し続けたが、2002年8月に現役ドライバーからの引退を発表した。 引退後は全日本GT選手権(現・SUPER GT)とフォーミュラ・ニッポンに参戦する自身のチーム「チームインパル」の監督を務めている。また、ニスモフェスティバルなどの各種イベントでのデモランや、日産の新型車(主にフェアレディZやスカイライン、GT-Rなど)のテストドライブなどで雑誌やメディアに出演することも少なくない。 2023年3月2日、日本プロスポーツ大賞スポーツ功労者顕彰を受賞した。 評価自身のドライビングのスタイルを「二輪時代からだけど、フロントが入って行かないクルマだと全然だめなのよ。アンダーステアという言葉は発したくないくらい嫌い。オーバーステアなら何とでもなるけどね」と述べている。また1980年代中盤から全盛となったテレメトリーによる走行データ分析重視が好きではなく「今は昔と違って細かいデータを分析しなくてはいけない時代で、データが頼りのところがある。俺はレースは経験が重要だと思っているし、データが嫌いだから(笑)」と述べている。 盟友である金子豊は「星野はリズムにのった時は速いが、乗れないとわりに焦る。自分の力をもっと信じていればもっと勝ちまくった人だと思う。90年代になってベテランになっても気持ちを高めていくやり方で勝つことがあるけど、そのやり方で失敗するレースも多い。マシンを降りてる時は日本人なんだけど、走ってる時はラテンですね。」と評している。 星野は1970年代半ばから「日本一速い男」と呼ばれるようになったが、これは必ずしも褒め言葉ではない面もあった。一方に「日本一強い男」とでも呼ぶべき高原敬武がいたためである。星野はベテラン勢を差し置いてポールポジションを獲得するのだが、最終的には高原が勝利を得てチャンピオンになるというパターンであった。速さで星野、強さで高原というのが1970年代半ばの日本レース界だった。 エディ・アーバインやジョニー・ハーバートなど、全日本F3000選手権に参戦経験があるF1ドライバーから一目置かれている。中でもアーバインは「ホシノさんは外国人ドライバーにとって“日本モータースポーツ界のゴッドファーザー”だと思っているし、“日本のセナ”だとも思っている。それぐらいの大スターなんだ」と敬意を払っており、F1初優勝を飾った1999年開幕戦オーストラリアGPのレース後TOP3記者会見で「日本にホシノっていうすごく速いオヤジがいるんだけど、彼がブリヂストンで、俺はダンロップだったんだ。日本でさんざん負けたそのBSを履いた初めてのレースで勝てるなんてね。でもホシノは本当に速いんだよなぁ。」と発言。レースでのTOP3がアーバインとハインツ=ハラルド・フレンツェン、ラルフ・シューマッハと全員が日本での星野の速さを知っていたため、アーバインの言葉に同意しうなずくという場面があった。 同じく全日本F3000経験者でJTCCでも星野と戦い、後にル・マン24時間レースを9度制覇するレジェンドとなったトム・クリステンセンは「ホシノさんのスタイルが大好きだった。すごく激しいけど、バトルではとてもフェアだった。フォーミュラだけでなく、グループC、グループAとどのカテゴリーのクルマも乗りこなして素晴らしいと思っていた」と1990年代の星野を讃えている。 1980年代半ばに何度も全日本タイトルを奪っていた中嶋悟は「僕がいくら実績を挙げても、相変わらず“日本一速い男”が別にいるんだよね」とぼやいていたことがある。その一方で「先輩(星野)は富士で特に速い。全く抜けないなと思ったレースがあった」「二人が同じくらい速く走る能力があったのだとしたら、絶対に勝つんだという執念とか執着心は僕より先輩の方が持っていたし、僕に足りないものだったと思う」「星野先輩が争ってくれたから日本でレースをやるモチベーションを保てていた、感謝している点です」と2004年の取材にて星野へ謝意をコメントしている。 1990年代に入るとアーバインやハーバート、フレンツェン、ペドロ・デ・ラ・ロサ、高木虎之介、服部尚貴、中野信治、ラルフ・シューマッハ、本山哲など中年期に達した星野より明らかに速い若手も登場していたが、変わらず「日本一速い男」の称号は星野のものであった。 タイヤテストでのインフォメーション能力を高く評価されており、ブリヂストンの浜島裕英は星野を「ミハエル・シューマッハと並んで極めて高いタイヤ評価能力を持つ」としている。ただし浜島によれば、星野とシューマッハは「前がかなり食いついていないと(=フロントタイヤのグリップが高くないと)だめなドライバー」なため、他のドライバーが同じタイヤを使うと「みんなオーバーステアになってしまって乗れないと思う」という。また、当時の全日本F3000で「ブリヂストンタイヤが最大限に機能するスリップアングルを出すのが一番巧かったのは星野選手」とも浜島が述べている。 性格・嗜好現役時代はヘビースモーカーで、ピット内は火気厳禁かつ禁煙にもかかわらず、特に1980年代はピット内でもよくたばこを吸っており、レーシングスーツのポケットにも常に入っていた。好きな銘柄は長年星野をスポンサーとして支援したJTのキャビンだが、それ以前のフィリップモリス社のLARKが自身のメインスポンサーとなっていた1984年頃は吸う銘柄もラークに変えていた。レース前の星野は恐怖感に苛まれ緊張状態になる場合も多いため、これが俺が吸う最後の一本になるかもしれないと思いながら吸う事も多かったという。あるレースでは、レースカー車内でも吸えるように持ち込もうとしたところを、スタッフや本山哲に制止された逸話もある。
酒類は好きではなく、飲まない。「たばこはいつ吸ってもうまいから辞めるのに苦労したけど、酒を美味しく感じたことはない」とも述べている。 豪放な発言も多くあるが、実際には神経の細い部分もあり、現役時代レース当日になると緊張のため食事が喉を通らず、レース当日の食事をバナナのみで済ませることも多かった。ヒーローズレーシングで中嶋悟とチームメイトだった時代、ドライバーズサロンで普通に昼食を食べる後輩・中嶋の姿を見て「レース前なのによくそんなに食べられるな」と思わず声をかけたこともある。現役中はレースがある週に入ると緊張感とストレスから水曜日に全身に湿疹が出はじめ、レース終了後の月曜日になると治っているというサイクルが15年続いた。 愛猫家である。息子の一樹もおなじくねこ派であると取材で答えている。一樹によると実家には子供のころいつも動物がいて、イヌ、ネコ、ハムスター、インコ、ウサギといろいろな「家族」がいたと述べている。 ライバルレーサーの強さを認めると率直にそれを評価することが多い。例として、
1993年、スポーツランドSUGOでの全日本F3000予選中、馬の背コーナーをとんでもない速さで駆け抜けていくハインツ=ハラルド・フレンツェンに衝撃を受け、ピットに戻るとフレンツェンのもとに駆け寄り「お前はこんなところでくすぶってないで早くF1に行け」と言いに行った(星野がライバルを褒めに出向くのは極めて異例)。フレンツェンは翌年ザウバーからF1デビューを果たした。 1995年、F3000第9戦富士でトップを独走し、トラブルもなかったにもかかわらず、終盤になって高木虎之介にストレートであっさりかわされ2位に終わる。完敗した星野はレース後会見で高木の監督である中嶋悟に「もうティレルでもどこでもいいから向こう(F1)にやっちゃってよ」と漏らした。なお、星野は翌年限りでフォーミュラから引退し、高木は1998年にそのティレルからF1にデビューした。 自らの引退後、ホシノIMPULで起用したブノワ・トレルイエを高く評価しており、「若い時のブノワをF1に行かせてあげたかった」「人間性から何から全てが素晴らしい」「俺ブノワのファンだから」と公言している。 1990年代に入りGTマシンでシーケンシャル・シフトが普及してからも星野は従来のHパターンシフトにこだわり、ギアボックスを換装していた。更に、シフトアップ時のフリッピング(アクセルを一瞬戻すことによるロス)を減らすため、当時は珍しかったシフトカット装置を独自に装着していた。 現役引退後のチーム監督となってからもレース現場では現役時代を彷彿とさせる熱血漢である。レース中、納得できないことがあれば、ピットのサインガードテント内でテーブルを叩く(あるいは蹴る)、物を投げる(主にペットボトル)、声を荒げるなどの感情を隠さないしぐさの他、インタビューに来たテレビ中継リポーターに「映すな」とインタビューを受け付けないなど「日本一熱い監督」あるいは同姓の星野仙一同様「闘将・星野」とテレビ中継内で実況されている。その一方、自チームの選手がマシントラブルや競り合ったためにクラッシュやリタイアをした場合でも、マスメディアなどの取材攻勢から守る、取材に対してレースの結果を選手の責任としない等、ドライバーを最大限擁護する行動をしている。 プライベートではゴルフ好きだが、自らの熱くなりやすい性格がプレーに出てしまい「(悪いショットの時に)すぐにゴルフクラブを叩き折ってしまう」という。酷い時には「スタート前の練習ですでにクラブを2本叩き折ってしまい、それを見ていた担当キャディーに怖がられてしまい、謝ってからチップをあげてキャディーに付いてもらった」こともあるといい、熱くなりすぎのせいで「一緒に遊んでもらえる友達がいなくなっちゃった(笑)」と述べている。一方でイップス持ちでもある。 2024/06/10 00:24更新
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hoshino kazuyoshi
星野一義と同じ誕生日7月1日生まれ、同じ静岡出身の人
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