武村正義の情報(たけむらまさよし) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
武村 正義さんについて調べます
■名前・氏名 |
武村正義と関係のある人
野崎欣一郎: 武村正義『私はニッポンを洗濯したかった』毎日新聞社、2006年1月30日。 山下元利: 1993年6月21日、新党さきがけが結成され、武村正義は代表に就任した。 三日月大造: 知事選挙は6月26日に告示され、三日月、嘉田に加え、武村正義ら滋賀県政の関係者で構成された「チームしが」が、「草の根自治」を標榜する選挙戦を展開した。 鳩山由紀夫: 6月21日、武村正義らと新党さきがけを結成し、新党さきがけ代表幹事・事務局長に就任。 伊藤忠彦: 同年4月より、武村正義衆議院議員の秘書を務める。 天川由記子: 1993年の自由民主党分裂、細川連立政権の発足による55年体制崩壊後、武村正義の誘いで新党さきがけから1995年の参院選に出馬するも、落選。 渡海紀三朗: 1988年9月2日、武村正義、鳩山由紀夫、石破茂ら自民党の1年生議員とともに政策勉強会「ユートピア政治研究会」を結成した。 羽田孜: 羽田派は内閣不信任案可決後も自民党に残って次の内閣での主導権を握ろうとしていたが、不信任決議案に反対した武村正義らが自民党を離党し6月21日に新党さきがけを結成した。 尾崎正直: 知事選が2度連続で無投票になるのは1978年(昭和53年)、1982年(昭和57年)の滋賀県知事選挙の武村正義以来、23年ぶりであった。 田中秀征: 武村正義と鳩山由紀夫から1995年の暮れに、「代行を辞めて入閣してくれ」と説得され、橋本内閣では入閣が既定路線だった。 田島一成: 滋賀2区は元々、新党さきがけから民主党に合流していた武村正義の地盤であったが、武村は2000年の第42回衆議院議員総選挙で落選後、健康上の理由から政界引退を表明しており、補選にも一旦は出馬の意欲を示したものの、最終的に立候補を断念した。 杉山憲夫: 連続当選5回(当選同期に鳩山由紀夫・斉藤斗志二・三原朝彦・村井仁・逢沢一郎・金子一義・武村正義・杉浦正健・園田博之・中山成彬・谷津義男・新井将敬・石破茂・笹川堯・武部勤・井出正一・村上誠一郎など)。 井出正一: 新党さきがけ代表の武村正義や日本社会党委員長の村山富市は、社会・さきがけ両党の合流による新党結成を模索していたが、新進党から結党に参加した鳩山邦夫が武村や村山の排除を鳩山由紀夫に進言し、鳩山は武村や村山らが提唱する、社会・さきがけの合流による新党結成を拒否。 竹下登: このころ新人代議士となった武村正義・石破茂は田中派新人候補として衆院選出馬を希望したが滋賀県全県区山下元利・鳥取県全県区平林鴻三がそれぞれの選挙区で田中派現職だったため、武村には安倍派会長安倍晋太郎を、石破には中曽根派幹部渡辺美智雄を紹介し国政進出のチャンスをあたえた。 河野洋平: 1993年(平成5年)、小沢一郎ら大量の離党者と第40回衆議院議員総選挙で過半数を割った宮澤内閣が総辞職すると、新党さきがけを結成した武村正義らを懐柔する目的で、後継総裁候補に後藤田正晴が浮上。 佐藤謙一郎: 1993年、政治改革をめぐって宮沢内閣不信任案が可決されると、三塚派の先輩武村正義らとともに自民党を離党し、新党さきがけに参加。 野崎欣一郎: 武村正義 後藤田正晴: この時は結局、小泉純一郎ら自民党内の改革慎重派など、自民党内の反改革勢力によって政治改革法案が廃案に追い込まれ、「(政治)改革に政治生命を賭ける」と明言していた海部が首相続投を断念したために実を結ばなかったが、武村正義や北川正恭など三塚派若手を中心とした改革積極派との間に強い信頼関係を築き、1993年に自民党下野の際、後継首班候補として後藤田の名があがる伏線となった。 岩屋毅: 1993年、武村正義の誘いを受けて自民党を離党し、新党さきがけの結党に参加するが、直後の第40回衆議院議員総選挙に定数が2に改められた旧大分2区から立候補するも、阿部の後継で立候補した無所属の横光克彦(日本社会党系)、自民党の田原隆の後塵を拝し、3位で落選する。 斎藤次郎: これに対して、ときの蔵相・武村正義が分離案を固持、新党さきがけが税制大綱への行財政改革明記による改革案を提示し対立。 田中秀征: その考えをワープロで打ってまとめたペーパーを細川護熙と武村正義に見せると、二人とも瞬時に確信、細川はその日のうちに田中がまとめたペーパーを持って小沢一郎に会いに行った。 新井将敬: このとき、新井が大蔵省に入省したときの事務次官で後援会の初代会長も務めた鳩山威一郎の長男鳩山由紀夫は新井の選挙区内(東京都大田区)の住民であるにもかかわらず、北海道4区から出馬して当選、新井と同期になった(当選同期に斉藤斗志二・三原朝彦・村井仁・逢沢一郎・金子一義・武村正義・杉浦正健・園田博之・中山成彬・谷津義男・笹川堯・武部勤・井出正一・村上誠一郎など)。 大内啓伍: 1994年2月、細川首相は突如、消費税を廃止し、税率7%の福祉目的税を創設する「国民福祉税構想」を発表したが、所管大臣の大内はこれをまったく知らされておらず、武村正義内閣官房長官や村山富市社会党委員長に歩調を合わせ、同構想に反対(連立与党内の反対を受け、細川はすぐに撤回)。 鳩山由紀夫: 結成の際、自民党時代からの盟友であった武村正義を切り捨てた。 田中秀征: 1993年4月、武村正義と新党結成を決断。武村正義は宮澤内閣不信任案に賛成を迫ったが、首班指名で宮澤の名を書いたのだから自分にも責任がある、宮澤のごく近くで政治活動をしてきた自分が、野党の出した不信任案に同調するなんてもっての外と、宮澤内閣の不信任案に反対して離党した。 武部勤: 選挙戦では渡辺の後ろ盾もあり、初当選を果たした(当選同期に鳩山由紀夫・斉藤斗志二・三原朝彦・村井仁・逢沢一郎・金子一義・武村正義・杉浦正健・園田博之・中山成彬・谷津義男・新井将敬・石破茂・笹川堯・井出正一・村上誠一郎など)。 宇佐美登: 武村正義の秘書を経て、1993年の第40回衆議院議員総選挙に新党さきがけ公認で旧東京2区から立候補し、26歳で初当選(当時最年少)。 細川護煕: 新党さきがけ代表の武村正義は、細川とは滋賀県知事時代以来のつきあいがあり、その縁で日本新党を引き込み自民党との連立政権を模索したが、新生党代表幹事の小沢一郎がこれに対抗して「細川首相」を内々に提示する。 細川護煕: さらに米側は、細川政権の中枢に北朝鮮との関係が深い政治家(武村正義や社会党の政治家とされる)がいることについても率直に懸念を示した。 井出正一: 1988年9月2日、武村正義、鳩山由紀夫ら自民党の1年生議員とともに政策勉強会「ユートピア政治研究会」を結成した。 |
武村正義の情報まとめ
武村 正義(たけむら まさよし)さんの誕生日は1934年8月26日です。滋賀出身の政治家のようです。
引退、卒業、結婚、解散、病気に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2022年に亡くなられているようです。
武村正義のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)武村 正義(たけむら まさよし、1934年〈昭和9年〉8月26日 - 2022年〈令和4年〉9月28日)は、日本の政治家、自治官僚、政治評論家。位階は従三位。 八日市市長、滋賀県知事(3期)、衆議院議員(4期)、新党さきがけ代表、内閣官房長官、大蔵大臣を歴任。政界引退後は龍谷大学客員教授、徳島文理大学大学院教授を務めた。 滋賀県蒲生郡玉緒村(現・東近江市柴原南町)の農家に生まれた。母を小学2年、祖父を中学3年、父を高校2年のときに亡くす。兄勘一。滋賀県立八日市高等学校では日本民主青年同盟に入って活動を行った。新聞部の部長だった2年生のとき、友人の書いた文章の内容が偏っているとして、担任が不掲載を求めた。武村は拒否し、無期謹慎の処分を受けた。同じ日に他の8名の生徒も、発行した機関紙が思想的に偏っているとして退学や停学などの処分を受ける。誰一人処分には納得せず、京大生や立命館大学の学生らの応援を得て反対運動を続けた。生徒会長に立候補し、吉田内閣の逆コースと再軍備施策を批判した。 高校卒業後から受験勉強を始める。「学費の面倒をみる」と請け合った叔父(東京在住)に勧められ、工学部入学を目指す。その中で唯一物理が必須科目でない名古屋大学工学部機械工学科を志願し、1浪の末に無事合格した。しかし向いていないと自覚して、2年生の春、学籍を大学に残したまま受験勉強をし直すという目的で、神崎郡永源寺町(現・東近江市)の永源寺に書生として住み込む。翌春、東京大学教育学部の3年生に編入学した。卒業後、東京大学新聞研究所を経て経済学部に学士入学、経済学部を卒業。その間、歯学部の6年生だった女性と学生結婚した。 国家公務員上級甲種試験(行政)に合格後、自治省の面接試験を受ける。面接官のひとりに後藤田正晴がいた。27歳で妻も子もいるという経歴を面白いと思った後藤田の推薦により、1962年、自治省に入省。 愛知県庁に出向している間にドイツ政府留学生試験に合格。妻は名古屋市で歯科医院を開業した直後であったが、西ドイツに留学。異例の公務出張扱いであった。帰国後、「日本列島における均衡発展の可能性」と題した論文を『自治研究』(1967年)に発表、地方開発の必要性を説いた。それはやがて列島改造論を模索していた田中角栄の目に止まる。田中に呼ばれ事務所で30分ほど論文の概要を話すと、「明日からうちの事務所へ来てくれ」と言われる。帰ってから、自治省官房長の宮澤弘に報告すると、「事務連絡で通うことにしておこう。私が責任をもつから行ってきなさい」と言われ、公務員法違反の疑いのある田中事務所通いがそこから半年間続いた。 その後、埼玉県庁に出向。総務部文書課長となる。 埼玉県で、滋賀県出身の衆議院議員、福永健司の知遇を得た武村は政治の道に進む意欲にかられるようになる。自治省官房調査官になった後、1970年に退職。郷里の八日市に戻り市長選挙立候補の準備を始める。半年ほどで小学校区単位の後援会を12設立した。当初対抗馬と思っていた現職の市長は出馬せず、社会党系が応援する助役が後継として立候補することとなった。1971年4月の選挙に保守勢力をバックに立候補し、初当選した(武村9,802票に対し、対立候補は8,018票)。 30代の若い市長として、自転車で市役所まで通勤するなど、当時から環境を意識した行動をしていた。「自転車都市宣言」を行い自転車道路を建設した。 1974年9月初旬、日本労働組合総評議会滋賀地方評議会(総評)、全日本労働総同盟滋賀地方同盟(同盟)、滋賀地方中立労働組合協議会(中立労連)、全国産別労働組合連合滋賀地方協議会(新産別)の労組4団体の幹部が市役所を訪れ、滋賀県知事の野崎欣一郎の県政をどう見ているか武村に質問した。野崎は同年11月の県知事選に向けた3選出馬が確実視されていたが、県は武村の市長就任後、八日市市に対する補助金をことごとくカットしていた。また野崎は同市の行事に理由もなく欠席を続けていた。これらのことが地元ローカル紙で克明に報道されている頃のことだった。 会見の直後、労組と民社党は革新統一候補として武村を推すことを決める。当時、野崎と上田建設の癒着が問題化されており、これが最大の攻撃目標となった。民社党衆議院議員の西田八郎は、日本共産党県委員長の西田清に直接交渉し「全野党で協調しようじゃないか」と口説き落とした。民社党の本部は共産党との共闘に難色を示したが、西田八郎が「私が責任をとる」と言って押し切った。 「武村を候補者に推す動きがある」との報道が出始め、武村は9月10日、大津市に出向いて記者会見で発言した。「1期半ばでほかの選挙に出ることはあり得ません。八日市市民に対する背信になります」 当初は日本社会党の足並みがそろわなかった。上田建設社長の上田茂男は戦前の水平社員時代から熱心な無産政党の支持者で、戦後は部落解放同盟の運動を通じて社会党との関係が深かった。60年代後半から、総評系組合以外にほとんど党員組織のない社会党県本部は、上田建設の献金に完全に頼る状態であった。上田茂男は、大量の資金提供とともに、「武村は真の革新候補ではない」として社会党に独自候補を立てるよう強情した。その結果、県委員長の後藤俊男衆議院議員、副委員長の山本秋造県議、大原伴五県議、高橋勉書記長らは、社会党県大会の決定をくつがえして、高橋勉を知事選に立てることを決定してしまう。社会党は緊急党大会を開いて3役を除名し、新3役を選び、武村推薦を決めた。それまで慎重だった市の助役や部長まで市長室にとびこみ「こうなった以上は男として決断してください」と迫り、武村は10月15日、ついに立候補を決断した。 労組4団体と社会党、共産党、民社党は武村の選挙組織「みんなで明るい革新県政をつくる会」をつくり、それに公明党が独自推薦で加わった。11月17日に行われた滋賀県知事選で、すべての新聞予想をくつがえし、現職の野崎欣一郎を僅差で破り初当選を果たした。 上田建設に食い物にされた滋賀県の財政は、土地開発公社が多額の未払金を抱えてほとんど破産状態にあった。武村はこの未払金を契約解除によって帳消しにし、県の単独事業をすべて前年度ペースの一律半分以下に抑え、また支持団体である県職員労組に「泣いて」もらい、県職員の1号級ダウン、昇給9か月延期と調整手当の3分の1カットという荒療治を強硬し、財政の再建に成功した。 県知事には1978年に無投票で再選。1982年に無投票で三選を果たした。日本の公選知事選挙において連続で無投票当選したのは武村が初めてである。 1970年代後半~1980年代前半、滋賀県知事のかたわら龍谷大学に客員教授として教鞭をとる。その縁で龍谷大学理工学部を滋賀県へ誘致、滋賀県大津市の「びわこ文化公園都市」に理工学部と社会学部の第3のキャンパスを開く。 1986年7月6日の第38回衆議院議員総選挙(衆参同日選挙)に滋賀県全県区で保守系無所属で立候補し(選挙期間中に自民党公認となり)当選、国政へ進出(同区で自身が最初に知事選出馬した際の支援者たる民社党新人川端達夫も当選)。自民党では清和政策研究会(安倍派→三塚派)に所属する(本当は田中派から出馬を希望していたが同派現職山下元利が居たため、同派内の創政会会長竹下登が自身の盟友で安倍派会長安倍晋太郎に武村を紹介した)。 1988年9月2日、鳩山由紀夫、石破茂らと政策勉強会「ユートピア政治研究会」を結成し、金のかかる政治に対する改革を訴えた。なお、このユートピア政治研究会がのちの「新党さきがけ」の母体となった。 1993年4月、田中秀征と武村は新党結成を決断。二人が最初に誘ったのは鳩山由紀夫であった。仲間は合わせて10人となり、武村らは離党時期を同年の8月20日前後と決めていた。そこへ6月18日、宮澤喜一を首班とする宮澤内閣不信任案可決に伴い衆議院が解散する(いわゆる「嘘つき解散」。ただし武村自身は不信任案に対して反対票を投じており、決議の時点では造反していなかった)。同日、10人の自民党議員とともに離党。6月21日、「新党さきがけ」を結党し、党代表に就任。同年7月18日の第40回衆議院議員総選挙では「新党ブーム」に乗って13議席を獲得し躍進。衆院選翌日の7月19日には、知事時代から親しい関係にあった細川護煕の日本新党と、院内統一会派「さきがけ日本新党」を結成し、細川とともに共同代表となる。衆院選後の政局で日本新党と共にキャスティング・ボートを握り、後藤田正晴を中心とする自民党内政治改革推進派と提携しようとするが、同年8月9日、新生党の小沢一郎代表幹事の工作によって、細川を首班とする非自民・非共産連立政権である細川内閣が誕生。武村は内閣官房長官に就任した。 細川政権のキーパーソンに一躍浮上した武村は、対国民的には「ムーミンパパ」の愛称を認知させることでソフトなイメージを出すことに成功。政治改革やコメ自由化などで細川政権を閣内から支える一方で、閣外の意思決定機関「与党代表者会議」を主宰する小沢と対立することで自分を際だたせることに成功するなどしたたかな政略を見せたため、欧州の火薬庫と呼ばれたバルカン半島になぞらえ、三木武夫以来の「バルカン政治家」とも称された。細川は当初、連立内閣を小沢と武村のバランスに立って運営していたが、次第に小沢に傾斜する。官邸主導の政治を目論む武村は、与党代表者会議を牛耳る小沢や公明党書記長の市川雄一の一・一ラインと激しく対立した。国会対策の必要もあり、武村は古巣の自民党幹部らと頻繁に面会して調整を行っていたが、このことにも小沢は反発した。細川が消費税を廃止し、新たに税率7%の福祉目的税を創設する「国民福祉税」構想を唐突に発表した際、武村が「過ちを改めるにしくはなし」と発言するに及び、細川との間は急速に冷却化していった。岩上安身 と、政権内にいた小池百合子 は、細川と武村の間に亀裂が生じたのは、アメリカ合衆国(クリントン政権)が武村を北朝鮮に加担しているスパイであると見て、武村が政権内にいる限り日本に機密情報が出せないと、細川が訪米した際に通知し武村の更迭を求めた結果であると語っている。1994年4月8日、細川政権の崩壊直後、「さきがけ日本新党」は解消され、日本新党と新党さきがけの合流は構想倒れに終わった。 細川退陣表明から20日後の4月28日発足の羽田孜を首班とする羽田内閣の成立に当たっては、閣外協力に転じ、院内会派「改新」には参加しなかった。 この間、水面下で野党・自民党、及び連立から離脱した社会党と交渉を重ね、同年6月24日に自社両党と連立を組み、翌日6月25日、羽田内閣は総辞職。 6月30日、村山富市を首班とする自社さ連立内閣(村山内閣)を成立させる。武村は大蔵大臣に就任し、1995年の村山改造内閣でも留任する。同年11月において、大蔵大臣として「日本財政危機発言」を行う。このとき日本の国債発行残高は458兆円(IMF数値)であった。後にMMT(近代貨幣理論)により間違いだったと指摘され、日本人を貧困に追い込み数十万人の自殺者を生んだ戦犯とされている。 政界再編のキーマンであった武村が連立政権で蔵相に就任したことは違和感なく受け入れられたものの、バブル崩壊の後始末を巡って深刻化する金融情勢に、必ずしも財政政策や金融政策に精通しているわけではなかった武村は実効性のある対策を打てなかった。 1995年9月、大蔵相在任中ながらフランスの核実験再開及び核実験実施に対するタヒチでの抗議デモに参加した。 新党さきがけの党運営については、やがて党代表幹事だった鳩山由紀夫との間で、社会党との新党、「社さ新党」構想をめぐり対立が表面化。1996年8月28日、代表を辞任。1ヶ月後の9月28日には鳩山、菅直人、簗瀬らが新党さきがけを離党し、民主党を結成。民主党の結成に際しては新党さきがけ全体での合流を希望したが、鳩山らは「排除の論理」でこれを拒否した。8月28日の代表辞任後井出正一が後任の代表となるが、新党さきがけは閣外協力の形で自民党政権を支えたものの、党勢の退潮に歯止めが効かず埋没(同年の第41回衆議院議員総選挙で自民党が躍進し、また社さ両党が議席を半減させたことも大きな一因だった)。1998年5月31日、代表に復帰。同年6月、自民党との連立を解消し、環境政党としての再出発を表明、同年10月、党名を「さきがけ」に改称し事実上解党する。 1999年(平成11年)7月、衆院本会議で国旗及び国歌に関する法律に賛成票を投じた。 2000年2月、心筋梗塞の手術後、回復過程で肺膿腫を併発し53日間入院。同年4月、腹部大動脈瘤破裂で倒れたが、一命を取りとめた。同年6月25日の第42回衆議院議員総選挙に無所属で立候補するも、選挙カーには一度も乗れず、昼間はホテルに身を横たえていた。武村の健康問題を取り上げた小西哲(自民)の前に落選。 2001年3月10日、さきがけを離党し民主党に入党した。7月23日に小西が死去し、それに伴う10月の衆議院補欠選挙では立候補に意欲を見せるも、病気の悪化などがあり立候補を断念。事実上の政界引退となった。 2004年、旭日大綬章を受章。その後は病気を克服して、かつて非常勤講師を務めていた龍谷大学にて客員教授として再び教壇に立つ傍ら、地球環境問題にも取り組んだ。また、2009年の民主党政権誕生以降は、かつて非自民政権の中枢にいた立場から、新政権についてコメントする機会も多かった。2011年には岩波書店からオーラルヒストリーによる回顧録を出版した。 2019年11月17日、憲法9条の改正に反対する首長や首長経験者による「全国首長九条の会」の結成総会が、明治大学のリバティタワーで開かれた。同日時点の呼び掛け人・賛同者は131人で、うち現職は13人。武村は8人の共同代表のひとりに選ばれた。 2022年9月28日、腎不全のため、大津市内の病院で死去。88歳没。死没日をもって従三位に叙された。 武村は「小国主義(小日本主義)を主張した石橋湛山にならい、日本のあるべき姿を「小さくともキラリと光る国」と表現。新党さきがけも党のスローガンに「質実国家」「足るを知る経済」を掲げた。新党さきがけには後に『石橋湛山と小国主義』(岩波ブックレット)を著した井出正一や、2004年に石橋湛山に関する著書を発表した田中秀征も参加している。新党さきがけ参加議員には石橋湛山の主張が意識されており、新党の離合集散が繰り返される中で埋もれがちであったとはいえ「小国主義」は新党さきがけが強く打ち出していた国家像であった。この主張は中村敦夫のみどりの会議に引き継がれた。 2006年11月20日、後援者・有志により滋賀県大津市の長等山園城寺(三井寺)北院法明院庭園に、武村の政治活動を記念しその業績を称える記念碑が建立された。碑表面には「きらり」「武村正義物語記念碑」(『毎日新聞』滋賀版に84回にわたって連載された自叙伝の表題を記念)と刻まれ、裏面には武村の経歴が記されている。碑の文字は地元の書家・太田佐亨によるものである。「きらり」は武村の日本の将来像を示す象徴的表現であった。 『水と人間 : びわ湖からの報告』第一法規出版、1980年12月25日。ISBN 4474011880。 『「草の根政治」私の方法 : 敵こそ味方なり』講談社、1986年7月7日。ISBN 4062028565。 高見裕一と『琵琶湖から、神戸から : 市民による政治改革と民主主義への出発 対論』ほんの木、1993年7月5日。ISBN 4938568411。 『小さくともキラリと光る国・日本』光文社、1994年1月30日。ISBN 4334970850。 田中秀征と『さきがけの志』東洋経済新報社、1995年5月8日。ISBN 4492210725。 『私はニッポンを洗濯したかった』毎日新聞社、2006年1月。ISBN 978-4620317502。
『聞き書 武村正義回顧録』御厨貴・牧原出編、岩波書店、2011年2月。ISBN 978-4000237918。 『ムーミン・ハウスの窓から―武村正義著作集』中央公論事業出版、2016年4月。ISBN 978-4895144582 ^ 1970年代、滋賀県では、ナショナルセンターを構成する総評、同盟、中立労連、新産別の4労組が先行して統一候補を擁立し、政党がそのみこしに乗るという独自の選挙共闘方式がとられた。その結果、多くの革新首長が誕生した。これをとりまとめたのが日窒アセテート守山工場第1労働組合の専従を離れ、1965年に滋賀地評(総評)の事務局長に就任していた細谷卓爾であった。細谷はまた、国の琵琶湖総合開発計画に反対し、「せっけん運動」に奔走。琵琶湖汚染防止の環境運動に深く関わった。 ^ 「滋賀県土地開発公社の解決については〝目白〟へ十数回通って協力をお願いした」とのちに武村は語っている。 ^ 当選同期には斉藤斗志二・三原朝彦・村井仁・逢沢一郎・金子一義・園田博之・杉浦正健・中山成彬・新井将敬・石破茂・笹川堯・武部勤・井出正一・村上誠一郎などがいた。 ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、264頁。 ^ 武村 2006, pp. 28–30. ^ 武村 2006, pp. 31–34. ^ 高畠通敏 1986, pp. 195–196. ^ 国家試験 昭和33年度国家公務員採用上級試験合格者『官報 第9537号』 ^ 武村 2006, pp. 42–43. ^ 武村 2006, pp. 44–52. ^ 武村 2006, pp. 54–57. ^ 大門信也. “草の根サステイナビリティの論理とその条件―滋賀県粉せっけん運動に着目して―” (PDF). 法政大学. 2021年12月22日閲覧。 ^ 堀尾法道 (2021年1月26日). “せっけん運動奔走、細谷さんの半生が本に ジャーナリスト関根さん執筆”. 中日新聞. https://www.chunichi.co.jp/article/191248 2021年12月22日閲覧。 ^ 武村 2006, pp. 65–71. ^ 高畠通敏 1986, pp. 198–203. ^ 「京都新聞」1982年7月7日。 ^ 『朝日新聞』1988年9月3日付朝刊、2総、2面、「『政治家とカネ』の勉強会 自民若手で発足」。 ^ 武村 2006, p. 172. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2018年6月18日). “【平成30年史 政界再編(3)】細川政権263日で退陣…「小沢一郎氏VS武村正義氏」今なお残る怨念 税率7%の腰だめ発言、細川護煕氏「これはまずい」”. 産経ニュース. 2021年4月15日閲覧。 ^ 「小沢一郎は、アメリカにとっては危険な政治家です」~1月14日孫崎享元外務省国際情報局長インタビュー4 * No. 221 * 2010-02-11 19:27 ^ 小池百合子『正論』2002年7月号 細川首相退陣の引き金は「北朝鮮有事」だった ^ 大森義夫「第六章 北朝鮮ミサイルと日の丸衛星」『日本のインテリジェンス機関』(文春新書、2005年9月)pp.145-159 ^ 八木秀次「細川政権崩壊引き金は「北朝鮮有事」と明かした小池百合子氏 安全保障観違う人「排除」発想正しい」(産経ニュース、2017年11月10日) ^ 三橋貴明のもう経済記事にはだまされない 『検証されない日本財政破綻論』 ^ 第1回 中期的な財政運営に関する検討会 議事要旨 ^ 第51回滋賀中部政経文化懇話会 講師に武村正義氏 滋賀報知新聞 2011年11月16日 ^ 三橋TV (2020-05-09), なぜ、TV・新聞は報じない?!財務省・ある官僚の大嘘【三橋貴明】, https://www.youtube.com/watch?si=VZhmz51vWZiaRg7L&v=W38UXhRNlE4&feature=youtu.be 2024年10月11日閲覧。 ^ 武村 2006, pp. 305–308. ^ 西村奈緒美 (2019年11月17日). “「全国首長九条の会」を結成 現職の首長ら131人賛同”. 朝日新聞. https://www.asahi.com/articles/ASMCK52W0MCKUTIL006.html 2019年11月18日閲覧。 ^ “改憲阻止 地域で展開 「全国首長九条の会」結成”. 河北新報. (2019年11月18日). https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201911/20191118_71011.html 2019年11月18日閲覧。 ^ “9条守れ 首長ズラリ 一点で協力 「会」を結成”. しんぶん赤旗. (2019年11月18日). https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-11-18/2019111801_02_1.html 2019年11月18日閲覧。 ^ “武村正義さん死去 元新党さきがけ代表、非自民連立政権で官房長官”. 朝日新聞. (2022年10月1日). https://www.asahi.com/sp/articles/ASQB17DBYQB1UTFK00S.html 2022年10月1日閲覧。 ^ 『官報』第848号8頁 令和4年10月31日 武村正義『私はニッポンを洗濯したかった』毎日新聞社、2006年1月30日。ISBN 978-4620317502。 関根英爾『武村正義の知事力』サンライズ出版、2013年7月1日。 佐々木毅編著『政治改革1800日の真実』講談社、1999年9月30日。ISBN 978-4062098137。 高畠通敏『地方の王国』潮出版社、1986年6月5日。 新党さきがけ 伊藤忠彦(新党さきがけ時代、1994年から1997年までの秘書) 宇佐美登(自民党時代の秘書。結成直後の衆議院選挙に立候補し最年少で当選) 朝日新聞 - マイタウン京都 - 日曜ひろば - 元蔵相武村正義さん(72) - ウェイバックマシン(2007年9月29日アーカイブ分)(2006年11月13日の記事、同記事のバックアップ) NIKKEI NET - 武村正義氏の10年(2006年2月11日) 表 話 編 歴 松平慶永 伊達宗城 大久保利通 大隈重信 佐野常民 松方正義 松方正義 渡辺国武 井上馨 松田正久 西園寺公望 曾禰荒助 阪谷芳郎 桂太郎 山本達雄 若槻禮次郎 高橋是清 武富時敏 寺内正毅 勝田主計 市来乙彦 井上準之助 勝田主計 濱口雄幸 早速整爾 片岡直温 三土忠造 藤井真信 町田忠治 馬場鍈一 結城豊太郎 賀屋興宣 池田成彬 石渡荘太郎 青木一男 櫻内幸雄 河田烈 小倉正恒 賀屋興宣 津島壽一 広瀬豊作 渋沢敬三 石橋湛山 矢野庄太郎 栗栖赳夫 北村徳太郎 泉山三六 大屋晋三 臨時代理 池田勇人 向井忠晴 小笠原三九郎 一万田尚登 佐藤栄作 水田三喜男 田中角栄 福田赳夫 植木庚子郎 愛知揆一 大平正芳 坊秀男 村山達雄 金子一平 竹下登 渡辺美智雄 宮澤喜一 橋本龍太郎 海部俊樹 羽田孜 林義郎 藤井裕久 武村正義 久保亘 三塚博 松永光 宮澤喜一 宮澤喜一 塩川正十郎 谷垣禎一 尾身幸次 額賀福志郎 伊吹文明 中川昭一 与謝野馨 藤井裕久 菅直人 野田佳彦 安住淳 城島光力 麻生太郎 鈴木俊一 加藤勝信 表 話 編 歴 中村弘毅 井上毅 土方久元 田中光顯 田中光顯 小牧昌業 周布公平 平山成信 伊東巳代治 高橋健三 平山成信 鮫島武之助 武富時敏 安広伴一郎 鮫島武之助 柴田家門 石渡敏一 南弘 柴田家門 南弘 江木翼 山之内一次 児玉秀雄 高橋光威 三土忠造 宮田光雄 樺山資英 小橋一太 塚本清治 鳩山一郎 鈴木富士彌 川崎卓吉 森恪 柴田善三郎 堀切善次郎 河田烈 吉田茂 白根竹介 藤沼庄平 大橋八郎 風見章 田辺治通 太田耕造 遠藤柳作 石渡荘太郎 富田健治 星野直樹 三浦一雄 田中武雄 広瀬久忠 石渡荘太郎 迫水久常 緒方竹虎 次田大三郎 楢橋渡 林譲治 林譲治 西尾末広 苫米地義三 佐藤栄作 増田甲子七 岡崎勝男 保利茂 緒方竹虎 福永健司 根本龍太郎 石田博英 愛知揆一 赤城宗徳 椎名悦三郎 大平正芳 黒金泰美 鈴木善幸 橋本登美三郎 愛知揆一 福永健司 木村俊夫 保利茂 竹下登 二階堂進 竹下登 井出一太郎 園田直 安倍晋太郎 田中六助 伊東正義 宮澤喜一 後藤田正晴 藤波孝生 後藤田正晴 小渕恵三 塩川正十郎 山下徳夫 森山眞弓 坂本三十次 加藤紘一 河野洋平 武村正義 熊谷弘 五十嵐広三 野坂浩賢 梶山静六 村岡兼造 野中広務 青木幹雄 中川秀直 福田康夫 細田博之 安倍晋三 塩崎恭久 与謝野馨 町村信孝 河村建夫 平野博文 仙谷由人 枝野幸男 藤村修 菅義偉 加藤勝信 松野博一 林芳正 表 話 編 歴 神山郡廉 長浜県権令→犬上県権令 ※1872年10月滋賀県と合併し廃止。 松田道之 大津県令→滋賀県令 籠手田安定 権令→県令 中井弘 中井弘 岩崎小二郎 沖守固 渡辺千秋 大越亨 籠手田安定 折田平内 河島醇 鈴木定直 川島純幹 佐柳藤太 池松時和 森正隆 堀田義次郎 末松偕一郎 高橋守雄 黒崎真也 今村正美 堀田鼎 田寺俊信 除野康雄 山中恒三 未赴任 新庄祐治郎 伊藤武彦 村地信夫 二見直三 平敏孝 近藤壌太郎 並川義隆 菊池盛登 稲田周一 柴野和喜夫 岡本三良助 服部岩吉 森幸太郎 谷口久次郎 野崎欣一郎 武村正義 稲葉稔 國松善次 嘉田由紀子 三日月大造 表 話 編 歴 山田治右衛門1954.9.24-1955.2.27 今宿次雄1955.4.1-1959.3.31 山田平治1959.4.1-1963.3.31 西澤久衛門1963.4.30-1971.4.29 武村正義1971.4.30-1974.10.15 山田正次郎1974.12.1-1982.11.30 望田宇三郎1982.12.1-1994.11.30 中村功一1994.12.1-2005.2.10(廃止) 表 話 編 歴 山田治右衛門1954.9.24-1955.2.27 今宿次雄1955.4.1-1959.3.31 山田平治1959.4.1-1963.3.31 西澤久衛門1963.4.30-1971.4.29 武村正義1971.4.30-1974.10.15 山田正次郎1974.12.1-1982.11.30 望田宇三郎1982.12.1-1994.11.30 中村功一1994.12.1-2005.2.10 中村功一2005.2.27-2009.2.26 西澤久夫2009.2.27-2013.2.26 小椋正清2013.2.27- 表 話 編 歴 森幸太郎 今井耕 矢尾喜三郎 長野重右衛門 花月純誠 森幸太郎 江崎一治 今井耕 河原伊三郎 堤ツルヨ 堤康次郎 堤ツルヨ 森幸太郎 矢尾喜三郎 佐治誠吉 堤ツルヨ 矢尾喜三郎 今井耕 森幸太郎 堤康次郎 堤康次郎 矢尾喜三郎 今井耕 草野一郎平 小林郁 堤康次郎 矢尾喜三郎 今井耕 西村関一 堤ツルヨ 西村関一 宇野宗佑 草野一郎平 矢尾喜三郎 堤康次郎 堤康次郎 宇野宗佑 矢尾喜三郎 草野一郎平 西村関一 宇野宗佑 山下元利 草野一郎平 後藤俊男 矢尾喜三郎 山下元利 宇野宗佑 草野一郎平 西田八郎 後藤俊男 山下元利 宇野宗佑 上田茂行 瀬崎博義 草野一郎平 宇野宗佑 野口幸一 山下元利 西田八郎 瀬崎博義 山下元利 宇野宗佑 野口幸一 西田八郎 瀬崎博義 山下元利 宇野宗佑 野口幸一 西田八郎 瀬崎博義 宇野宗佑 山下元利 野口幸一 瀬崎博義 西田八郎 武村正義 山下元利 宇野宗佑 野口幸一 川端達夫 宇野宗佑 山元勉 武村正義 川端達夫 山下元利 武村正義 川端達夫 山下元利 宇野宗佑 山元勉 表 話 編 歴 川端達夫 上野賢一郎 川端達夫 大岡敏孝 斎藤アレックス 武村正義 小西哲 小西理 田島一成 上野賢一郎 岩永峯一 三日月大造 武村展英 (2002年新設) 岩永峯一 奥村展三 武藤貴也 小寺裕雄 (2022年廃止) FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 オランダ CiNii Books CiNii Research IdRef 平成時代の閣僚 日本の大蔵大臣 日本の内閣官房長官 滋賀県選出の衆議院議員 自由民主党の衆議院議員 新党さきがけの国会議員 昭和時代戦後の衆議院議員 平成時代の衆議院議員 民主党の人物 滋賀県知事 八日市市長 日本の総務官僚 日本の自然保護活動家 龍谷大学の教員 徳島文理大学の教員 従三位受位者 旭日大綬章受章者 東京大学出身の人物 滋賀県立八日市高等学校出身の人物 滋賀県出身の人物 1934年生 2022年没 Pages using the JsonConfig extension プロジェクト人物伝項目 言葉を濁した記述のある記事 (誰)/2016年7月-12月 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/20 09:26更新
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takemura masayoshi
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