永井荷風の情報(ながいかふう) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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永井 荷風さんについて調べます
■名前・氏名 |
永井荷風と関係のある人
石坂浩二: わが家の歴史(2010年4月9日 - 4月11日、フジテレビ:永井荷風役) 佐藤春夫: 永井荷風を慕い慶應義塾に入学。 佐藤慶: ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる 第1回「昭和20年8月15日 終戦日の荷風と潤一郎」(1984年、ANB) - 永井荷風 久保田万太郎: 1952年(昭和27年)に永井荷風が文化勲章を受章したが、その時に選考委員会で荷風を強く推薦したのが久保田であった。 オーギュスト=ロダン: 有島武郎、高村光太郎、永井荷風らがロダン作品の印象を寄稿した。 菅野昭正: 1997年 『永井荷風巡歴』でやまなし文学賞 村田実: 中学の先輩である永井荷風を愛読し、家に芝居見物を禁止されていたため近所の洋画専門上映館錦輝館に替り日ごとに通う。 豊田四郎: 谷崎潤一郎原作『猫と庄造と二人のをんな』、川端康成原作『雪国』、志賀直哉原作『暗夜行路』、永井荷風原作『濹東綺譚』など多くの文芸作品を発表した。 古川緑波: また、忙しい合間を縫って榎本健一らライバルの舞台やレビュー・歌舞伎・新派・小芝居・映画を観に出かけ、夏目漱石・永井荷風・チェーホフなどの文学書や鶴屋南北・河竹黙阿弥などの脚本、歌舞伎俳優の芸談、ストリンドベリなどの演劇関係の専門書を自身の創作の参考としていた。 石破二朗: 太宰治、永井荷風の著作物を好む。 紀田順一郎: 『日記の虚実 / 永井荷風』 中河与一: 青年の人妻への純愛を抒情的に描いた「天の夕顔」が永井荷風に絶賛される。 磯田光一: 代表作に『永井荷風』、『思想としての東京』、『鹿鳴館の系譜』などがある。 森鴎外: 1910年(明治43年)、慶應義塾大学の文学科顧問に就任(教授職に永井荷風を推薦)し、慶應義塾大学幹事の石田新太郎の主導により、上田敏を顧問に、永井荷風を主幹にして、「三田文學」を創刊した。 磯田光一: 『永井荷風』 講談社, 1979、講談社文芸文庫, 1989 大田黒元雄: 「ドビュッシーを日本で初めて紹介した」とされることが多いが、同書刊行以前に、『星の王子様』の邦訳で知られる内藤濯が、1908年(明治41年)に「印象主義の学才」というエッセイを雑誌『音楽界』(1908年9月号、楽会社)に、永井荷風が「西洋音楽最近の傾向」を『早稲田文学』(1908年10月)で紹介している。大田黒は「デビュッシィ」と表記していたが、永井荷風は1908年の時点で既に「ドビュツシー」と表記している。 野村萬斎: 越郎の兄に阪本瑞男、異母弟に高見順、従兄に永井荷風がいる。 飯島耕一: 『永井荷風論』(中央公論社) 1982 水谷貞雄: 2019年上演の『新・正午浅草』永井荷風役で読売演劇大賞優秀男優賞受賞。 岸部一徳: 天切り松 闇がたり(2004年7月30日、関西テレビ) - 永井荷風 役 中村登: つゆのあとさき(原作:永井荷風。 三島由紀夫: 作家・永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる。公威は、荷風の風貌と似ている梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいた。 安野モヨコ: 好きな作家として、内田百閒、岡本綺堂、谷崎潤一郎、寺田寅彦、永井荷風、夢野久作、澁澤龍彦ら大正・昭和の作家を挙げている。 徳南晴一郎: 夏目漱石や永井荷風を愛読し、ベートーヴェンを崇拝していた。 鷲津名都江: 作家・永井荷風の大叔父である鷲津蓉裳の曾孫に当たる。 小西茂也: 戦後1946年には、かねて敬愛する永井荷風を市川の自宅に約2年間住まわせたことでも知られている。 松本哉: 父親は永井荷風の研究書などを書いた作家・風景画家の松本哉(まつもとはじめ、1943年 - 2006年、本名は松本重彰)。 吉行淳之介: フェミニストの上野千鶴子は、ミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)傾向の強い作家として吉行以外に永井荷風を挙げており、ミソジニーの男性には「女好き」が多いと指摘している。 高見恭子: 永井荷風(作家) 中村光夫: 永井荷風 筑摩書房 |
永井荷風の情報まとめ
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永井 荷風(ながい かふう)さんの誕生日は1879年12月3日です。東京出身の作家のようです。
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略年譜、家族・親族などについてまとめました。現在、母親、病気、事件、卒業、家族、父親、結婚、映画、離婚に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
永井荷風のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3日 - 1959年〈昭和34年〉4月30日)は、日本の小説家。本名は永井 壯吉(ながい そうきち)。号に金阜山人(きんぷさんじん)、断腸亭(だんちょうてい)ほか。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東京市小石川区(現在の文京区)出身。父・久一郎は大実業家だったが、荷風は落語や歌舞伎の世界に入り浸った。父は荷風を実業家にするために渡米させるが、荷風はアメリカ駐在を経てフランスにも滞在、同時代のフランス文学を身につけ帰国した。明治末期に師・森鷗外の推薦で慶応義塾教授となるが、江戸文化を無秩序に破壊しただけの幕末維新以後の東京の現状を嘆き、以後は、江戸期の戯作者的な態度を装った生涯を貫いた。 永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現:文京区春日二丁目)にて出生。父・久一郎はプリンストン大学やボストン大学に留学経験もあるエリート官吏で、内務省衛生局に勤務していた(のち日本郵船に天下った)。母・恒は、父久一郎の師でもあった儒者鷲津毅堂の次女。 東京女子師範学校附属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)、小石川区小日向台町(現:文京区小日向二丁目)に存在した黒田小学校初等科、東京府尋常師範学校附属小学校高等科(現:東京学芸大学附属竹早小学校)と進み、1891年に神田錦町にあった高等師範学校附属尋常中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)2年に編入学した。また芝居好きな母親の影響で歌舞伎や邦楽に親しみ、漢学者・岩渓裳川から漢学を、画家・岡不崩からは日本画を、内閣書記官の岡三橋からは書をそれぞれ学ぶ。 1894年に病気になり一時休学するが、その療養中に『水滸伝』や『八犬伝』『東海道中膝栗毛』などの伝奇小説や江戸戯作文学に読みふけった。彼自身「もしこの事がなかったら、わたくしは今日のように、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかもしれない」(『十六、七のころ』岩波文庫より)と書いているように、後の文学活動への充電期間でもあった。また、帝国大学第二病院に入院中に恋心を寄せた看護婦の名・お蓮に因み「荷風」の雅号を用いたのもこの頃である。 中学在学中は、病気による長期療養が元で一年留年し、「幾年間同じ級にいた友達とは一緒になれず、一つ下の級の生徒になったので、以前のように学業に興味を持つことが出来ない。……わたくしは一人運動場の片隅で丁度その頃覚え始めた漢詩や俳句を考えてばかりいるようになった」(『十六、七のころ』より)とあるように文学活動を始めていたが、軟派と目を付けられ寺内寿一(後の元帥)らに殴打される事件に遭っている。1897年3月中学を卒業する。同年7月第一高等学校入試に失敗、9月には家族と上海に旅行し、帰国後の1898年、旅行記『上海紀行』を発表。これが現存する荷風の処女作といわれている。 1897年、神田区一ツ橋に新設された官立高等商業学校附属外国語学校清語科(現:東京外国語大学)に入学し、99年に中退した。 1898年、広津柳浪に入門、1899年清の留学生羅蘇山人の紹介で巖谷小波の木曜会に入る。1900年、『文藝倶楽部』の三宅青軒の紹介で、歌舞伎座に座付作者として入る。1901年、暁星中学の夜学でフランス語を習い始め、エミール・ゾラの『大地』ほかの英訳を読んで傾倒した。1898年から習作を雑誌に発表し、1902年から翌年にかけ、『野心』(1902年4月8日)、『地獄の花』(1902年9月10日)、『夢の女』、翻訳『女優ナナ』(ゾラ作、1903年9月24日)を刊行する。特に『地獄の花』は森鷗外に絶賛され、彼の出世作となる。一方、江戸文学の研究のために落語家六代目朝寝坊むらくの弟子となり、夢之助を名乗って活動したのもこの頃である。 旺盛な創作活動の一方では、荷風の権力に対する反骨精神も作品に反映することもあった。特に1902年発表の『新任知事』は、叔父の福井県知事阪本釤之助をモデルとしたといわれ、これがもとで釤之助は荷風を絶縁する事件が起こっている。 1903年(24歳)9月22日、父の意向で実業を学ぶべく渡米、1907年までタコマ、カラマズー、ニューヨーク、ワシントンD.C.などにあってフランス語を修める傍ら、日本大使館や横浜正金銀行に勤めた。銀行勤めと米国に結局なじめず、たっての願いであったフランス行きを父親のコネを使って実現させ、1907年7月から1908年にかけ約10ヶ月フランスに滞在した。横浜正金銀行リヨン支店に8か月勤め(当時リヨンは一大金融都市だった)、退職後パリに遊び、モーパッサンら文人の由緒を巡り、上田敏と知り合った。 外遊中の荷風は足繁くオペラや演奏会に通い、それが『西洋音楽最近の傾向』『欧州歌劇の現状』などに実った。ヨーロッパのクラシック音楽の現状、知識やリヒャルト・シュトラウス、ドビュッシーなど近代音楽家を紹介した端緒といわれ、日本の音楽史に功績を残している。1908年7月、帰国した。 1908年(29歳)、『あめりか物語』を発表。翌1909年の『ふらんす物語』と『歓楽』は風俗壊乱として発売禁止の憂き目にあうが(退廃的な雰囲気や日本への侮蔑的な表現などが嫌われたようである)、夏目漱石からの依頼により1909年12月13日から1910年2月28日まで東京朝日新聞に『冷笑』が連載され、その他『新帰朝者日記』『深川の唄』などの傑作を発表するなど荷風は新進作家として注目され、鷗外、漱石や小山内薫、二代目市川左團次など文化人演劇関係者たちと交友を持った。 1910年、森鷗外と上田敏の推薦で慶應義塾大学文学部の主任教授となる。教育者としての荷風はハイカラーにボヘミアンネクタイという洒脱な服装で講義に臨んだ。内容は仏語、仏文学評論が主なもので、時間にはきわめて厳格だったが、関係者には「講義は面白かった。しかし雑談はそれ以上に面白かった」と佐藤春夫が評したように好評だった。この講義から澤木四方吉、水上瀧太郎、松本泰、小泉信三、久保田万太郎などの人材が生まれている。この頃の荷風は八面六臂の活躍を見せ、木下杢太郎らのパンの会に参加して谷崎潤一郎を見出したり、訳詩集『珊瑚集』の発表、雑誌『三田文学』を創刊し谷崎や泉鏡花の創作の紹介などを行っている。 また、文学者のパトロン的存在だった西園寺公望にも可愛がられ、西園寺邸で行われた雨聲会に、鷗外、鏡花、島崎藤村、大町桂月、広津柳浪、田山花袋ら先輩の文学者らと参加した。西園寺は父と交際があり、「西園寺公は荷風君を見て『イヤ君のお父さんには、ずゐぶん君のことで泣かれたものだよ』と笑ってゐた」という。 華やかな教授職の一方で芸妓との交情を続けたため、私生活は必ずしも安泰でなく周囲との軋轢を繰り返した。1912年、商家の娘と結婚させられたが、1913年に父が没して家督を継いで間もなく離縁している。1914年、新橋の芸妓・八重次(のちの藤蔭静枝)を入籍して、末弟威三郎や親戚との折り合いを悪くした。しかも八重次との生活も、翌年には早くも別居、荷風は京橋区築地(現:中央区築地)の借家へ移った。以降妻帯することはなかった。 関係した女性たちについては、自身は『断腸亭日乗』1936年1月30日の記事に列記している。 1910年の大逆事件の際、荷風は「日本はアメリカの個人尊重もフランスの伝統遵守もなしに上辺の西欧化に専心し、体制派は、逆らう市民を迫害している。ドレフュス事件を糾弾したゾラの勇気がなければ、戯作者に身をおとすしかない」と考えたという(「花火」1919年)。 以降は江戸の面影を求めて、杖は先哲の墓や遊里に向かい、筆は懐古の随筆や花柳小説の創作に向かい、1914年に『江戸藝術論』、『三田文学』1914年8月-1915年6月に江戸の名残を求めた散策を主題とする随筆『日和下駄』を発表、11月刊行。同年1月20日の『夏姿』は発禁となった。フランス文学に関しても少なからぬ造詣を持ち、アンドレ・ジッドやポール・クローデルの原書を読めと、後進に勧めている。 1916年ごろには『三田文学』の運営をめぐって慶應義塾側との間に意見の対立が深刻化し、荷風は大学教授職を辞している。その後は創作に専念する傍ら雑誌『文明』(1916年4月-1918年9月。30号)を友人の井上唖々とともに立ち上げ、太田蜀山人、寺門静軒、柏木如亭、成島柳北などの江戸戯作者や文人の世界に耽溺するようになった。 慶應大を辞して間もなく、余丁町の邸内の一隅に戻り住んで「断腸亭」と名付け、1917年9月16日から『断腸亭日乗』を綴り始めた。断腸亭の名は荷風が腸を病んでいた事と秋海棠(別名、断腸花)が好きだった事に由来する。 。1918年、余丁町の屋敷を売り、築地二丁目に寓居して翌年、麻布市兵衛町一丁目(現港区六本木一丁目)に新築した偏奇館へ移る。外装の「ペンキ」と己の性癖の「偏倚」にかけた命名である。ここでは時折、娼婦や女中を入れることはしたが、妻帯し家族を持つのは創作の妨げと公言し、基本的には一人暮らしだった。 この頃、中期の名作『腕くらべ』、『おかめ笹』(『中央公論』1918年1月、続編は『花月』5月-11月。1920年4月刊)などを発表するなど旺盛な創作活動の傍ら、左團次、小山内のほか川尻清潭、岡鬼太郎、山崎紫紅、池田大伍らと交流をもち、南北物の復活狂言の演出や江戸期の文人墨客の研究を行っている。 1926年(47歳)頃から、銀座のカフェーに出入りする。荷風の創作の興味は旧来の芸者から新しい女給や私娼などに移り、1931年『つゆのあとさき』、1934年『ひかげの花』など新境地の作品を作り出す。この頃に各出版社から荷風の全集本が発売されたことにより多額の印税が入り、生活に余裕が生まれ、さらなる創作活動を迎える。旺盛な執筆の傍ら寸暇を惜しんで、友人の神代帚葉らと銀座を散策したり、江東区荒川放水路の新開地や浅草の歓楽街、玉の井の私娼街を歩む。そんな成果が実り、1937年、『濹東綺譚』を朝日新聞に連載した。随筆では、下町の散策を主題とした『深川の散歩』『寺じまの記』『放水路』などの佳作を発表した。 浅草の軽演劇やレビューにも進んで見学し、踊り子や劇場関係者と親交を結んだが、特筆すべきは、1938年(昭和13年)に銀座で知った作曲家菅原明朗と歌劇『葛飾情話』を作って浅草オペラ館で上演したことである。日本人の創作による本格的な歌劇上演の試みとして話題を集め、成功に気をよくした荷風は『葛飾情話』の映画化や第二作『浅草交響楽』の案も練っていたが、時局の悪化で中止の止むなきとなった。このときのアルト永井智子が菅原と結婚し、以後荷風と夫婦ぐるみの付き合いになった。 戦争の深まりにつれ、新作の新刊上梓は難しくなったが、荷風は『浮沈』『勲章』『踊子』などの作品や『断腸亭日乗』の執筆を続けた。草稿は複数部筆写して知友に預け、危急に備えている。戦争の影響は容赦なく私生活に悪影響を与え、食料や燃料に事欠くようになる 。 1945年3月10日払暁の東京大空襲で偏奇館は焼亡、荷風は草稿を抱えて避難したがおびただしい蔵書は灰燼に帰した 。 以降、荷風は菅原夫妻を頼って中野区住吉町(現東中野四丁目)から明石市、さらに岡山市を転々とするがそのたびに罹災し、ようよう7月3日同市巌井三門町(現岡山市北区三門東町)の民家に落ち着く。すでに66歳となっていた荷風は、この倉皇の期にも散策と日記を怠っていないが、度重なる空襲と避難の連続で下痢に悩まされたり、不安神経症の症状が見られなど身体に変調をきたす。同行した永井智子の大島一雄宛の手紙には、「最近はすつかり恐怖病におかかりになり、あのまめだつた方が横のものをたてになさることもなく、まるで子供のようにわからなくなつてしまひ、私達の一人が昼間一寸用事で出かけることがあつても、『困るから出かけないでくれ』と云われるし、食べた食事も忘れて『朝食べたかしら』なぞと、云われる始末です。……」と荷風の状況が生々しく書かれている。 岡山県勝山に疎開していた谷崎潤一郎は、恩人の荷風宛に身の回りの品を郵送するなど、身辺を気遣った。8月13日荷風は勝山を訪れて谷崎に歓待され、草稿を預けた 。 翌日岡山へ戻って「休戦」を知った。荷風は帰心矢の如く、8月30日、村田武雄(音楽評論家)が入手した切符で同夫妻と上り列車に乗り翌31日帰京。このあまりにも唐突な荷風の行動に、永井智子は常々帰京する時は3人一緒と約束していたのにと気分を害し、「私達の裏切られた気持ちは心の寂しさは一代の大家をみそこねていた気持ちの悲しさで一杯です」(大島一雄宛の手紙より)とあるように衝撃を与え、以降、智子は荷風に会わなかった。 戦後は厳しい住宅事情とインフレによる預貯金封鎖のため、荷風は従弟大島一雄(杵屋五叟)やフランス文学者小西茂也など知人の家に同居を余儀なくされた。一人暮らしに慣れきった彼の生活様式は同居人への配慮のないもので、大島の三味線の稽古を妨害したり、硫黄臭のきつい皮膚病治療薬を浴槽に入れたり、縁側から庭へ放尿するなど、とても共同生活ができるものでなく、周囲と悶着を続けた。ために知人相磯凌霜の船橋市海神北一丁目の別荘を書斎代わりにした事もある。 大島一雄の次男永光と1944年に養子縁組をしたが、1947年夏、荷風の『ひとりごと』の草稿を大島の家族が無断で売却した争いがおこり、これが原因で離縁を弁護士に依頼したこともある。 作家活動としては、戦中書き溜めた作品のほか昭和二十年日記の一部を編集した『罹災日録』(『新生』1946年3月-6月)などを相次いで発表し、戦時中控えていた旧作の再版などで注目を浴びた。このあと、いくつかの新作を出しているが佳作に富むとは言えない。『勲章』(『新生』1946年1月)、『踊子』(『展望』1946年1月)、『浮沈』(『中央公論』1946年1月-6月)、『問はずがたり』(『展望』1946年7月)など。 1948年(69歳)、市川市菅野(現:東菅野二丁目)に家を買いようやく落ち着いた環境で生活できるようになる。そんな中で1950年、随筆集『葛飾土産』が出されている。荷風自身も心身ともに余裕ができ、背広に下駄履きで浅草や葛飾の旧跡を散策するようになる。1949年から翌年にかけて、浅草ロック座などで『渡り鳥いつ帰る』『春情鳩の街』などの荷風作の劇が上演され、荷風自身特別出演として舞台に立ち、楽屋では踊り子たちと談笑する姿が新聞に載るなど話題を集めている。 1952年、「温雅な詩情と高邁な文明批評と透徹した現実観照の三面が備わる多くの優れた創作を出した他江戸文学の研究、外国文学の移植に業績を上げ、わが国近代文学史上に独自の巨歩を印した」との理由で文化勲章を受章する。翌年日本芸術院会員に選ばれるなど名誉に包まれた。その一方では相変わらず浅草へ通い、フランスやアメリカの映画を繁く見ている。 創作活動は衰えてはいるが、それでもいくつかの短編が書かれたり、旧作の『あぢさゐ』が久保田万太郎の脚色で、新派の花柳章太郎により演じられるなど話題を集めた。1954年、恩師森鷗外の三十三回忌として、団子坂観潮楼跡に荷風揮毫による『沙羅の木』の碑文が建てられた。この時荷風は記念館造営のため五万円寄付している。 1957年(78歳)、八幡町四丁目(現:八幡三丁目)に転居、これが彼の終の棲家となる。 1959年3月1日、長年通い続けた浅草アリゾナで昼食中、「病魔歩行殆困難」(日乗)となる。その後は自宅に近い食堂大黒屋で食事をとる以外は家に引きこもり、病気に苦しむ荷風を見かねた知人が医者を紹介しても全く取り合わなかったという。 4月30日朝、自宅で遺体で見付かった。通いの手伝い婦が血を吐いて倒れているのを見つけ、最後の食事は大黒屋のかつ丼で血の中に飯粒が混ざっていた。胃潰瘍に伴う吐血による心臓麻痺と診断された。傍らに置かれたボストンバッグには常に持ち歩いた土地の権利証、預金通帳、文化勲章など全財産があった。中身の通帳の額面は総額2334万円を超えており、他に現金31万円余が入れられていた。 雑司ヶ谷霊園1種1号7側3番の、父久一郎が設けた墓域に葬られた。なお、故人は吉原の遊女の投込み寺、荒川区南千住二丁目の浄閑寺を好んで訪れ、そこに葬られたいと記していた。宮尾しげをと住職とが発議し、森於菟・野田宇太郎・小田嶽夫らが実行委員となり、計42人の発起人によって、1963年(昭和38年)5月18日、遊女らの「新吉原総霊塔」と向かい合わせに、谷口吉郎設計の詩碑と筆塚が建立された。 偏奇館の跡地は泉ガーデンの敷地の一角に存在していた。その開発により往時の地形すら留めていないが敷地の片隅に港区教育委員会によって「偏奇館跡」の碑が建てられている(当時の地形を現在に当て嵌めると、偏奇館は空中に浮いている形となる)。 2004年、市川市の市制70周年式典で名誉市民の称号を贈られた。 「著作権は『刊行会』が相続しては」との打診に、養子永光は同意しなかった。永光は、銀座でバー「徧喜舘」を経営していた。永光は、2012年4月25日に肺がんのため死去した、享年は奇しくも荷風と同じ79歳であった。なお、荷風の作品の著作権は、2010年1月1日に切れている。 枢密顧問官まで務めた叔父の阪本釤之助からは、生涯絶縁されたままだった。釤之助の庶子高見順が従弟と承知していたが、荷風はわざと敬遠した。 詩人としての素質にも優れ、創作詩集『偏奇館吟草』を作ったり、俳句、漢詩も残している。 ロック座にて『春情鳩の街』を上演した縁で、女優の桜むつ子とは交流があった。 ロック座の踊り子に気に入った女性がいるとかわいがった。時には楽屋で待ち受け、視線の送り方などのアドバイスをしたという。 自らが経営する待合の押入れに小さな穴を開けて、連日やってくる客の行為を覗き見しており、しかも、覗いて特に満足した客には席料を負けてあげていたと噂された。 文学的嗜好は、「江戸庶民文学に通じてこれを摂取するところはあったが、徳川期以前の国文学に対する関心は稀薄であった。蜀山の狂歌に興味はありはしても、万葉古今から私家集の和歌や『源氏物語』以来の古典の物語にも殆んど無関心であり、例外としては降って『平家物語』を愛読していたにとどまる」ものであった。 伝統回帰を主張した荷風であったが、その伝統や文化も江戸時代に留まるものであり、それ以前に遡る事は無く、古事記万葉等の時代へ回帰するものでは無かった。 来客嫌いで、記者や編集者を門前払いにすることが多く、縋る者に対しては堂々と面前で居留守を使った。態度も決して怒らず、表面上は丁寧に接しながら、相手の気持ちが萎えるテクニックを駆使したという。 略年譜1879年
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1884年
1886年
1887年
1889年
1890年
1891年
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1896年
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1959年
家族・親族永井家父・久一郎(官僚) 母・つね(儒者鷲津毅堂次女) 弟・鷲津貞二郎(日本基督教会の牧師) 弟・威三郎(農学者) - マサチューセッツ州立農科大学、ハイデルベルヒ大学に学び、農事試験場や朝鮮総督府に勤める 妻・ヨネ - 本郷湯島の材木商・斎藤政吉の次女。1912年に結婚したが翌年破綻 妻・八重次 - 新橋の芸妓。1914年に結婚したが翌年破綻 養子・永光 (1932-2012)- 作家・バー店主。従弟の杵屋五叟の子。 略系図2024/06/08 09:47更新
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永井荷風と同じ誕生日12月3日生まれ、同じ東京出身の人
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