中村光夫の情報(なかむらみつお) 文芸評論家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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徳冨蘆花: また写生文を集めた『自然と人生』を刊行し「キリスト教の感化を受けた清新な感情で自然を描写」(中村光夫)で高く評価され、この年に民友社を退社して文筆に専念、また原宿に転居する。 木庭二郎: 兄は文芸評論家の中村光夫(本名 木庭一郎)。 岸田國士: この会がきっかけになって、椎名麟三、石川淳、中村光夫、大岡昇平、石原慎太郎、武田泰淳といった小説家が戯曲を書き、舞台化された。 古田晁: 1940年に臼井、唐木順三、中村光夫を編集顧問として銀座の日光商会内に筑摩書房を創業し、まず最初に『中野重治随筆集』を出版する。 福田恆存: また、中村光夫、吉田健一と共に鉢の木会を結成する。 丹羽文雄: 中村光夫と風俗小説論争を展開したことでも知られる。 山本健吉: 同じ1939年8月に、吉田健一、西村孝次、伊藤信吉、中村光夫らと同人文芸誌「批評」を創刊し、私小説を論じる。 丹羽文雄: 戦後は東京・銀座などを舞台とした風俗小説が人気を博し、一躍流行作家となるが、中村光夫から「風俗小説」として批判され、論争となった。 倉橋由美子: その後、歯科衛生士としてアルバイトしながら東京に留まり、明治大学文学部文学科仏文学専攻に入学して斎藤正直の指導を受け、中村光夫に学んだ。 深田久弥: 1955年(昭和30年)に再び上京、世田谷区松原に居を構える(志げ子の母方の持ち家で、中村光夫と同世代の中村哲が借りていたが転居のため空き家となったもの)。 原口統三: 一方で、評論家の中村光夫は「文学が人生におよぼす害悪の一例」として批判している。 三浦淳史: ユニークな文芸評論家=小説家の中村光夫氏が「エピソードがすべてだ」といっておられたのを記憶にとどめていますが(出典を明示できないで、引用するのは申しわけないのですが)、エピソードほど、その人の人間性のにじみでているものもありますまい」 佐藤正彰: 友人に齋藤磯雄、中村光夫、小林秀雄、河上徹太郎、唐木順三等がいる。 栃折久美子: 『わが性の白書』 中村光夫 講談社 1963年 深田久弥: だが、翌1941年(昭和16年)に中村光夫の結婚披露宴の席で一高時代に密かに思いを寄せていた女性・木庭志げ子(中村の姉)と偶然再会して道ならぬ恋に落ち、脊椎カリエスで寝たきりの八穂を差し置いて志げ子と逢引を繰り返す。 島木健作: 主要な作品論の著者としては、杉山平助・森山啓・中野重治・窪川鶴次郎・中村光夫・嶋田厚・小笠原克・橋川文三らの名前が挙げられ、近年では新保祐司・北村巌などがいる。 神西清: 戦後の文芸運動では、岸田國士らの雲の会に参加、チェーホフの戯曲訳を通じ文学座などの演劇活動に関わり、三島由紀夫、福田恆存、中村光夫らと鉢の木会の集いを持った。 石川馨: 附属中の同級生には、中村光夫(文芸評論家)、島田秀夫(日本サッカー協会名誉会長)、小川平四郎(初代駐中国大使)などがいる。 辰野隆: 東大での教え子では、三好達治・渡辺一夫・飯島正・伊吹武彦・小林秀雄・田辺貞之助・今日出海・中島健蔵・井上究一郎・中村光夫・森有正・鈴木力衛・小松清ら、早稲田大学の教え子からは佐藤輝夫など、文学研究・文芸評論で活躍した人物が輩出した。 佐藤春夫: 『小説永井荷風傳』について中村光夫との応酬が始まる。 呉茂一: 中村光夫と共編著 三島由紀夫: 同月に岸田国士の「雲の会」発足に小林秀雄、福田恆存らと参加し、年上の文学者らとの交流が広まっていった後、中村光夫の発案の「鉢の木会」にも顔を見せるようになった。 三島由紀夫: 臼井は、あまり好みの作風でなく肌に合わないが「とにかく一種の天才だ」と「中世」を採用しようとするが、顧問の中村光夫は「とんでもない、マイナス150点(120点とも)だ」と却下し、没となった。 大佛次郎: そして、全国的な運動を展開し、小林秀雄、今日出海、永井龍男、鈴木大拙、中村光夫、川端康成、横山隆一、伊東深水、鏑木清方ら文化人と幅広い市民の協力を得ることが出来た。 中島敦: 一高・帝大時代と敦のことを知っていた同学校出身者の中村光夫は「山月記」と「文字禍」を目にし、多くの友人達が学生時代の青春の夢をなくした中で「ひとり黙々と十年の間執拗に昔のままの清純さで文学の夢を育んで来た」敦の心情に思いを馳せつつ励ますような作品評を書いた。 梶井基次郎: 梶井基次郎は当時のごくふつうの文学青年の例に漏れず、夏目漱石や森鷗外、有島武郎や志賀直哉などの白樺派、大正期デカダンス、西欧の新しい芸術などの影響を受け、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う数多くの作家たち(井伏鱒二、埴谷雄高、吉行淳之介、伊藤整、武田泰淳、中村光夫、川端康成、吉田健一、三島由紀夫、中村真一郎、福永武彦、安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三、開高健など)から、その魅力を語られ賞讃されている。 |
中村光夫の情報まとめ
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中村 光夫(なかむら みつお)さんの誕生日は1911年2月5日です。東京出身の文芸評論家のようです。
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人物、作品年譜などについてまとめました。現在、卒業に関する情報もありますね。77歳で亡くなられているようです。
中村光夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)中村 光夫(なかむら みつお、1911年(明治44年)2月5日 - 1988年(昭和63年)7月12日)は、日本の文芸評論家、劇作家、小説家。本名、木庭 一郎(こば いちろう)。明治大学名誉教授。第6代日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員。文化功労者。 東京帝大在学中から評論を始め、近代リアリズムの正統論に立脚した多彩な評論活動を展開。特に、私小説批判を中心に日本の近代小説の歪みを指摘した『風俗小説論』(1950)で知られ、戦後の文芸評論に大きな影響を与えた。 東京市下谷区練塀町(現在の東京都台東区秋葉原)生まれ。祖父木庭榮は医師。 1917年、本郷区の東京市追分尋常小学校に入学。東京市誠之尋常小学校に転じて卒業後、1923年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。附属中の同級生には、石川馨(東京大学名誉教授)、島田秀夫(日本サッカー協会名誉会長)、小川平四郎(初代駐中国大使)などがいる。 1928年第一高等学校文科丙類(仏語クラス)入学。1931年4月東京帝国大学法学部に入学するが、6月退学。翌1932年4月東京帝国大学文学部仏文学科に再入学し、1935年3月に卒業。卒論のテーマはギ・ド・モーパッサン。この時期は、プロレタリア文学にも影響を受け、そうした習作も書いていた。 大学時代から『文學界』に評論を発表、1935年文芸時評を連載して新進の文芸評論家として注目される。1936年4月-10月同誌に連載した「二葉亭四迷論」で第一回池谷信三郎賞受賞。 1938年フランス政府に招かれて渡仏し、パリ大学に学ぶが、1939年第二次世界大戦勃発に伴って帰国。同年8月より吉田健一、西村孝次、山本健吉と同人誌『批評』を発行した。1940年外務省嘱託となり、1941年これを辞し筑摩書房顧問となる。 戦後は鎌倉アカデミアで教鞭を執る。1949年より明治大学教授。同年丹羽文雄とリアリズムをめぐって論争し、1950年近代日本文学批判である『風俗小説論』を『文藝』2月-5月に連載、6月上梓する。また1951年にはカミュ「異邦人」(『新潮』1951年9月窪田啓作訳)をめぐって広津和郎と論争。翌年読売文学賞受賞。『谷崎潤一郎論』を上梓、1954年『志賀直哉論』を上梓、いずれも大家を否定する内容であった。1956年芥川賞選考委員となる。1957年最初の戯曲「人と狼」を発表し話題となる。 1958-60年には、大岡昇平、福田恆存、三島由紀夫、吉田健一、吉川逸治との集い「鉢の木会」で季刊同人誌『聲』を、丸善を発行元に10号発行した。同時期に『二葉亭四迷伝』を上梓、再び読売文学賞受賞。1959年には「ふたたび政治小説を」を『中央公論』に発表して話題となる。 1962年日本近代文学館理事。1963年京都大学へ講師に赴任したが、この時の教え子に十川信介がおり、十川のために数年間、毎年京大へ行ったという(十川『落ち葉のはきよせ』)。同年初の小説『「わが性の白書」』を発表、上梓。1965年戯曲『汽笛一声』で三たび読売文学賞、1967年明治期の作家長田秋濤を描いた『贋の偶像』で野間文芸賞受賞。1967年日本芸術院賞受賞、1970年秋に芸術院会員。1981年明大を定年退任。1982年秋に文化功労者。 1988年7月12日、肺炎のため神奈川県鎌倉市扇ガ谷の自宅で死去。77歳没。 人物戦後間もなく、『風俗小説論』で日本の私小説を厳しく批判し、島崎藤村の『破戒』のような本格小説が出たのに、田山花袋の『蒲団』のようなものが出て日本の小説がダメになったと主張した。 1955年から30年間芥川賞選考委員を務めたが、中村が退任した以降は選考委員は作家のみとなった。 近代仏文学の分野ではフローベル『ボヴァリー夫人』も翻訳し、蓮實重彦と共同作業を行い、蓮實に影響を与えた。 独特の「ですます」文体による評論は、当人は「文章を長くして原稿料を余分に取るため」と韜晦していた。 姉しげ子は、作家深田久弥の二度目の妻。弟木庭二郎と木庭三郎は共に理論物理学者。 最初の妻との間に二児があったが、中村が43歳時に妻と死別、二度目の妻の木庭久美子は劇作家でもあった。没する直前にカトリックの洗礼を受けた。 木庭弘子木庭弘子(こば ひろこ)は、中村光夫の第一子。1965年、カナダに親善訪問のため派遣される「ミス日本」に選ばれたことで知られる。 1942年頃、生まれる。湘南白百合学園に幼稚園から高校まで通う。1964年3月、聖心女子大学文学部教育学科心理学専攻(現・現代教養学部心理学科)卒業。卒論では記憶の変容について研究。 1965年、カナダに親善訪問のため派遣される「ミス日本」に選ばれる。外国に一度行ってみたいという動機で応募したが、本人によると引っ込み試案で社交下手なのでカナダ大使館から決定の通知を受けても「まさか」と思った。父・中村光夫は親に相談もなく応募したことを窘めたが、母・木庭久美子と妹は励ました。当時159cm, 48kg。高校時代からテニスは大好きで、最近はスキーを始めた(以上出典:)。 作品年譜1935年(24歳)
1936年(25歳)
1940年(29歳)
1941年(30歳)
1942年(31歳)
戦争まで 仏蘭西紀行集 実業之日本社(のち筑摩叢書。中公文庫ほか) 1946年(35歳)
1947年(36歳)
作家と作品 筑摩書房 二葉亭四迷論 進路社 青春と知性 鎌倉書房 1948年(37歳)
1949年(38歳)
二十世紀の小説 筑摩書房 1950年(39歳)
1951年(40歳)
1952年(41歳)
異邦人論 創元社 作家の青春 創文社・フォルミカ選書 1954年(43歳)
小説の読みかた 要書房 日本の近代小説 岩波新書 1957年(46歳)
私の文学論 新潮社 自分で考える 新潮社 文学のありかた 筑摩書房 1958年(47歳)
現代作家論 新潮社 二葉亭四迷伝 講談社(のち講談社文庫。講談社文芸文庫) 1959年(48歳)
文学の回帰 筑摩書房 明治文学史『現代日本文学全集 別巻』の一章(改訂版・筑摩叢書) 1960年(49歳)
旅の話 筑摩書房 パリ繁昌記(戯曲)講談社 1962年(51歳)
1963年(52歳)
1964年(53歳)
制作と発見 文治堂書店 1965年(54歳)
言葉の芸術 講談社 (新版 同・名著シリーズ) 1966年(55歳)
1967年(56歳)
1968年(57歳)
日本の近代 文藝春秋(人と思想)、選集 日本の現代小説 岩波新書 対談・人間と文学 三島由紀夫と 講談社(改訂版 講談社文芸文庫) 1969年(58歳)
1970年(59歳)
時代の感触 時のなかの言葉 文藝春秋 虚実 短編集 新潮社 1971年(60歳)
1972年(61歳)
1973年(62歳)
1974年(63歳)
憂しと見し世 文学回想 筑摩書房(のち中公文庫) 1975年(64歳)
世界文学全集 講談社 ボヴァリイ夫人(中村訳、のち講談社文庫)。なお「三つの物語」は蓮實訳 1976年(65歳)
1977年(66歳)
秋の断想 筑摩書房 論考小林秀雄 筑摩書房(増補版 1983年) 1978年(67歳)
論考川端康成 筑摩書房 ドナウ紀行 日本交通公社出版事業局 1979年(68歳)
漱石と白鳥 筑摩書房 金銭と精神 日本書籍 グロテスク 河出書房新社 1980年(69歳)
私小説名作選 中村編 集英社文庫。講談社文芸文庫(改訂版・上下) 1982年(71歳)
小説とはなにか 福武書店 1983年(72歳)
1985年(74歳)
1986年(75歳)
知人多逝 秋の断想 筑摩書房 没後の1992年10月に「中村光夫全戯曲」筑摩書房
2024/06/10 17:59更新
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nakamura mitsuo
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