山本健吉の情報(やまもとけんきち) 文芸評論家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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山本 健吉さんについて調べます
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飯田龍太: 山本健吉は石田波郷の「琅玕や一月沼の横たはり」を思わせるとしており、また「幼時から馴染んだ川に対して、自分の力量をこえた何かが宿しえた」という作者自解にふれ、「思惟を超えた境に得た句」「それだからこそ、具象抽象の差別を超えて読む者の魂を掴むのである」と評している。 森内俊雄: 2004年 - 「空にはメトロノーム」で第4回山本健吉文学賞(詩部門) 石橋秀野: 俳句評論家山本健吉の妻。 黛まどか: 2002年(平成14年)句集『京都の恋』で第2回山本健吉文学賞を受賞する。 中村光夫: 同年8月より吉田健一、西村孝次、山本健吉と同人誌『批評』を発行した。 中村草田男: 戦後も第二芸術論、「天狼」の根源俳句論、前衛俳句や山本健吉の「軽み」論をめぐる論争でこれらを批判、ほか自身の『銀河依然』(1953年)の序が俳句の社会性の問題を惹起するなど、戦後の俳句論争史において常に主導的な役割を果たした。 水原紫苑: 第7歌集『あかるたへ』で第5回山本健吉文学賞・第10回若山牧水賞を受賞。 森澄雄: 山本健吉は澄雄と龍太を比較して、龍太には土着性に由来する堅固な句柄があるのに対し、「澄雄氏にはむしろ、心の構えをうち崩して、諧謔に興じ入ることが多い。 久保田万太郎: 万太郎は挨拶句の名手であり、前述の山本健吉は虚子と双璧をなすと書いている。 石橋秀野: 昭和4年(1929年)、俳句評論家の山本健吉(本名石橋貞吉)と結婚、石橋姓となる。 玉井清弘: 2002年 - 歌集『六白』で「第2回山本健吉文学賞」および「第2回短歌四季大賞」を受賞 山口青邨: 山本健吉はまたこの句が「俳人の「みちのく」流行の発端をなしたものと思う」としている。 金子兜太: この前後から前衛俳句の旗手とも見なされ、中村草田男、山本健吉らの俳句観と対立し論争も行っている。 高貝弘也: 2009年『子葉声韻』で第39回高見順賞および第9回山本健吉文学賞受賞。 原民喜: 下宿の机には親族や佐々木基一、遠藤周作、丸岡明、鈴木重雄、庄司総一、山本健吉、藤島宇内、佐藤春夫、梶山季之などにあてた17通の遺書があった。 大牧広: 2016年、第15回山本健吉賞受賞。 中村草田男: 掲句の「蟾蜍」は第一句集『長子』を代表する句で、自解によれば「『宿命の中における決意』に近いもの」を暗示しているという(山本健吉はニーチェの「運命愛」と結び付けて論じている)。 石橋忍月: 三男は文芸評論家の山本健吉(本名・石橋貞吉)。 葛西善蔵: 葛西善蔵集 山本健吉編 新潮文庫 1952、復刊1993 三島由紀夫: この旅の前、三島は清水宛てに〈天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。 加藤郁乎: 2005年、『市井風流――俳林随筆』により第5回山本健吉文学賞評論部門受賞。2011年、句集『晩節』により第11回山本健吉文学賞俳句部門受賞。 加藤楸邨: この年の初頭にすぐさま敢行した隠岐紀行での一連の句は、山本健吉により楸邨の一つの頂点を形作ると評された(『定本現代俳句』)。 清水崑: 姉は俳人の石橋秀野(山本健吉夫人)、妻は歌人の清水恒子。 佐佐木幸綱: 2004年、歌集『はじめての雪』で第4回山本健吉文学賞および第27回現代短歌大賞受賞。 阿波野青畝: 素十と対照的に主観語の使用も多く、山本健吉は「四Sの中で句風はいちばん軽く、物足りなさを感ずる場合も多いが、自由さと、愛情と、ユーモアを湛えた生活感情の陰影深さにおいては、第一等であると思う」と評している。 星野立子: 山本健吉は「朴の葉の」の句を評して、「ありふれた日常語の使用や、口語的な発想は、立子の句の一つの特徴をなすもので、虚子の句が持っている即興詩的側面を、立子は承けついでいると言えよう」と書いている。 永田和宏: 2010年 歌集『日和』で第10回山本健吉文学賞 四元康祐: 2002年、詩集『世界中年会議』で第3回山本健吉文学賞・第5回駿河梅花文学賞受賞 中上健次: 俳句に造詣が深い文芸評論家山本健吉や、彼から紹介された角川書店社長にして俳人角川春樹とは毎年、花見の吉野詣をするほどの親交があった。 秋元不死男: 山本健吉は「現実的な人間生活に切り込もうとする意欲は、彼の初期からの特徴をなしている。 |
山本健吉の情報まとめ
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山本 健吉(やまもと けんきち)さんの誕生日は1907年4月26日です。長崎出身の文芸評論家のようです。
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受賞・栄典などについてまとめました。卒業、結婚に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
山本健吉のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)山本 健吉(やまもと けんきち、1907年(明治40年)4月26日 - 1988年(昭和63年)5月7日)は、日本の文芸評論家。本名は石橋貞吉(ていきち)。俳句批評から出発し、古典から現代文学まで幅広く追究。個性と伝統の問題にせまる独自の批評を確立した。昭和を代表する文芸評論家の一人である。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。著書に『現代俳句』(1951年)、『古典と現代文学』(1955年)、『いのちとかたち』(1981年)など。 文芸評論家石橋忍月の三男。最初の妻は俳人の石橋秀野。なお秀野の妹は漫画家の清水崑の妻である歌人の清水恒子。俳文学会、日中文化交流協会、日本ペンクラブ、各会員。 石橋忍月の三男として、長崎市長崎市磨屋町に生まれる。旧制長崎中学、慶應義塾大学国文科卒業。折口信夫に師事した。日本の古典詩歌に詳しく、古典作品と現代文学との関係の究明に力を注いだ。また、ながく文芸時評もつとめ、現代文学に関する著作も多い。「第三の新人」という用語を最初に用いた人物でもある。 1929年、藪秀野(のち俳人石橋秀野)と結婚。一人娘 安見がいる。このころ二人とも当時、非合法下の日本共産党に入党。1932年、特高警察に一か月近く勾留される。 1933年、改造社に入社し、1934年創刊の総合俳誌「俳句研究」に携わり現代俳句への造詣を深める。 1939年8月、「俳句研究」の座談会「新しい俳句の課題」で人間探求派なる用語が生まれた。司会、山本健吉、参加者、中村草田男、加藤楸邨、石田波郷、篠原梵。 同じ1939年8月に、吉田健一、西村孝次、伊藤信吉、中村光夫らと同人文芸誌「批評」を創刊し、私小説を論じる。戦時中の同人雑誌統合のなかで、堀田善衛と交友をもつ。1943年に最初の評論集「私小説作家論」を刊行。 同時期に「島根新聞」(現・山陰中央新報)勤務、「京都日日新聞」(現・京都新聞)文化部長。1948年から角川書店の編集長を務める。 40代まで貧困に苦しむことも多かったが、戦後、俳句論を中心に現代文学など多くの分野で著述した。 1967年~1978年、明治大学教授。1969年(昭和44年)より日本芸術院会員。1972年(昭和47年)に日本文藝家協会理事長、のち会長となる。 1988年5月7日、急性呼吸不全のため東京都渋谷区代々木の榊原記念病院で死去。 1995年、父の出身地八女に遺品を集めた山本健吉・夢中落花文庫が開設された。 墓は福岡県八女市の無量寿院にある。 受賞・栄典1949年(昭和24年)、『三田文学』掲載の「美しき鎮魂歌―『死者の書』を読みて」で第1回戸川秋骨賞を受賞。 1955年(昭和30年)、『芭蕉』で新潮社文学賞を受賞。 1956年(昭和31年)、『古典と現代文学』で第7回読売文学賞を受賞。 1960年(昭和35年)、『民俗文学講座』で毎日出版文化賞を受賞。 1963年(昭和38年)、『柿本人麻呂』で第14回読売文学賞を受賞。 1966年(昭和41年)、日本芸術院賞を受賞。 1972年(昭和42年)、『最新俳句歳時記』で第24回読売文学賞を受賞。同年、勲三等旭日中綬章を受章。 1979年(昭和54年)、『詩の自覚の歴史』で日本文学大賞を受賞。 1981年(昭和56年)、『いのちとかたち』で野間文芸賞を受賞。同年秋に文化功労者。 1983年(昭和58年)、11月に文化勲章を受章。 1984年(昭和59年)、正月の宮中歌会始で召人となる。 2024/06/17 09:29更新
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yamamoto kenkichi
山本健吉と同じ誕生日4月26日生まれ、同じ長崎出身の人
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