辰野隆の情報(たつのゆたか) 文学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
辰野 隆さんについて調べます
■名前・氏名 |
辰野隆と関係のある人
長谷川如是閑: なお、如是閑の思想は、友人のジャーナリスト丸山幹治の息子である政治学者の丸山眞男や仏文学者辰野隆等に大きな影響を与えている。 ギョーム=アポリネール: 辰野隆、鈴木信太郎、堀辰雄共訳『贋救世主アンフィオン ― 一名ドルムザン男爵の冒険物語』野田書房、1936年(目次・書誌情報)、沖積舎、2005年 今日出海: 1925年(大正14年)、東京帝国大学仏蘭西文学科へ入学し、辰野隆・鈴木信太郎らに学んだ。 志賀直哉: 直哉の門人である河盛好蔵や辰野隆は「失言」ととらえており、他の門人たちも特に触れた文章を残していない。 双葉十三郎: 自身は辰野隆に傾倒し、仏文科へ進みたかったのだが、父親から「仏文に行ったら勘当する」と強硬に申し渡されたため、泣く泣く経済学部に入学した。 太宰治: 目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。しかし友人の大高勝次郎などには、仏文科への志望を「肩書のカッコ良さ」や「高名な研究者の辰野隆がいるから」など、もっともらしい理由をつけて虚勢を張っていたという。 岸田國士: 鈴木信太郎・辰野隆・豊島与志雄らと知悉を得る。 谷崎潤一郎: 一中では、大貫雪之助(岡本かの子の兄)、土屋計左右、恒川陽一郎、吉井勇、辰野隆らと知り合う。 林髞: 『随筆寄席』全4巻 辰野隆、徳川夢声共著 日本出版協同 1954-60 エドモン=ロスタン: 辰野隆・鈴木信太郎「シラノ週報の場」、鶴見俊輔・安野光雅・森毅・井上ひさし・池内紀共編『ちくま哲学の森7』(筑摩書房〈ちくま文庫〉2012年)所収 鈴木力衛: 『世界古典文学全集47 モリエール』(他は辰野隆訳:筑摩書房) 1965 佐藤正彰: 東京帝国大学仏文科卒、辰野隆の門下生。 辰野金吾: 東大仏文科で小林秀雄、三好達治らを育てた仏文学者の辰野隆は息子であり、薬学者の辰野高司は孫である。 出口裕弘: 『辰野隆 日仏の円形広場』(新潮社) 1999、のち中公文庫 2019 エドモン=ロスタン: 辰野隆・鈴木信太郎共訳、白水社、1922年、1951年 / 岩波書店〈岩波文庫〉1951年、1983年 ヴィリエ=ド=リラダン: 大正・昭和初期に、フランス文学者の辰野隆が講読紹介し、鈴木信太郎・伊吹武彦等と『リイルアダン短編集』(上・下、弘文堂書房→岩波文庫)を訳した。 白井浩司: 1966年第2回辰野隆賞受賞、1976年フランス政府より教育功労章授与。 徳川夢声: 1949年、第1回文藝春秋読者賞「天皇陛下大いに笑ふ」(辰野隆・サトウハチロー鼎談) 岸田國士: フランス文学や近代演劇を学び、鈴木信太郎・辰野隆・豊島与志雄・関根秀雄らと親交をむすぶ。 徳川夢声: 随筆寄席 座談会 全4巻(辰野隆、林髞共編) 日本出版協同 1954 / 新版 春歩堂 1960 日夏耿之介: 友人・知人による還暦記念論集(全53篇)『近代日本の教養人 日夏耿之介博士華甲記念文集』(辰野隆編、実業之日本社)が刊行 中島健蔵: 1934年、辰野隆や鈴木信太郎の世話で臨時講師となる。 中島健蔵: 当時助教授だった辰野隆に師事する。 笠置シヅ子: シズ子の後援会には錚々たる顔ぶれが集まり、作家の吉川英治、林芙美子、林房雄、フランス文学研究の辰野隆、画家の梅原龍三郎、女優の田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子らの名前があったが、特に映画『銀座カンカン娘』で共演した高峰はシズ子の追っかけをするほどの大ファンで「笠置シヅ子は歌そのものであった」とシズ子の事を絶賛した。 水野成夫: 翻訳に当たってはフランス文学者の辰野隆の紹介で辰野の弟子に当たる渡辺一夫と出会い、翻訳上、不明な点がある時は、渡辺の教えを請い正確を期した。 田中舘愛橘: ただし、藤井は辰野隆が『スポオツ随筆』で「計測の誤り」「11秒24の間違いではないか」と書いたことを見て激怒し、それを1950年頃に愛橘に伝えると、愛橘も「あれがおかしいということはない。 夏目漱石: その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した。 邱永漢: しかし文学への関心やみがたく、仏文科の辰野隆の講義も聴講した。 今江祥智: ヴェルコールやクロード・モルガンやルイ・アラゴンやアランやフランソワ・ラブレーなどの仏文学に傾倒し、辰野隆や渡辺一夫など仏文学者の著書を愛読、さらにロマン・ロラン研究会を設立して顧問に新村猛講師(当時名古屋大学教授)を迎える。 |
辰野隆の情報まとめ
辰野 隆(たつの ゆたか)さんの誕生日は1888年3月1日です。東京出身の文学者のようです。
受賞・栄典、人となりなどについてまとめました。卒業に関する情報もありますね。
辰野隆のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)辰野 隆(たつの ゆたか、1888年(明治21年)3月1日 - 1964年(昭和39年)2月28日)は、日本の仏文学者・随筆家。東京帝国大学教授として多くの後進を育てた。初めて本格的にフランス文学を日本に紹介した。 建築家の父・辰野金吾と母・秀子の長男として東京市に生まれる。赤坂中之町小学校卒業後、東京府立第一中学校、第一高等学校を経て、1908年に東京帝国大学法科大学仏蘭西法学科に入学し、1913年に卒業。文学研究を志し、1916年に東京帝国大学文科大学仏蘭西文科卒業、卒業後は大学院へ進んで5年間学ぶ。 1918年より慶應義塾大学文学部講師、また同年より母校の東京帝国大学文科大学仏蘭西文学科副手。翌1919年より早稲田大学文学部講師。1920年には東京帝国大学文学部講師に昇進、1921年には東京帝国大学助教授に昇進(東大仏文科初の日本人助教授)。加えて、同年より研究のため2年間フランスに留学する。1923年に帰国し、1930年には文学博士号を取得。1931年教授に昇任した。定年退官するまで、フランス文学の主任教授を務めた。この間、1932年より新設された明治大学文藝科でも講師(非常勤)で教えた。1948年、東京大学を定年退官し、名誉教授。東京大学退官後は中央大学専任講師となり、仏文学専攻を創設し、1950年から教授を務めた。また、晩年の1960年4月に、「ボオドレエルの態度」を東京大学に提出して文学博士号を取得。 戦時中は日本文学報国会理事。1948年に日本芸術院会員となる。 墓所は新宿区常圓寺。 受賞・栄典1962年:文化功労者となった。 1964年:従三位、勲一等瑞宝章授与。 人となり業績各・1922年(大正11年)に白水社で出版した、鈴木信太郎との共訳『シラノ・ド・ベルジュラック』と、初の著書『信天翁の眼玉』は日本初の本格的フランス文学紹介であり、数々の学生がフランス文学に進むきっかけとなった。 『さ・え・ら』、『あ・ら・か・る・と』など軽妙な文芸エッセイでも知られた。漱石や谷崎らを取り上げた『忘れ得ぬ人々』は人物描写エッセイ(ポルトレ)の名著と評される。 弟子・知人東大での教え子では、三好達治・渡辺一夫・飯島正・伊吹武彦・小林秀雄・田辺貞之助・今日出海・中島健蔵・井上究一郎・中村光夫・森有正・鈴木力衛・小松清ら、早稲田大学の教え子からは佐藤輝夫など、文学研究・文芸評論で活躍した人物が輩出した。 谷崎潤一郎とは府立一中以来の友人である。 2024/06/10 01:26更新
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tatsuno yutaka
辰野隆と同じ誕生日3月1日生まれ、同じ東京出身の人
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