辰野隆の情報(たつのゆたか) 文学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
辰野 隆さんについて調べます
■名前・氏名 |
辰野隆と関係のある人
谷崎潤一郎: 一中では、大貫雪之助(岡本かの子の兄)、土屋計左右、恒川陽一郎、吉井勇、辰野隆らと知り合う。 林髞: 『随筆寄席』全4巻 辰野隆、徳川夢声共著 日本出版協同 1954-60 徳川夢声: 1949年、第1回文藝春秋読者賞「天皇陛下大いに笑ふ」(辰野隆・サトウハチロー鼎談) 今江祥智: ヴェルコールやクロード・モルガンやルイ・アラゴンやアランやフランソワ・ラブレーなどの仏文学に傾倒し、辰野隆や渡辺一夫など仏文学者の著書を愛読、さらにロマン・ロラン研究会を設立して顧問に新村猛講師(当時名古屋大学教授)を迎える。 出口裕弘: 『辰野隆 日仏の円形広場』(新潮社) 1999、のち中公文庫 2019 ギョーム=アポリネール: 辰野隆、鈴木信太郎、堀辰雄共訳『贋救世主アンフィオン ― 一名ドルムザン男爵の冒険物語』野田書房、1936年(目次・書誌情報)、沖積舎、2005年 ヴィリエ=ド=リラダン: 大正・昭和初期に、フランス文学者の辰野隆が講読紹介し、鈴木信太郎・伊吹武彦等と『リイルアダン短編集』(上・下、弘文堂書房→岩波文庫)を訳した。 鈴木力衛: 『世界古典文学全集47 モリエール』(他は辰野隆訳:筑摩書房) 1965 白井浩司: 1966年第2回辰野隆賞受賞、1976年フランス政府より教育功労章授与。 岸田國士: 鈴木信太郎・辰野隆・豊島与志雄らと知悉を得る。 エドモン=ロスタン: 辰野隆・鈴木信太郎「シラノ週報の場」、鶴見俊輔・安野光雅・森毅・井上ひさし・池内紀共編『ちくま哲学の森7』(筑摩書房〈ちくま文庫〉2012年)所収 長谷川如是閑: なお、如是閑の思想は、友人のジャーナリスト丸山幹治の息子である政治学者の丸山眞男や仏文学者辰野隆等に大きな影響を与えている。 双葉十三郎: 自身は辰野隆に傾倒し、仏文科へ進みたかったのだが、父親から「仏文に行ったら勘当する」と強硬に申し渡されたため、泣く泣く経済学部に入学した。 岸田國士: フランス文学や近代演劇を学び、鈴木信太郎・辰野隆・豊島与志雄・関根秀雄らと親交をむすぶ。 水野成夫: 翻訳に当たってはフランス文学者の辰野隆の紹介で辰野の弟子に当たる渡辺一夫と出会い、翻訳上、不明な点がある時は、渡辺の教えを請い正確を期した。 佐藤正彰: 東京帝国大学仏文科卒、辰野隆の門下生。 エドモン=ロスタン: 辰野隆・鈴木信太郎共訳、白水社、1922年、1951年 / 岩波書店〈岩波文庫〉1951年、1983年 中島健蔵: 1934年、辰野隆や鈴木信太郎の世話で臨時講師となる。 日夏耿之介: 友人・知人による還暦記念論集(全53篇)『近代日本の教養人 日夏耿之介博士華甲記念文集』(辰野隆編、実業之日本社)が刊行 今日出海: 1925年(大正14年)、東京帝国大学仏蘭西文学科へ入学し、辰野隆・鈴木信太郎らに学んだ。 志賀直哉: 直哉の門人である河盛好蔵や辰野隆は「失言」ととらえており、他の門人たちも特に触れた文章を残していない。 辰野金吾: 東大仏文科で小林秀雄、三好達治らを育てた仏文学者の辰野隆は息子であり、薬学者の辰野高司は孫である。 徳川夢声: 随筆寄席 座談会 全4巻(辰野隆、林髞共編) 日本出版協同 1954 / 新版 春歩堂 1960 邱永漢: しかし文学への関心やみがたく、仏文科の辰野隆の講義も聴講した。 田中舘愛橘: ただし、藤井は辰野隆が『スポオツ随筆』で「計測の誤り」「11秒24の間違いではないか」と書いたことを見て激怒し、それを1950年頃に愛橘に伝えると、愛橘も「あれがおかしいということはない。 夏目漱石: その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した。 中島健蔵: 当時助教授だった辰野隆に師事する。 笠置シヅ子: シズ子の後援会には錚々たる顔ぶれが集まり、作家の吉川英治、林芙美子、林房雄、フランス文学研究の辰野隆、画家の梅原龍三郎、女優の田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子らの名前があったが、特に映画『銀座カンカン娘』で共演した高峰はシズ子の追っかけをするほどの大ファンで「笠置シヅ子は歌そのものであった」とシズ子の事を絶賛した。 太宰治: 目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。しかし友人の大高勝次郎などには、仏文科への志望を「肩書のカッコ良さ」や「高名な研究者の辰野隆がいるから」など、もっともらしい理由をつけて虚勢を張っていたという。 |
辰野隆の情報まとめ
辰野 隆(たつの ゆたか)さんの誕生日は1888年3月1日です。東京出身の文学者のようです。
卒業、兄弟、結婚に関する情報もありますね。1964年に亡くなられているようです。
辰野隆のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)辰野 隆(たつの ゆたか、1888年(明治21年)3月1日 - 1964年(昭和39年)2月28日)は、日本の仏文学者・随筆家。東京帝国大学教授として多くの後進を育てた。初めて本格的にフランス文学を日本に紹介した。 建築家の父・辰野金吾と母・秀子の長男として東京市に生まれる。赤坂中之町小学校卒業後、東京府立第一中学校、第一高等学校を経て、1908年に東京帝国大学法科大学仏蘭西法学科に入学し、1913年に卒業。文学研究を志し、1916年に東京帝国大学文科大学仏蘭西文科卒業、卒業後は大学院へ進んで5年間学ぶ。 1918年より慶應義塾大学部文学科講師、また同年より母校の東京帝国大学文科大学仏蘭西文学科副手。翌1919年より早稲田大学大学部文学科講師。1920年には東京帝国大学文学部講師に昇進、1921年には東京帝国大学助教授に昇進(東大仏文科初の日本人助教授)。加えて、同年より研究のため2年間フランスに留学する。1923年に帰国し、1930年には文学博士の学位を取得。1931年教授に昇任した。定年退官するまで、フランス文学の主任教授を務めた。この間、1932年より新設された明治大学専門部文科文芸科でも講師(非常勤)で教えた。1948年、東京大学を定年退官し、名誉教授。東京大学退官後は中央大学専任講師となり、仏文学専攻を創設し、1950年から教授を務めた。また、晩年の1960年4月に、「ボオドレエルの態度」を東京大学に提出して文学博士号を取得。 戦時中は日本文学報国会理事。1948年に日本芸術院会員となる。 墓所は新宿区常圓寺。 1962年:文化功労者となった。 1964年:従三位、勲一等瑞宝章授与。 各・1922年(大正11年)に白水社で出版した、鈴木信太郎との共訳『シラノ・ド・ベルジュラック』と、初の著書『信天翁の眼玉』は日本初の本格的フランス文学紹介であり、数々の学生がフランス文学に進むきっかけとなった。 『さ・え・ら』、『あ・ら・か・る・と』など軽妙な文芸エッセイでも知られた。漱石や谷崎らを取り上げた『忘れ得ぬ人々』は人物描写エッセイ(ポルトレ)の名著と評される。 東大での教え子では、三好達治・渡辺一夫・飯島正・伊吹武彦・小林秀雄・田辺貞之助・今日出海・中島健蔵・井上究一郎・中村光夫・森有正・鈴木力衛・小松清ら、早稲田大学の教え子からは佐藤輝夫など、文学研究・文芸評論で活躍した人物が輩出した。 谷崎潤一郎とは府立一中以来の友人である。 父辰野金吾は建築家。東京駅(丸の内)・日本銀行本店などの設計で知られる近代日本を代表する建築家で、その長男である。 兄弟:辰野保は陸上選手で、隆本人も学生時代は運動に打ち込み、体力には自信があった。父金吾は国技館(初代)の設計者でもあり、また大の相撲好きで、中学時代に隆を相撲部屋に入門させた。隆も1950年から終生、横綱審議委員を務めた。 妻:辰野久子は江川英龍の孫。 息子:辰野高司は薬学者。日本薬史学会副会長、理化学研究所名誉研究員。
胸襟を開いた座談のことを「臥談会」と称していた。 戦後の1949年2月、サトウハチロー・徳川夢声と共に皇居へ参内。昭和天皇との会見録である「天皇陛下大いに笑う」が、文藝春秋に掲載され大いに反響を呼んだ。 いち早くアイバンクに登録し死後、角膜献体をした。 『信天翁の眼玉』白水社, 1922年、三笠書房<三笠文庫>, 1951年 『佛蘭西文學の話』春陽堂, 1925年 『白葡萄』春陽堂, 1925年 『佛蘭西文藝閑談』聚芳閣, 1926年 『ボオドレエル研究序説』第一書房, 1929年、白水社, 1935年、全國書房, 1948年、酣燈社, 1951年 『さ・え・ら』白水社, 1931年 『え・びやん』白水社, 1933年 『南の風』白水社, 1933年 『ドンク』中央公論社, 1934年 『りやん』白水社, 1935年 『あ・ら・かると 評論・随筆』白水社, 1936年 『スポオツ閑談』昭森社, 1936年 『南の窓 佛蘭西翻案戯曲集』創元社, 1937年、白水社, 1952年 『書齋閑談』白水社, 1938年 『忘れ得ぬ人々』弘文堂書房, 1939年、角川文庫, 1950年/講談社文芸文庫(新編), 1991年 『ルナアルを語る』白水社, 1939年 『印象と追憶』弘文堂書房, 1940年 『續 忘れ得ぬ人々』弘文堂書房, 1940年、角川文庫, 1950年 『ふらんす人』青木書店, 1941年/講談社文芸文庫(新編), 1991年 『佛蘭西文學』(上下) 白水社, 1943年 - 度々重版。新装版1954年・1975年ほか。 『谷崎潤一郎』イヴニング・スター社, 1947年/日本図書センター(復刻版), 1992年 『河童随筆』酣燈社, 1947年 『青春回顧』酣燈社, 1947年 『酔眠巣雑記』生活社, 1947年 『佛蘭西演劇私観』酣燈社, 1948年 『フアブルの目』秀文館, 1948年 『辰野隆選集』(全5巻) 改造社, 1948年-1950年/日本図書センター(復刻版), 2004年
忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎(新訂版・中公文庫, 2015年) / 信天翁の眼玉 『忘れ得ぬことども』朝日新聞社, 1948年 『曳尾庵随筆』要書房, 1948年 『燈前茶後』日本出版協同, 1949年 『閑人独語』洛陽書院, 1949年 『男女問答』要書房, 1950年 『老若問答』要書房, 1950年 『ひとりごと』河出書房, 1950年 『老書生独語』河出書房, 1951年 『フランス文學入門』要書房, 1951年 『老年期』要書房, 1951年 『えとせとら』三笠書房, 1953年 『独語と対話 青春と老後』実業之日本社, 1956年 『凡愚問答』角川新書, 1956年 『凡愚春秋』角川新書, 1957年 『現代知性全集14 辰野隆集』日本書房, 1959年/復刻版「日本人の知性19 辰野隆」学術出版会, 2010年 『フランス革命夜話』朝日新聞社, 1958年/福武文庫, 1989年/中公文庫, 2015年 『おかめはちもく』河出書房新社, 1961年 『ボーマルシェーとフランス革命』筑摩書房, 1962年 『辰野隆随想全集』(全5巻・別巻)福武書店, 1983年
4.ふらんすとふらんす人、5.忘れ得ぬことども 別巻「天皇陛下大いに笑う」 対談・座談集 『スポオツ随筆』辰野保共著 大畑書店, 1932年 『佛蘭西自然主義』本田喜代治共著 三省堂, 1936年 『モリエール』本田喜代治共著 創元選書, 1939年 『現代随想全集5 辰野隆・内田百閒集』創元社, 1953年 『シラノ・ド・ベルジュラック』 エドモン・ロスタン 鈴木信太郎共訳 白水社, 1922年(のち岩波文庫)。ISBN 400325631X/ISBN 978-4003256312 『孤客 ミザントロオプ』 モリエール、筑摩書房, 1947年(のち岩波文庫)。ISBN 4003251210/ISBN 978-4003251249 『女房学校 他2編』 モリエール、鈴木力衛共訳、岩波文庫。ISBN 4003251245/ISBN 978-4003251218 『フィガロの結婚』 ボーマルシェ、要書房, 1950年(のち岩波文庫)。ISBN 4003252217/ISBN 978-4003252215 『贋救世主アンフィオン 一名ドルムザン男爵の冒険物語』 アポリネール 鈴木信太郎・堀辰雄共訳 沖積舎、復刊2005年。ISBN 4806030473/ISBN 978-4806030478 『酒談義』(正・続) 日本交通公社, 1949-1950年 『近代日本の教養人』 実業之日本社, 1950年 - 友人日夏耿之介の還暦記念論集 『大学生活第二』 光文社, 1950年 『落第読本』 鱒書房, 1955年 出口裕弘『辰野隆 日仏の円形広場』(新潮社, 1999年/中公文庫, 2019年) ^ 鈴木信太郎『辰野隆前曾長の思出 : 辰野隆博士著作目録・年譜』日本フランス語フランス文学会、1964年。doi:10.20634/ellf.5.0_1。https://doi.org/10.20634/ellf.5.0_1。2022年7月31日閲覧。 ^ 東京駅・辰野金吾家の人々宮島醤油会長コラム ^ 退官後に勤務した中央大学は、敬愛した長谷川如是閑の母校で、父金吾が同校最初の新築校舎(1888年英吉利法律学校)及び同校の校長邸宅(1911年増島六一郎、1906年菊池武夫)を設計したという縁がある。 ^ 『世界文學』1947年12月号、p.1 辰野隆:作家別作品リスト - 青空文庫 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 韓国 オランダ 日本の文学研究者 フランス文学者 20世紀日本の翻訳家 20世紀日本の随筆家 文化功労者 日本藝術院会員 横綱審議委員会委員 文学博士取得者 東京大学の教員 学習院大学の教員 中央大学の教員 辰野金吾 東京大学出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 東京都立日比谷高等学校出身の人物 東京都区部出身の人物 日本文学報国会の人物 従三位受位者 勲一等瑞宝章受章者 1888年生 1964年没 シラノ・ド・ベルジュラック プロジェクト人物伝項目 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 - 2022年7月 2024/11/21 18:14更新
|
tatsuno yutaka
辰野隆と同じ誕生日3月1日生まれ、同じ東京出身の人
TOPニュース
辰野隆と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「辰野隆」を素材として二次利用しています。