池永浩久の情報(いけながひろひさ) 映画プロデューサー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
池永 浩久さんについて調べます
■名前・氏名 |
池永浩久と関係のある人
渡辺邦男: 仕事を求めて日活大将軍撮影所長・池永浩久に紹介される機会を持ち、面接で監督志望を伝えるが「3年間は俳優をしろ」と命じられ、初任給30円で雇われる。 夏川静江: このとき日活撮影所所長が池永浩久で、池永の命で永田雅一がマキノの面倒を見てくれた。 村田実: 1932年(昭和7年)8月、中谷貞頼専務が、名物所長として知られた池永浩久とその一派を駆逐し所内の実権を握ろうとした内紛劇が起こり、さらに中谷が経営合理化の名目で撮影所従業員186名を大量解雇したことによる大争議が勃発、他の幹部監督らと従業員側に立って争議を指導したが、やがて激化する従業員側と会社側との板挟みになり、9月には争議を「収拾する能力なくその任に耐えず」と伊藤大輔・内田吐夢・田坂具隆・小杉勇・島耕二・製作部の芦田勝の「脱退七人組」と共に退社した。 浦辺粂子: 池永浩久撮影所長から「ちどり(千鳥)なんて、波間に漂っている宿無し鳥で縁起が悪い。 田村邦男: 「奇行の人」として知られ、とくに借金の名人で、当時の日活京都撮影所長の池永浩久に対して、巧みな弁舌で前借りを繰り返したという。 田中春男: 1925年、映画俳優になるため、日活大将軍撮影所所長の池永浩久の自宅を訪ねて入社を懇請した。 山田五十鈴: 1930年(昭和5年)、父が日活太秦撮影所所長の池永浩久を知っていた縁で、同撮影所に月給百円という幹部女優並みの待遇で入社。 マキノ雅弘: 野村芳亭、池永浩久、高松豊次郎、根岸寛一、城戸四郎らの映画人とは父の代から交流があった。 大河内傳次郎: 入社の経緯は、大河内の母方の従弟が大将軍撮影所長の池永浩久と郷里(中津市)を同じくし、私塾でも同じだったことから、同じく従弟同士の大久保謙治が浅岡信夫に薦められて日活入りを池永に頼んだ際、ついでに大河内の入社も頼み、2人とも入社がかなったということである。 牧野省三: 葬儀は御室撮影所で営まれ、池永浩久が葬儀委員長を務めた。 長谷川一夫: マキノによると池永浩久や渡辺邦男監督、護衛にあたった笹井組の笹井静一(マキノ正博の義理の兄)も強いショックを受けていたといい、笹井はマキノの問いに対して、この事件の裏に大金を生むスタアを巡った、映画会社のどろどろとした内幕を示唆している。 |
池永浩久の情報まとめ
池永 浩久(いけなが ひろひさ)さんの誕生日は1877年3月24日です。大分出身の映画プロデューサーのようです。
映画、現在、引退、事件、退社、病気に関する情報もありますね。1954年に亡くなられているようです。
池永浩久のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)池永 浩久(いけなが こうきゅう、明治10年(1877年)3月24日 - 昭和29年(1954年)3月6日)は、日本の映画プロデューサー、実業家、元俳優である。日活向島撮影所長を皮切りに、撮影所長を歴任し、やがて太秦発声映画を設立、現在の東宝の創成期に関わった人物として知られる。本名は三治、俳優時代の芸名は澤田 憲、澤田 三治。 1877年(明治10年)3月24日、大分県に池永三治として生まれる。 当初壮士芝居の俳優として活躍。山田九州男(山田五十鈴の実父)の一座にいたこともある。 1910年(明治43年)、33歳を迎え、牧野省三の紹介で横田永之助の横田商会二条城撮影所で、同社製作の映画に出演した。当時の芸名は澤田憲、澤田三治であった。1912年(明治45年)1月には新規開業の法華堂撮影所に移転、同年(大正元年)9月10日、横田商会を含めた4社合併で日活が設立されると、牧野とともに日活に残った。 やがて俳優業を引退し、「池永浩久」と改名、1922年(大正11年)5月、45歳のころ、東京の日活向島撮影所長に就任する。同撮影所は、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で壊滅、復興につとめるも同年11月14日、京都の日活大将軍撮影所に全従業員を移転させる。池永は同所長に就任する。池永と千本組・笹井静一との当時の結びつきは強く、池永みずから「笹井の影に池永あり、池永の影に笹井あり」と語っていたという。 1927年(昭和2年)12月、50歳のころ、日活太秦撮影所を開業し同社取締役所長に就任した。1932年(昭和7年)には監督・脚本家であった横田豊秋を俳優に転向させた。同年8月、中谷貞頼専務取締役による大解雇事件により日活を退社し、56歳となる翌1933年(昭和8年)3月に大澤善夫が設立したJ.O.スタヂオの顧問となる。同社内に太秦発声映画を設立して取締役となった。1936年(昭和11年)、昭和会から衆議院議員選挙に立候補するが落選した。 1937年(昭和12年)9月10日、J.O.スタヂオを含めた4社合併で東宝映画が設立されると、同社の取締役に就任した。1943年(昭和18年)12月、同社は東京宝塚劇場と合併し、現在の東宝になり、池永はひきつづき取締役となった。1947年(昭和24年)、70歳で退任した。 1954年(昭和29年)3月6日、死去した。満76歳没。 日活京都の名物所長として、「人情所長」、「天神さん」、「聯隊長」とも呼ばれ、所員の多くに人気があった。「天神さん」と呼ばれたのは菅原道真のようなヒゲを生やしていたからで、「聯隊長」というのは所員に対する演説の口調が、ちょうど聯隊長の訓示に似ていたからである。「人情所長」は言わずと知れた人情にもろいことで、俳優が金を借りたい時など「母が病気で・・・国へ帰りたいと思いますので少々・・・」などと湿っぽい口調で願い出ると、「ウンそうか、親孝行のためかッ」と、十円くらいは貸してくれたのである。 中にはこの手で借りた金を遊蕩に使ったり、洋服の借金を払ったりする者もいたが、それがばれても「だまされたのは俺の不徳だ」と言って、カンラカラカラと笑ってすんだ。あるとき、涙を流して「母が亡くなったので」と借金を申し出た俳優がいて、池永所長は同情して十円の旅費に五円の香典まで添えて渡した。この俳優が所長室を出ようとしたときに小首を傾げ、「待て待て、お前のお母さんは昨年亡くなったのと違うか」と聞いたところ、俳優はしまったとばかりに飛んで逃げて行ってしまった。このときも池永所長は「またやられたか」とばかり、カンラカラカラと笑ったという。 池永は役者時代に山田九州男の一座にいたことがあるので、座長の娘である山田五十鈴を日活のニューフェイスとして売り出すことはいわば恩返しでもあった。池永は所長当時、京都下河原の料亭旅館「さくら家」を私的な定宿にしていて、所長の前歴がゴシップになることを恐れた池永は、山田五十鈴との契約をこの宿で秘密裏に行っている。 『乃木将軍と生涯』、監督牧野省三、主演尾上松之助、共演牧野正唯、日活関西撮影所、1912年11月15日、浅草・大勝館 - 出演、「澤田三治」名義 『実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻』、監督・脚本池田富保、主演尾上松之助、日活大将軍撮影所、1926年4月1日、浅草・富士館 - 総指揮 『維新の京洛 竜の巻 虎の巻』、監督・脚本池田富保、日活太秦撮影所、1928年9月27日、内幸町・帝国劇場 - 総指揮 『博士の子』、原作・主演志賀廼家淡海、監督・脚本池田富保、J.O.スタヂオ、1933年5月18日、日活系 - 総指揮、トーキー作品 『皇道日本』、構成青木泰介、原文三浦耕作、撮影円谷英二、音楽飯田信夫、東宝映画、1940年4月24日 - 総指揮 ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊) ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊) 澤田三治、池永浩久 - 日本映画データベース Hirohisa Ikenaga - IMDb(英語) 日本の映画プロデューサー 日本の実業家 サイレント映画 日活の人物 東宝の人物 戦前の日活の俳優 1877年生 1954年没 大分県出身の人物 プロジェクト人物伝項目
2024/11/12 09:49更新
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