田口卯吉の情報(たぐちうきち) 経済学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
田口 卯吉さんについて調べます
■名前・氏名 |
田口卯吉と関係のある人
谷干城: こうした状況でも谷の政治活動は続けられ、貧民救済の立場から足尾鉱毒事件で実地調査と被害者救済に奔走、田口卯吉と地租増徴を巡り論争、宮古島における人頭税廃止運動を熱心に応援している。 米村亮太朗: 青天を衝け(2021年) - 田口卯吉 役 嘉治隆一: その妻の淑子は田口文太の娘で田口卯吉の孫。 徳富蘇峰: 同書は蘇峰の上京後に田口卯吉の経済雑誌社より刊行されたものであるが、その華麗な文体は多くの若者を魅了し、たいへん好評を博したため、蘇峰は東京に転居して論壇デビューを果たした。 谷垣禎一: また読書を巡るインタビューでは、竹越与三郎の『二千五百年史』、田口卯吉の『日本開化小史』、北畠親房『神皇正統記』、新井白石『読史余論』といった史論への嗜好を語っている。 犬養毅: 明治10年代初めごろに豊川良平と東海社を興し、『東海経済新報』の中心として保護主義経済(保護貿易)を表明している(田口卯吉らの『東京経済雑誌』は自由主義を表明しており、論戦となった)。 植木枝盛: 5月に上京し自由党臨時会に出席し、馬場辰猪・中江兆民・田中耕造・田口卯吉・末広重恭と共に『自由新聞』社説を担当。 嘉治隆一: 『田口卯吉』時事通信社「三代言論人集・第5巻」1963 相馬愛蔵: 内村鑑三らの教えを受け、田口卯吉(歴史家、実業家)の知遇を得た。 上田敏: 一高在学中、田口卯吉邸に寄寓しており、平田禿木を通じて北村透谷・島崎藤村らの『文学界』同人となり、東大在学中、第一期『帝国文学』の創刊(1895年(明治28年1月))にかかわる。 井上勝: 両毛鉄道を率いた田口卯吉社長は、民営鉄道こそが鉄道発展を促すとして井上と対立した。 |
田口卯吉の情報まとめ
田口 卯吉(たぐち うきち)さんの誕生日は1855年6月13日です。東京出身の経済学者のようです。
家族、田口家住宅などについてまとめました。現在、結婚、家族、卒業、姉妹に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
田口卯吉のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)田口 卯吉(たぐち うきち、安政2年4月29日〈1855年6月12日〉 - 明治38年〈1905年〉4月13日)は、日本の経済学者、歴史家、実業家、政治家、ジャーナリスト。東京府会議員、衆議院議員。法学博士。名は鉉(みつ)。卯吉は通称。字は子玉。名は鼎吉とも書く。号は鼎軒。反保護主義派。 安政2年(1855年)、江戸目白台の徒士屋敷(現在は東京都文京区目白台の日本女子大学敷地内)に生まれる。幕臣の家庭。父は西山家から養子に入った樫郎、母は町子。田口家は初代右衛門が将軍・徳川吉宗の従士として使えて以来の家系で、のちに零落し、天保12年(1841年)に佐藤一斎が株を買い、一斎の長男である慎左衛門が継ぐ。慎左衛門の娘町子は井上家に嫁いだ後に後家となり、樫郎を婿に迎えた。 安政6年(1859年)に父の樫郎、翌年には長兄の貫一郎が相次いで死去し、幼くして家督を相続。慶応2年(1866年)に元服して従士見習いとなるが、12月に幕府の軍制改革で従士組が廃止され、新設の銃隊に配属される。また、昌平坂学問所でも学んでいる。同年には異父姉の鐙子が但馬出石藩の儒者・木村熊二に嫁ぎ、田口家も下谷の木村家と同居する。近所の徒目付・乙骨太郎乙とも親交があった。明治維新による幕府瓦解において義兄の熊二は彰義隊を支援するなど抵抗し、田口家は横浜へ逃れ商売を行う。卯吉は乙骨の勧めで旧幕臣の経営する骨董屋で働き、アメリカ長老派の宣教師に英語を学ぶ。 明治元年(1868年)に徳川家の静岡移封に伴い沼津へ移住し、沼津兵学校で英語教師をしていた乙骨のもとへ寄宿する。兵学校で学び、中根淑の漢学塾でも学ぶ。兵学校時代に島田三郎と知り合い、中根塾では伊庭想太郎らと交友している。 明治2年(1869年)に静岡藩の生育方に付くが同年9月に廃止され、義兄の熊二や父の実家西山家の周旋で沼津勤番組に配属される。明治3年(1870年)9月に第六期資業生試験に合格し、12月には静岡病院での医学修行を拝命する。また、義兄の熊二はこのころ海外渡航し、卯吉は家長の立場となる。 明治4年(1871年)廃藩置県で静岡藩が解消され主な人材が東京へ移ると、卯吉も乙骨とともに上京する。島田とともに薬屋を志し、開校予定の科学専門学校に応募するが開校は中止となり、大学予備門に入学するがほどなく退学している。 尺振八の私立共立学舎に入学し、翌明治5年(1872年)に大蔵大輔井上馨と渋沢栄一が人材育成機関として構想した大蔵省翻訳局が発足し、乙骨や尺が登用されると島田とともに応募し上等生徒となる。翻訳局では経済学や西洋文明史が教授され、このころにギゾーなどの影響を受け医科から転向したといわれ、またキリスト教にも接している。だが、明治6年(1873年)に井上や渋沢が辞し、続いて大蔵卿に大隈重信が就くと組織改編で翻訳局は縮小され、翌年には廃止となり卯吉は大蔵省紙幣寮に異動となる。 明治9年(1876年)には旧幕臣の娘・千代と結婚。 著述活動をはじめ、明治10年(1877年)に自費出版で『日本開化小史』を刊行開始。翌明治11年(1878年)には『自由交易日本経済論』を出版。同年には沼間守一らの嚶鳴社設立に島田とともに発起人として参加し、演説活動も行っている。 翌明治12年(1879年)に大蔵省を辞職し、翻訳業を手がけつつ新聞への投書や著述活動を行い、同年にはイギリスの『エコノミスト』誌を範とした『東京経済雑誌』を創刊し、自由主義の立場での論陣を張った。明治13年(1880年)には東京府会議員となり、憲法制定や、条約改正などの政治問題に関しても発言。自由党機関紙『自由新聞』の客員も務める。 実業家としては、東京府知事・高崎五六から提案された府の士族授産金処理事業としての南洋交易を引き受け、明治23年(1890年)に南島商会を組織し、貿易船天祐丸で南洋渡航を行う。東京株式取引所、鉄道経営においては明治20年(1887年)に両毛鉄道社長、21年に小田原電気鉄道(現在の箱根登山鉄道)取締役などを務める。 明治13年(1880年)12月から明治23年〈(1890年)7月まで)からまでの東京府会議員を経て、明治23年(1890年)には府会副議長となる。 明治27年(1894年)には尾崎三良らと帝国財政革新会を結成し、この年には衆議院議員に当選する。以後、明治27年(1894年)10月から明治38年(1905年)2月まで衆院議員を務めた。 明治29年(1896年)には進歩党を結成、明治30年(1897年)には島田三郎らと財政整理期成同盟会を組織する。明治31年(1898年)、憲政党創設委員に参加。 明治32年(1899年)、法学博士を授与される。 明治33年(1900年)、義和団の乱に際して視察を行う。 晩年『国史大系』、『群書類従』の編纂に道筋をつけた。ほとんど独力で行われたこれらの編纂・出版事業を評して鳥谷部春汀は「利益のみを目的としては決して企てることができない、文壇への慈善事業である」と賞賛している。 明治38年(1905年)、慢性腎炎のため死去。墓所は谷中霊園。 大正4年(1915年)、従四位を追贈された。 家族母の田口町子は佐藤一斎の孫。一斎の長男・慎左衛門と田口可都の娘。 父の田口樫郎(旧姓西山)は町子の2番目の夫。幕府御家人。 異父姉に木村鐙子。町子と前夫・井上耕三との娘。夫の木村熊二は曽祖父・佐藤一斎の弟子。夫の兄に桜井勉。 先妻の千代は山岡義方・ゑい子の長女。長男・文太を儲けるも夭折。 後妻の鶴は前妻千代の妹(山岡義方三女)で、武二郎と泖三郎を儲ける。 長男の田口文太(1878.2.24~1972.9.3)は一高、東京帝国大学医科大学薬学科卒業後、陸軍二等薬剤官として東京第一衛戍病院に勤務、軍命(陸軍省医務局長医学博士森林太郎)により東京帝大大学院に進み、軍務に戻ったのち、薬剤総監・陸軍薬剤中将になった。旧制静岡女子薬学専門学校初代校長に就任したが公職追放で辞職。妻の育は岡見清致の姪で、いとこに松浦栄がいる。文太・育の娘の淑子は嘉治隆一の弟の嘉治真三(東京大学社会科学研究所教授)に嫁いだ。嘉治隆一の岳父の上田敏は卯吉の恩師・乙骨太郎乙の甥であり、隆一の娘は文太の上役だった森林太郎の孫の小堀鴎一郎と結婚した。 次男の田口武二郎(1888〜1982)は東京帝大法科卒業後、浦賀船渠に勤務。のち「日本小型鉄道倶楽部」を発会し初代会長。鉄道模型界の草分け。 三男の田口泖三郎(1903-1971)は音響工学者。東京帝大卒業後、理化学研究所に入り、「トーキーフィルムによる日本語の音素研究」で学士院賞受賞、のち田口心理物理学研究所を設立。日本大学芸術学部教授、京都外国語短期大学学長も務めた。 大蔵大臣を務めた河田烈、教育者の山川黙は、卯吉の妻たちの姉妹である里起(りき。山岡義方二女)とその夫・河田烋(東京市助役、1856-1911)の子である。河田烋の母方の祖父は卯吉の曽祖父でもある佐藤一斎。 妻たちの弟の山岡熊二(1871-1940)は卯吉を助けて「東京経済雑誌」の編纂に従事したのち、東海銀行を経て横浜正金銀行員となった。 田口家住宅東京都文京区西片の「田口家住宅」は、明治18年(1885年)に田口卯吉が建設して以降、長男・田口文太、文太の長男・田口親、親の甥・嘉治憲夫と代々引き継がれて居住した。西片は町全域がもともと福山藩主・阿部家の中屋敷跡で、維新後住宅地として開発され、田口家の土地は、明治5年に明治政府地理局長・桜井勉が約1000坪を阿部家から借用し、明治15年に桜井の弟で卯吉の義兄木村熊二が受け継いで敷地の半分に西洋館を建て(明治40年に撤去)、明治18年に卯吉がその向かい側に西洋館を建設した。上田敏、乙骨三郎、近藤朔風(全員卯吉の親戚)も一時寄寓していた。平成22年(2010年)に国の登録有形文化財となった(現状不明)。 2024/06/26 21:53更新
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田口卯吉と同じ誕生日6月13日生まれ、同じ東京出身の人
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