田辺元の情報(たなべはじめ) 哲学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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田辺元と関係のある人
浅利慶太: その他、叔父(田辺五兵衛の次男)に旧:東京田辺製薬元会長の田辺元三郎がいる。 家永三郎: 当初の専攻は日本古代思想史であり、特に仏教思想史研究で成果をあげたが、次第に研究領域を広げ、後半生では反権力的姿勢を強め、その立場からの社会的発言をおこなったほか、植木枝盛・美濃部達吉・津田左右吉・田辺元など、同様の傾向を持った近代思想家に対する共感を込めた研究や第二次世界大戦に関する反省からの思想史的アプローチを試みた論著を多く発表した。 野上弥生子: 最近では、同じく北軽井沢に隠遁生活を送っていた哲学者の田邊元と密かな恋愛関係にあったことが判明し、その往復書簡300通余りが『田辺元・野上弥生子往復書簡』として岩波書店から刊行されている。 戸坂潤: 観念論哲学に対する批判を旺盛に行ったが、その死は戸坂から「観念論哲学者」と批判された人々(田辺元など)からも惜しまれた。 中谷宇吉郎: 在学中、顕微鏡や解剖の実習を修めて一時動物学・生物学の方面を志したが、田辺元の著作『最近の自然科学』を読んで理論物理学に熱中し始めた。 朝永三十郎: 当時は、西田幾多郎や田辺元らが京都帝国大学文科大学(のち文学部)に在籍し、哲学の「京都学派」として時代を席巻していた時期であった。 今西錦司: また河田や岸、粕谷は、今西が京都学派の西田幾多郎や田辺元らの全体論から影響を受けているとし、その進化論に全体主義的な思考の萌芽が含まれており、今西の進化論は種による統制という思想であると批判した。この批判は、今西が影響を受けたことを認める西田幾多郎ではなく田辺元に批判の源泉を求めていることが特徴的である。 石原純: また、田辺元も若い頃に石原から相対性理論を学んでおり、その過程で得た疑問に対する解答を『相対性理論の弁証法』で提示した。 マルティン=ハイデッガー: ハイデッガーの講義を受けたこともあった日本の哲学者田辺元もハイデッガーのナチス入党と「ドイツ大学の自己主張」について1934年「危機の哲学か 哲学の危機か」で批判した。田辺元は「単に存在の不可測性、それに対する知識の無力の自覚、という如き原理だけで、積極的に民族国家の形而上学的基礎を確立し、学問も国家奉仕の所謂知識勤務を以て本質とすべき所以を明にし得るか、という如き疑問は必然に起こり来らざるをえない」とし、ハイデッガーの師であるプラトンはその師ソクラテスが死刑になったことを源泉とした「危機の哲学」であるが、理性を参与させることなく単に運命的なる存在に従属しようとするハイデッガーは「哲学の危機」であると批判した。 内藤豊次: 昭和18年(1943年)、田辺元三郎商店を退職(常務取締役)。 内藤豊次: 昭和11年(1936年)、田辺元三郎商店に在籍のまま、新薬研究開発を目的とした「合資会社桜ヶ岡研究所」を設立する。 梅原猛: 西田幾多郎・田辺元ら京都学派の哲学に関心を抱き、大学進学に際しては、東京帝国大学倫理学科の和辻哲郎(東大赴任前は京都大哲学科の西田の下で助教授であった)の下で学ぶか、あるいは京都学派の影響が残る京都帝国大学哲学科で学ぶかの選択に迷った。 三木清: 大学在学中は西田のみならず東北帝国大学から転任してきた田辺元や左右田喜一郎らからも多くの学問的影響を受けた。 末綱恕一: 一方で、田辺元は『数理の歴史主義展開』(1954年)の中で、末綱が数学基礎論において時間を空間化したと批判し、「その非歴史主義的な立場のために、切断的無の意味を明にせず、現在の渦動的無性を認めない限り、ベルグソンの直観論と同様に抽象的なることを免れない」と述べている。 戸坂潤: 西田に師事する一方で、軍部のイデオロギーに観念論的に影響を与えたとして西田や田辺元らを批判した。 マルティン=ハイデッガー: この時期の主要な著述・講義としては、ドイツ留学中の田辺元も聴講した1923年夏学期講義『存在論 ― 事実性の解釈学』や、マールブルク大学のナトルプに提出した1922年の論文『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』(ナトルプ報告)などがある。 北森嘉蔵: その後、北森嘉蔵は、1941年(昭和16年)京都帝国大学文学部哲学科卒業、田辺元の元で哲学を学んだ。 西田幾多郎: 一方、田辺元や高橋里美などから西田哲学はあまりにも宗教的であり、実践的でないという批判がなされた。 野沢尚: 大伯父に京都学派を代表する哲学者の田辺元、元東京美術学校教授の田辺至がいる。 内藤豊次: 大正4年(1915年)、東京の田辺元三郎商店(現在の田辺三菱製薬)に入社。 |
田辺元の情報まとめ
田辺 元(たなべ はじめ)さんの誕生日は1885年2月3日です。東京出身の哲学者のようです。
思想、エピソードなどについてまとめました。姉妹、兄弟、卒業、結婚、家族、父親に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
田辺元のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)田辺 元(たなべ はじめ、1885年(明治18年)2月3日 - 1962年(昭和37年)4月29日)は、日本の哲学者。旧字体で表記した場合は田邊 元。西田幾多郎とともに京都学派を代表する思想家。京都大学名誉教授。1947年帝国学士院会員、1950年文化勲章受章。 東京に生まれる。父は、東京の開成中学の校長を務め、逗子開成や鎌倉女学院を設立した田辺新之助。弟は黒田清輝に学んだ東京美術学校教授の田邊至。ピエール・ベール著作集の翻訳などで知られる東京都立大学教授、仏文学者の野沢協は甥。なお、田邊の妻・千代(海軍教授・蘆野敬三郎娘)は藤村操の従姉妹である。したがって田邊がのちに対決することになる西田幾多郎の最初の全集の編者に名を連ねている安倍能成と田邊は、義理の従兄弟同士となる。安倍は藤村の妹を妻としているからである。 東京帝国大学理科に入学後、文科哲学科に転科、卒業。転科には、同様の軌跡を辿った一高時代の狩野亨吉校長に相談にのってもらった。1913年、沢柳政太郎総長下の東北帝国大学講師に就任。1916年、19歳の蘆野千代と結婚。1918年「数理哲学研究」で博士号取得。翌年京都帝国大学教授の西田幾多郎は、みずからの後継者として田辺を京大に招聘して助教授として迎え入れた。田辺の処女論文1910年「措定判断に就いて」には既に西田哲学の影響が見えるという意見がある。その第2論文1913年「物理学的認識に於ける記載の意義」からは、西田哲学への明示的言及が始まる。西田の『善の研究』が書籍として出版(1911年)される以前、その思想が専門誌で発表されたばかりの時期に田辺の処女論文は出版されているので、田辺は西田哲学の最初の理解者の一人といえる。1922-3年には文部省在外研究員としてドイツに留学し、フッサールやハイデガー、オスカー・ベッカー(ドイツ語版)などと交流した。1924年1月帰朝。 1945年3月京都大学教授を退官し、終戦間際の7月に浅間山北麓の群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢に病妻を抱えて移住し、以後ほとんど当地で隠遁的生活を送り、1950年の文化勲章受章の際さえ代理で済ませた。寒冷地での健康を心配した門下生の下村寅太郎と唐木順三が温暖な箱根への転地を勧めても、固辞した。弟子の高山岩男が隠遁の理由を直接尋ねたところ、「下界に下りてアメリカ兵や敗戦後の日本人の頽廃を見るのが耐えられぬこと」、「帝国大学教授として日本を悲運に導いた応分の責任を感じ、この責任を感じれば感ずるほど、畳の上で楽な往生を遂げる資格はない」と考えたからであると答えた。 1948年『懺悔道としての哲学』を発表した際には、日本の戦争責任を懺悔道という捉えようのない普遍の中に解消してしまったとの批判もあった。 1951年『ヴァレリイの藝術哲学』を筑摩書房から刊行。同年、高山岩男が『場所的論理と呼応の原理』(高山岩男 1976)を刊行し、田辺に献本したところ、書簡にて「感謝感激を禁ずることができず、眼頭が熱くなるのを覚えました」と絶賛した。同年、妻逝去。 1952年には長野県の小、中学校教員で組織する信州哲学会のために「哲学入門」を講義し、それを書籍化したものが20万部を超えるベストセラーとなった。 晩年、同じく北軽井沢に山荘を持ち、田辺夫妻と交流のあった作家の野上弥生子と密かな恋愛関係にあった。65歳から約10年間続いたその往復書簡300通余りが岩波書店から刊行されている。田辺の弟子に辻村公一、高山岩男、唐木順三、土井虎賀寿などがいる。 脳軟化症で倒れて入院し、1年余り闘病の末、77歳で死去。子供はなく、自宅、敷地、大半の蔵書が群馬大学に寄贈された。群馬大学北軽井沢研修所(田辺記念館)敷地に墓碑がある。 思想数理・科学関係の著作が目立ったドイツ留学以前の前期では、新カント派、特にマールブルグ学派、ヘルマン・コーエンの微分の哲学の影響を強く受けたが、新カント派の論理主義には反対し直観を重視する。処女作以来、西田哲学の影響が見られることも、その現れである。 留学中は特に『存在と時間』で一躍有名になる前のハイデガーに個人教授を依頼し交友した。後に『存在と時間』に登場するハイデガーの前期思想を最初に日本に紹介したのは田辺である。 ドイツ留学後は、カントの目的論を通して、弁証法研究を開始する。最初、新カント派の哲学で弁証法を理解しようとして挫折し、その結果、弁証法を自分の哲学の中心に据えることとなる。その弁証法はヘーゲル、マルクスの弁証法の欠点を乗り越えたとして絶対弁証法と呼ばれた。また、このころから西田哲学を厳しく批判し始める。 絶対弁証法の立場を得た後は、それを基礎に、社会存在の論理である「種の論理」の建設に着手。しかし、本来は国家を第一原理にしつつも、国家の暴走を防ぐための哲学であった種の論理は、次第に国家主義的傾向を持ち始め、田辺は、後にこれに悩み一時著作・論文の発表がほぼなくなる。そして、昭和19年の京都帝国大学最後の年の特殊講義と退官講演において、自己の力、そして哲学的理性一般の限界を批判する、懺悔道の哲学が登場し、その哲学は段々と宗教的傾向が強くなる。 懺悔道以後の哲学はハイデガー哲学との対決を意図して展開されたが、その中で、「数理の歴史主義展開 数学基礎論覚書」(1954)、「理論物理学新方法論提説 理論物理学の方法としての複素変数函数論の必然性と、その位相学的性格」(1955)、「相対性理論の弁証法」(1955)を発表。数理の歴史主義展開の後記、全集12巻の西谷啓治の解説にあるように、これらはハイデガー哲学との対決の結果生まれたものである。田辺は、ハイデガー哲学は前期から大きく変化したが、その変化の傾向に弁証法的な自覚がないとして批判した(数理の歴史主義展開、後記)。他にポール・ヴァレリー論やマラルメ論も執筆したが、これらの文学論も、ハイデガー哲学との対決を意図する研究の一環であった(『数理の歴史主義展開』後記)。マラルメ論の執筆にあたっては、筑摩書房の編集者井上達三が、フランス文学者でヴァレリー研究者の佐藤正彰の教示をうけ、田邉にモーリス・ブランショ『文学空間』の原著を届け、田邉はこれを精読し、大変影響を受けたという。 エピソード1933年、文部省による滝川幸辰京大法学部教授の免官処分に抗議して、法学部の全教官が辞表を提出する動きを見せると、田辺は文学部教授の中で小島祐馬(支那哲学)とともにこれに同調し、学問の自由と大学の自治を守る運動を起こしていた久野収ら学生を励ました。 弟子の家族には物心両面の心配りを見せる一方、家庭では気難しく、規則正しい時間厳守の日常生活を送った。気に入らないことがあれば膳が庭に飛び、嫌いなものは煮炊きも禁じる、風呂の湯加減は温度計で41 - 42度を指していなければならないという厳しさだった。千代夫人は田辺の勉強の邪魔にならないよう、押入れでレコードを聴くありさまで、息をつめるような生活ぶりであった。 没後全集を刊行した筑摩書房とは縁が深く、千代夫人が1951年に亡くなった際、田辺は筑摩に葬式饅頭の手配を依頼している。本郷の「藤むら」で作らせることのほか、楕円形で長いほうは三寸四分とし、個数も指定した。社内にはそこまで大きな葬式饅頭は必要ないという意見もあったが、指示通りのものを用意して届けると、田辺は子どものように喜んだという。特に編集者であった井上達三(のちに同社会長)は、田辺の注文・依頼に忠実に応えたことから、生前に著作権譲渡の意思まで示されたが、固辞している。 森於菟は、留学先のベルリンで、東大名誉教授であった於菟の叔父(父鷗外の妹喜美子の夫)小金井良精からのローマ字綴りの電報によって、父鷗外の死を知った。 「私は、この時同船で来た京大文学部教授田辺元博士と同じ下宿に居り、寝室だけ隣で、食事は同室でとるという仲であったが、私を慰問してくれた最初の人が田辺さんで、「悲しみに会った時はできるだけ悲しんで、悲しみの底から立上がるがよい」と忠告してくれたことを忘れない」という言葉を残している。『砂に書かれた記録』(『父親としての森鷗外』所収) 2024/06/20 17:11更新
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tanabe hajime
田辺元と同じ誕生日2月3日生まれ、同じ東京出身の人
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