梅原猛の情報(うめはらたけし) 哲学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
梅原 猛さんについて調べます
■名前・氏名 |
梅原猛と関係のある人
新田均: 2003年4月、『正論』で梅原猛の教育勅語をめぐる言説を批判。 井上博道: 「羅漢-仏と人との間」淡交新社、梅原猛<文>(1968年) 吉本隆明: 『日本人は思想したか』梅原猛・中沢新一 新潮社, 1995.6 尾本恵市: 『教養としての将棋 おとなのための「盤外講座」』羽生善治、梅原猛共著 講談社現代新書 2019 林義勝: 1995年『良渚遺跡への旅 幻の長江文明』(稲盛和夫・梅原猛共著 )PHP研究所 上村松篁: 哲学者の梅原猛は、『アート・トップ』1978年12月号に掲載された小論で、「上村松篁の花鳥画は、鳥の世界に移された一種の美人画である。 真継伸彦: 『日本仏教・この人と思想』(講演集)梅原猛、上山春平、武内義範共著、朝日新聞社 1974 筑紫哲也: 「ジャーナリストではいちばんの友だち」「自分の思想を持ちながら、ある種の柔軟性を持ち、古典や世界を見渡しながら現代を論じることができる稀なジャーナリスト」(梅原猛) 西尾幹二: ついで発表した『ヨーロッパの個人主義』も、梅原猛が「一人の思想家の登場をみた」と同著のカバーで推薦文を寄せている。 上山春平: 梅原猛、梅棹忠夫らの「新・京都学派」の一人。 橋本凝胤: 唯識論の解釈をめぐって、テレビの生放送中に梅原猛と大激論を交わす。 小中陽太郎: 梅原猛は厳密には従兄弟ではなく、小中の妻の父の妹の夫の弟の息子にあたる。 藤沢令夫: 『哲学のすすめ』梅原猛、橋本峰雄共著 筑摩書房(学問のすすめ)1969 澤地久枝: 』梅原猛,大江健三郎,奥平康弘,鶴見俊輔,池田香代子,金泳鎬,阪田雅裕共著 岩波ブックレット 2015 朝倉摂: 主なものとしては、蜷川幸雄演出・秋元松代作『近松心中物語』、市川猿之助演出・梅原猛作『ヤマトタケル』、蜷川演出・唐十郎作『下町万年町物語』など。 片倉もとこ: 京都・国際日本文化研究センターの歴代所長は梅原猛、河合隼雄、山折哲雄と生え抜きが続いていたが、関東からの初めての女性所長である。 藤沢令夫: 在学中に知り合った梅原猛と橋本峰雄とは、同級生でこの頃より親交があった。 廣瀬量平: ものつくり大学校歌(詩:梅原猛 2001年) 庭野日鑛: 』梅原猛共著 佼成出版社、2007.3 澤地久枝: 『憲法九条、未来をひらく』井上ひさし,梅原猛,大江健三郎,奥平康弘,小田実,加藤周一, 鶴見俊輔,三木睦子共著 岩波ブックレット 2005 黒田杏子: テレビ、ラジオ局プランナー、雑誌『広告』編集長などを務め、瀬戸内寂聴、梅原猛、山口昌男など多数の著名文化人と親交を持つ。 澤地久枝: 『憲法九条、あしたを変える 小田実の志を受けついで』井上ひさし,梅原猛, 大江健三郎, 奥平康弘, 加藤周一,鶴見俊輔,三木睦子,玄順恵共著 岩波ブックレット 2008 木村知義: 京都局時代は桑原武夫、今西錦司、岡部伊都子、梅原猛、杉本秀太郎、竹内実、森浩一、茂山千作などにインタビュー。 池田香代子: 』 梅原猛・大江健三郎・奥平康弘・澤地久枝・鶴見俊輔・金泳鎬・阪田雅裕(共著) 岩波書店 2015 桑原武夫: また、京都大学人文科学研究所(京大人文研)を本拠としてさまざまの分野の研究者を組織し先駆的な学際共同研究システムを推進、『フランス百科全書の研究』『ルソー研究』(1951年毎日出版文化賞)、『宮本武蔵と日本人』など日本の人文科学分野における数々の業績を通じて、梅棹忠夫、梅原猛、上山春平、鶴見俊輔、多田道太郎ら多くの文化人の育ての親となった。 久我なつみ: 解説『新版古寺巡礼 京都第11巻 銀閣寺』他は有馬頼底、梅原猛監修、淡交社 、2007年 桑原武夫: 『明治維新と近代化』(1984年)で講座派を時代錯誤として批判したこと、また梅原猛らと国際日本文化研究センター創立メンバーとなったことなどを、歴史学者中村政則から批判された。 橋本達雄: 『万葉集』の研究者で、梅原猛の『水底の歌』を批判し、1976年4月号『國文學』で梅原と直接対決した唯一の国文学者。 澤地久枝: 『井上ひさしの言葉を継ぐために』井上ひさし,井上ユリ,梅原猛,大江健三郎, 奥平康弘,鶴見俊輔共著 岩波ブックレット 2010 河合隼雄: また上記の山口昌男や中村雄二郎をはじめ、梅原猛、鶴見俊輔、森毅、白洲正子、安野光雅、山折哲雄、谷川俊太郎、柳田邦男、養老孟司、工藤直子、安藤忠雄、村上春樹、中沢新一など交友関係は多岐に渡った。 |
梅原猛の情報まとめ
梅原 猛(うめはら たけし)さんの誕生日は1925年3月20日です。宮城出身の哲学者のようです。
経歴、人物などについてまとめました。卒業、結婚、父親、テレビ、事故に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
梅原猛のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)梅原 猛(うめはら たけし、1925年(大正14年)3月20日 - 2019年(平成31年)1月12日)は、日本の哲学者、評論家。位階は従三位。ものつくり大学総長(初代)、京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。東日本大震災復興構想会議特別顧問(名誉議長)。碧南市哲学たいけん村無我苑名誉村長。京都市名誉市民。 京都大学文学部哲学科卒業。立命館大学文学部哲学教授、京都市立芸術大学教授・学長の他、国際日本文化研究センター所長(初代)、社団法人日本ペンクラブ会長(第13代)などを歴任した。 西洋哲学から日本の芸能や文学の笑いまで幅広く研究し、日本文化の本質を探究する。大胆で独創的な梅原日本学を確立。『隠された十字架』(1972年)、『水底の歌』(1973年)、『人類哲学序説』(2013年)など著作多数。 龍谷大学文学部の講師を経て、立命館大学文学部の講師、助教授、教授を歴任した。その後、京都市立芸術大学に転じ、美術学部の教授を経て学長に就任した。1980年代には「国際日本文化研究センター(仮称)創設準備室」の室長として国際日本文化研究センターの創設に尽力し、設立後は所長に就任した。実存哲学について研究に取り組み、その後、「梅原日本学」と呼ばれる独自の世界を開拓した。他にも「スーパー歌舞伎」「スーパー能」を創作するなど、幅広い活動を行っている。これらの業績が評価され、文化功労者に選出され、後に文化勲章を受章した。京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授、京都市名誉市民の称号を贈られている。 2019年1月12日、死去。93歳だった。叙従三位。 経歴宮城県仙台市で生まれ、愛知県知多郡で育つ。 実父は愛知県立第一中学校、第八高等学校を経て、梅原の出生当時は東北帝大の学生であった梅原半二。実母は、半二が下宿していた仙台の魚問屋の娘・石川千代。ともに学生であった実父母の結婚を梅原家、石川家が認めなかったため、私生児として誕生した。乳児期に実母を亡くし、生後1年9か月の時に知多半島の名士で、梅原一族の頭領である伯父夫婦(梅原半兵衛・俊)に引き取られて養子となる。実父の梅原半二(工学博士)は、大学講師を退職後、3軒のバー・キャバレーを経営していたが、豊田喜一郎に誘われ、太平洋戦争後、トヨタ自動車に入社、トヨタ自動車常務や豊田中央研究所所長などを務めた。 私立東海中学校には、南知多町(当時は内海町)の実家から2時間半をかけて通学した。1942年、広島高等師範学校に入学するが2か月で退学、翌年第八高等学校文科に入学する。理科系の父に似て数学が得意であったため、父や周囲から文科進学に反対されたのを押し切っての進学であった。 第八高等学校1年次に在学中の1943年10月、文科系学生への徴兵猶予が停止され、学徒出陣が開始された。徴兵猶予の対象となるために理科系へ転向したり、陸軍経理学校へ入って主計将校となる道を目指す級友がいる中、梅原は「いっそ早く死んだ方が良い」という思いから、特攻隊員養成機関といわれていた甲種幹部候補生へ志願した。筆記試験は満点近くの点数を取ったが、口頭試問で「日本の戦闘機の名前を挙げよ」と言われた際に、「隼」としか答えられず、試験官から「もっとあるだろう」「子供でも5機くらい知っている。非国民だ」と叱責され、不合格になったという。 1944年の夏から、名古屋の三菱重工の工場へ動員され、勤労奉仕を行った。同年の年末、工場に対して、アメリカ軍による空襲が行われたが、防空壕へ逃げ込んで助かっている。ただし、同じ工場へ動員されていた他の学生は爆弾が命中して多数亡くなっている。このような空襲による焼夷弾で死者が続出する状況で、梅原は「この戦争は負けるに違いない」「自分がこの戦争で死ぬのはほぼ確実だ」と考え、哲学書や宗教書を読み漁り、「死の理由」を探すようになっていた。 西田幾多郎・田辺元ら京都学派の哲学に関心を抱き、大学進学に際しては、東京帝国大学倫理学科の和辻哲郎(東大赴任前は京都大哲学科の西田の下で助教授であった)の下で学ぶか、あるいは京都学派の影響が残る京都帝国大学哲学科で学ぶかの選択に迷った。そして結局、1945年、京都帝国大学文学部哲学科に入学。その年、田辺は退官しており、西田もすでに1928年に京都帝国大を退職していたが、梅原は京都帝国大哲学科には西田の影響が存在すると考え、京大への進学を選択した。父親は哲学科への進学を歓迎しなかったが、梅原の熱意が強いため許可した。 1945年4月、京都帝国大学文学部哲学科へ入学したが、その直後に徴兵され、大日本帝国陸軍へ二等兵として入営した。最初は愛知県名古屋市の部隊に配属されたが、その後、岐阜県恵那市、兵庫県姫路市と配属先が変更された後、1945年7月から熊本県宇城市の大日本帝国陸軍第216師団野砲兵第216連隊(九州防衛隊)に配属された状態で、1945年8月15日の終戦を迎えた。 1945年9月に大学に復学した。復学後は、実父のところに戻り、父が務めていたトヨタ自動車に近い愛知県岡崎市矢作町や定光寺などにも居住した。 1948年、大学を卒業する。京都大学大学院に進学し、山内得立、田中美知太郎に指導を受けた。マルティン・ハイデッガー哲学に惹かれつつもギリシア哲学を専攻したが、2度にわたって田中と対立した。最初の論文「闇のパトス」(1951年)は哲学論文の体裁をとっておらずはなはだ不評であったものの、後に著作集第1巻の表題となる。20代後半、強い虚無感に襲われて、賭博にのめり込むような破滅的な日々を送り、1951年、養母・俊の勧めでピアニストの夫人と結婚する。同年、長女が生まれた時、ヘラクレイトスについての論文を書いており、「日の満ちる里」という意味で「ひまり」と名づける。ひまりは後にヴァイオリニストとなった。そしてハイデッガーの虚無思想を乗り越えるべく「笑い」の研究に入り、いくつかの論文を発表したが、これは完成しなかった。30代後半から日本の古典美学への関心を強め、「壬生忠岑『和歌体十種』について」(1963年)という論文を書く。 「笑い」の研究を始めたことについて梅原は、フリードリヒ・ニーチェやマルティン・ハイデッガーの実存主義哲学から出発したが、現実の生活に苦しくなると実存を頼ることはできなくなり、実存の論理を超えるために自分の心の暗さを分析して「闇のパトス」を書き、ニヒリズムを超えて人生を肯定するために「笑い」の哲学を目指したという。寄席に通い、渋谷天外、藤山寛美、大村崑などを研究の対象として論文を書いた。 その後は精力的に神道・仏教を研究している。NHKテレビの生放送中に薬師寺管長の橋本凝胤と「唯識」をめぐり、大激論を交わす。 京都若王子(京都市左京区、哲学の道近辺)の和辻哲郎旧邸に住んでいた。 人物日本仏教を中心に置いて日本人の精神性を研究する。西洋哲学の研究から哲学者として出発したが、西田幾多郎を乗り越えるという自身の目標のもと、基本的に西洋文明(すなわちヘレニズムとヘブライズム)の中に作られてきた西洋哲学、進歩主義に対しては批判的な姿勢をとる。その根幹は、西洋哲学に深く根付いている人間中心主義への批判である。西洋哲学者が多い日本の哲学界の中で、異色の存在である。 市川猿之助劇団のために『ヤマトタケル』(題材:ヤマトタケル)や『オオクニヌシ』(題材:大国主)『オグリ』(題材:小栗判官)などの歌舞伎台本を書き、これが古典芸能化した近代歌舞伎の殻を破ったので、スーパー歌舞伎と称している。また『ギルガメシュ叙事詩』を戯曲化した『ギルガメシュ』は中国の劇団が上演し、中国の環境問題の啓蒙に大きな役割を果たしている。ただ、演劇では自分の思い通りにならないということで、小説版『ギルガメッシュ』を執筆しており、売れなかったが本作が自身で一番の作品であると語っている。『中世小説集』や『もののかたり』など説話に基づく短編小説集も評判をとっている。また『王様と恐竜』『ムツゴロウ』『クローン人間ナマシマ』などのスーパー狂言の台本も書いている。九条の会の呼び掛け人の一人。平城遷都1300年記念事業特別顧問。2006年には源氏物語千年紀の呼び掛け人となる。 鈴木大拙を近代日本最大の仏教学者と位置付け、その非戦論の重要性を訴える。また「梅原日本学」と呼ばれる一連の論考では飛鳥時代の大和朝廷の権力闘争を追求するなど、古代日本史の研究家としても知られる。天皇制への支持は強く、世界主義と排外的ナショナリズムの双方に批判的である。靖国神社や憲法改正には基本的に否定的な立場を採る。イデオロギーの学術への介入それ自体を批判している。なお、1991年には召人として皇居歌会始に出席している。 また、熱烈な多神教優位論者、反一神教主義者である。多神教は一神教より本質的に「寛容であり優れている」と主張しており、続けて多神教が主流である日本文化の優越性を説いている。その説は多くの「日本文化の優越を語る日本人論」に影響を与え、そのため梅原は、中曽根康弘が創設を主導した「国際日本文化研究センター」の初代所長に就任することになる。 一神教的な思想と多神教的な思想について、古代ギリシアの哲学者であるプラトンとアリストテレスを対比させる。アリストテレスのように生物の多様性に目を向けることが重要であると語る。 臓器移植反対論者としても知られている。原子力発電所に対しても1980年代から反対論者の立場を取る。東日本大震災復興構想会議で、東日本大震災により引き起こされた福島第一原子力発電所事故を論点から除外しようとした議長に対して、梅原は、原発事故は「文明災」であり、その議論なくして何のための復興構想会議であるのかと、辞任の意思を示してテーマとさせたことを、同じく会議メンバーであった『読売新聞』の橋本五郎が回想している。 日本漢字能力検定協会の大久保理事長に依頼され、約10年にわたって同協会の評議員を務めていたが、その間、会議出席などの評議員としての活動を全く行っていなかった。2009年に発覚した協会運営問題に際し、このことについて「信用したことを後悔している。関連会社への委託などとんでもないことで、評議員の機能を果たせなかった自分への怒りも感じる」と弁解した。 2024/06/17 04:19更新
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umehara takeshi
梅原猛と同じ誕生日3月20日生まれ、同じ宮城出身の人
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