梅原龍三郎の情報(うめはらりゅうざぶろう) 洋画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
梅原 龍三郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
梅原龍三郎と関係のある人
吉田五十八: 1952年 梅原龍三郎画室 曾宮一念: 梅原龍三郎から日展審査員の依頼を受ける。 沼田識史: 尊敬する人物は画家の梅原龍三郎、横尾忠則、ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat)。 林武: 1952年(昭和27年)、安井曾太郎、梅原龍三郎の後任として東京芸術大学教授に就任。 有島生馬: パリでは荻原守衛、高村光太郎、南薫造、梅原龍三郎、藤田嗣治らとも交流した。 高田博厚: このころ、武者小路実篤、草野心平、谷川徹三、古谷綱武、中原中也、小林秀雄、大岡昇平、中野重治、梅原龍三郎らを知る。 高峰秀子: 新東宝時代の1949年(昭和24年)、銀座で開かれた絵の愛好会・チャーチル会に参加し、翌1950年(昭和25年)の日本橋三越での名士余技絵画展に十号の『緑衣』を出品、4700円の売値がつけられ、会の顧問をしていた画壇の巨匠梅原龍三郎の知遇を受けた。 安井曾太郎: 1930年(昭和5年)の『婦人像』あたりから安井独自の日本的油彩画の様式が確立し、梅原龍三郎とともに第二次世界大戦前後を通じて昭和期を代表する洋画家と評されており、二科会の番衆技塾でも指導した。 飯田善国: 帰国後慶應に復学した後、かねてからの希望だった画家を志して東京藝術大学に入学、梅原龍三郎らの教えを受け1953年に卒業した。 高塚省吾: 岡山市出身、東京芸術大学で梅原龍三郎、林武、硲伊之助に師事、1953年卒業。 高峰秀子: 1974年(昭和49年)3月、秀子は夫の発案で、最初の肖像画を東京国立近代美術館の梅原龍三郎コーナーに寄贈し、翌1975年(昭和50年)に紺綬褒章と木杯を受けた。1987年(昭和62年)に梅原との思い出を綴ったエッセイ『私の梅原龍三郎』(潮出版社)を刊行した。 笠置シヅ子: シズ子の後援会には錚々たる顔ぶれが集まり、作家の吉川英治、林芙美子、林房雄、フランス文学研究の辰野隆、画家の梅原龍三郎、女優の田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子らの名前があったが、特に映画『銀座カンカン娘』で共演した高峰はシズ子の追っかけをするほどの大ファンで「笠置シヅ子は歌そのものであった」とシズ子の事を絶賛した。 高田博厚: 1930年(昭和5年)渡仏費用を捻出するために彫刻頒布会を、高村光太郎、武者小路実篤、梅原龍三郎、谷川徹三、佐藤春夫らの後援で開催する。 宮田重雄: 1928年 - 1930年パリ・パスツール研究所に留学し、医療に従事するかわたら洋画家梅原龍三郎に師事。 安井曾太郎: 同時期、梅原龍三郎もここで学んでいた。 坂本繁二郎: 第二次大戦後は梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようになる。 野島康三: 岸田劉生、梅原龍三郎、万鉄五郎、富本健吉らの後援者だった。また、岸田劉生、梅原龍三郎らの美術コレクターでもあり、1919年に東京神田神保町に「兜屋画廊」を開廊し、各種展覧会(旧フュウザン会、日本創作版画協会の作家など)を開催(同画廊閉廊後は、自邸にて)するとともに、美術家たちへの資金的な援助も行った。 沼田識史: 幼少期から色々な絵画を観てきたが、小学4年生の終わりに梅原龍三郎が描いた『竹窓裸婦』を観て、「これこそ大人の女性の身体だ」と、沼田は強い衝撃を受ける。 川島理一郎: 1926年、梅原龍三郎と共に「国画創作協会第二部」(後の国画会)を創設。 土門拳: 撮影時の土門の執拗な追求を伝えるエピソードは数多く、1941年に画家の梅原龍三郎を撮影した際は、土門の粘りに梅原が怒って籐椅子を床に叩きつけたが、土門はそれにも動じずその怒った顔を撮ろうとレンズを向け、梅原が根負けした一件や、1967年に東大寺二月堂のお水取りを取材した際にも、自然光にこだわり、真夜中の撮影にもかかわらず一切人工照明を使わず、度重なる失敗にもめげずに撮影を成功させた逸話などがある。 柳宗悦: 1952年(昭和27年)5月から、毎日新聞社の後援を得て国際工芸家会議に列席のため志賀直哉、濱田庄司、梅原龍三郎らとヨーロッパ・北米の周遊旅行を行った(志賀と梅原は体調不良などで8月に切り上げ帰国)、翌53年(昭和28年)2月に再会したバーナード・リーチ(18年ぶりに来日)を伴い帰国した。 岸田劉生: 武者小路実篤「岸田劉生終焉之街」、川端康成「美」、梅原龍三郎「一世の偉友劉生兄」と刻まれている。 安井邦彦: 拝啓 ルノワール先生 -梅原龍三郎が出会った西洋美術-(三菱一号館美術館、2016年/あべのハルカス美術館、2017年) - ナレーター 中谷千代子: 美術学校在学中は梅原龍三郎に師事した。 安井曾太郎: 梅原龍三郎と並び称された。 益田義信: 梅原龍三郎に師事する。 久保田万太郎: 1963年(昭和38年)5月6日夕方、新宿区市谷加賀町の梅原龍三郎邸にて設けられた宴席で赤貝のにぎり寿司を勧められた。 高田博厚: 1929年(昭和4年)梅原龍三郎の国展に彫刻作品を出品、その後受賞し会員となる。 北大路魯山人: 毒舌でも有名で、柳宗悦や梅原龍三郎、横山大観、小林秀雄といった戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家のピカソまでをも容赦なく罵倒した。 手島右卿: 1958年(昭和33年)、ブリュッセル万国博覧会「近代美術の50年展」に日本代表として富岡鉄斎、梅原龍三郎、井上有一とともに指定出品された「抱牛」は、最高殊勲金星を受け、一躍世界の注目を集め、書道芸術の国際的評価を高めるきっかけとなる。 |
梅原龍三郎の情報まとめ
梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう)さんの誕生日は1888年3月9日です。京都出身の洋画家のようです。
結婚、解散、姉妹に関する情報もありますね。1986年に亡くなられているようです。
梅原龍三郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年〈明治21年〉3月9日 - 1986年〈昭和61年〉1月16日)は、日本の洋画家。京都府京都市下京区生まれ。はじめ龍三郎、1914年(大正3年)までは梅原 良三郎(うめはら りょうざぶろう)と名乗り、再び龍三郎と名乗った。 ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。 京都府京都市下京区生まれ。生家は染物問屋だった。京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を中退し、伊藤快彦の画塾・鍾美会で学んだ後、浅井忠が主催する聖護院洋画研究所(現・関西美術院)に入った。同時期に安井曾太郎も学んでいた。 1908年(明治41年)、後に美術史家となる田中喜作と共にフランスに留学。翌年、帰国する高村光太郎のアトリエを引き継いでパリに滞在し、アカデミー・ジュリアンに通い、1909年(明治42年)からはルノワールに師事した。1910年(明治43年)知人の有島生馬を通して「ルノワールやパリの芸術について」を雑誌『白樺』に寄稿している。 1913年(大正2年)に帰国すると、白樺社の主催により東京神田で個展「梅原良三郎油絵展覧会」を開催。この時、白樺社同人の武者小路実篤・志賀直哉・柳宗悦らの知遇を得た。翌1914年(大正3年)には二科会の設立に関わる。同年、洋画家・亀岡崇の妹・艶子と結婚。二人の間には翌年長女・紅良が、その3年後には長男・成四が生まれた。1917年(大正6年)二科会を退会。1920年(大正9年)には前年に死去したルノワールを弔問する名目で再び渡仏している。 1921年(大正10年)に帰国してからは鎌倉市に住み、長与善郎や岸田劉生と親しくなる。1922年(大正11年)に春陽会の設立に参加するも、1925年(大正14年)に脱会。1926年(大正15年)には土田麦僊の招きで国画創作協会に合流し、国画創作協会洋画部(通称「第二部」)を設置した。1928年(昭和3年)同会の第1部(日本画)の解散にともない、国画会を結成して主宰となる。1930年代には木版と合羽版(彩色版)の複合版からなる裸婦図を石原求龍堂から刊行した。この時の彫り摺りを平塚運一が担当したかといわれる。 1935年(昭和10年)には帝国美術院(現・日本芸術院)の改革に伴い会員となる。1944年(昭和19年)帝室技芸員および東京美術学校(現:東京芸術大学)教授に就任。 1952年(昭和27年)に日本が主権を回復し海外渡航が再びできるようになると、梅原は安井曽太郎とともに東京美術学校教授を辞任して渡欧、ヴェネツィア・ビエンナーレの国際審査員を務めた。同年文化勲章受章。翌1953年(昭和28年)に長野県軽井沢町にアトリエを設けた。1957年(昭和32年)には日本芸術院会員を辞し、以後は渡欧を繰り返して自由な立場から制作に励んだ。この頃、少年時代からの良きライバルだった安井曽太郎とともに洋画界の頂点を極め、「昭和洋画界の双壁」「安井・梅原時代」と謳われた。1973年(昭和48年)フランス芸術文化勲章コマンドール章受章。 1986年(昭和61年)満97歳で死去。晩年に使用した吉田五十八設計の東京都市ヶ谷のアトリエは、山梨県北杜市の清春芸術村に移築されて一般に公開されている。墓所は多磨霊園。 「横臥裸婦」(1908年、愛知県美術館蔵) 「立裸婦」(1915年、佐倉市立美術館蔵) 「雲中天壇」(1939年、京都国立近代美術館蔵) 「紫禁城」(1940年、大原美術館蔵) 「北京秋天」(1942年、東京国立近代美術館蔵) 「霧島(栄ノ尾)」(1938年、西宮市大谷記念美術館蔵) 「姉妹併座図」(1942年、堀美術館蔵) 「座裸婦」(1930年、木版・合羽摺 石原求龍堂版、小野忠重版画館所蔵) 「脱衣婦」(1930年、木版・合羽摺 石原求龍堂版、小野忠重版画館所蔵) 「裸婦水仙」(1931年、木版・合羽摺 石原求龍堂版、小野忠重版画館所蔵) 梅原龍三郎『ルノワルの追憶』 養徳社、1944年 梅原竜三郎『ベニスとパリ』 求竜堂出版部、1954年 『梅原竜三郎画集』 アトリエ社、1926年 『梅原竜三郎画集 1926年至1930年作品』 番町書房、1931年 『梅原竜三郎画集』 春鳥会、1933年 『梅原竜三郎小品版画集 第1至4』 加藤潤二、1937–39年 『梅原竜三郎近作画集』 石原求竜堂、1940年 『梅原竜三郎北京作品集』 石原求竜堂、1944年 日本現代画家選『梅原竜三郎 第1–3』 美術出版社、1953-54年 『梅原竜三郎仏伊近作画集』 朝日新聞社、1957年 『梅原竜三郎 第1–3部』 求竜堂、1958–73年 『梅原竜三郎 自選画集』 読売新聞社、1960年 『梅原竜三郎 1964–1965 Cannes, Paris, Versailles』 求竜堂、1965年 『梅原竜三郎』 三彩社、1970年 座右宝刊行会編『現代日本美術全集 12 梅原龍三郎』 集英社、1971年 『日本の名画 46 梅原龍三郎』 講談社、1973年 『梅原竜三郎の字』 求竜堂、1974年 『日本の名画 18 梅原龍三郎』 中央公論社、1977年 『天衣無縫』 求竜堂、1984年 『梅原龍三郎版画集』 エディトリアルさあかす、1987年 『梅原竜三郎 生誕百年記念』 集英社、1988年 岡村辰雄『「書簡集」梅原竜三郎先生の追憶』 岡村多聞堂、1995年 『梅原龍三郎』 新潮社、1998年、のち新潮日本美術文庫 NHK特集「天に遊ぶわれ 梅原龍三郎」(1980年、NHK) ^ “梅原龍三郎 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 国立文化財機構 東京文化財研究所. 2023年3月5日閲覧。 ^ 帝国美術院の改組を閣議承認『大阪毎日新聞』昭和10年5月29日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p410 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 『官報』第5239号、昭和19年7月3日 ^ 日外アソシエーツ 20世紀日本人名事典. “梅原 龍三郎”. コトバンク. 2017年12月11日閲覧。 ^ “天に遊ぶわれ 梅原龍三郎”. NHK (2022年12月27日). 2022年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月29日閲覧。 真船豊『梅原竜三郎』 石原求竜堂、1944年 高峰秀子『私の梅原竜三郎』 潮出版社 1987年、のち文春文庫 町田市立国際版画美術館編 『浮世絵モダーン 深水・五葉・巴水…伝統木版画の隆盛』 町田市立国際版画美術館、2005年 清春芸術村 梅原龍三郎 - NHK人物録 梅原龍三郎 人とその作品 - NHK放送史 FAST ISNI VIAF
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2025/01/22 19:52更新
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