石牟礼道子の情報(いしむれみちこ) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
石牟礼 道子さんについて調べます
■名前・氏名 |
石牟礼道子と関係のある人
松永麻里: 天湖(下北沢小劇場 楽園、作:石牟礼道子、構成・演出:原田一樹) 西東大: ETV特集 「わが不知火はひかり凪 石牟礼道子の遺言」ナレーション 木村栄文: 代表的なドキュメンタリーに、水俣病を題材とした『苦海浄土』(石牟礼道子原作)、テキ屋の世界に密着した『祭ばやしが聞こえる』、韓国の流行歌から日韓の近現代史に迫る『鳳仙花~近く遥かな歌声~』、太平洋戦争下における日米のジャーナリスト二人を描く『記者それぞれの夏~紙面に映す日米戦争~』などがある。 上野英信: 同誌からは石牟礼道子や中村きい子らを輩出した。 北林谷栄: 「詩篇・苦海浄土」(台本石牟礼道子、ディレクター木村栄文、制作RKB毎日放送)1970年芸術祭大賞 - 瞽女に扮して苦海浄土の世界を案内 谷川雁: 上野英信、森崎和江、石牟礼道子らと雑誌「サークル村」を創刊し(1961年、休刊)、炭鉱労働者の間で活動する。 丸木位里: みなまた海のこえ 石牟礼道子(俊との共作) 小峰書店、1983 第32回小学館絵画賞受賞 島尾ミホ: 石牟礼道子共著『ヤポネシアの海辺から 対談』弦書房、2003年5月。 谷川道雄: 水俣小学校では石牟礼弘と同級で、その妻の石牟礼道子も少し下で、谷川の家で遊んだという。 丸木俊: 1982年には絵本『みなまた海のこえ』(文・石牟礼道子、位里とともに絵を担当、小峰書店)で第32回小学館絵画賞、1984年には絵本『おきなわ島のこえ』(位里との共著、小峰書店)で1984年度講談社文化賞・絵本賞を受賞している。 志村ふくみ: 『遺言 対談と往復書簡』石牟礼道子 筑摩書房 2014 丸木位里: 1981年には土本典昭監督の映画『水俣の図・物語』(音楽・武満徹、詩・石牟礼道子)、1984年には前田憲二監督の映画『命どう宝 おきなわ戦の図』も公開されている。 多田富雄: 『言魂』(石牟礼道子 藤原書店、2008) 上野英信: 水俣病患者に対するチッソ会社の仕打ちに対して、1971年12月31日から数日間、石牟礼道子、原田奈翁雄と3人、丸の内のチッソ本社前でハンガーストライキを行う。 藤原新也: 近年は作家の石牟礼道子や瀬戸内寂聴との共著も出す。 高群逸枝: 『最後の人 詩人高群逸枝』(石牟礼道子、藤原書店、2012年)、新版 井上二郎: ETV特集「ふたりの道行き 石牟礼道子と志村ふくみの“沖宮”」語り(2019年1月19日) 荻久保和明: 女声合唱組曲「花をたてまつる」(1991):石牟礼道子作詩、カワイ出版刊 伊藤比呂美: 『死を想う われらも終には仏なり』(2007年5月、平凡社新書→新版2018年7月)石牟礼道子との共著 丸木俊: みなまた海のこえ 石牟礼道子(位里との共作) 小峰書店、1983 第32回小学館絵画賞受賞 安永蕗子: 石牟礼道子に誘われ、水俣に行く。 荻久保和明: 女声/混声/男声合唱とピアノのための組曲「しゅうりりえんえん」(1984/1986/2006):石牟礼道子作詩、音楽之友社刊(男声を除く) 細川一: ほどなくして坂東は石牟礼道子から、「水俣に来る途中、愛媛の細川先生のところに立ち寄って、先生の手元にある猫実験のノートの内容を確認してほしい。 荻久保和明: 女声・児童/男声/混声合唱とピアノのためのファンタジー「あやとりの記」(1985/1994/1996):石牟礼道子作詩、音楽之友社刊(男声以外) 池澤夏樹: 石牟礼道子『苦海浄土』 オルハン=パムク: オルハン・パムク 述「言葉が生まれる瞬間」『石牟礼道子全集 不知火 第15巻(全詩歌句集ほか)』藤原書店、2012年3月。 丸木俊: 1981年には土本典昭監督、武満徹音楽、石牟礼道子詩による映画『水俣の図・物語』、1984年には前田憲二監督の映画『命どう宝 おきなわ戦の図』も公開されている。 北林谷栄: 六道御前(1982年、石牟礼道子原作) - 六道 宮脇昭: 『水俣の海辺に「いのちの森」を』石牟礼道子、藤原書店、2016年 |
石牟礼道子の情報まとめ
石牟礼 道子(いしむれ みちこ)さんの誕生日は1927年3月11日です。熊本出身の作家のようです。
作風・評価、人物などについてまとめました。家族、卒業、結婚に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
石牟礼道子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年(昭和2年)3月11日 - 2018年(平成30年)2月10日)は、日本の小説家・詩人・環境運動家。 主婦として参加した研究会で水俣病に関心を抱き、患者の魂の訴えをまとめた『苦海浄土ーわが水俣病』(1969年)を発表。ルポルタージュのほか、自伝的な作品『おえん遊行』(1984年)、詩画集『祖さまの草の邑』(2014年)などがある。 石牟礼道子は1927年3月11日白石亀太郎(当時34歳)と吉田ハルノ(当時24歳)の長女として、熊本県天草郡河浦町(現・天草市)に生まれる。父や祖父は石工であり、道子という名は道路が完成することを予祝して、 家族全員が考えて、名付けられた。三か月後には、葦北郡水俣町へ帰り以後そこで育つ。1930年に水俣町栄町に引っ越す。1934年に水俣町第二小学校に入学。小学二年生の時に初めて小説を読む。その時に読んだのは、中里介山の『大菩薩峠』であった。二年生の終わりごろ、山を売っていた祖父が事業に失敗し、栄町の自宅が差し押さえられ、水俣川河口の荒神通称「とんとん村」に引っ越す。水俣町立第一小学校に転校、舟で学校に通う。1940年に小学校を卒業し、水俣実務学校(現 熊本県立水俣高等学校)に入学。このころから歌を作り始める。1943年に卒業し、佐敷町の代用教員錬成場に入る。二学期より、田浦小学校に勤務する。この頃、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を知り、深く感銘を受ける。 代用教員時代の19歳の時、小学校にあった亜ヒ酸で自殺を試み、未遂に終わる。 1947年、教師の石牟礼弘と結婚し主婦となったが、生きにくさを感じ、結婚4か月目には自殺を図ろうとした。翌年、長男の道生が生まれたことで、自殺を思いとどまるようになった。 1956年短歌研究五十首詠(後の短歌研究新人賞)に入選。1958年に谷川雁の「サークル村」に参加、詩歌を中心に文学活動を開始した。1958年、弟が鉄道自殺する。 この頃、長男が入院した病院で「奇病」の存在を知り、強い衝撃を受けている。 その後、熊本大学研究班が出した報告書に衝撃を受け、1968年、日吉フミコらとともに水俣病患者を支援する水俣病対策市民会議を立ち上げた。 1969年には、「苦海浄土 わが水俣病」を発表し、大きな反響を得た。この著作は熊日文学賞や第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、いずれも受賞を辞退している。 1986年5月には穴井太(俳人)の世話により句集「天」(天籟俳句会)を刊行。 1993年、週刊金曜日の創刊に参画。編集委員を務めたが手伝いをしただけである事を理由に2年で辞任している。 2002年7月、新作能「不知火」を発表。同年東京上演、2003年熊本上演、2004年8月には水俣上演が行われた。 2018年2月10日午前3時14分、息子の道生、妹の紗子、姪のひとみ、道子の介護歴のある大津円が見守る中、パーキンソン病による急性増悪のため、熊本市の介護施設で死去。90歳だった。4月15日には送る会が開かれ、上皇后も参列し、「日本の宝を失いました」と道生に述べた。 随想集、回想評伝が多く刊行され、再評価されている。 作風・評価田中優子は、「石牟礼さんはノーベル文学賞をとれるほど作家だったと思うのに、亡くなって残念だ」と述べている。 沼野充義は日本の作家のうちノーベル文学賞を受賞してもおかしくない一人として石牟礼道子を挙げた。 人物活動家として石牟礼は、文筆活動のほかに水俣病に関する活動を行ってきた。石牟礼自身は、「私は社会運動家ではなく、詩人であり作家です」と、活動家であることを否定している。「日本のレイチェル・カーソン」や、「水俣病闘争のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。 読書道子は、本を通読しない作家としても知られている。 2024/06/06 23:41更新
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ishimure michiko
石牟礼道子と同じ誕生日3月11日生まれ、同じ熊本出身の人
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