袴田英利の情報(はかまだひでとし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
袴田 英利さんについて調べます
■名前・氏名 |
袴田英利と関係のある人
駒崎幸一: 次々打者の袴田英利の打球を札幌市円山球場のグランド整備の悪さも相まってトンネルした。 土屋恵三郎: しかし同年は江川と同期の袴田英利が正捕手に定着、あまり出番はなくなる。 福沢洋一: 1989年から袴田英利に替わる正捕手として期待され、開幕2戦目となった4月11日のオリックス戦(川崎球場)では斉藤巧に代わり捕手として初出場した。 小山昭治: 登録名を小山 昭吉(あきよし)に変更し、同年は袴田英利の控えながら6試合に先発マスクを被る。 里崎智也: 球団としては1985年の袴田英利以来、捕手として21年ぶりの規定打席に到達し(球団名がマリーンズに変更されてからは初)、ゴールデングラブ賞とベストナインにも選出された。 湧川勉: 初盗塁:1984年4月2日、対ロッテオリオンズ3回戦(阪急西宮球場)、8回表に二盗(投手:井辺康二、捕手:袴田英利) 岡部明一: 初出場:1985年10月14日、対西武ライオンズ25回戦(川崎球場)、8回裏に袴田英利の代打として出場 秋田秀幸: 因みに決勝戦で対戦した相手校には袴田英利(大里中学)がいた。 桃井進: 初出場:1986年4月18日、対西武ライオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、6回裏に袴田英利に代わり捕手として出場 小山昭晴: 登録名を小山 昭吉(あきよし)に変更し、同年は袴田英利の控えながら6試合に先発マスクを被る。 島本啓次郎: 東京六大学野球リーグでは、エース・江川卓をはじめ佃正樹投手、金光興二、植松精一、袴田英利、徳永利美、楠原基ら甲子園のスターが多数揃った同期入学組と「花の(昭和)49年(=1974年)組」と呼ばれ、彼らと法政の黄金期を築く。 サブロー: ロッテにおける打者の1位指名は袴田英利(捕手)以来17年ぶり。 長松純明: しかし1983年には20試合に先発マスクを被り、袴田英利、土肥健二と正捕手の定位置を争った。 植松精一: 江川、袴田英利捕手、金光、楠原、徳永利美、島本啓次郎、中林千年(松江商出身)や鎗田英男(熊谷商出身)両投手ら同期組、1年上の高代延博や船木千代美(秋田市立高出身)投手、下級生の前嶋純二(平安高出身)や居郷肇らと、4連覇を含む5回の東京六大学野球リーグ優勝に貢献し法政黄金期を創る。 高橋博士: 1982年には袴田英利が台頭し、出場機会が減少。 中西弘明: 1年上に高浦美佐緒、同期に土屋恵三郎、2年下に袴田英利と好捕手が揃い、厳しいレギュラー争いが続く。 青柳進: 当時チームには袴田英利が正捕手として君臨していた為、なかなか一軍昇格の機会がなかった。 村上隆行: 4月12日にハーマン・リベラが加入するとさらに一塁手に回って好調な打撃を維持していたが、5月16日のロッテオリオンズ戦で本塁突入時に袴田英利にタックルをした際、左鎖骨を骨折してしまい9月まで戦列を離れている。 川島正幸: 初本塁打:1983年4月18日、対西武ライオンズ2回戦(川崎球場)、9回裏に袴田英利の代打で出場、東尾修から2ラン 福澤洋一: 1989年から袴田英利に替わる正捕手として期待され、開幕2戦目となった4月11日のオリックス戦(川崎球場)では斉藤巧に代わり捕手として初出場した。 住友一哉: 江川卓・袴田英利らの2年後輩に当たり、東京六大学リーグでは法大4連覇を目の当たりにするが、3年次の1978年以降はリーグ優勝に届かなかった。 醍醐猛夫: 王、八木沢、小宮山、大塚、大村、袴田英利、平井光親ら約400人が参列した。 植村義信: 週刊現代 (2017年7月15日号). “週現『熱討スタジアム』「マサカリ投法」村田兆治を語ろう 袴田英利×福本豊×植村義信”. 小林晋哉: 初盗塁:1978年6月18日、対ロッテオリオンズ前期10回戦(川崎球場)、7回表に二盗(投手:広木政人、捕手:袴田英利) 仁科時成: 投手としての活躍だけでなく、ほぼ同時期に正捕手だった袴田英利のリードにも影響を与えた。 山倉和博: 同年には江川卓も阪急が1位指名、袴田英利もロッテから3位指名を受けたが、入団を拒否して法政大学に進学している。 土肥健二: 1982年には袴田英利が台頭して再び出場機会が減る。 西本和人: しかし、同年のロッテ戦で袴田英利にそのシュートでデッドボールを当ててしまい、同じ試合で落合博満の頭部付近に投球した際に落合がバットを投げて威嚇したことがあり、その頃から内角をつく投球が自信を持って出来なくなり不遇の時期を送る。 山下徳人: 初出場:1988年8月30日、対南海ホークス19回戦(川崎球場)、7回裏に袴田英利の代打として出場 福島知春: 1984年1月に金銭トレードでロッテオリオンズへ移籍し、登録名を本名の「知春」から「一人」に変更すると、開幕後は袴田英利の2番手捕手として35試合に出場。 |
袴田英利の情報まとめ
袴田 英利(はかまだ ひでとし)さんの誕生日は1955年8月13日です。静岡出身の野球選手のようです。
父親、引退、事件、結婚に関する情報もありますね。袴田英利の現在の年齢は69歳のようです。
袴田英利のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 袴田 英利(はかまだ ひでとし、1955年8月13日 - )は、静岡県静岡市葵区出身の元プロ野球選手(捕手)、コーチ。 静岡市立大里中学校時代は県大会で優勝。静岡高に進学が内定していたが、袴田の父親と静岡県自動車工業高等学校の校長が高校時代の同期で口説き落とされて自動車工に進んだ。自動車工では捕手、四番打者として1973年の全国高等学校野球選手権静岡大会で決勝に進出するが、後に大学同期となる植松精一らのいた静岡高に敗退。同年ドラフト3位でロッテオリオンズに指名されるも入団せず。 進学した法政大学には、2年上に中西清治、土屋恵三郎、同期にウィリー木原(大昭和製紙)といった好捕手がいたが、競争を勝ち抜き2年生時の1975年春季リーグから定位置を獲得。江川卓のほか中林千年(松江商出身)や鎗田英男(熊谷商出身)ら同期の投手陣、1年上の船木千代美投手(秋田市立高出身)らとバッテリーを組み、1年上の高代延博、同期の植松、金光興二、島本啓次郎、下級生の居郷肇といった選手たちとともに法政黄金時代を築いた。東京六大学野球リーグでは5回の優勝を経験、1976年から明治神宮野球大会で2年連続優勝。リーグ通算89試合出場、287打数86安打、打率.300、6本塁打、43打点。ベストナイン(捕手)4回。1975年、1976年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。 1978年、ドラフト1位でロッテに入団。即戦力として期待された。 1979年には開幕から先発マスクを被る。同年は12試合に先発するが、高橋博士、土肥健二両捕手の壁をなかなか破れず、二軍暮らしが長かった。 1981年にはチームが前期優勝、日本ハムとのプレーオフで第3戦のみマスクを被ったが、1勝3敗1分で敗退した。 1982年に頭角をあらわし86試合に先発出場。 1984年には規定打席(23位、打率.259)にも達して、レギュラーポジションを確実なものとする。以後、派手さはないものの、堅実なリードとファイト溢れるプレーで、チームの中心選手として活躍した。オールスターゲーム出場2回(1982年と1985年の2度、いずれも江川とは対戦機会皆無だった)。 前述のように堅実なリードが売りの一つであったが、プロ入り当初は、ある試合で仁科時成とバッテリーを組んだ際、出すサインのほとんどに首を振られショックを受けたという。そのショックをバネにリード力を向上させ、リードの奥深さを知ることができたという。袴田は「(僕がここまでになれたのは)仁科さんに出会えたから。僕がレギュラーになってからロッテの投手陣で僕のサインに最も首を振らなかったのが仁科さんだった。あの仁科さんが、僕のことを信頼し、任せてくれた。最初のことがあっただけに、ものすごく嬉しかった。」と振り返っている。 また、村田兆治とバッテリーを組んだ際には、ノーサインで受けることが大半だったという。これについて袴田は、「村田さんの視力が悪かったこともあり、サインと違うボールが来ることが多かったため、先入観の入らないノーサインのほうがいいと思った。」と振り返っている。また、これについて大矢明彦は、日米野球で村田からノーサインでの捕球を求められて、「袴田はよくこの球を捕れるなと頭の下がる思いだった」と評している。 1989年には福澤洋一が入団したことで出場機会が減少。 1990年にコーチ兼任となり、同年限りで現役引退。やはり同じく引退する村田兆治のラスト登板にて、久々の一軍先発捕手として出場した試合が自身にとっても最後となった。これは村田からの「俺のキャッチャーはお前以外にいないんだ。だから俺と共に去るんだ」「お前とじゃなきゃ終われないんだよ」という指名によるものだった。試合後、袴田は村田に報道陣が群がるのを尻目に一人泣きながらベンチに戻りかけた。これに気付いた記者から「やはり村田さんが引退となると寂しいですか?」と聞かれ、「ていうか僕も今日で引退なんです」と答えている。 引退の原因の一つは、ラルフ・ブライアントの体当たりスライディングをまともに受けた打撲による負傷である。この負傷の際、川崎球場の高齢の当直医が登場する際の仕草がおかしかったため、後に珍プレー特集で放映され、スタジオが大いに沸き、その後も毎年「宇野勝ヘディング事件」の映像などとともに放送するのが定番となり、2015年のゴールデンタイムでの放送が復活した後も毎年放送される。 なお、ロッテオリオンズで規定打席に到達した捕手は1985年の袴田が最後となる(千葉移転後は2006年に里崎智也が規定打席に初めて到達した)。 引退後はロッテで二軍バッテリーコーチ(1991年, 1995年 - 1997年, 2002年, 2012年)、一軍バッテリーコーチ(1992年 - 1994年, 2001年, 2003年 - 2009年)、チーフコーチ(2000年)、二軍総合コーチ(2010年 - 2011年)、スカウト(1998年 - 1999年)を歴任。2012年10月15日、球団から来季のコーチ契約更新はない旨を通知された。 2014年からは埼玉西武ライオンズ一軍チーフ兼バッテリーコーチに就任。ヘッドコーチ格として伊原春樹監督を支えた。伊原監督が休養後は一軍ヘッド兼バッテリーコーチに配置替えとなる。2015年10月4日に今季限りで契約満了することが通知された。 2016年より、ベースボール・チャレンジ・リーグ・武蔵ヒートベアーズのヘッドコーチに就任。2シーズン在籍し、2017年シーズン終了後に退団した。 法政大時代は江川卓の剛速球、ロッテ時代は村田兆治のフォークボールをノーサインで捕球し、名捕手と呼ばれた(ただし村田のフォークボールをパスボールにすることもままあった)。 各年度の太字はリーグ最高 初出場:1978年5月28日、対日本ハムファイターズ前期10回戦(後楽園球場)、5回裏に榊親一に代わり捕手として出場 初先発出場:1978年6月6日、対南海ホークス前期11回戦(大阪スタヂアム)、8番・捕手として先発出場 初安打:同上、5回表に佐藤道郎から 初本塁打・初打点:1978年6月20日、対クラウンライターライオンズ前期11回戦(川崎球場)、2回裏に石井茂雄から2ラン 初盗塁:1982年4月14日、対西武ライオンズ前期4回戦(西武ライオンズ球場)、3回表に二盗(投手:松沼博久、捕手:大石友好) オールスターゲーム出場:2回 (1982年、1985年) 12(1978年 - 1990年) 78(1991年) 86(1992年 - 1994年) 74(1995年 - 1997年) 85(2000年 - 2012年) 81(2014年 - 2017年) 水島新司の野球漫画『ドカベン プロ野球編』では2度大きく作品中のキャラクターにかかわっている。 1度目は明訓高校でエースであった里中智を二軍で指導し、プロで戦える体にし、新変化球スカイフォークを授けた。その後、怪我で2年目の前半戦を棒に振りつつも、オールスターで9者連続三振を達成した里中に感涙。ファームで、里中の怪我に親身になって付き合っていたことを匂わせる発言も残す。そして里中の入団3年目には、彼の先発投手への転向に助力し、同時に彼の恋女房役の瓢箪捕手の打撃力向上にも一役買っている。 その後数年は登場シーンが無かったが、『球道くん』の主人公・中西球道がロッテ入団の際に再びクローズアップされている。中西に「あの苦しみを乗り越えた」と思いをはせている姿から中西のリハビリを手伝っていたことも考えられる。 また、里中と山田太郎の妹サチ子の結婚の仲人を務めることになった。 これらに遡る明訓高校が舞台だった時期にも関わりをうかがわせる描写がある。 主人公の山田太郎たちが高校2年の時、全国大会1回戦でBT(ブルートレイン)学園と対戦したが、作中に実況アナが解説者の「袴田さん」に「BT学園とはどんな学校なのですか?」と問いかける場面がある。解説者の袴田は、「私は静岡の自動車工業高校の出身ですが、あれと同じで・・・」と答え、袴田英利の経歴と符合する。 また、この大会では山田太郎のライバルの一人、江川学院の中二美夫が怪我から再起の登板を果たし、「袴田高校」を相手に1-0の完封勝利を上げる。9回裏2死満塁のピンチに代打・英利(ひでり)を投飛に打ち取っている。 ^ 『野球小僧 8月号 2011』白夜書房、p.155 ^ 『野球小僧 8月号 2011』白夜書房、p.153 ^ 守備力で選ぶ「歴代捕手ベスト10」。大矢明彦が「私など足元にも及ばない」と評価したNo.1は?(2021年6月24日Web Sportiva) ^ ブライアント激突事件!元ロッテ袴田氏が述懐 「ヨボヨボ先生」の珍プレー映像には「笑った」/野球/デイリースポーツ online ^ 【江川卓】あんなストレートは見たことない...高橋慶彦・大学でバッテリーを組んだ袴田英利が明かす江川の凄さとは - YouTube ^ 『野球小僧 8月号 2011』白夜書房、p.149 ^ コーチ契約に関するお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月15日 ^ 2014年度 コーチングスタッフ発表! - 埼玉西武ライオンズ・オフィシャルサイト 2013年10月22日 ^ コーチ契約についてのお知らせ - 西武ライオンズ・オフィシャルサイト 2015年10月4日 ^ 袴田英利氏、ヘッドコーチ就任のお知らせ (PDF) - 武蔵ヒートベアーズ Musashi Heat Bears web page 2015年12月17日 ^ 袴田ヘッドコーチ・中林トレーニングコーチ退任のお知らせ - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2017年11月10日) 静岡県出身の人物一覧 法政大学の人物一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 個人年度別成績 袴田英利 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1位:袴田英利 2位:梅沢義勝 3位:広木政人 4位:川島正幸 5位:佐藤健一 6位:川口和久(入団拒否) 表 話 編 歴 1位:佐藤博正 2位:小鷹卓也 3位:袴田英利(入団拒否) 4位:浜師勝彦(入団拒否) 表 話 編 歴 太田誠 江川卓 田尾安志 名取和彦 田村政雄 齊藤明雄 丸山清光 山本泰之 土屋恵三郎 小川良一 袴田英利 荒井信久 平田薫 中畑清 岩井靖久 吉沢俊幸 八木茂 安岡直記 後藤寿彦 二宮至 楠原基 前川善裕 佐藤清 表 話 編 歴 太田誠 五明公男 小川茂仁 森繁和 江川卓 佐藤義則 吉田恭之 林博之 高橋三千丈 齊藤明雄 堀場秀孝 袴田英利 大宮龍男 山倉和博 石毛宏典 石井昭男 秋田秀幸 武智勇治 金光興二 松本匡史 岡村隆則 渡辺良 植松精一 日本の野球選手 静岡北高等学校出身の人物 法政大学野球部の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 野球日本代表選手 日米大学野球選手権大会日本代表選手 日本の野球指導者 埼玉西武ライオンズ関連人物 埼玉武蔵ヒートベアーズ 静岡県出身のスポーツ選手 静岡市出身の人物 1955年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/04 07:38更新
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