井上日召の情報(いのうえにっしょう) 国家主義者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
井上 日召さんについて調べます
■名前・氏名 |
井上日召と関係のある人
片岡千恵蔵: 1960年代頃からは若手スターの中村錦之助や大川橋蔵らに主役の座を譲って、脇役を演じることが多くなったが、東映時代劇の衰退で集団抗争時代劇として製作された『十三人の刺客』では主演し、路線転向後の任侠映画でも脇役を演じ、千葉真一主演のオールスター映画『日本暗殺秘録』では井上日召を演じた。 四元義隆: その頃に井上日召と知り合う。 片岡千恵蔵: 日本暗殺秘録(1969年、東映) - 井上日召 小沼正: 重なる挫折を味わっていた1930年(昭和5年)に井上日召を知り、血盟団に加わった。立正護国堂に入り、日蓮信仰と国家革新の思想を学んだが、やがて井上日召の家父長的カリスマの影響下に捨て石的革命運動に没入。 佐郷屋留雄: 1954年、血盟団事件の中心人物である井上日召と共に右翼団体護国団を結成、副団長となる。佐郷屋自身も繰返し逮捕されているが、団長の井上日召が責任を取るとして、団及び団長を辞めたことで、かえって佐郷屋が団長となっている。 四元義隆: 1941年に井上日召、三上卓、菱沼五郎らとともに「ひもろぎ塾」を設立。 小沼正: ピストルは伊東亀城少尉から盗んだものとされたが、後に井上日召より渡されたものとなっている。 荒木貞夫: 憲兵司令官時代から大川周明や平沼騏一郎・北一輝・井上日召といった右翼方面の人物と交流を持っていたことから、1931年(昭和6年)の十月事件においては、橋本欣五郎から首相候補として担がれたが、荒木自身の反対や意見の非統一から計画は頓挫した。 菱沼五郎: 失意の中、大洗町の護国堂にいた井上日召のもとに通う。 安岡正篤: 戦後、文芸春秋の取材に対し井上日召は、血盟団事件の検挙の発端は、自身に累が及ぶのを恐れた安岡が内務省警保局長の松本学に密告したためで、井上はこれを警視庁の役人から後に聞いたとし、さらに安岡は内務省機密費から5万円を受け取ったと証言している。 |
井上日召の情報まとめ
井上 日召(いのうえ にっしょう)さんの誕生日は1886年4月12日です。群馬出身の国家主義者のようです。
事件、家族、卒業、事故、病気、引退に関する情報もありますね。1967年に亡くなられているようです。
井上日召のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年〈明治19年〉4月12日 - 1967年〈昭和42年〉3月4日)は、日本の宗教家、政治運動家、テロリスト。本名は井上 昭(いのうえ あきら)。 日蓮宗の信者。僧侶風の名のりだが全くの自称によるもので、正式の僧侶となったことはない。いわゆる「近代日蓮主義運動」の思想的系譜に連なり、戦前の右翼テロリスト集団「血盟団」、戦後の右翼団体「護国団」の指導者を務めた。 元看護士であった妻との間に、一女をなす。娘が幼い頃は、右翼活動として寄付集めをしていたものの貧しく、日召は家計から五十銭を持ち出して出かける生活だったという。後になると、日召はあまり家によりつかず、妻も生活のため働いたものの、彼女は脊椎カリエスを患い病弱なため十分でなく、それでも金を得ると、日召がまた顔を出すようになったという。後の血盟団事件で、第一審で無期懲役の判決が下ったときには、子供について弁護士に「親はあっても大悟の親、親子の情愛に引かれて悩むことなし」と語ったという。面会が許され、娘を妻が連れてきたときには、娘に「お父さんは死にゃしないのだから」「お母さんの言うことを、よく聞くのだよ」と語ったという。 たびたびの減刑・恩赦で日召は1940年出所したが、その後右翼団体を設し、戦後は日召は神楽坂の芸者を妾にして入りびたり、やがて鎌倉に家を建てて妾と暮らし、家族を顧みることはなかったという。娘は一時右翼団体の事務職員を務めたことはあったものの、家族らの困窮は続いたという。弟子らも多くが日召の顔色を伺い、妾の側につき、わずかに血盟団の小沼正だけが彼女らの面倒をみたという。 1886年医師の家の三男として生まれる。次兄は海軍中佐の井上二三雄。 旧制前橋中学校利根分校を修了した後、同本校を卒業。早稲田大学・東洋協会専門学校(現:拓殖大学)をそれぞれ中退。 1909年 南満州鉄道入社。諜報活動等を行う。 1919年 兄二三雄が航空機事故で殉職。 1920年 帰国する。 1924年 ジャーナリスト朝比奈知泉との話をきっかけに、井上日召と名乗ることを決める。この頃、本人の病気時に神秘体験をして回復、それをきっかけに病気平癒の加持祈祷を始めたと見られる。 1925年 当時田中光顕の秘書であった高井徳次郎と護国聖社を創設、道場を作ろうとしたが失敗。 1928年 田中光顕の尽力で水浜電車が資金を出し、茨城県大洗町に曼荼羅を奉納する立正護国堂が建てられ、そこで加持祈祷を行う。本人は道場としての活動に専念することを希望していたとする。 その後、海軍の過激派藤井斉中尉や五・一五事件の首謀者の一人愛郷塾塾長橘孝三郎らと知り合い、大日本帝国政府を改造するためには暴力的行動以外に道はないと説得され同調、テロ活動を計画。 1932年 右翼団体血盟団結成。「一人一殺」主義を掲げ、要人暗殺により国家改造の実現を計画して血盟団事件を引き起こし、無期懲役。 1940年 特赦を受けて出獄。 1941年 三上卓、四元義隆、菱沼五郎らと「ひもろぎ塾」を設立。近衛文麿邸に寄食した。これは日米交渉の進展によっては起こりえるテロを恐れた近衛が用心棒として雇っていたものであった。 1947年 公職追放の対象となる。農村青年に講演をして廻る。 1953年 右翼団体維新運動関東協議会の参与に就任。 1954年 佐郷屋嘉昭、小島玄之らと護国団を結成し初代団長になる。 1956年 護国団のメンバーらが次々と金銭目当てや団員になることを拒否した者へのリンチ等の恐喝・監禁や暴力行為で繰返し逮捕されたことで、当初は事件を否定していたものの、やがて責任をとるとして、団長を辞任した(このため、これらの行為でたびたび逮捕されていた副団長の佐郷屋嘉昭が団長に昇格するという、皮肉な結果となっている。)。右翼活動からも引退し、黒幕三浦義一から経済的援助を受け老後を過ごす。 1967年 脳軟化症のため死去。 日本暗殺秘録 - 演:片岡千恵蔵 『一人一殺 - 井上日召自伝』 日本週報社 (1953) ^ 「日召と娘 鉄窓の父に泣く」『朝日新聞』1934年11月25日、朝刊、11面。 ^ 中島岳志『血盟団事件』文藝春秋、2013年8月10日、19-22頁。 ^ 中島岳志『血盟団事件』文藝春秋、72頁。 ^ 杉本健『海軍の昭和史』文芸春秋、1982年。59頁 ^ 中島岳志『血盟団事件』文藝春秋、89頁。 ^ 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、1054頁。ISBN 4-06-203994-X。 ^ 『沢本頼雄日記』 ^ 「"悪"になった右翼団体 監禁、強迫しきり」『読売新聞』1956年1月12日、夕刊、3。 ^ 「脅しの事実を否定」『朝日新聞』1956年1月12日、夕刊、3面。 ^ 「井上日召氏、護国団長を辞任」『毎日新聞』1956年3月1日、朝刊、7。 血盟団 井上日召 国立国会図書館デジタルコレクション 『井上日召』 - コトバンク FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ イスラエル アメリカ 日本 オランダ CiNii Books CiNii Research 日本の政治運動家 昭和維新 日本の右翼活動家 群馬県出身の人物 群馬県立沼田高等学校出身の人物 群馬県立前橋高等学校出身の人物 南満洲鉄道の人物 公職追放者 日蓮宗の僧 1886年生 1967年没 日本のテロリスト 十月事件の人物 血盟団事件の人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事
2025/01/24 14:00更新
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inoue nissyou
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