もしもし情報局 > 1974年 > 9月11日 > 野球選手

今岡誠の情報 (いまおかまこと)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月25日】今日誕生日の芸能人・有名人

今岡誠の情報(いまおかまこと) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

今岡 誠さんについて調べます

■名前・氏名
今岡 誠
(読み:いまおか まこと)
■職業
野球選手
■今岡誠の誕生日・生年月日
1974年9月11日 (年齢49歳)
寅年(とら年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
兵庫出身

(昭和49年)1974年生まれの人の年齢早見表

今岡誠と同じ1974年生まれの有名人・芸能人

今岡誠と同じ9月11日生まれの有名人・芸能人

今岡誠と同じ出身地兵庫県生まれの有名人・芸能人


今岡誠と関係のある人

手塚一志: この時もシンクロ打法の指導によって、今岡誠と濱中おさむが打撃開眼したとも言われる。


手塚一志: 当時まだブレイク前だった今岡誠、濱中治、赤星憲広らの打力向上に貢献しつながる打線を実現。


川中基嗣: 東洋大学では同期に塩崎真と清水隆行(塩崎は中退)、3学年先輩に和田孝志、2学年先輩に関口伊織、1学年後輩に今岡誠、2学年後輩に田中充、3学年後輩に福原忍がいた。


関口伊織: 大学の2年先輩に桧山進次郎と徳田吉成、1年先輩に和田孝志、2年後輩に清水隆行と川中基嗣、3年後輩に今岡誠がいた。


真弓明信: 就任1年目の2009年に、盤石のリリーフ陣「JFK」の一角として活躍した久保田智之の先発転向、新井貴浩の一塁からのコンバート、今岡誠のファーストコンバート、新外国人ケビン・メンチの右翼手固定を行ったが、成績は上向かず、自身の誕生日でもある7月12日に自力優勝の可能性がなくなった。


手塚一志: 今岡誠


星野仙一: 翌2003年は、金本、伊良部、下柳、矢野、桧山進次郎、片岡、井川慶、アリアス、ジェロッド・リガン、ジェフ・ウィリアムスら主力選手の活躍に加え、今岡誠、赤星憲広、藤本敦士、吉野誠ら若手が急成長し、首位を独走、7月8日にはセ・リーグ史上最速となる優勝マジック49を点灯させた。


星山忠弘: 中学時代は宝塚シニアで、後にドラフトで一緒に入団する今岡誠と同期だった。


檜山進次郎: 同年、選手会長を退任して後任の今岡誠に引き継いだ。


ルー=フォード: その後、北京五輪から復帰した新井貴浩の故障、今岡誠の不振で右打者が手薄となっても、一軍昇格候補に挙がることはないまま、ライアン・ボーグルソンと共にクライマックスシリーズを前に帰国し、同年限りで退団した。


赤星憲広: 2006年から今岡誠に代わって阪神の選手会長を務めることになった。


大山悠輔: 一方で、球団の生え抜き右打者では今岡誠以来となる2年連続20本塁打を記録し、球団33年ぶりとなる対巨人戦(甲子園)での逆転サヨナラ本塁打を放つなど、チームに貢献する活躍も残した。


楠淳生: 今岡誠が阪神の主力選手だった時期には、ヒーローインタビューの担当者として今岡のインタビューを任された際に、以下に記す絶妙のやり取りで阪神ファンを沸かせた。


野村克也: 日本語が通じないのか」と度々酷評していた今岡誠や大豊泰昭(後に中日移籍)との対立が話題に挙がることも多かったが、こうした対立はあくまでも少数派であり、岡田彰布が監督に就任した前後で野村が楽天の監督となった後も赤星、藤本、矢野輝弘、桧山らは楽天戦の試合前には必ず挨拶し、その様子は新聞などによって度々報じられていた。


上坂太一郎: 翌2002年、田淵幸一チーフ打撃コーチは当初2番二塁手として上坂のレギュラーを予定していたが、星野監督の「今岡を使ってみな」という指示に従い今岡誠を起用したところ固め打ちをし、そのまま二塁に定着。


星野仙一: 今岡誠は「とてもシビアでした。


アンディ=シーツ: 今岡誠の離脱により三塁手でのスタメン出場が多く、今岡の復帰後は再び一塁手に戻った。


緒方凌介: その高橋からは、「(卒業後に阪神の主力選手として活躍したOBの)今岡誠・桧山進次郎を超える逸材」と評価されていた。


福原忍: 東洋大学では3学年先輩に清水隆行と川中基嗣、2学年先輩に今岡誠、1学年先輩に田中充、1学年後輩に前田忠節、2学年後輩に三浦貴がいた。


坪井智哉: 阪神時代には今岡誠とも親交が深かった(PL学園時代の後輩だが、プロでは今岡が先輩)。


桧山進次郎: 同年、選手会長を退任して後任の今岡誠に引き継いだ。


前田忠節: 高校の先輩である今岡誠の卒業後は遊撃手に定着。


中川圭太: 東洋大学時代はパンチ力とミートに長けたスラッガーとして、「(高校・大学を通じての先輩の)今岡誠以上の素材」という評価を受けていた。


関本健太郎: 2006年は怪我や不振が重なった今岡誠に代わり、2番三塁手でレギュラーに定着。


鳥谷敬: 不調だった今岡誠が9月に復帰した後は再び6番に戻り、打率.281、13本塁打、自己最多の80打点を記録。


板山祐太郎: 阪神の新人選手が一軍公式戦においてクリーンナップで先発出場したのは、1997年の今岡誠以来19年ぶりである。


藤本敦士: 前年同様に関本との併用になったが、シーズン後半に今岡誠が離脱したことで関本が三塁手に回り、藤本が二塁手に定着した。


五十嵐亮太: 6月3日の対阪神タイガース戦で、当時の日本プロ野球最速タイ記録となる158 km/hを今岡誠に対して記録。


藤本敦士: 同年11月からは、阪神時代の先輩で前年に引退した金本知憲・今岡誠などと交代で、MBSラジオのナイターオフ番組『withタイガース カワスポサタデー運動部!』にレギュラー出演した。


吉田義男: 前年オフのドラフトで今岡誠、関本健太郎、濱中治と、後にチームの主軸に成長する野手3人を上位指名した。遊撃手レギュラーであった久慈の放出は今岡誠の出場機会増加を目的としていた。


今岡誠の情報まとめ

もしもしロボ

今岡 誠(いまおか まこと)さんの誕生日は1974年9月11日です。兵庫出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

選手としての特徴、詳細情報などについてまとめました。卒業、引退、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。今岡誠の現在の年齢は49歳のようです。

今岡誠のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

今岡 真訪(いまおか まこと、本名及び旧登録名:今岡 誠(読み同じ)、1974年9月11日 - )は、兵庫県宝塚市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、コーチ、野球解説者。

愛称は「マコ」、「イマハン」。妻は、ネイリストやタレントとして活動する今岡梨惠。

阪神タイガースの現役選手時代から、野球解説者として活動した時期をはさんで、阪神に二軍野手総合コーチとして復帰した2016年までは、本名を登録名に用いていた。コーチ在任中の2017年から、登録名を「今岡 真訪」(名前の読み方は本名と同じ)に変更した。アトランタオリンピック野球の銀メダリスト。

宝塚市立美座小学校、宝塚市立宝塚中学校卒業。少年時代は宝塚シニアに所属し、阪急沿線に住んでいた影響で、阪急ブレーブスのファンであった。PL学園高校3年時に第64回選抜高等学校野球大会に出場し、8強入りする。この時点で阪神タイガースからプロ入りの打診があったが、これを断って大学進学を選んだ。PL学園では2学年先輩に入来祐作、1学年先輩に坪井智哉、1学年後輩に松井稼頭央、2学年後輩にサブローがいた。

東都大学野球連盟所属の東洋大学に進学後は遊撃手として大学通算89試合出場、335打数100安打、打率.299、12本塁打、73打点を記録。ベストナインに2回選出された。東洋大学では3学年先輩に関口伊織、1学年先輩に清水隆行と川中基嗣と塩崎真、2学年後輩に福原忍、3学年後輩に前田忠節がいた(※塩崎は中退)。1996年アトランタオリンピックでは日本生命の福留孝介も含めて3人の遊撃手が選出されたが、主に7番遊撃手井口忠仁、8番二塁手今岡、9番三塁手福留で起用され、打率.435を記録した。大学入学は当初、青山学院大学に入学する予定で野球部のセレクションも受けたが落選したため、東洋大学に急遽変更した経緯がある。

1996年のプロ野球ドラフト会議前に吉田義男監督復帰が決定の阪神タイガースを逆指名することを表明。ドラフトでは阪神が1位指名で交渉権を獲得し契約金1億円、出来高払い5,000万円、年俸1,200万円(金額は推定)で入団合意した。担当スカウトは今成泰章。

1997年、吉田監督の下、前半は主に三塁手で、後半は二塁手として1軍に出場し、1年目から百試合弱に出場した。出場機会の無い試合も常に1軍ベンチから試合を観察できたため、それが2年目に生きたという。

1998年、前年オフのトレードで放出された久慈照嘉に代わって2番遊撃手レギュラーとしてほぼ全試合に出場し、打率.293、本塁打7本、44打点を記録した。同年8月23日の対ヤクルトスワローズ戦(大阪ドーム)では1-1の同点の延長11回無死無走者の打席で山部太から自身初のサヨナラ本塁打を放った。オフには日米野球にも出場。

1999年、野村克也監督が就任し、前半は引き続き遊撃手レギュラー、終盤は二塁手レギュラーで起用されるが、打撃成績は打率.252、本塁打6本、打点39と前年を下回る成績で終わった。オフには日韓プロ野球スーパーゲームにも出場。

2000年、遊撃手のポジションは田中秀太に奪われ開幕は二塁手スタートとなり、更に打撃不振に陥りレギュラーを剥奪される苦しいシーズンとなった。一軍出場わずか40試合の出場で打率.212に終わった。

2001年、開幕2戦目・3戦目で本塁打を放ったが、それ以降の成績は平凡で、シーズン中盤からは守備の負担を軽くするために三塁手として起用されたものの、規定打席には届かず打率.268、本塁打4本、打点40にとどまった。3年間プレーした野村克也監督とは反りが合わなかったと今岡本人が後年振り返っている。野村克也の側も度々今岡批判を繰り返している。

2002年、星野仙一監督が就任し、春季キャンプからの活躍が認められ、二塁手のレギュラーを奪取。故障した赤星憲広に代わって1番打者に固定され、自己最高を更新する打率.317(セリーグ5位)、15本塁打を記録する。同年4月10日の対広島東洋カープ戦(阪神甲子園球場)では両者無得点で迎えた9回一死無走者の打席で玉木重雄からサヨナラ本塁打を放った。オフには日米野球にも出場。

2003年も1番として起用され、打率.340(キャリアハイ)で首位打者のタイトルを獲得。二塁手としてゴールデングラブ賞を受賞するなど、1985年以来のリーグ優勝に貢献、自身初のポストシーズン2003年の日本シリーズ全試合先発出場。同年は得点圏打率リーグ最高の.428を残したほか、年間初回先頭打者本塁打を7本放ち(うち5本は初球)、2試合連続で先頭打者初球本塁打も記録した。

2004年は新監督に就任した岡田彰布の意向で3番打者に抜擢され、打率.306、28本塁打、83打点の好成績を挙げる。同年から阪神選手会長に就任した。オフには日米野球にも出場。

2005年は守備の負担を軽減するため三塁手にコンバートされた。打撃では勝負強さを買われて5番打者を務めることになった。シーズンでは藤村富美男の球団記録を更新して日本プロ野球歴代3位となる147打点(キャリアハイ、NPB歴代3位)を残し、打点王のタイトルを獲得する活躍を見せ、リーグ優勝に貢献した。同年は得点圏打率.371(打数170)、満塁打率.600(25打数15安打の49打点)、満塁本塁打4本(歴代2位タイ、セ・リーグでは西沢道夫以来55年ぶり)を記録。シーズン29本塁打(キャリアハイ)のうち、実に15本塁打が得点圏で放ったものであった。また、同年の3番アンディ・シーツ、4番金本知憲、5番今岡らによるクリーンナップ3人の合計357打点は球団史上最高記録である。一方で三塁守備では不安定さが目立ち、三塁手としてリーグ3位の14失策を記録。2005年の日本シリーズ全試合先発出場。シーズン終了後に選手会長を退き、後任として赤星憲広を推薦した。

2006年の春季キャンプでは打率3割を切った前年の反省から、「当てること(安打を打つこと)を目標にすれば、自然に打点も付いてくる。大事なのは当てること」と打撃フォームの改造に着手。しかし、打率は2割前後に低迷する。開幕から5番を任され続けたものの調子は上向かず、6月17日の対オリックス・バファローズ戦でウェス・オーバーミューラーから死球を受けて右手首を挫傷したこともあり、バネ指の手術に踏み切った。9月17日の対中日ドラゴンズ戦に代打で復帰したが、手術の影響で送球ができなかったこともあり、復帰後はスタメンでの出場はなかった。85試合で打率も2割3分を下回る成績に終わった。

2007年も開幕から5番に座り前半戦は打率3割前後をキープするも、2005年とは逆に走者がいない場面では4割を超える出塁率を記録したが得点圏で打てず、前半戦は17打点にとどまった。7月25日に1軍登録を抹消され、9月27日に再昇格。5番三塁手の定位置に戻り、6試合で7打点を挙げた。最終的に85試合に出場して打率こそ前年ほど悪くはなかったが、復活を印象付けたとは言い難かった。同年のオリンピック・アジア予選の第一次候補選手(5月8日発表)に名を連ね、星野仙一日本代表監督に右のキーマンとして期待されていたが、10月12日に発表された最終候補選手では選考から漏れた。

2008年のキャンプでは、本塁打増産を目指して前年オフから始めた加圧トレーニングなどによる筋力強化に取り組んだ。このシーズンより同じく三塁手の新井貴浩がFAで加入したが、岡田監督は早いうちから新井を一塁手、今岡を三塁手で起用する方針を明言。5番三塁手で開幕を迎えた。しかし、打率1割台前半と低迷して守備も失策やミスが目立ったことから、5月25日に1軍登録を抹消された。9月11日に一軍に再昇格して3番三塁手に復帰するとそのヤクルト戦でサヨナラ押出四球で勝利を呼んだ。9月だけで5本塁打を放ったが、シーズン序盤の低打率を巻き返すことはできず、関本賢太郎やアーロム・バルディリスにスタメンを譲ることもあった。結局55試合の出場に留まり、打率1割台でシーズンを終了した。クライマックスシリーズ (CS) では代打で1打席しか出番を得られず、成績も低迷した。

2009年は背水の陣で挑む覚悟と前年にコメントし、真弓明信監督も今岡の復活に期待をこめて新井を三塁手にコンバートし、一塁手で今岡を使えるように配慮した。しかし、打率1割前半と低迷し、出場の機会を失った。9月1日には複数のメディアが引退、もしくは来季の戦力構想外と報じた。前年から更に出場機会を減らし23試合しか出場できず、同年10月に戦力外通告を受けて退団。

阪神退団直後の2009年11月11日に12球団合同トライアウトへ参加したことがきっかけで、翌2010年の2月1日から、ロッテの春季キャンプにテスト生として参加。2月3日に球団から合格が発表された。背番号は前年まで監督を務めたボビー・バレンタインが付けていた「2」で、年俸は推定1,500万円。シーズンでは代打や指名打者で起用されるも不振に陥り、二軍に降格。二軍暮らしが長く26試合の出場に終わり、打率.227とシーズン通じての活躍はできず、プロ入り後初めて守備での出場がなかった。しかし、CS第2ステージ初戦では先制の口火を切る二塁打を、4戦目では移籍後初本塁打を放ち、5戦目では5年ぶりに犠打を決めるなど西村徳文監督の期待に応え大一番での強さを見せた。チームCS優勝、レギュラーシーズン三位から下克上での2010年の日本シリーズ制覇や日韓クラブチャンピオンシップ勝利に貢献した。

2011年は阪神時代以来2年ぶりに守備で出場することもあったが、打撃不振で13試合の出場にとどまった。

2012年からは選手兼任で二軍打撃守備コーチに就任。しかし1軍出場は無く、9月18日に現役引退を発表。10月5日に引退記者会見を行い、「レギュラーとしては短命だったが、山あり谷ありの濃い野球人生だった」とコメントした。

2013年から2015年までは、日刊スポーツの野球評論家・毎日放送の野球解説者として、地元・関西や中部を中心に活動。2012年12月1日には、自身初の著書「感じるままに生きてきて」が、ベースボール・マガジン社から発売された。毎日放送では、2014年までテレビ・ラジオとも野球解説者としての専属契約を結んでいたが、2015年には専属契約の対象をラジオ中継に限っていた。

阪神球団は2015年10月26日に、今岡に対して、翌2016年シーズンからの二軍野手総合コーチ就任を正式に要請。今岡がこの要請を受諾したため、球団は翌27日に、今岡のコーチ就任を発表した。背番号は2003年のリーグ優勝時の監督であった星野仙一が使用していた77。阪神時代のチームメイトだった金本の一軍監督就任(同月17日)を受けての現場復帰で、「二軍打撃兼野手総合コーチ」として、打撃部門を中心に二軍を総合的に指導していた。

2017年からは、登録名を本名(今岡誠)から今岡 真訪に変更した。ウエスタン・リーグ全日程終了後の10月8日付でコーチを退任した。

2017年10月31日に、2018年からロッテに二軍監督として復帰することが発表された。この年からロッテの監督に就任した井口資仁(今岡とは同学年で、かつてロッテで3年間チームメイトだった他、東都大学リーグやアトランタオリンピック(先述)で共にプレーした経験を持つ)の意向による就任だった。背番号は阪神の二軍コーチ時代に続いて77。

2021年には、一軍のヘッドコーチへ異動。チームのクライマックスシリーズ進出に貢献したが、オリックス・バファローズとのファイナルステージに敗れたことを受けて、球団に退団を申し入れ、球団も申し入れを受理したため、11月15日付で退団した。

2022年に、日刊スポーツの野球評論家へ7年振りに復帰。関西地方を拠点に、「今岡 真訪」名義で野球解説者としての活動も再開した。解説者としてはフリーランスの立場で、毎日放送・MBSラジオ・サンテレビジョン・スカイ・エーなどの阪神戦中継・関連番組にも登場。サンテレビのYouTube公式チャンネルでは、「今岡・湯浅の真の虎になれ!」(同局のスポーツアナウンサー・湯浅明彦との対談番組)の動画ライブ配信を、5月から8月まで定期的に実施していた。

阪神球団では、2023年シーズンから岡田が一軍監督を15年振りに務めることを受けて、今岡に打撃コーチへの就任を要請。本人もこの要請を正式に受諾したため、2022年10月28日に、一軍の打撃コーチとして阪神へ6年振りに復帰することが決まり、2023年1月17日に正式に発表された。背番号は再び77。

選手としての特徴

バットコントロールが巧みで三振が少ない悪球打ちで、初球から積極的に打つ傾向にあり、苦手なコースも少なく左右に打ち分けることもできるマルチな打者。今岡の2003年シーズンの打撃を見たランディ・バースは「左肘に遊びを持たせたフォームが対応力を増し、ボールの芯にミートする率を高めている」と分析した。147打点を記録した2005年には得点圏打率.370を記録し、特に三塁に走者を置いた際には.643という数字を残した勝負強さも持ち味。

一方、走塁面では足が遅く併殺打も多い。また、気持ちを前面に出すタイプではないため、野村監督に「覇気がない」と誤解されたこともあった。

阪神入団当初は遊撃手で、和田豊の現役晩年からは二塁手、2005年からは膝蓋靱帯炎に配慮して三塁手にコンバートされた。かつてはチーム屈指の強肩を誇り、守備の動きも悪くはなかったものの、持病のバネ指もあり送球が浮く場面を見せるなど、スローイングに難があって守備範囲も広くはなかった。2009年は真弓監督の意向で新井が三塁手に再コンバートされたため一塁手としてシーズンに臨んだが、不振のため一軍で守る機会はほとんどなかった。

詳細情報

年度別打撃成績

年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗塁死 犠打 犠飛 四球 敬遠 死球 三振 併殺打 打率 出塁率 長打率 OPS
1997 阪神 98 279 252 18 63 11 1 2 82 20 1 0 13 0 11 0 3 48 3 .250 .289 .325 .614
1998 133 524 471 48 138 20 3 7 185 44 6 4 27 4 22 0 0 54 15 .293 .322 .393 .715
1999 128 503 457 36 115 11 1 6 146 39 4 9 11 1 32 3 2 55 12 .252 .303 .319 .622
2000 40 124 113 8 24 5 0 1 32 2 0 2 4 0 7 0 0 19 9 .212 .258 .283 .541
2001 123 453 400 36 107 15 0 4 134 40 3 1 20 1 29 1 3 60 16 .268 .321 .335 .656
2002 122 548 505 46 160 40 0 15 245 56 0 1 10 2 28 6 3 62 8 .317 .355 .485 .840
2003 120 526 485 67 165 35 1 12 238 72 1 1 4 7 28 6 2 52 9 .340 .374 .491 .865
2004 138 632 572 87 175 29 0 28 288 83 0 2 4 4 48 1 4 68 21 .306 .361 .503 .865
2005 146 630 559 71 156 26 2 29 273 147 1 1 0 9 57 2 5 88 21 .279 .346 .488 .834
2006 59 218 204 16 45 3 2 7 73 29 1 0 0 4 7 0 3 42 13 .221 .252 .358 .610
2007 85 345 323 23 90 8 0 4 110 24 0 1 0 1 19 2 2 50 7 .279 .322 .341 .663
2008 55 186 169 15 29 3 0 7 53 29 0 0 0 3 13 0 1 38 5 .172 .231 .314 .545
2009 23 30 30 0 4 2 0 0 6 2 0 0 0 0 0 0 0 8 1 .133 .133 .200 .333
2010 ロッテ 26 45 44 3 10 2 0 0 12 6 0 0 0 0 1 0 0 3 4 .227 .244 .273 .517
2011 13 26 23 2 3 1 0 0 4 1 0 0 1 0 2 0 0 3 0 .130 .200 .174 .374
通算:15年 1309 5069 4607 476 1284 211 10 122 1881 594 17 22 94 36 304 21 28 650 144 .279 .325 .408 .733

各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

年度 一塁 二塁 三塁 遊撃
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1997 1 9 1 0 1 1.000 60 100 148 5 32 .980 26 9 32 1 5 .976 5 5 9 1 3 .933
1998 - 10 6 12 0 5 1.000 - 126 217 363 15 82 .975
1999 - 21 44 61 1 16 .991 - 110 195 324 10 71 .981
2000 - 28 54 70 1 14 .992 7 1 7 0 0 1.000 16 12 33 0 7 1.000
2001 - 64 124 172 3 27 .990 71 43 77 3 8 .976 8 7 16 1 4 .958
2002 - 121 200 349 6 68 .978 1 1 0 0 0 1.000 -
2003 - 119 191 305 7 59 .986 - -
2004 - 130 269 362 7 72 .978 10 6 12 0 0 1.000 -
2005 - - 146 87 233 14 20 .958 -
2006 - - 49 32 72 5 7 .954 -
2007 - - 85 39 122 5 17 .970 -
2008 - - 44 16 50 5 6 .930 -
2009 3 19 1 0 3 1.000 - - -
2011 2 13 0 0 1 1.000 - - -
通算 6 41 2 0 5 1.000 553 988 1479 30 293 .988 439 234 605 33 63 .962 265 436 745 27 167 .978

各年度の太字はリーグ最高

太字年はゴールデングラブ賞受賞

タイトル

首位打者:1回(2003年)

打点王:1回(2005年)

表彰

ベストナイン:3回(二塁手部門:2002年、2003年、三塁手部門:2005年)

ゴールデングラブ賞:1回(二塁手部門:2003年)

月間MVP:3回(2002年4月、2003年7月、2005年9月)

最優秀JCB・MEP賞:1回(2005年)

JA全農Go・Go賞:1回(好走塁賞:1999年4月)

オールスターゲーム優秀選手賞:1回(2005年第2戦)

報知プロスポーツ大賞:1回(2003年)

ヤナセ・阪神タイガースMVP賞:1回(2002年)

サンスポMVP特別賞(2002年)

記録

初出場:1997年4月8日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、9回裏に和田豊に代わり二塁手として出場

初安打:1997年4月9日、対横浜ベイスターズ2回戦(横浜スタジアム)、8回表に米正秀から左翼線二塁打

初先発出場:1997年4月17日、対中日ドラゴンズ3回戦(阪神甲子園球場)、7番・二塁手として先発出場

初打点:1997年5月31日、対読売ジャイアンツ10回戦(阪神甲子園球場)、1回裏に宮本和知から左前適時打

初本塁打:1997年8月3日、対読売ジャイアンツ19回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に斎藤雅樹からソロ

1000安打:2005年5月25日、対オリックス・バファローズ2回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に川越英隆から左越2ラン。※史上231人目。

1000試合出場:2005年8月2日、対横浜ベイスターズ13回戦(横浜スタジアム)、5番・三塁手として先発出場 ※史上406人目

100本塁打:2005年9月11日、対広島東洋カープ19回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に広池浩司から中越2ラン ※史上242人目

シーズン147打点:2005年 ※歴代3位、阪神タイガース球団記録

シーズン初回先頭打者初球本塁打:5本 (2003年)※歴代1位

オールスターゲーム出場:5回(1998年、2002年 - 2005年)

オールスターゲームファン投票年間得票数:1,588,712票(2003年)※史上最多

背番号

7(1997年 - 2009年)

2(2010年 - 2012年)

77(2016年 - 2021年、2023年 - )

    4(1996年アトランタ五輪)

    登録名

    今岡 誠(1997年 - 2012年、2016年)

    今岡 真訪(2017年 - 2021年、2023年 - )

2024/06/14 13:43更新

imaoka makoto


今岡誠と同じ誕生日9月11日生まれ、同じ兵庫出身の人

安田 章大(やすだ しょうた)
【SUPER EIGHT】
1984年9月11日生まれの有名人 兵庫出身

安田 章大(やすだ しょうた、1984年〈昭和59年〉9月11日 - )は、日本の歌手、ギタリスト、俳優。兵庫県尼崎市出身。STARTO ENTERTAINMENT所属。SUPER EIGHTのメンバ…

小暮 あき(こぐれ あき)
1985年9月11日生まれの有名人 兵庫出身

小暮 あき(こぐれ あき、1985年9月11日 - )は、日本のタレント、モデル、元レースクイーン。兵庫県出身。 トータルベネフィット所属時は小栗あき(おぐりあき)として活動していたが、2008年東…

美藤 啓文(みとう さとふみ)
1956年9月11日生まれの有名人 兵庫出身

美藤 啓文(みとう さとふみ、1956年9月11日 - )は、毎日放送(MBS)の元アナウンサー。2016年9月30日の定年退職後も、翌10月1日から2021年9月30日まで、同局の「シニアスタッフ(…

睦 五朗(むつみ ごろう)
1934年9月11日生まれの有名人 兵庫出身

睦 五朗(むつみ ごろう、1934年〈昭和9年〉9月11日 - 2021年〈令和3年〉6月5日 )は、日本の俳優・声優。本名は中西 清二(なかにし せいじ)、旧表記は睦 五郎(読み同じ)。

北川 直樹(きたがわ なおき)
1953年9月11日生まれの有名人 兵庫出身

北川 直樹(きたがわ なおき、1953年〈昭和28年〉9月11日 - )は、日本の実業家。株式会社海外需要開拓支援機構会長。兵庫県宝塚市出身。学位は商学士(中央大学・1977年)。 中央大学商学部…

福井 正一(ふくい まさかず)
1962年9月11日生まれの有名人 兵庫出身

福井 正一(ふくい まさかず、1962年9月11日 - )は、日本の実業家。フジッコ創業者山岸八郎の長男で、同社代表取締役社長を務める。 兵庫県神戸市出身。フジッコ創業者山岸八郎の長男として生まれ…

成本 年秀(なりもと としひで)
1968年9月11日生まれの有名人 兵庫出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 成本 年秀(なりもと としひで、1968年9月11日 - )は、兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 1968年…

藤井 比早之(ふじい ひさゆき)
1971年9月11日生まれの有名人 兵庫出身

藤井 比早之(ふじい ひさゆき、1971年9月11日 - )は、日本の政治家、元総務官僚。自由民主党所属の衆議院議員(4期)。 デジタル副大臣・内閣府副大臣(新型コロナウイルス感染症ワクチン接種推進…

水野祐樹(みずのゆうき)
1980年9月11日生まれの有名人 兵庫出身

水野 祐樹(みずの ゆうき、1980年9月11日 - )は、日本の俳優。 兵庫県神戸市出身。 神戸学院大学卒業。 大学在学中にカナダのマギル大学夏期英語研修に参加。 高校・大学時代は、劇団東俳大阪…

伊藤 なのか(いとう なのか)
1993年9月11日生まれの有名人 兵庫出身

伊藤 なのか(いとう なのか、1993年9月11日 - )は、兵庫県出身の元女性アイドル。元株式会社ヒロプロジェクト所属。アイドルグループ「CHEERING PARTY」の元メンバー(2018年11月…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


今岡誠と近い名前の人

今岡 梨惠(いまおか りえ)
1978年12月18日生まれの有名人 大阪出身

今岡 梨惠(いまおか りえ、1978年12月18日 - )は日本のタレント、モデル、ネイリスト、ネイルサロン『R DECO(アールデコ)』オーナー。エヴァーグリーン・クリエイティヴ所属、大阪府出身。夫…

今岡 睦之(いまおか むつゆき)
1939年5月5日生まれの有名人 三重出身

今岡 睦之(いまおか むつゆき、1939年(昭和14年)5月5日 - )は、日本の政治家。初代伊賀市長(1期)、元上野市長(3期)。三重県伊賀市諏訪出身。 1963年 - 三重県庁に入庁。 197…

今岡 和彦(いまおか かずひこ)
1944年5月19日生まれの有名人 青森出身

5月19日生まれwiki情報なし(2024/06/22 14:26時点)

今岡 清(いまおか きよし)
1948年10月21日生まれの有名人 神奈川出身

今岡 清(いまおか きよし、1948年 - )は、日本の元編集者、天狼プロダクション代表取締役。作家の栗本薫は2度目の妻。 横浜市出身。中央大学法学部進学と同時に、SFファングループ「一の日会」に…

今岡 謙次郎(いまおか けんじろう)
1918年2月13日生まれの有名人 愛媛出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 今岡 謙次郎(いまおか けんじろう、1918年2月13日 - 生没不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手。 北予中学校から1936年に…

今岡 均(いまおか ひとし)
1959年1月28日生まれの有名人 岐阜出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 今岡 均(いまおか ひとし、1959年1月28日 - )は、岐阜県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 中京商業高等学校では1…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
今岡誠
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

X21 さくら学院 ココリコ Snow Man まなみのりさ カスタマイZ D☆DATE A.B.C-Z 猿岩石 フェアリーズ 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「今岡誠」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました