伊藤左千夫の情報(いとうさちお) 歌人(短歌) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
伊藤 左千夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
伊藤左千夫と関係のある人
中島昌利: 野菊の墓(原作:伊藤左千夫、ぎょうせい 1992年) 斎藤茂吉: 「伊藤左千夫」刊行。 斎藤茂吉: 7月、師・伊藤左千夫死去。 森鴎外: 03月 - 与謝野鉄幹、伊藤左千夫、佐佐木信綱らと自宅で「観潮楼歌会」を開く。 宇野浩二: 詩人萩原朔太郎に惹かれている雑誌編集者深江文吉に誘われ、由比祐吉(宇野浩二がモデル)は長野県の富士見高原を訪れたが、そこには伊藤左千夫の歌碑や小川平吉・尾崎行雄の別荘などがあった。 島木赤彦: 10月、赤彦が伊藤左千夫に送った「床払の祝」二首が『馬酔木』に掲載される。 島木赤彦: 以降、『アララギ』は赤彦の信州からの全面的なバックアップを受けて、編集を伊藤左千夫が中心に古泉千樫、斎藤茂吉、石原純らが交替で当たったが、編集発行はルーズになり停滞しがちであった。伊藤左千夫が死去する直前の1913年(大正2年)には、斎藤茂吉等と激しく対立し、休刊・廃刊も考えられる危機的状況となった。 正岡子規: 根岸短歌会は、のちに伊藤左千夫、長塚節、岡麓らにより短歌結社『アララギ』へと発展していく。 土屋文明: 伊藤左千夫に師事し、斎藤茂吉とともに歌誌「アララギ」の編集に参加。 土屋文明: 卒業後に恩師・村上成之の紹介により伊藤左千夫を頼って上京し、短歌の指導を受け『アララギ』に参加。 木村威夫: 『隣の嫁』(1956年、堀田清監督、館岡謙之介脚色、伊藤左千夫原作) 松久由宇: 野菊の墓・瀧口入道(原作:伊藤左千夫、高山樗牛、暁教育図書、1987年) 中村不折: 翌1906年には、伊藤左千夫の小説『野菊の墓』の挿絵も手掛けている。 大和田悠太: 朗読 - 伊藤左千夫作品集 - 「隣の嫁」「春の潮」(2011年3月7日 - 25日、全15回、NHKラジオ第2) 森鴎外: 伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斎藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)。 斎藤茂吉: 伊藤左千夫門下。 石川啄木: 5月2日、与謝野鉄幹に連れられ森鷗外宅での観潮楼歌会に出席する(参会者は佐佐木信綱・伊藤左千夫・吉井勇・北原白秋ら8名)。 斎藤茂吉: 1906年(明治39年):伊藤左千夫の門下となる 島木赤彦: この時期の赤彦の短歌は正岡子規を中心とした根岸派同人としての作品であり、子規没後は、『馬酔木』の伊藤左千夫に師事し精一杯の力量を発揮している。 島木赤彦: 子規没後、子規の文芸精神の継承発展と、一門の結束をはかろうと、伊藤左千夫が、1903年(明治36年)『馬酔木(あしび)』を興した。 高山彦九郎: 伊藤左千夫は、以下の歌に対し「此人に此歌ありとは、聊かならず驚かされぬ、君を思ひ国を思ふ心篤かりしは、天が下に知らぬ者なき程なれど、文学の上にもここまで至れる人とは露おもはざりしを」と驚き褒めている。 坂西志保: 『Songs of a cowherd (牛飼いの歌)』(translated from the works of Sachio Ito(伊藤左千夫) by Shio Sakanishi、出版社:UMI Books) 1935 岸本光正: 坂の上の雲(2009年 - 2011年、NHK) - 伊藤左千夫 役 長塚節: 長塚は伊藤左千夫と終生にわたり親交を続けたが、一方で『アララギ』の創刊に当たり編集を担った伊藤と対立。 城島明彦: 伊藤左千夫『野菊の墓』(2012年9月/理論社) 島木赤彦: 小学校教員のかたわら、1903年に歌誌「比牟呂」を創刊、やがて伊藤左千夫の門下となった。 石原純: 歌人としては、一高時代に正岡子規『歌よみに与ふる書』を読んだことをきっかけに伊藤左千夫に入門し、『アララギ』の発刊に参加。 三島由紀夫: 帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した。 |
伊藤左千夫の情報まとめ
伊藤 左千夫(いとう さちお)さんの誕生日は1864年9月18日です。千葉出身の歌人(短歌)のようです。
現在、卒業、趣味に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1913年に亡くなられているようです。
伊藤左千夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)伊藤 左千夫(いとう さちお、本名:伊藤 幸次郎、1864年9月18日〈元治元年8月18日〉- 1913年〈大正2年〉7月30日)は、日本の歌人、小説家。明治期に活躍した。 明治法律学校(現・明治大学)で学ぶが、眼病のため中退し帰郷。再度上京し、1889年に牛乳搾取業を始めた。 短歌に関心をもったのは1893年頃で、正岡子規の『歌よみに与ふる書』に感動、1900年に門人となった。子規没後は、根岸短歌会の中心となり、「馬酔木」「アララギ」を創刊、アララギ派の基礎を作った。1905年には、純愛小説『野菊の墓』を発表、夏目漱石にも激賞された。 晩年には、感情の直接的表現と、熱情の奔流を主張する「叫び」の説を唱えた。門人に島木赤彦・斎藤茂吉らがいる。 上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市殿台)の農家出身。父は上総道学の流れを汲んだ漢学者であり、和歌にも通じていた。小学校卒業後、直ちに佐瀬春圃の私塾で学んだ。論争好きで政治家を志したこともあるなど、バイタリティのある性格であった。1881年(明治14年)4月明治法律学校(現・明治大学)に入学するも眼病を患い、同年12月に中退。 中退後、豊功舎という牧場で毎日早朝から深夜まで働き、数年で独立。26歳のときに現在の錦糸町駅前に牛舎を建て、乳牛を飼育して牛乳の製造販売を始めた。仕事が軌道に乗った後は伊藤並根から和歌や茶道を学ぶなど、趣味人として交際の範囲を広げた。1898年(明治31年)に新聞『日本』に「非新自讃歌論」を発表し(当時の号は春園)、御歌所の歌人・小出粲の歌を批判したことから紙面上で論争を繰り広げた。同年「日本」に掲載された正岡子規の『歌よみに与ふる書』を読んで感化され、1900年(明治33年)に子規庵を訪れて会話を交わしてからは三歳年下である子規の信奉者となり、毎月の歌会に参加して子規に師事するようになった。「牛飼が歌よむ時に世のなかの新(あらた)しき歌大いにおこる」(『伊藤左千夫歌集』)と詠み、身分や出自によらず誰もが自由に詠める世となることで新しい短歌が生まれるという、子規の精神を込めた一首が代表作となった。 子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、「写生」の教えを継承した。島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などを育成した。 日露戦争(1904年 - 1905年)の前後には好戦的な短歌を作り、開戦前には「子をつくるふぐりはあれど敵(あた)怒るふぐりは持たず・・・」(1903年)と非戦派をそしり、開戦後は「起て日本男児」などと呼びかけた。 また、1906年(明治39年)には、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を『ホトトギス』に発表。夏目漱石に評価される。代表作に『隣の嫁』『春の潮』など。この頃、東京帝国大学学生の三井甲之や近角常音が出入りをしていた。常音の兄である真宗大谷派僧侶の近角常観とも知遇を得て、常観が主宰していた雑誌『求道』(求道発行所)に短歌を寄稿する。 1913年(大正2年)に脳溢血のため南葛飾郡大島町の仮寓で死去。戒名は唯真居士。斎藤茂吉の歌集『赤光』に収められた「悲報来」は、左千夫への挽歌である。 先述の通り左千夫は茶道にも通じており、子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けた。一戸建ての茶室を欲しており、友人である蕨真の助けを借りて、自邸内に茶室「唯真閣」を建立した。現在では生家に移築されている。 山武市歴史民俗資料館の横には左千夫の生家がある。資料館には左千夫に関する資料が多く展示されている。また、1991年(平成3年)5月に完成した山武市の伊藤左千夫記念公園には、政夫と民子の銅像が建立された。また、亀戸駅東口、東京都立城東高等学校内には左千夫の歌碑が建立されている。 『野菊の墓』俳書堂 1906 『左千夫全集』全4巻 古泉幾太郎編 春陽堂 1920-21 『左千夫歌集』斎藤茂吉,土屋文明編 岩波文庫 1928 『左千夫歌論集』全3巻 斎藤茂吉,土屋文明編 岩波書店 1929-1931 『左千夫歌論抄』斎藤茂吉,土屋文明編 岩波文庫 1931 『伊藤左千夫選集』斎藤茂吉,土屋文明編 青磁社 『野菊の墓 他四篇』岩波文庫 1951 『野菊の墓』新潮文庫 1955 『隣の嫁』河出文庫 1956 『隣の嫁・春の潮』角川文庫 1956 『伊藤左千夫歌集』土屋文明編 角川文庫 1957 『野菊の墓・隣の嫁』角川文庫 1966 『野菊の墓・隣の嫁・春の潮』講談社文庫 1971 『左千夫全集』全9巻 岩波書店 『新編左千夫歌集』土屋文明,山本英吉選 岩波文庫 1980 『伊藤左千夫全短歌』土屋文明, 山本英吉編 岩波書店 1986 『左千夫全集』全9巻 土屋文明, 山本英吉編 岩波書店 1986‐87 ^ “伊藤左千夫について | 山武市公式ホームページ”. www.city.sammu.lg.jp. 山武市. 2022年8月9日閲覧。 ^ 明治大学史資料センター 『明治大学小史―人物編』 学文社、2011年、140-141頁 ^ 江村栄一・中村政則編『国権と民権の相克』(日本民衆の歴史6)、三省堂、1974年、395頁。 ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)34頁 ^ “歌人伊藤左千夫の生家 | 山武市公式ホームページ”. www.city.sammu.lg.jp. 2023年11月18日閲覧。 ^ “左千夫の記念公園完成 悲恋物語「野菊の墓」 政夫と民子の銅像も”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 朝刊 28. (1991年5月12日) ^ 歴史民俗資料館 伊藤左千夫について - 千葉県山武市公式ホームページ 池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる
伊藤 左千夫:作家別作品リスト - 青空文庫 伊藤左千夫について - 千葉県山武市公式ホームページ 伊藤左千夫ゆかりの地 - 千葉県山武市公式ホームページ 伊藤左千夫牧舎兼住居跡 - すみだ観光サイト 伊藤左千夫歌碑 - 浅間温泉観光協会 FAST ISNI VIAF WorldCat ノルウェー ドイツ イスラエル アメリカ ラトビア 日本 韓国 オランダ CiNii Books CiNii Research Trove(オーストラリア)
IdRef 伊藤左千夫 19世紀の歌人 20世紀の歌人 19世紀日本の小説家 20世紀日本の小説家 酪農家 房総の魅力500選 正岡子規 明治時代の人物 上総国の人物 千葉県出身の人物 1864年生 1913年没 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BIBSYS識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 LNB識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 Trove識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/21 20:58更新
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