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前田幸長の情報 (まえだゆきなが)
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【6月1日】今日誕生日の芸能人・有名人

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前田 幸長さんについて調べます

■名前・氏名
前田 幸長
(読み:まえだ ゆきなが)
■職業
野球選手
■前田幸長の誕生日・生年月日
1970年8月26日 (年齢53歳)
戌年(いぬ年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
福岡出身

前田幸長と同じ1970年生まれの有名人・芸能人

前田幸長と同じ8月26日生まれの有名人・芸能人

前田幸長と同じ出身地福岡県生まれの有名人・芸能人


前田幸長と関係のある人

山本武白志: 小学3年生から「元石川サンダーボルト」で野球を始め、中学時代には「都筑ジャイアンツボーイズ」(前田幸長が主宰する硬式野球チーム)で投手兼4番打者として活躍。


酒井忠晴: 1995年シーズンオフに前田幸長、平沼定晴、樋口一紀との3対3の交換トレードで仁村徹、山本保司とともに千葉ロッテマリーンズへ移籍。


吉元伸二: 東海大第五高では2年秋に県南部大会3位決定戦で福岡第一高の前田幸長に完投負け。


迫田穆成: しかし、さらに6年後の1988年第70回夏選手権では前述した川本幸生が監督として同校を率い、川崎憲次郎らを擁する津久見、前田幸長・山之内健一を擁する福岡第一等を破って夏6回目の全国制覇に導いている。


松本高明: 初安打:同上、6回表に前田幸長から左前安打


大滝詠一: ニークロ大滝(「恋のナックルボール 前田幸長 Ver.」歌手名)


平松一宏: オフにFAで巨人へ移籍してきた前田幸長の人的補償として中日ドラゴンズへ移籍。


エディ=ディアス: 初盗塁:1999年8月14日、対中日ドラゴンズ18回戦(広島市民球場)、3回裏に二盗(投手:前田幸長、捕手:中村武志)


松本秀夫: 2023年9月9日のロッテ対オリックス戦(ZOZOマリンスタジアム)では、『ニッポン放送ショウアップナイター』の関東ローカル向け中継(解説:前田幸長、ベンチリポート:洗川雄司)で実況を担当。


石本秀一: 稲垣は大東文化大学硬式野球部2代目監督、県立広島工業コーチ、創価高校監督、桐光学園監督、福岡第一高校臨時コーチ、花咲徳栄高校監督を歴任し、この間、栗山英樹、小野和義、片岡光宏、品田操士、阿久根鋼吉、神田大介、前田幸長、岩井隆らを育てた。


山之内健一: 福岡第一高時代は、春に続いて1988年の第70回全国高等学校野球選手権大会に出場し、初戦で2本塁打を放つなどの活躍で同期のエース・前田幸長とともに準優勝を果たす。


岩瀬仁紀: 当時の中日には先発投手の山本昌・今中慎二・野口茂樹に加え、中継ぎにも前田幸長・日笠雅人・佐藤康幸らがいたが、中日のスカウトであった近藤真一は同年春から岩瀬を高く評価してマークしていた。


伊良部秀輝: 初年度の1988年から一軍のマウンドを経験、村田兆治、前田幸長らとともにチームの弱小投手陣を支えた。


田村藤夫: 100本塁打:1993年7月1日、対千葉ロッテマリーンズ13回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に前田幸長から2ラン ※史上175人目


武田一浩: 同年オフに監督として中日に復帰した星野は当時、投手陣の補強を目指し、既に前田幸長(前千葉ロッテマリーンズ)・村田勝喜(前西武ライオンズ)をトレードで獲得していたが、抑え投手が最大の補強ポイントだったため、その補強ポイントに合致する武田の獲得を目指し、佐藤毅球団社長ら球団首脳陣とともに積極的に動いていた。


山崎武司: 開幕直後に右手に死球を受け、二軍(イースタン・リーグ)で治療に専念するなどレギュラーシーズン当初は活躍できなかったが、この年から始まったセ・パ交流戦より徐々に調子を上げ、5月7日の巨人戦では9回裏に前田幸長から球団史上初の代打本塁打を、6月には4試合連続の5本塁打を放ち、交流戦後には4番・指名打者に定着。


ラルフ=ブライアント: 温厚な性格で知られたが、1990年にはロッテ戦で前日の小宮山悟から始まり6月28日も園川一美、前田幸長と立て続けに死球を受けて前田に突進、唯一といえる乱闘騒ぎを起こして退場となった。


仁村徹: 1995年10月30日に前田幸長、平沼定晴、樋口一紀との3対3の交換トレードで酒井忠晴、山本保司とともに千葉ロッテマリーンズに移籍。


都築克幸: 現在は、前田幸長が会長を務める少年野球チーム・都筑中央ボーイズで監督を務める。


松山秀明: 初本塁打:1992年10月1日、対千葉ロッテマリーンズ24回戦(千葉マリンスタジアム)、4回表に前田幸長からソロ


樋口一紀: 1995年シーズンオフに仁村徹、酒井忠晴、山本保司との3対3の交換トレードで前田幸長、平沼定晴とともに中日ドラゴンズへ移籍。


武田一浩: ダイエー時代から着用していた背番号17は当時サムソン・リーが着用していたため、背番号は前田幸長が着用していた18に決まり、同月30日に中日と正式契約(契約金4,200万円を含めて3年で最高4億5,000万円の複数年契約)を締結した。


多村仁志: 4月25日、対中日ドラゴンズ 戦で前田幸長からレフトスタンドへプロ初本塁打を記録。


山口信二: 瓊浦高では2年秋に県大会優勝も九州大会では前田幸長がエースの福岡第一高に敗れた。


八木沢荘六: 八木沢はロッテ監督時代について「投手は伊良部の他に牛島和彦、小宮山悟、園川一美、前田幸長、吉田篤史、河本育之らがいて他チームに引きを取らなかったが、打線が点を取れなかった。


田中久寿男: 引退後は西鉄→太平洋で一軍コーチ(1970年 - 1971年)→二軍コーチ(1972年 - 1973年)→一軍打撃コーチ(1974年)→スカウト(1975年)、ロッテで二軍コーチ(1976年)→スカウト(1977年 - 1994年)→チーフスカウト(1995年 - 2000年)を歴任し、ロッテ時代は西村徳文、前田幸長、大塚明、サブローの獲得に貢献。


金田正一: 2期目の1年目は主砲のマイク・ディアズが2年連続の3割30本100打点を記録し、若手では前田幸長・小宮山悟の活躍もあり、広島からトレードで移籍してきた白武佳久がリリーフで10勝を挙げるも、同じく広島からトレードで移籍してきた高橋慶彦は成績が振るわず、前年2桁勝利を挙げた牛島和彦は故障によりシーズンをほぼ棒に振り、5位に終わる。


御船英之: 初本塁打・初打点:1990年7月28日、対ロッテオリオンズ14回戦(平和台球場)、2回裏に前田幸長から2ラン


佐藤真一: 初安打:同上、6回表に前田幸長から


星野仙一: 直後にロッテから無償トレードで愛甲猛、ロッテとの3対3トレードで仁村徹、酒井忠晴、山本保司を放出し、樋口一紀、前田幸長、平沼定晴、西武との2対2トレードで前原博之、清水雅治を放出し、山野和明、村田勝喜、韓国から宣銅烈を獲得。


前田幸長の情報まとめ

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前田 幸長(まえだ ゆきなが)さんの誕生日は1970年8月26日です。福岡出身の野球選手のようです。

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プレースタイル、詳細情報などについてまとめました。引退、現在に関する情報もありますね。前田幸長の現在の年齢は53歳のようです。

前田幸長のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

前田 幸長(まえだ ゆきなが、1970年8月26日 - )は、福岡県那珂川市出身の元プロ野球選手(投手)。

現役引退後、2009年より日本経済大学にて准教授を務めていた。2012年に退任。現在は野球解説者としてニッポン放送と九州朝日放送(KBCラジオ)の中継、J SPORTSのメジャーリーグ中継に出演している傍ら、東京スポーツの野球評論家として活動している。シンクバンク→FLAME OF SINCERITY(フレイムオブシンセリティ)所属。2020年4月よりTTパレット所属のインフルエンサーとしてYouTubeチャンネル「前田幸長のチョコチャンネル」を開設し、タレント、YouTuberとしても活動をしている。2021年1月より、個人事務所Sports Bond Production(スポーツボンドプロダクション)に所属。

また、「人生タイミングとターニングポイント」の講演題目で全国各地で講演や野球教室の開催などの活動をしている。都筑中央ボーイズを主宰し、会長として指導も行っている。愛称は「チョコ」。

福岡第一高等学校時代に稲垣人司から厳しい指導を受け投手として力を付けた。

1988年、福岡第一高等学校のエースとして同学年の山之内健一らとともに春夏連続甲子園出場。同年夏の第70回全国選手権大会では決勝で広島商業に敗れ、準優勝に終わったが甘いマスクと戦国武将を思わせる名前で人気を集めた。高校の1学年後輩に古里泰隆、2学年後輩に松元秀一郎がいた。

同年のプロ野球ドラフト会議では、地元に誕生した福岡ダイエーホークスが2位指名を公言したが本人は大学進学の意思を表明し、同志社大学のセレクションを受ける。ところが秘密裏に西武ライオンズとの間で「1位指名する」旨の話が進められていたという。しかしドラフト会議で西武は指名を回避(この時に西武が1位・2位に指名したのは共にプロ入り拒否を表明していた渡辺智男と石井丈裕である)し、結局酒井勉のクジを外したロッテオリオンズから1位指名を受け、入団。「チョコ」のニックネームは入団直後のバレンタインデーで大量のチョコレートが贈られたことが由来で本人によれば「約1500個」だという。プロ入り後、ロッテ時代にはこの「チョコ」というニックネームとかけて自身のナックルボールを「チョコボール」と自ら命名していた。

高卒新人ながら1年目(1989年)から一軍で17試合、先発では7試合に登板。安定感を欠いたがプロ初勝利を含む2勝を挙げた。1990年からは園川一美、小宮山悟、伊良部秀輝らとロッテの先発ローテーション投手として活躍し、西武ライオンズの主砲・清原和博と幾度となく勝負を演じた。なお清原とは後々同僚となる。

ロッテ時代はチームの低迷もあり、年間8-9の勝ち星に対し12-14の負け星といった成績で、5年連続2桁黒星を記録。9勝は2度あったが2桁勝利は果たせなかった。

引退後の前田曰く、実は入団1年目の春季キャンプで左肩を痛めてしまったという。しかも本人は「肩を痛めていることを球団に知られたら二軍に落とされてしまう」ことを危惧し、左肩痛の事実をトレーナーに報告せず隠し通してしまった。このため適切な処置を受けられなかったことから慢性化し、引退まで長きにわたって苦しめられた。

1990年は中継ぎでの登板もあったことから、33試合と登板8勝13敗2セーブ、防御率3.99の成績を残した。また8完投を記録し、規定投球回到達を果たした。

1991年も前年同等の起用法がなされ、登板数は30試合に達した。8勝11敗2セーブ、防御率3.86と前年とさほど変化は見られなかったが、完投数は10に達した。

1992年からチームの本拠地が千葉マリンスタジアムへ移転。この年は1992年のオールスターゲームに出場し、第1戦(千葉マリンスタジアム)に先発した。同年はプロ入り最多の9勝を挙げ、2年連続で10完投を記録したが負け数は14だった。

1993年も9月12日の対オリックス戦で9勝目を挙げたが残り4試合の登板で勝てず自身初の2桁勝利は叶わなかった。防御率も4点台と悪化した。

1994年は調子を落とし、23試合に登板したものの先発での登板は18試合に留まった。最終的に4勝10敗、防御率6.20でシーズンを終えた。

1995年には新監督にボビー・バレンタインが就任。しかし、調子が上向くことなく17試合で3勝6敗、防御率5.10の成績でシーズンを終えた。チームは2位と躍進したものの、自身はほとんど貢献できなかった。同年オフには仁村徹・酒井忠晴・山本保司との3対3の大型トレードで平沼定晴・樋口一紀とともに星野仙一が監督復帰した中日ドラゴンズへ移籍。中日移籍直後の背番号は31。

1996年は開幕2戦目の先発に抜擢され足の故障で途中離脱したが先発ローテーションの一角としてプロ初の勝ち越しを記録。最終成績は7勝4敗、防御率4.21だった。

1997年はチームの本拠地がナゴヤドームへ移転。この年も開幕からローテーションに加わったものの2勝13敗と大幅に負け越した。

1998年は背番号を18に変更し、さらに自身の希望から中継ぎ投手へ転向した。これが功を奏し、36試合に登板して初の防御率2点台を記録。同年オフには福岡ダイエーホークスからフリーエージェント (FA) の権を行使して移籍加入した武田一浩に背番号18を譲り29へ変更された。

1999年にはチーム事情から2年ぶりの先発を任されることもあった。25試合に登板し、この年も防御率2.63と安定感ある投球を見せ、リーグ優勝に貢献。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは第3戦の1試合に登板した。

2000年9月24日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)に先発。この試合に中日が負けると巨人がリーグ優勝する試合であったが、上原浩治・槙原寛己・木村龍治・平松一宏と投げ合い8回まで被安打5・無四球無失点、しかし9回裏に先頭・元木大介と高橋由伸に連打を打たれ降板。リリーフしたエディ・ギャラードが打ち込まれ、巨人に4年ぶりのリーグ優勝を決められた。同年は41試合を投げ、先発登板は12試合。5勝4敗、防御率3.78と調子を落とした。

2001年の前半戦は先発投手を任されていたが不調により後半戦から再び中継ぎ投手に転向した。最終的に36試合の登板で4勝10敗、防御率3.41と精彩を欠いた成績でシーズンを終えた。なお星野はこの年限りで監督を辞任。一方、前田は山田久志投手コーチと反りが合わず、オフに翌年の中日監督に山田が決定したこと、また契約更改において当初提示されていた年俸から突如下げられたことに不信感を抱き、11月22日には読売ジャイアンツへのFA移籍が発表された。この際、人的補償として平松一宏が巨人から中日へ移籍した。

移籍1年目の2002年は自己最多の53試合に登板。防御率2.74の成績を残し、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。日本一を経験したのはこれが自身初だった。

2003年は50試合に登板。一時的に抑えを務めたこともあり3セーブを挙げ、防御率3.15を残した。

2004年9月26日に通算500試合登板を達成し、勝利投手にもなった。この年は44試合に登板し、防御率2.38。

2005年には史上11人目となる1イニング4奪三振を記録。この年は50試合に登板も、勝敗とセーブは一つも付かず防御率は4点台だった。チームも1997年以来8年ぶりのBクラス(5位)という不本意なシーズンとなった。

2006年は28試合の登板に留まり防御率7.23に終わった。

2007年は育成から支配下に昇格した山口鉄也の台頭で15試合の登板に留まった。10月30日、国内でやり残したことはないとの理由から、メジャーリーグ挑戦のため球団への退団申請が了承され、11月30日に自由契約公示された。

11月12日にSFXベースボールジャパン社と代理人契約を結ぶと1月26日に渡米。28日に10球団を招いて合同トライアウトを実施している。

2008年、テキサス・レンジャーズとマイナー契約。3Aオクラホマでは36試合に登板して5勝3敗、防御率4.55の成績を記録したがメジャー昇格は果たせず、12月3日に現役引退を表明した。

現在はニッポン放送・九州朝日放送における関東地区でのビジター試合中継の野球解説者、タレントをはじめ、企業主催の講演会や母校・福岡第一高校の系列大学である日本経済大学で教壇に立つなど幅広い活動を展開している。2011年8月から10月にかけて東京スポーツ紙上で集中連載「流浪の左腕 前田幸長 細く長く」を執筆し、自らの半生を振り返った。また、少年野球チーム・都筑ジャイアンツボーイズ(中学生)と2008年に都筑中央ボーイズ(小学生)を2000万で設立し会長を務めている。「プロからのコーチの要請も3回くらい来ましたし、大学や高校からも依頼が来ましたけど、『うーん、やらない』って。全部断りました。興味がない訳ではないんですが、来てくれる子どもたちに必要とされる人間であることが、最優先ですから」と述べている。

2020年4月には自身のYouTubeチャンネル「前田幸長のチョコチャンネル」を開設。新型コロナウイルス感染拡大による甲子園中止を受け、「コロナ禍で苦しむ球児に希望を与えたい」とYouTubeを通して野球の知識や技術についての配信を行っている。

プレースタイル

現役時代はクイックモーションの名手として知られ、通常のクイックよりも更に素早い動作で投球することから「スーパークイック」の使い手と称されていた。一般的にプロ野球選手(投手)がクイックで捕手に投げ終わるまでのタイムは約1.2秒とされるが、前田は最速0.99秒と驚異的な速さで投げ終えることができた。また、クイックでの投球は通常時より動作が小さくなるため球威が大幅に落ちる投手が大半である中、前田は逆に「クイックで投げていた時の方が(通常時よりも)球威が増していた」と振り返り、工藤公康にも同様のことを言われたという。また、打者もタイミングが取りづらいことから、関川浩一のアドバイスでランナーなしの場面でもクイックを投げるようになった。他にも「(スーパークイックで)盗塁されたことはほとんどなく、ほぼ打者に集中できた」「スーパークイックを投げてる場面でランナーが動いているのを見たことがない」などと述懐し、通常のクイックよりも素早く、球威も衰えない「スーパークイック」は相手ランナーの脅威となっていたことがうかがえる。

詳細情報

各年度の太字はリーグ最高

JA全農Go・Go賞(救援賞:1998年7月)

初登板:1989年4月15日、対近鉄バファローズ2回戦(川崎球場)、9回表二死に4番手として救援登板・完了、1/3回を無失点

初奪三振:1989年7月8日、対西武ライオンズ10回戦(川崎球場)、9回表に笘篠誠治から

初先発:1989年7月23日、対近鉄バファローズ19回戦(川崎球場)、1回0/3を4失点で敗戦投手

初勝利・初先発勝利:1989年9月17日、対日本ハムファイターズ26回戦(川崎球場)、6回1/3を1失点

初完投勝利・初完封勝利:1990年4月26日、対福岡ダイエーホークス3回戦(川崎球場)

初セーブ:1990年8月18日、対オリックス・ブレーブス18回戦(札幌市円山球場)、7回表に3番手として救援登板・完了、3回無失点

初ホールド:2005年4月6日、対横浜ベイスターズ2回戦(横浜スタジアム)、6回裏に2番手として救援登板、1回無失点

初安打・初打点:2000年8月26日、対ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場)、2回表に山部太から右前適時打

1000投球回数:1997年6月10日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)、8回裏に木村拓也を空振り三振で三死目をとり達成 ※史上271人目

1000奪三振:2001年8月8日、対横浜ベイスターズ20回戦(札幌ドーム)、6回表にジョン・ズーバーから ※史上105人目

500試合:2004年9月26日、対阪神タイガース27回戦(東京ドーム)、8回表に2番手として救援登板、1回無失点で勝利投手 ※史上76人目

1500投球回数:2005年5月11日、対オリックス・バファローズ2回戦(東京ドーム)、11回表に阿部真宏の投手前犠打で一死目をとり達成 ※史上155人目

1イニング4奪三振:2005年4月6日、対横浜ベイスターズ2回戦(横浜スタジアム)、6回裏に佐伯貴弘(振り逃げ)・多村仁・ケビン・ウィット・村田修一から ※史上11人目(12度目)

オールスターゲーム出場:1回(1992年)

11(1989年 - 1995年)

31(1996年 - 1997年)

18(1998年)

29(1999年 - 2007年)

2024/05/25 00:21更新

maeda yukinaga


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