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夏目漱石の情報 (なつめそうせき)
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【5月20日】今日誕生日の芸能人・有名人

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夏目 漱石さんについて調べます

■名前・氏名
夏目 漱石
(なつめ そうせき)
■職業
作家
■夏目漱石の誕生日・生年月日
1867年2月9日 (年齢50歳没)
卯年(うさぎ年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
東京出身

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夏目漱石

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夏目 漱石(なつめ そうせき)さんの誕生日は1867年2月9日です。東京出身の作家のようです。

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略年譜、栄典などについてまとめました。現在、卒業、結婚、事件、趣味に関する情報もありますね。50歳で亡くなられているようです。

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の教師・小説家・評論家・英文学者・俳人。武蔵国江戸牛込馬場下横町(現:東京都新宿区喜久井町)出身。

本名は夏目 金之助なつめ きんのすけ。俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日に通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪のうちの一人。

代表作は、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。

講演録に「私の個人主義」がある。漱石の私邸に門下生が集まった会は木曜会と呼ばれた。

大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学んだ。

帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。大ロンドンのカムデン区、ランベス区などに居住した。

帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した官僚出身の政治家中村是公の親友としても知られる。

夏目金之助は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)に江戸の牛込馬場下(現在の東京都新宿区喜久井町)にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持ち、生活も豊かだった。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといわれている。

名の「金之助」は、生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。また、3歳頃には疱瘡(天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。

金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出された。夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。

金之助はその後、1868年(明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった。しかし、昌之助の女性問題が発覚するなど塩原家は家庭不和になり、金之助は7歳の時、養母とともに一時生家に戻った。一時期、漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいたという。

養父母の離婚により金之助は9歳のとき生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少期は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続いた。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。

1874年(明治7年)、浅草寿町戸田学校下等小学第八級に入学後、金之助は市ヶ谷学校を経て錦華小学校へと転校を繰り返したが、錦華小学校へ移った理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。

12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の都立日比谷高校) に入学した。大学予備門(のちの旧制第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため、中学には2年ほどの在籍で1881年(明治14年)に中退し、漢学私塾二松學舍(現在の二松學舍大学)に入学した。ただし、長兄・夏目大助に咎められるのを嫌い、中退後も弁当を持って一中に通うふりをしていた。なお、中学中退の直前には実母の千枝が死去しており、そのショックと二松學舎への入学とは漱石の内面でかなり深くつながっていたのではないかと指摘されている。

しかし、長兄・大助が文学を志すことに反対したためもあり、二松學舎も一年で中退した。大助は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来のよかった末弟の金之助を見込み、大学を出させて立身出世をさせることで、夏目家再興の願いを果たそうとしていた。

2年後の1883年(明治16年)、金之助は英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎 に入学し、頭角を現した。

1884年(明治17年)、無事に大学予備門予科に入学した。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えてもらっていたことも幸いした。その友人は不合格であった。大学予備門時代の下宿仲間には、後に満鉄総裁となる中村是公がいる。予備門時代の金之助は「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎、中川小十郎らとともに「十人会」を組織している。

1886年(明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称された。その年、金之助は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公とともに落第した。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活した。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた。

1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会った。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まった。この時に初めて漱石という号を使った。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。

同年9月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていった。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続いた。

1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学した。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別した。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。

翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをした。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道岩内町に籍を移した。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始めた。

漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。

7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着した。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留した。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届いた。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添えた。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かった。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会った。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退した。

1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始めた。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになった。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。

1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任した。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。

1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任した(月給100円)。親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていった。

1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をした。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。

1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられた。9月10日に日本を出発。最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。メレディスやディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始めた。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とした。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。

1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭し始めた。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥った。1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際には「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出たためか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れた。漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗していた。精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという。

当時の漱石最後の下宿の反対側には、1984年(昭和59年)に恒松郁生によって「ロンドン漱石記念館」が設立された。漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されていたが、イギリスの欧州連合(EU)離脱への動きによる影響で、2016年9月末をもって閉館。漱石ファンからの強い要望で、2019年5月8日、ロンドン南郊のサリー州にある恒松宅の一部を改装して再開された。

1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になった(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。

東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、前任者であった八雲の、一度口を開けばたちまち教室全体を詩的空気に包み込み酔わせてしまうような講義に対し、漱石の分析的な硬い講義は不評で、学生による八雲留任運動が起こったり、不平不満を陰口にされて貶されるなどした。川田順のように「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科に転じた学生もいた。

また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、ある授業中に態度の悪さを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺してしまい、それに伴い一高の生徒や同僚の教師達だけでなく、事件に衝撃を受けた知識人達の間で「漱石が藤村を死に追いやった」と謂われのない噂が囁かれる事となった。漱石は、藤村に関し『吾輩は猫である』に冗談めかして言及する一方で、『草枕』の中で言及・批評を行っている。

こうした職場での風評被害に苛まれて苦悩した結果、とうとう漱石は神経衰弱を患ってしまい、授業中や家庭において頻繁に癇癪を起こしては暴れまわるようになり、欠席・代講が増え、妻とも約2か月別居した。1904年(明治37年)にはある程度落ち着きを取り戻し、明治大学の講師も務めた(月給30円)。

その年の暮れ、高浜虚子から神経衰弱の治療の一環で創作を勧められ、処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博した。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆した。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていった。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。

1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、作家としての名声が高まるにつれて来客が多くなり、仕事に支障をきたしはじめ、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。この日は誰が来てもよいことにしたので、漱石の書斎は多くの門下生が集まって語り合うサロンのような場になり、やがて「木曜会」と呼ばれるようになった(1906年10月8日付書簡によれば、10月11日から。)。

1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始めた。

同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられた。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走した(塩原事件)。

1909年(明治42年)、親友だった南満州鉄道総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行した。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。

同年10月、満韓旅行からの帰途、大阪で暮らす長谷川如是閑を訪ねる。この折、浜寺の料理店にも行く。

1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。

同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養した。しかしそこで胃疾患になり、800 gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥った。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。

この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられた。

1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。

1912年(大正元年)9月、痔の再手術を受けた。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶した。

1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされた。

1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。晩年は病との闘いを続けながらの執筆が続いた。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。

1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れた。6月3日より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされた。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した。50歳没(49歳10か月)。

最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最期の言葉ともされる。

死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖された。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士。遺体は落合斎場で荼毘に付され、墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)。

1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。

略年譜

1867年(慶応3年)1月5日 - 江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)に父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれる。夏目家は代々名主であったが、当時家運が衰えていたため、生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたものの、すぐに連れ戻される。

1868年(明治元年)11月 - 新宿の名主・塩原昌之助の養子となり、塩原姓を名乗る。

1869年(明治2年) - 養父・昌之助、浅草の添年寄となり浅草三間町へ移転。

1870年(明治3年) - 種痘がもとで疱瘡を病み、顔に瘢痕(あばた)が残る。「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌に作られるほど、痘痕は目立った。

1874年(明治7年) - 養父・昌之助と養母・やすが不和になり、一時喜久井町の生家に引き取られた。浅草寿町戸田学校下等小学第八級(のち台東区立精華小学校。現・台東区立蔵前小学校)に入学。

1876年(明治9年) - 養母が塩原家を離縁され、塩原家在籍のまま養母とともに生家に移った。市ケ谷柳町市ケ谷学校(現・新宿区立愛日小学校)に転校。

1878年(明治11年)

    2月 - 回覧雑誌に『正成論』を書く。

    10月 - 錦華小学校(現・千代田区立お茶の水小学校)・小学尋常科二級後期卒業

    1879年(明治12年) - 東京府第一中学校正則科(東京都立日比谷高等学校の前身)第七級に入学。

    1881年(明治14年) - 1月 - 実母・千枝死去。府立一中を中退。私立二松學舍(現・二松學舍大学)に転校。

    1883年(明治16年) - 9月 - 神田駿河台の成立学舎に入学。

    1884年(明治17年) - 小石川極楽水の新福寺二階に橋本左五郎と下宿。自炊生活をしながら成立学舎に通学。

      9月 - 大学予備門(明治19年(1886年)に第一高等中学校(後の第一高等学校)に名称変更)予科入学。同級に中村是公、芳賀矢一、正木直彦、橋本左五郎などがいた。

      1885年(明治18年) - 中村是公、橋本左五郎ら約10人と猿楽町の末富屋に下宿。

      1886年(明治19年)7月 - 腹膜炎のため落第。この落第が転機となり、のち卒業まで首席を通す。中村是公と本所江東義塾の教師となり、塾の寄宿舎に転居。

      1887年(明治20年) - 3月に長兄・大助、6月に次兄・栄之助がともに肺病のため死去。急性トラホームを患い、自宅に帰る。夏に初めての富士登山。

      1888年(明治21年)

        1月 - 塩原家より復籍し、夏目姓に戻る。

        7月 - 第一高等中学校予科を卒業

        9月 - 英文学専攻を決意し本科一部に入学。

        1889年(明治22年)

          1月 - 正岡子規との親交が始まる。

          5月 - 子規の『七草集』の批評を書き、初めて“漱石”の筆名を用いる。

          1890年(明治23年)

            7月 - 第一高等中学校本科を卒業

            9月 - 帝国大学(のちの東京帝国大学)文科大学英文科入学。文部省の貸費生となる。

            1891年(明治24年)

              7月 - 特待生となる。二度目の富士登山。

              12月 - 『方丈記』を英訳する。

              1892年(明治25年)

                4月 - 分家。北海道後志国岩内郡吹上町に転籍する(徴兵を免れるためとの説がある)。

                5月 - 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師となる。

                1893年(明治26年)

                  7月 - 帝国大学卒業、大学院に入学。

                  10月 - 高等師範学校(のちの東京高等師範学校)の英語教師となる。高等師範の校長は講道館創設者として有名な嘉納治五郎という柔道の大家だった。

                  1894年(明治27年)2月 - 結核の徴候があり、療養に努める。

                  1895年(明治28年)

                    4月 - 松山中学(愛媛県尋常中学校)(愛媛県立松山東高等学校の前身)に菅虎雄の口添えで 赴任。

                    12月 - 貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合いをし、婚約成立。

                    1896年(明治29年)

                      4月 - 熊本県の第五高等学校講師となる。

                      6月 - 中根鏡子と結婚

                      7月 - 教授となる。

                      1897年(明治30年)6月 - 実父・直克死去。

                      1898年(明治31年)10月 - 俳句結社「紫溟吟社」の主宰になる。

                      1899年(明治32年)5月 - 長女・筆子誕生。

                      1900年(明治33年)5月 - イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)。

                      1901年(明治34年)1月 - 次女・恒子誕生。

                      1902年(明治35年)9月 - 正岡子規没。

                      1903年(明治36年)

                        4月 - 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。

                        10月 - 三女・栄子誕生。水彩画を始め、書もよくした。

                        1904年(明治37年)4月 - 明治大学講師を兼任。

                        1905年(明治38年)1月 - 『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に発表(翌年8月まで断続連載)。

                          12月 - 四女・愛子誕生。

                          1906年(明治39年)4月 - 『坊つちやん』を『ホトトギス』に発表。

                          1907年(明治40年)

                            1月 - 『野分』を『ホトトギス』に発表。

                            4月 - 一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める。

                            6月 - 長男・純一誕生。『虞美人草』を『朝日新聞』に連載( - 10月)。

                            9月 - 牛込区早稲田南町7番地に転居。

                            1908年(明治41年)

                              1月『坑夫』( - 4月)、6月『文鳥』、7月『夢十夜』( - 8月)、9月『三四郎』( - 12月)を『朝日新聞』に連載。

                              12月 - 次男・伸六誕生。

                              1909年(明治42年)3月 - 養父から金を無心され、そのような事件が11月まで続いた。

                              1910年(明治43年)

                                3月 - 五女・雛子誕生。

                                6月 - 胃潰瘍のため内幸町の長与胃腸病院に入院。

                                8月 - 療養のため修善寺温泉に転地。同月24日夜、大吐血があり、一時危篤状態に陥る。

                                10月 - 長与病院に入院。

                                1911年(明治44年)

                                  2月21日 - 文部省からの文学博士号授与を辞退。

                                  8月 - 朝日新聞社主催の講演会のために明石、和歌山、堺、大阪に行き、大阪で胃潰瘍が再発し、湯川胃腸病院に入院。

                                  11月29日 - 五女・雛子、原因不明の突然死。のちの漱石の遺体解剖の遠因となる。

                                  1913年(大正2年)

                                    1月 - ひどいノイローゼが再発。

                                    3月 - 胃潰瘍再発。5月下旬まで自宅で病臥した。北海道から東京に再転籍する。

                                    1914年(大正3年)

                                      4月 - 『こゝろ』を『朝日新聞』に連載( - 8月)。

                                      11月 - 「私の個人主義」を学習院輔仁会で講演。

                                      1915年(大正4年)

                                        6月 - 『道草』を『朝日新聞』に連載( - 9月)。

                                        11月 - 中村是公と湯ヶ原に遊ぶ。

                                        12月 - 芥川龍之介、久米正雄が門下に加わった。このころからリウマチに悩む。

                                        1916年(大正5年)

                                          1月 - リウマチの治療のため、湯ヶ原天野屋の中村是公のもとに転地。

                                          5月 - 『明暗』を『朝日新聞』に連載( - 12月)。

                                          12月9日 - 午後7時前、胃潰瘍により死去。戒名・文献院古道漱石居士。

                                          1984年(昭和59年)11月 - 千円札に肖像が採用される。

                                          栄典

                                          1896年(明治29年)9月10日 - 正七位

                                          1899年(明治32年)10月10日 - 従六位

2024/05/17 08:54更新

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