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小林雅英の情報 (こばやしまさひで)
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【4月3日】今日誕生日の芸能人・有名人

小林雅英の情報(こばやしまさひで) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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小林 雅英さんについて調べます

■名前・氏名
小林 雅英
(読み:こばやし まさひで)
■職業
野球選手
■小林雅英の誕生日・生年月日
1974年5月24日 (年齢50歳)
寅年(とら年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
山梨出身

(昭和49年)1974年生まれの人の年齢早見表

小林雅英と同じ1974年生まれの有名人・芸能人

小林雅英と同じ5月24日生まれの有名人・芸能人

小林雅英と同じ出身地山梨県生まれの有名人・芸能人


小林雅英と関係のある人

木元邦之: 9月17日の千葉ロッテマリーンズ戦では、同点で迎えた12回裏二死満塁の場面で小林雅英からセンターにサヨナラ安打を放った(ちなみにサヨナラのホームを踏んだのは、投手の山本省吾である)。


藤井康雄: 2001年は9月30日の対ロッテ戦で、小林雅英からパ・リーグ新記録となる通算14本目の満塁本塁打、且つ日本プロ野球史上唯一の二死・3点差からの代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放つなど、出場は88試合ながらチームの日本人トップとなる15本塁打を放っている。


薮田安彦: 藤田宗一、小林雅英とのロッテの勝利の方程式はYFKと称された。


益田直也: 10月24日の北海道日本ハムファイターズ戦でシーズン38セーブ目を挙げ、それまで小林雅英が保持していたシーズンセーブ数の球団記録を更新した。


水谷則博: 1988年に現役を引退した後はロッテのスカウトを務め、吉田篤史・小野晋吾・小林雅英・清水直行・渡辺俊介らを獲得した。


伊藤義弘: 背番号は、この年までクローザーの小林雅英が着用していた30。


山本功児: 2005年5月18日の対広島戦においてロッテの小林雅英が通算150セーブを達成したとき、小林雅はヒーローインタビューで「山本監督に感謝しています」と発言があった。


ブライアン=ウォーレン: 翌2000年は安定感を欠くようになり、不振に苦しむとセットアッパーの小林雅英と配置転換。


西村健太朗: オフには小林雅英の入団にともない、背番号を35に変更。


川口憲史: 初本塁打:1999年8月20日、対千葉ロッテマリーンズ18回戦(千葉マリンスタジアム)、5回表に小林雅英から


川井貴志: 同期には小林雅英や里崎智也がいた。


寒川一之: 小林雅英物語 PROJECT V(協力:千葉ロッテマリーンズ、『週刊少年サンデー超』2001年9月25号)


薮田安彦: この年のリリーフ陣は抑えの小林雅英は27セーブを挙げるも安定感を欠き、防御率が3.61と不振だった。


河本育之: 千葉ロッテマリーンズでは小林雅英に次ぐ球団史上2位の通算93セーブを記録し、もう一度プロ野球選手になってもリリーフをやりたいと語っている。


大島裕行: 4月14日の対千葉ロッテマリーンズ戦では小林雅英から9回表に代打で逆転2点適時打を打ち、代打5打席連続安打を記録した。


成本年秀: コンディショニングコーチの立花龍司らは復活の可能性を感じていたが、一軍では小林雅英がリリーフエースに成長し、立花も同年のシーズン限りでの退団が決まり、イースタン・リーグ公式戦終了翌日の10月5日に戦力外通告を受けた。


岩下大輝: 8月1日の北海道日本ハムファイターズ戦ではプロ初ホールドを記録したものの、小林雅英投手コーチに先発適性を見いだされ、9月10日に出場選手登録を抹消され、二軍で先発調整となった。


荻野忠寛: 2008年は前年退団した小林雅英に代わる新守護神に定着。


ブライアン=シコースキー: 同時期に台頭した小林雅英、川井貴志、小林宏之らと共に鉄腕リリーフ陣の一角としてチームに貢献した。


川口憲史: また、8月20日の千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)で小林雅英からプロ初本塁打を記録した 。


ブライアン=シコースキー: 4月4日に復帰後初勝利を挙げると、前年退団した薮田安彦、藤田宗一、小林雅英(YFK)に代わるリリーフの柱として若手投手陣を引っ張り、リリーフながら5勝を挙げるなど活躍。


清水将海: 2002年の日米野球に小林雅英と共に出場、3打数3安打と活躍した。


川井貴志: 2002年は小林宏之・小林雅英(いずれも右腕投手)と共に一軍で勝利の方程式を形成。


増井浩俊: 10勝10セーブを記録するのは、2000年に小林雅英が達成して以来の快挙となった。


杉本友: 同じリーグの同期に森中聖雄(東海大)、小林雅英(日体大)という好投手がおり、凌ぎを削った。


栗山巧: 2006年8月1日の対千葉ロッテマリーンズ戦で空振りした際に右手首を痛め、直後に小林雅英から満塁本塁打を打ったが、翌日に有鈎骨の骨折と判明し戦線離脱。


桜井広大: 初打点:2007年6月16日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に小林雅英から右翼フェンス直撃2点適時二塁打


荒金久雄: 2005年、主に守備固めとして起用されていたが、プレーオフ第2ステージでは3戦目の9回裏、代打で起用されると後にチームメイトとなる小林雅英から起死回生の適時打を放った。


小林雅英の情報まとめ

もしもしロボ

小林 雅英(こばやし まさひで)さんの誕生日は1974年5月24日です。山梨出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

卒業、引退、テレビ、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。小林雅英の現在の年齢は50歳のようです。

小林雅英のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

小林 雅英(こばやし まさひで、1974年5月24日 - )は、元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。山梨県大月市出身。野球解説者。マネジメント会社は株式会社レガシージャパン。

投手として千葉ロッテマリーンズでは1度のリーグ優勝、1度の日本シリーズ優勝に貢献している。個人ではNPBで合計1個のタイトルを獲得している。

愛称は「コバマサ」。千葉ロッテマリーンズ時代は「幕張の防波堤」の異名を取った。

2013年からオリックス・バファローズの二軍投手コーチを務め、2015年から2018年まで千葉ロッテマリーンズの一軍投手コーチを務めた。

アテネオリンピック野球の銅メダリスト。

小学2年の時に野球を始め中学時代には関東大会に出場した。

山梨県立都留高等学校では1年からエースになるが最後となる3年の夏は山梨大会2回戦で敗退した。

将来は高校野球の指導者になろうと日本体育大学へ進学。3年秋の明治神宮大会は初戦で完投。4年の大学選手権で先発したが九州共立大の前田浩継と投げ合い敗退。首都大学リーグ通算29試合登板し16勝7敗、防御率2.40。最優秀投手1回、ベストナイン2回受賞。

卒業時にプロへ進む同級生を見て、自分も目指そうと東京ガスへ入社。2年のうちに声がかからなければ野球をやめるつもりだったが、2年目には都市対抗野球の補強選手となり(登板はなし)、スカウトの水谷則博に見出されて1998年度のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから1位指名を受けた

1999年の後半戦から先発として起用され、5勝5敗の成績を残した。前半戦などでのリリーフ起用を含めれば46試合に登板している。

2000年も序盤で3試合に先発したがいずれも敗戦投手になったため、当時監督だった山本功児によって中継ぎに配置転換され、4月25日の対日本ハムファイターズ戦(ひたちなか市民球場)に無死満塁で登板し、そこを無失点で抑え自信をつけた。シーズンでは不調のブライアン・ウォーレンと入れ替わりで抑えに固定され11勝6敗14セーブの好成績を挙げる。7月2日の対オリックス・ブルーウェーブ14回戦で、小林の2球目が暴投となり、三塁を狙った一塁走者のイチローがアウトになった。その直後にチームが勝ち越したため、プロ野球史上初となる「打者0人」での勝利投手となった。

2001年5月25日の対日本ハムファイターズ戦から、5月30日の対福岡ダイエーホークス戦にかけて、プロ野球新記録となる6日間連続セーブを挙げて月間MVPに選出された。しかし6月までは21S・防御率0.78の成績だったが、7月以降は4敗12セーブ・防御率11.42と打ち込まれ、最終的に防御率は4.33に終わった。なお、この年はリーグ2位の33セーブを挙げ、オフにはニュース番組のゲストに招かれることや6日連続セーブのエピソードが寒川一之の「小林雅英物語」として漫画化された。

2002年は5月21日の対日本ハム戦から8月5日のダイエー戦まで17試合連続セーブのパシフィック・リーグ新記録、10月17日の対大阪近鉄バファローズ戦まで33試合連続セーブポイントのプロ野球新記録を樹立するなど44試合で37セーブ・防御率0.83の好成績を残した。

2003年も好調を維持し、44試合で33セーブの好成績を残す。6月29日の対オリックス戦では日本人最速となる222試合目で通算100セーブを達成した。

2004年はボビー・バレンタインが監督に就任すると投球回数が増加。西武ライオンズの中島裕之に勝ち越しの満塁本塁打を打たれる等、救援失敗も目立ったが、アテネオリンピック野球日本代表に選出されたのを機に変則モーションの矯正に取り組むと日本代表の守護神として銅メダル獲得に貢献した。しかし、序盤に安定感を欠いたこともあり8勝5敗20セーブ、防御率も3.90に終わった。

2005年は5月18日の対広島東洋カープ戦でプロ野球史上4人目の通算150セーブを達成(通算312試合登板)。この年は薮田安彦、藤田宗一との勝利の方程式は「YFK」と称され、自身も2勝2敗29セーブ防御率2.58の成績を残し、最多セーブ投手を獲得した。この年のプレーオフ第2ステージ(対福岡ソフトバンクホークス戦)では、優勝に王手をかけた第3戦に4点リードで9回のマウンドに上がるも追いつかれて降板した(延長で敗戦)が、後がなくなった第5戦で1点リードの9回に登板して胴上げ投手となる。そのまま日本シリーズ(対阪神タイガース戦)でも第4戦に登板して胴上げ投手となり、11月13日のアジアシリーズ(対三星ライオンズ戦)でも最後の打者を三振に打ち取って3度目の胴上げ投手となった。オフシーズンに球団の日本人歴代最高年俸となる2億5000万円で契約更改した。

2006年は6月7日の対中日ドラゴンズ戦で登板し、日本プロ野球初の6年連続20セーブを達成。セ・パ交流戦でも3勝13セーブの成績で交流戦MVPを獲得。8月18日の対日本ハム戦では史上3人目の通算200セーブを達成したが、この試合以降は一度もセーブを挙げられなかった。それでも6勝2敗34セーブとセーブ数は前年を上回った。

2007年は8月26日の対ソフトバンク戦でセーブを記録し、自己記録を更新する7年連続20セーブを達成したが、8度の救援失敗から守護神転向後初となる降格を経験した。同年11月2日、周囲から動向を聞かれることのわずらわしさなどの理由で、環境を変えてプレーすることを希望したことから、FA権行使を宣言した。

11月20日にクリーブランド・インディアンスと2年契約を交わす。契約内容は2008年と2009年各300万ドル、契約破棄の場合は25万ドルの、2年計625万ドルで、3年目については球団側が325万ドルの選択権を持つものだった。

2008年4月26日の対ニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たし、チームのサヨナラ勝ちによってメジャー初登板・初勝利を挙げた。1年間を通じて降格することなく在籍し、主に中継ぎとして57試合に登板して4勝5敗6セーブ・防御率4.53を記録。

2009年は前年の活躍から一転して10試合の登板・防御率8.38と不振に陥り、5月16日に降格した。その後、インディアンス傘下AAAのコロンバス・クリッパーズに合流してメジャー復帰に向けて調整していたが、7月18日にインディアンスから契約を解除された。

インディアンスの施設でトレーニングを行いつつ、メジャーの他球団からのオファーを待つが、動きがなかったため8月14日に帰国した。帰国後は都内のグラウンドでトレーニングを続けていたが、9月からはベースボール・チャレンジ・リーグの群馬ダイヤモンドペガサスの練習に参加。これは群馬のマネジャーである谷口弘典が、元ロッテ二軍マネジャーだった縁によって実現したものである。

2009年12月1日、年俸5000万円プラス出来高1億円の1年契約で読売ジャイアンツへの入団が決定。背番号も30となった。スコアボードの表記は「雅」のない「小林」となった。

2010年は抑えにマーク・クルーンがいたため中継ぎで起用されることになった。3月28日の対東京ヤクルトスワローズ戦で7回に日本復帰後初登板するも2失点とほろ苦い復帰登板となった。4月3日の対広島東洋カープ戦では9回途中にクルーンの後を受け登板し、ピンチを脱し復帰後初セーブを挙げた。その後は抑えのクルーンが故障離脱して抑え不在となったが不安定な投球が目立ち、抑えで起用されることはなかった。5月2日に二軍落ちし、7月7日に再び一軍登録されるも不調で4日後の11日に登録抹消され、一軍に昇格することはなかった。最終的に12試合の登板で1セーブ・防御率5.14に終わり、10月29日に戦力外通告を受けた。4月3日の広島戦で記録したセーブが現役最後のセーブとなった。その後、11月10日の12球団合同トライアウトを受験した。ここで最速145km/hを計測し、打者5人を無安打に抑える好内容を見せたことからオリックス・バファローズが獲得に動き、11月19日に契約した。背番号は34。

2011年は開幕一軍入りを果たしたが前年以上に安定感を欠き、5月2日に二軍落ちすると一度も一軍に昇格できなかった。最終的に6試合の登板に留まり、防御率13.50と結果を残せず、10月に戦力外通告を受けた。自身は肩肘等に大きな故障も無く球速も150km/hを超える球はまだ投げられていたが、一軍の勝ちパターンには岸田護、平野佳寿が台頭。他球団に移籍して抑えを勝ち取るモチベーションも無かったため引退を決意した。

2011年11月1日に引退が発表され、11月25日にオリックスの二軍育成コーチに就任し、2013年より二軍投手コーチに就任。松葉貴大・佐藤達也の育成に貢献した。2014年10月1日に球団から退団が発表された。

2014年10月16日に古巣であるロッテの2015年からの一軍投手コーチ就任が決まった。2018年からはベンチ担当、チーム防御率5位と低迷し同年10月14日に退団が発表された。

2019年からは、日本女子プロ野球機構の投手総合コーチを務めながらチバテレビ、『ワースポ×MLB』(NHK BS1)の解説を務めた。2020年は出身地である山梨県の情報番組『スゴろく』(テレビ山梨)のコメンテーターを務めながら、DAZN、SPOZONE等でNPB、MLBの解説を行っている。

2021年からは、社会人野球のエイジェック硬式野球部の投手総合コーチに就任。同年3月2日に「夢・未来応援プロジェクト ブルペン」の一環で、三郷市立瑞木小学校にて講演を行った。2024年をもって、エイジェックの投手総合コーチを退任。

2025年1月1日付で関甲新学生野球連盟所属の白鷗大学硬式野球部のコーチに就任。

主な球種は最速154km/hのストレートと高速シュート、140km/h近い縦のスライダー。緩急を使うことが少なく、ストレートで押しながら左右の揺さぶりで攻める。登板の度にピンチを背負い、味方ファンをハラハラさせながらも最終的には抑えるため「劇場型」とも言われた。自身のスタイルについては「どんな形でも最後に勝って試合が終わればいい」と語っている。

毎年50試合前後に登板しながら故障をしない体と、精神的なタフさにも定評があった。

1992年の全国高等学校野球選手権大会山梨県予選では、牧野塁を擁する山梨学院大学附属高等学校らと共に山梨三羽烏と称された。その山梨予選1回戦の第1試合で三羽烏のうちの一人がいた山梨県立農林高等学校と対戦することとなるが、開会式から30分後に第1試合が行われていた関係上、開会式に別の生徒を出場させて小林本人を室内の投球練習場でウォーミングアップさせていたことが発覚。山梨農林側の抗議から高野連より厳重注意を受け山梨農林側に謝罪する事態となった。

2011年4月27日の対ロッテ戦(QVCマリン)で、7回の裏二死満塁、オリックスの先発寺原隼人に代わってリリーフとして小林の名がコールされるが、実際にリリーフカーに乗って登場したのは吉野誠であった。原因はブルペンで福間納投手コーチが指名を間違えたためであり、吉野は車を降りてそのままベンチへ帰って行ったため、外野ポール際から小林が走ってマウンドへ出てくる事態となった。

各年度の太字はリーグ最高

最多セーブ投手:1回(2005年)

月間MVP:2回(2001年6月、2002年7月)

JA全農Go・Go賞:2回(救援賞:2000年7月、2002年7月)

セ・パ交流戦 最優秀選手賞(MVP):1回(2006年)

パ・リーグ連盟当別表彰:1回(2002年)※佐々木主浩のもつ22試合連続セーブポイント記録を33試合連続に更新したため

山梨県イメージアップ大賞特別賞(2003年)

県知事賞(2004年) - 千葉県より

市民栄誉賞(2004年) - 千葉県千葉市より

やまなしスポーツ賞(2004年) - 山梨県より

ア・マン・オブ・ジュエリー賞(2006年) - 山梨県水晶宝飾連合会より

初登板:1999年4月7日、対福岡ダイエーホークス2回戦(北九州市民球場)、7回裏一死に2番手で救援登板、1回2/3を無失点

初奪三振:同上、7回裏に井口忠仁を見逃し三振

初勝利:1999年5月16日、対日本ハムファイターズ8回戦(千葉マリンスタジアム)、7回表に4番手で救援登板、2回無失点

初先発:1999年8月3日、対福岡ダイエーホークス16回戦(福岡ドーム)、8回1失点

初先発勝利:1999年8月14日、対福岡ダイエーホークス19回戦(千葉マリンスタジアム)、7回無失点

初完投勝利:1999年9月2日、対福岡ダイエーホークス23回戦(千葉マリンスタジアム) 、9回2失点

初セーブ:2000年8月17日、対日本ハムファイターズ21回戦(千葉マリンスタジアム)、8回表一死に4番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点

初ホールド:2006年5月23日、対阪神タイガース3回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に2番手で救援登板、1回無失点

100セーブ:2003年6月29日、対オリックス・ブルーウェーブ16回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上14人目(日本人投手最速)

150セーブ:2005年5月17日、対広島東洋カープ1回戦(福山市民球場)、9回裏に4番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上4人目(最速)

200セーブ:2006年8月18日、対北海道日本ハムファイターズ13回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上3人目(最速)

打者0人で勝利投手:2000年7月2日、対オリックス・ブルーウェーブ14回戦(函館オーシャンスタジアム)、8回裏二死一塁で2球目に暴投、一塁走者イチローを三塁で憤死 ※史上初

6日6試合連続セーブ:2001年 ※史上初

17試合連続セーブ:2002年 ※パ・リーグ記録

33試合連続セーブポイント:2002年 ※新記録

1イニング3暴投:2004年5月15日、対福岡ダイエーホークス8回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に記録 ※タイ記録

7年連続20セーブ(2001年 - 2007年) ※史上初

オールスターゲーム出場:5回(2000年、2001年、2003年、2005年、2006年)

2004年アテネオリンピックの野球競技・日本代表

30(1999年 - 2010年)

34(2011年)

73(2012年 - 2014年)

79(2015年 - 2018年)

^ 最多セーブ投手1個

^ 投手の森中聖雄(東海大)、杉本友(筑波大)が逆指名でプロ入りしている。

^ 中華職業棒球大聯盟でも達成例が1例ある。2007年4月14日、興農ブルズの芝草宇宙が統一戦で記録。

^ これは、「(登録名は)自由にしてよい」という球団の意向に対し、小林姓が他に在籍していなかったため、小林自身が「小林」を選んだもの。

^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、227ページ

^ 小林雅英 | プロフィール・成績・速報・ドラフト・ニュースなど選手情報 - 週刊ベースボールONLINE

^ ロッテ勝利の方程式YFK復活!05年日本一から10周年記念 スポーツニッポン(2015年5月14日) 2016年1月10日閲覧

^ 1999プロ野球プレイヤーズ名鑑 スポーツニッポン新聞社

^ 惜別球人『週刊ベースボール』2012年1月9・16日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20443-1/9.16, 47-51頁。

^ ベースボールマガジン社「2001ベースボール・レコード・ブック」 49頁。

^ 週刊ベースボール2002年12/16号 26~27頁 「2002年レコードの周辺3 小林雅英の33試合連続セーブポイント」より。

^ 「千葉ロッテマリーンズ チームヒストリー」『千葉ロッテマリーンズ公式サイト』。2017年12月29日閲覧。

^ 「各球団の「歴代最高年俸」っておいくら?」『BASEBALL KING』2016年12月28日。2017年12月30日閲覧。

^ 「インディアンスが小林雅の契約を解除」『日刊スポーツ』2009年7月19日。2021年12月29日閲覧。

^ 「小林雅が都内で汗、体調の良さをアピール」『日刊スポーツ』2009年8月22日。2022年8月1日閲覧。

^ 「小林雅が来季復帰目指し独立L群馬で練習」『日刊スポーツ』2009年9月1日。2022年8月1日閲覧。

^ 「【オリックス】小林雅を獲得、背番号34」『日刊スポーツ』2010年11月19日。2021年12月29日閲覧。

^ 元祖“雑草魂”西本聖が初登場!伝家の宝刀・シュートの極意を語る【ピッチャーズバイブル】 フルタの方程式【古田敦也 公式チャンネル】

^ 「小林雅英投手 引退およびコーチ就任のお知らせ」『オリックス・バファローズ』2011年11月1日。2011年11月1日閲覧。

^ 週刊ベースボール2014年12月8日号、P30

^ オリックス 西本コーチら4コーチと契約結ばず 4選手に戦力外通告 スポーツニッポン 2014年10月1日配信

^ 小林雅英氏投手コーチ就任のお知らせ

^ ロッテ 小林雅英1軍投手コーチが退団 チーム防御率はリーグ5位 スポーツニッポン 2018年10月14日

^ 「元ロッテ小林雅英氏が社会人エイジェックのコーチに」『日刊スポーツ』2021年3月8日。2021年3月8日閲覧。

^ 埼玉新聞2021年3月4日「元ロッテ小林投手が講演」

^ “小林雅英氏「退部させていただくことになりました」社会人野球・エイジェック投手総合コーチを退任”. スポニチアネックス. (2024年9月30日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2024/09/30/kiji/20240930s00001003275000c.html 2024年10月1日閲覧。 

^ “白鴎大硬式野球部の新コーチに元ロッテ守護神の小林雅英氏「選手が夢を実現できるようサポート」”. 日刊スポーツ. (2025年1月10日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202501100000756.html 2025年1月11日閲覧。 

^ 小関順二『プロ野球スカウティングレポート2007』アスペクト、2007年3月、124-125頁。ISBN 978-4-7572-1338-8。

^ 小関順二『プロ野球スカウティングレポート2006』アスペクト、2006年3月、10-11頁。ISBN 4-7572-1246-1。

^ 「米1年目、小林雅が語る諦めと切り替えの美学。」『文藝春秋』2008年10月23日。2017年12月30日閲覧。

^ 「守護神が流した唯一の涙・小林雅英 引退模様 2011」『日本経済新聞』2011年12月30日。2017年12月29日閲覧。

^ 「あれ、絶対に別人だ…」甲子園出場への渇望が生んだ、前代未聞の“替え玉事件” AERA 2020年7月19日付。

^ 小林雅のはずが…吉野さっそう登場、慌ててベンチへ スポニチアネックス、2011年4月28日配信、2014年8月27日閲覧。

山梨県出身の人物一覧

日本体育大学の人物一覧

千葉ロッテマリーンズの選手一覧

オリンピックの野球競技・メダリスト一覧

日本出身のメジャーリーグベースボール選手一覧

読売ジャイアンツの選手一覧

オリックス・バファローズの選手一覧

個人年度別成績 小林雅英 - NPB.jp 日本野球機構

選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)

小林雅英 (@masahide_kobayashi30) - Instagram

選手情報 - 週刊ベースボールONLINE

所属サイト

2005 小林宏之

2006 小林雅英

2007 R.グリン

2008 川﨑宗則

2009 杉内俊哉

2010 T-岡田

2011 内川聖一

2012 内海哲也

2013 長谷川勇也

2014 亀井善行

2015 柳田悠岐

2016 城所龍磨

2017 柳田悠岐

2018 吉田正尚

2019 松田宣浩

2020 (中止)

2021 山本由伸

2022 村上宗隆

2023 岡本和真

2024 水谷瞬

1974 佐藤道郎

1975 村田兆治

1976 佐藤道郎

1977 江夏豊

1978 山口高志

1979 金城基泰

1980 金城基泰

1981 江夏豊

1982 江夏豊

1983 森繁和

1984 山沖之彦

1985 石本貴昭

1986 石本貴昭

1987 牛島和彦

1988 吉井理人

1989 井上祐二

1990 鹿取義隆

1991 武田一浩

1992 赤堀元之

1993 赤堀元之

1994 赤堀元之

1995 平井正史

1996 赤堀元之, 成本年秀

1997 赤堀元之

1998 大塚晶文

1999 B.ウォーレン

2000 R.ペドラザ

2001 R.ペドラザ

2002 豊田清

2003 豊田清

2004 三瀬幸司, 横山道哉

2005 小林雅英

2006 MICHEAL

2007 馬原孝浩

2008 加藤大輔

2009 武田久

2010 B.シコースキー

2011 武田久

2012 武田久

2013 益田直也

2014 平野佳寿

2015 D.サファテ

2016 D.サファテ

2017 D.サファテ

2018 森唯斗

2019 松井裕樹

2020 増田達至

2021 益田直也

2022 松井裕樹

2023 松井裕樹

2024 則本昂大

山中正竹

伊藤義博

小泉陽三

門倉健

今井圭吾

倉野信次

小林雅英

三澤興一

森中聖雄

矢野英司

荒井修光

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倉野信次

小林雅英

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矢野英司

小野公誠

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中村壽博

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柴原洋

橿渕聡

高橋由伸

3 長嶋茂雄

33 中畑清

32 大野豊

31 高木豊

11 木佐貫洋

13 岩瀬仁紀

15 黒田博樹

16 安藤優也

18 松坂大輔

19 上原浩治

21 和田毅

30 小林雅英

61 石井弘寿

8 谷繁元信

9 城島健司

2 小笠原道大

6 宮本慎也

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17 二岡智宏

48 井端弘和

1 福留孝介

5 和田一浩

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23 木村拓也

24 高橋由伸

33 中畑清

31 高木豊(守備・走塁)

32 大野豊(投手)

11 清水直行

13 岩瀬仁紀

15 黒田博樹

16 安藤優也

17 三浦大輔

18 松坂大輔

19 上原浩治

20 岩隈久志

21 和田毅

30 小林雅英

61 石井弘寿

9 城島健司

59 相川亮二

2 小笠原道大

5 中村紀洋

6 宮本慎也

8 金子誠

25 藤本敦士

1 福留孝介

10 谷佳知

23 村松有人

24 高橋由伸

27 木村拓也

55 和田一浩

1位:小林雅英(逆指名)

2位:里崎智也(逆指名)

3位:川井貴志

4位:寺本四郎

5位:小島大作

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2025/04/01 14:15更新

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1985年5月24日生まれの有名人 山梨出身

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北野 隆春(きたの たかはる、1891年(明治24年)5月24日 - 1981年(昭和56年)5月30日)は、日本の実業家。 スタンレー電気の創業者である。 1891年、山梨県東八代郡境川村(現・…

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