山本小鉄の情報 (やまもとこてつ) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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山本小鉄と関係のある人
木村健悟: 新日本プロレス創世期は、創設組の猪木派(山本小鉄、魁勝司、柴田勝久、木戸修、藤波辰巳とその後の入門組の浜田広秋、荒川真、藤原喜明、栗栖正伸ら)と合流組の坂口派(永源遥、木村、小沢正志、大城大五郎)の派閥があり、それによって選手の売り出し方に差が出ていた。 山本淳一: プロレスにも関心があり、ジャニーズ事務所所属時には新日本プロレス道場にて山本小鉄にプロレストレーニングを毎日受けていた。 サンダー杉山: ところがブッカーの山本小鉄が、その約束を反故にしてプレ日本選手権を予選落ちするブックを押し付けたため、山本と喧嘩になり、先に手を出した山本を叩きのめしたという逸話を残した。 グレート小鹿: ターゲットは猪木・藤波辰爾・山本小鉄であったとされるが、その際に猪木と山本は不在で、藤波は奥の部屋に隠れていたため事なきを得ている。 獣神サンダー・ライガー: 高校卒業後の1983年6月下旬-7月上旬のメキシコ滞在中、そこで出会ったグラン浜田から山本小鉄を紹介され、山本によって新日本プロレス入門を許可される(「高校卒業後、新日本の入門テストを受験し、体力テスト等は合格基準を満たしたが、低身長を理由に不合格となった後に渡墨した」というのは誤りで、実際は受験していないどころか、履歴書も送っていない)。 キューティー鈴木: 師である山本小鉄の「思いやりのある人間になれ。 坂口征二: 到着は深夜となったが、山本小鉄や藤波辰巳らが出迎えたという。 ブルーザー=ブロディ: 翌日には、ブロディはビーチで猪木に詰め寄ったが、『東京スポーツ』の記者は、山本小鉄の肩越しにカメラのシャッターを切るのが精一杯だったという。 木村健悟: これは音声では解説をしているはずの山本小鉄が、リングサイドで立ち働く姿が映像に何度も出てくるところから判明した。 真壁刀義: 真壁が学生プロレスの出身だったことも災いし、当時は理不尽なまでのシゴキを受けていたが、山本小鉄にはトレーニングに取り組む様子を評価されていたという。 デビル雅美: 自身の入団以前、ジャパン女子では山本小鉄がコーチを務めていたが、山本から所属レスラーへと教えられた技術がすべて男子に向いたものであったため、デビルは1から選手たちに技術を教え直した。 武藤敬司: 入門三日ほどで基礎練習の繰り返しに「俺はずっと柔道でこんなのやってきてるからかったるいよ」と周囲の同期にもらし、当時コーチであった山本小鉄に辞めたいと言ったことがあるが、山本は「あと1週間だけ辛抱してみろ、それでも嫌なら辞めても構わない」と励まし、武藤は自分への期待に自信をつけ、残る決意を固めた。 グレート小鹿: オープニング・マッチでザ・グレート・カブキと組み、日本プロレス崩壊から袂を分かっていた星野勘太郎&山本小鉄のヤマハ・ブラザーズと対戦した。 グレート草津: 1979年1月には山本小鉄&星野勘太郎のヤマハ・ブラザーズに敗れてIWA世界タッグ王座を失い無冠に陥落、以後は試合には出場するが一歩退いたポジションに身を置くようになり、TVマッチへの登場も減った。 豊登道春: 時代劇の登場人物や侠客・剣客をイメージしたもの(例・田中忠治、上田馬之助、松岡巌鉄、小鹿雷三〈後のグレート小鹿〉、山本小鉄、星野勘太郎など) 船木誠勝: 藤原喜明、佐山聡、藤波辰爾、山本小鉄、獣神サンダー・ライガー、夢枕獏らがリングに駆けつけ、最後は船木の胴上げが行われた。 中西学: 中西はこれまであと一歩のところで手が届かなかった同王座に、6度目の挑戦で悲願の初戴冠を果たしたことから実況席で解説の山本小鉄も人目を憚ることなく涙を流した。 ヒロ斉藤: 中学卒業後、アルバイトをしながら山本小鉄に入門を直訴し、1978年2月に新日本へ入門。 グラン浜田: 1972年3月6日の大田区体育館での新日本プロレスの旗揚げ戦にてイワン・カマロフを相手にデビュー戦を行うことが発表されていたが、当日、豊登道春が緊急参戦し、山本小鉄とタッグを組んで試合を行ったため、その煽りを受けて浜田が試合カードから外され、改めて3月16日、新日本プロレスオープニング・シリーズの対藤波辰巳戦にて、本名の浜田広秋をリングネームとしてデビュー戦を行った。 古舘伊知郎: 1980年からは『ワールドプロレスリング』で山本小鉄とコンビを組む。 カール=ゴッチ: さらに山本小鉄、星野勘太郎といった当時の若手・中堅選手を厳しく鍛えた。 力道山: 慶應病院には付き人の田中と山本小鉄が同行して遺体に付き添った。 ミスター・ポーゴ: 1972年3月20日、足立体育館の藤波辰巳戦でデビューしたものの、山本小鉄から疎まれて知らない間に解雇されてしまい、旗揚げの1シリーズのみで退団した。 星野勘太郎: 1967年1月、山本小鉄と共にアメリカ武者修行に出立。 ビル=ロビンソン: その後も永源遙、山本小鉄、星野勘太郎を下し、タッグマッチではグレッグ・バレンタインと組んで小林&坂口征二と対戦した。 昆布ちゃん: 山本小鉄 スタン=フレイジャー: 「馬場より大きい男」として話題を集めたが、リーグ戦では山本小鉄、大熊元司、高千穂明久、ミツ・ヒライなどの中堅や若手からは勝利を収めたものの、トップのジャイアント馬場、アントニオ猪木、坂口征二には歯が立たず、戦績は芳しくなかった。 宮田幸季: ブラザーズ (山本小鉄子)ブラザーズ VOL.1・2(鬼龍院礼) 豊登道春: 早食いでも周囲を驚かせており、山本小鉄は「一緒にラーメンを食べに行って、こっちが一杯目を食べ終わる前に三杯目を注文していた」「色々なレスラーの中で、胃袋に関しては別格」と述懐している。 デビル雅美: また、孫弟子にあたる里村明衣子が立ち上げたセンダイガールズプロレスリングの新人選手の育成に山本小鉄とともに尽力し、仙女の観客からは「お母さん」の愛称で親しまれている。 |
山本小鉄
山本 小鉄(やまもと こてつ)さんの誕生日は1941年10月30日です。神奈川出身の格闘家
プロレスのようです。
人物、エピソードなどについてまとめました。引退、卒業、テレビ、家族に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
山本 小鉄(やまもと こてつ、1941年10月30日 - 2010年8月28日)は、日本のプロレスラー。本名は山本 勝(やまもと まさる)。リングネームは豊登の命名。神奈川県横浜市南区出身。新日本プロレス所属。タレントとしても活動しており、芸能事務所はインターテイク所属であった。 現役引退後はワールドプロレスリング解説者・マッチメイカー・レフェリーとして活躍していた。 横浜市立横浜商業高等学校卒業後、東海金属工業に勤務しながらYMCAでボディビルに打ち込み、1963年に日本プロレスに入門。同年12月に力道山が亡くなったことから、力道山の最後の弟子となった。同年7月19日に北沢幹之戦でデビューした。 1964年10月31日、石巻市立石巻小学校の特設リングで挙行された日本プロレス石巻大会での興行では、高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)のデビュー戦の相手を務めている。 1967年1月、星野勘太郎と共にアメリカ武者修業に出立。カリフォルニア州ロサンゼルスのWWAを皮切りに、小型でもパワフルであると評判だったヤマハの日本製オートバイにあやかったヤマハ・ブラザーズ(The Yamaha Brothers)のチーム名のもと、テネシー州メンフィスを拠点とするNWAミッドアメリカ(後のCWA)を主戦場に活動した。その間、単独でテキサス州ダラスのNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)にも参戦、フリッツ・フォン・エリックの家に住み込み、子供時代のケビン、デビッド、ケリーらの遊び相手をしていたという。同地区ではジャック・ダニエルズ、スカンドル・アクバ、ロニー・エチソン、マリオ・ミラノ、ワルドー・フォン・エリック、ゴリー・ゲレロ、ターザン・タイラー、バディ・オースチン、ブルート・バーナード、ビクター・リベラ、キンジ渋谷、ジャック・ブリスコ、ポール・ジョーンズなどと対戦した。 凱旋帰国後は、ジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲と組んでの6人タッグマッチなどでメインイベントにも度々出場。1969年の第11回ワールドリーグ戦では、5月2日の長崎市公会堂大会において、優勝候補の一角だったゴリラ・モンスーンを破る大金星を挙げた。外国人レスラーとのシングルマッチでは、若手時代のボビー・ダンカンやジェリー・ブリスコ、ジャッキー・ファーゴなどからも勝利を収めている。 1971年12月、猪木による日本プロレス乗っ取り騒動が発覚すると猪木に協力したため、芳の里淳三から自宅謹慎を言い渡される。これを不服として猪木が日本プロレスを除名された2日後の12月15日に日本プロレスを退団。翌1972年の新日本プロレス旗揚げに参加。この頃から現場責任者・コーチとして活動している。 1979年1月21日に「ヤマハ・ブラザーズ」として国際プロレスの後楽園ホール大会に乗り込み、グレート草津&アニマル浜口を破ってIWA世界タッグ王座を獲得した。この時期の異名は人間爆弾であった。 1980年4月4日の引退後は、レフェリー(後に審判部長)を務める傍ら、同団体道場のコーチや新日本プロレス学校の校長を歴任し、鬼コーチ・鬼軍曹と呼ばれながら若手レスラーを育てた。また「ワールドプロレスリング」のレギュラー解説者として古舘伊知郎・桜井康雄と組んだ。一方では審判部長として試合を見守る役目も負っており、試合を止めるべく席を立つ前の「あっ、ちょっと待ってください」という一言は、著書のタイトルにもなっている。 1983年、当時の新日本プロレスの興行は盛況を博していたが、利益及び給与は低く、猪木の経営には不満を持つ者が多かった。山本はこの勢力の中心にあり、同年8月25日の緊急役員会議で社長の猪木、副社長の坂口征二を退任させ、自身が望月和治・大塚博美と共に代表取締役に就任する。しかし新日本プロレスを支援していたテレビ朝日はこのクーデターを許さず、11月には猪木が社長に復帰。山本らの政権は短命に終わった。 新日本プロレスでは企画宣伝部長を務めたり、新日本プロレスの子会社の「新日本プロレスサービス」の代表取締役社長も務めたこともある。 その後は永田裕志・中西学・藤田和之・ケンドー・カシンによる「チーム・ジャパン」後見人のほか、J sports ESPNで放送されていた「新日本プロレス S.X.W」の解説を務めた。 新日本プロレスには、カール・ゴッチの理論的な技術「ゴッチイズム」と、それに山本の考えの根性論「小鉄イズム」という概念がある。 2010年8月24日、家族旅行先の長野県軽井沢町で昼食をとった後に意識不明となり、4日後の8月28日午前6時42分、低酸素性脳症のため死去。68歳だった。戒名は「清巌院闘誉小鉄居士」。 人物一度、日本プロレスに入門を申し入れた時、力道山から「お前の様なチビがレスラーになれるか!」と怒鳴りつけられ、門前払いを受けた。しかしプロレスラーへの夢を諦め切れない山本は、その後1年間かけて徹底的に体を鍛え、再度力道山の元へ出向き直談判した。この時も「何度来ても駄目なものは駄目だ!」と一喝されたが、力道山の顔を睨み付けたまま微動だにせず、固く握った拳をブルブルと震わせる山本の姿を見て「こいつの意思は本物だ…」と感じ、特別に入門を許可したという。山本は日本プロレス退団後に日本プロレスを告訴して勝訴し、約200万円の退職金を手にしている。 新日本プロレス旗揚げ当時、道場用リングを買う資金がなく、道場用リングの資金は全て山本が負担した。 非常に真面目な人物であり、度を超えた下ネタや悪ふざけを極度に嫌っていた。あるテレビ番組に出演中「自分はアダルトビデオなんか一度も観たことはないし、観たいとも思わないね」と言ってのけた。また、自らが教え発展させた新日本プロレスのレスリングスタイルには誇りを持っており、スーパーJカップに参戦した男色ディーノの男色を連想させる下ネタを交えたプロレススタイルに激高したことがあった。生真面目な性格を表す逸話として「全ての迷惑メールに丁寧に断りの返信をしていた」というものもある。 スキンヘッドで強面の外見とは裏腹に、礼儀をわきまえた上で接した際の物腰は柔らかい人柄であり、愛妻家でもあった。また一人娘を非常に可愛がっており、巡業中で出産に立ち会えなかったことから娘の出生日からの日数を常に言えるよう心掛けていた。晩年になってからは、孫の出生日からの日数までカウントしていた。 現役引退及び『ワールドプロレスリング』解説者就任にあたっては、当時のテレビ中継では新聞記者上がりの人物が解説者を務めることが殆どだったことから「今の中継の解説者には、レスラー上がりで技の凄さや痛みを理解している人がいないんだよ」として、猪木から直接依頼されたという。しかし山本は「あと5年は現役を続けたい」として一度は断ったものの、猪木に「ギャラは現役時代と同額を保証するから」と再度要請されており、仕方なく引き受けたとのこと。これに伴って元来口下手だった山本は、テレビ局に迷惑をかけまいと「話し方教室」に通った。正確には「落合恵子が主宰する『日本話し方講座』の通信教育を受けた」とのことである。解説者となった当初は、放送中に自分のことをアナウンスの禁則事項でもある「オレ」と口にしてしまったりと、実況の古舘伊知郎を困惑させたこともあった。 指導者としては「鬼軍曹」と呼ばれ、道場での若手指導には厳格だった。その厳しさから前田日明は「キャデラック(山本の愛車)の音が聞こえるだけで震えが止まらなかったね」と語っている。また藤原喜明は、若手時代に足が痛むため山本に対して「今日の稽古を休ませて下さい」と申し出たが「何だとぉ?足が痛けりゃなぁ、足の運動をやれば治る物なんだよ。この馬鹿野郎が!」と一蹴された上に、さらにスクワットをするよう命じられたため一時期、山本を包丁で刺し殺す練習をしたほど恨んでいたという。実際に道場の前にある白樺の木には包丁で刺した傷が沢山あった、と前田日明は当時のことを述懐している。しかし山本は練習以外では優しく接しており、新人・若手と共に食事をするなどコミュニケーションを取る努力もしていた。藤原に対しても食事と酒を快く何度も振舞ってくれたために「殺すのは今度にしようかな…」と殺害を引き伸ばしていたと語っている。後年、藤原は山本に「何かお前、俺を殺そうとしてたらしいな?」といわれて「はい、そうでしたね…」と素直に白状した所、山本は「もう過去の話だからいいよ、な!」と笑顔で受け流してくれたとも語っている。 練習が終わり、食事の時間になると選手達と一緒にちゃんこ鍋を囲んでコミュニケーションを取るなど、若手・新人に対して「練習は厳しく・プライベートでは優しく」するように硬軟を使い分けていた。また口で指示するだけはなく、若手選手と同じ運動をして共に汗を流して60歳を過ぎて身体が思うように動かなくても、出来る限りのトレーニングを続けており「俺みたいな年寄りがこれだけ動けるというのに、お前らには出来ないのかよ!」と発破を掛け続けていた。 また誰にでも厳しくする訳ではなく、レスリングの学生チャンピオンとなりオリンピックにも出た長州力には入団時から何しても動じない基礎があるとして厳しく育てた一方、藤波辰爾は中学で陸上をやった程度の細い体だったため「強くなったよな」「腕が太くなったよな」と褒めて余り殴ることはしない様にし、腐らせずに伸ばすことを意識した。 この様な人格者としての面を持つことから、新日本プロレスを離れて総合格闘技方面に行った前田や、船木誠勝などからも敬われていた。 一連の厳格かつ前時代的な指導ばかりが挙げられてしまい「山本小鉄=根性論の塊」とされがちであるが、決してそれだけではなかった。当時新人だった山本尚史や中邑真輔らをテレビ番組の企画で指導した際は、試合を想定した基本的なスクワットの方法だけではなく、試合中にこっそり仕掛けられるシュート技術を教えるなど、合理的な指導を披露している。このほか自身が170センチと小柄な体格であったことから、身長が当時の入門規定に足らなかった者でも努力をしてきた場合は入門を例外的に許しており、後の獣神サンダー・ライガー・リッキー・フジなどは「山本小鉄さんのおかげで、自分はプロになれましたから」と感謝の意を示している。 若手レスラーには「自分が強くなれば、誰も文句を言わなくなるよ」という趣旨の言葉を度々話しており、入団当時小柄だった鈴木みのるや先輩からの理不尽なしごきに辛酸を舐めていた真壁刀義は、その言葉に励まされたと後年語っている。 猪木の日本プロレス追放発表の記者会見で、星野が坂口・小鹿らと共に乾杯していたことに対して大激怒する。そのような経緯もあって坂口らが日本プロレスから新日本へ移籍した後、日本プロレス崩壊時にメキシコに遠征していた星野を新日本プロレスに移籍させるに当たり、猪木と坂口が山本の了解を取ったという経緯がある。 ミスター高橋とは幼馴染で親友同士だったが、後年高橋が暴露本を出して以降は「リングの魂を金に換えた奴だから、親友なんかじゃないね」と絶縁状態であった。 プロレス界発展のために女子レスラーへの指導を行ったり、バラエティ番組などでレフェリー役を務めるなど、プロレス以外の分野でもその人柄とキャラクターは重宝されており、幅広く活躍していた。筋肉番付のめんこスタジアムのレフェリーを担当したこともある。 上記の様に弟子達から敬われていたため、葬儀には新日本プロレスの所属レスラー・関係者だけでなく、武藤敬司・船木誠勝・高山善廣・鈴木みのる・神取忍など団体の垣根を越えての参列者があり、遺族から依頼を受けた前田日明が弔辞を読み上げた。また「ワールドプロレスリング」での名コンビであった古舘伊知郎は、8月30日夜の『報道ステーション』(テレビ朝日)番組内にて山本との想い出話を披露し「本当にお世話になりまして、残念です。悲しいです」と故人を偲んだ。 エピソード新日本プロレスのライオンマークのエンブレムとキャッチフレーズである「キング・オブ・スポーツ」は山本が考案したものである。 「天才!たけしの元気が出るテレビ」の企画で他の出演者たちとある幼稚園の空き教室に集められて催眠術師に「心が幼稚園時代に戻る」催眠術をかけられて他の出演者達は積み木で遊び始めたり、喧嘩を始めて泣き出したりと幼児の振る舞いを見せたが、山本だけ無反応であった。レポーターの勝村政信が山本にその事情を聞くと「幼稚園に通った経験がないので」と話すハプニングがあった。ロケ終了後に勝村や番組側は確認不足であった事を山本に謝罪したが、山本から「幼稚園に通った経験がない自分にとっては、幼稚園の施設内を知る事が出来て非常に楽しいロケでしたね」と、感謝のコメントを受けた事を勝村が番組内で明かしている。 2024/05/25 07:48更新
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yamamoto kotetsu
山本小鉄と同じ誕生日10月30日生まれ、同じ神奈川出身の人
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