有藤通世の情報(ありとうみちよ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
有藤 通世さんについて調べます
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有藤通世と関係のある人
和田康士朗: ロッテOBの野球解説者・有藤通世からは、脚力だけでなくスライディングも非常に速く、通算盗塁数およびシーズン盗塁数の日本記録保持者である福本豊を思い出させると絶賛されている。 榊親一: 山内一弘・山本一義・稲尾和久・有藤通世・金田正一・八木沢荘六ら6人の監督を支え、その後は平成国際大学のコーチを務めた。 森安敏明: 制球力の悪さも特徴で、ビーンボール気味に右打者に襲いかかる荒れ球は多くの対戦打者から「一番怖い投手だったのは間違いない」と評され、有藤通世に至っては「ぶつける時の方が制球が良かった」とまで述べた程であった。 渋谷幸春: 1974年のロッテ・オリオンズとの日本シリーズでは3試合にリリーフとして登板、第4戦では同点で登板した6回に弘田澄男、有藤通世に連続本塁打を喫し、敗戦投手となった。 正垣宏倫: 同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で山下律夫、有藤通世らのいた近大を降し優勝。 尾崎将司: 同年夏の地方予選では南四国大会準決勝で、有藤通世のいた高知高に延長12回で敗退している。 島田伸也: 高知市立高知商業高等学校では、1963年夏の甲子園県予選決勝に進出するが、エース有藤通世を擁する高知高に敗退。 中村奨吾: この席上で併せて、背番号を過去に有藤通世や今江敏晃などが着用し、ロッテにおける「特別な背番号」とされている8へ変更することが発表された。 清水将海: なお、この時点では8番は一時的に「ミスター・ロッテ」(過去の山内和弘や有藤通世、後年の今江敏晃、中村奨吾)としての球団の象徴的な扱いとなっていなかった。 藤原満: 高校卒業後は1965年に近畿大学へ進学し、後にロッテで活躍した有藤通世と三遊間を組む(当初は有藤を遊撃手に起用していたが、ある試合の満塁のピンチで有藤がトンネルをしてしまったため、藤原と守備位置を交換)。 園川一美: だが、この日は既にロッテが消化試合に突入していた事、さらにチームの大ベテラン・有藤通世が現役引退を表明した日とも重なり、新聞での扱いは小さかった。 初芝清: 1989年、有藤通世監督の厳しい指導により、苦手にしていた内角をさばけるようになり、1年目から70試合に出場する。 籠尾良雄: 当時の教え子に片田謙二、横山小次郎、有藤通世、浜村孝、山下司、井本隆がいる。 落合博満: 有藤通世、レオン・リー・レロン・リー兄弟らとクリーンナップを形成し、日本ハムとのプレーオフでは第4戦で本塁打を放った。 安田尚憲: なお、21歳11か月での開幕4番は、1970年の有藤通世(23歳3か月)の記録を上回り球団史上最年少となった。 山村善則: 「有藤通世2世」という評価を受けていた。 水谷宏: ドラフト同期には藤原をはじめ星野仙一、田淵幸一、山本浩司、福本豊、有藤通世らがいる。 広瀬宰: その裏に広瀬のソロ本塁打で追い上げたが、4回表さらに2点を追加され阪急ペースの試合になったが、6回裏には有藤通世のソロ本塁打が飛び出し、次打者池辺巌が安打で出塁したがここで雷雨が激しくなってコールドゲームとなり、2-4で首位阪急に敗れた。 醍醐猛夫: オリオンズが関西へ遠征したその晩に有藤通世や山崎裕之と麻雀を打ち終えて部屋に戻ると、ルームメイトの榎本が居なかった。 金村義明: この年の10.19(前述)第2試合で近鉄が有藤通世(当時はロッテの監督)からの抗議をはさんだ時間切れ引き分けでパ・リーグ優勝を逃したことを背景に、司会の島田紳助から「有藤監督のこと嫌いやろ」と訊かれた。 ジョー=ディマジオ: 5分足らずで有藤通世・山崎裕之らの長所短所を指摘し、金田正一監督を唸らせた。 山下律夫: 大学の2年下には前出の藤原のほか、有藤通世がいた。 福本豊: また福本は、飯塚佳寛や弘田澄男、有藤通世らロッテの俊足の選手もこのために走れなくなり「阪急より大きな損をしたように思う」と記している。 福沢洋一: 有藤通世監督に「キャッチャーがいないんだ」と見込まれて、ロッテオリオンズの練習生となり、1988年オフにドラフト外で入団した。 江夏豊: 1980年7月22日のオールスターゲーム第3戦(後楽園球場)では、セ・リーグが2-0と勝っていたが9回裏に1点差まで詰め寄られ、無死満塁のピンチを背負った野村収(大洋ホエールズ)を救援し、レオン・リー、有藤通世(共にロッテオリオンズ)、山内新一(南海ホークス)を3者連続三振に打ち取り、先制打を放った真弓明信、本塁打を放った掛布雅之を抑えてMVPを獲得した。 福澤洋一: 有藤通世監督に「キャッチャーがいないんだ」と見込まれて、ロッテオリオンズの練習生となり、1988年オフにドラフト外で入団した。 金田留広: 後半戦では先発割合が増えたものの、終盤で打ち込まれる試合も多く、18勝13敗6Sの成績で終了、同年の新人王は有藤通世に惜敗する。 高沢秀昭: 一方の松永はロッテとの3試合を残して.3234で、この日のダブルヘッダーでは7打数0安打以下ならば松永に逆転されるという状況で、監督の有藤通世からは「残り4試合あるが、この日でうちは終わりのつもりだから自分で首位打者を取れ」と言われてスタメンで出場した。 濃人渉: 1969年、近藤貞雄を再び投手コーチに招聘、有藤通世をルーキー年から三塁手のレギュラーに抜擢、「ミサイル打線」復活を目指し、与那嶺を再び打撃コーチとして招き、球団名がロッテに変わった2年目の1970年、投の成田文男、木樽正明、小山正明、打の江藤愼一、アルトマン、榎本喜八、山崎裕之、有藤道世らを率いてパ・リーグ独走優勝。 池田重喜: ロッテ移籍2年目の1972年から右肩痛に悩まされながらも、榎本喜八、有藤通世、落合博満、野村克也、江藤慎一、張本勲といった歴代の主力打者に好まれるほど、打撃練習では抜群の制球力を発揮してきた。 |
有藤通世の情報まとめ
有藤 通世(ありとう みちよ)さんの誕生日は1946年12月17日です。高知出身の野球選手のようです。
現在、離婚、母親、テレビ、卒業、引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。有藤通世の現在の年齢は78歳のようです。
有藤通世のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 有藤 通世(ありとう みちよ、1946年12月17日 - )は、高知県高岡郡宇佐町(現:土佐市)出身・千葉県船橋市在住のプロ野球解説者、元選手(内野手、外野手)・監督。元プロゴルファーの有藤実花(長女)、有藤智香(次女)、有藤英世(長男)の父。 1975年シーズン途中から1989年までの登録名は有藤 道世(読み同じ)。現役時代から監督までロッテオリオンズ一筋を貫き、「ミスター・ロッテ」と呼ばれる。パ・リーグ初の三塁手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している。 生まれは名古屋市だったが、2歳の時に両親が離婚し、相撲の盛んな高知に移る。母親に育てられ、元々は亡き祖父の影響で相撲少年だった。中学入学前、後に土佐高校を甲子園に導いた籠尾良雄から野球の手ほどきを受け、野球に出会う。 高知高校では2年生の時に、エースとして1963年県予選決勝で高知商を下し、夏の甲子園に出場。しかし2回戦(初戦)で東奥義塾に延長10回裏逆転サヨナラ負けを喫する。同年秋季四国大会県予選では準決勝に進み土佐高の島村聖(慶大-日本鋼管)と投げ合うが1-2で惜敗。翌1964年夏の予選は光内数喜(芝工大-鐘淵化学)とともに投の二本柱として順調に勝ち進み、南四国大会決勝で徳島商を破り、甲子園に進出する。開幕試合の秋田工戦に四番打者、右翼手として出場するも、秋田工のエース三浦健二から第1打席で顔面に死球を受けて以後の試合を欠場。高知高は光内の好投もあり、決勝で早鞆高を降し優勝する。有藤はチームの全国制覇を、病院のベッドでテレビを通して見る羽目になった。 母子家庭のため卒業後は働くつもりでいたが、周囲の支援もあって特待生で近畿大学に進学。三塁手として、藤原満と三遊間を組む(入学当初は有藤を遊撃手として育成する予定だったが、ある試合の満塁のピンチで有藤遊撃手がトンネルをしてしまったため、三塁手が本職の藤原と守備位置を交換)。関西六大学野球リーグでは1966年春季リーグで、エース山下律夫を擁し近大の初優勝に貢献した。同年の全日本大学野球選手権大会は決勝で日大に敗れ、準優勝にとどまる。在学中に3度優勝し、1968年春季リーグでは首位打者を獲得。リーグ通算78試合出場、274打数84安打、打率.307、8本塁打、36打点。 同期には「法大三羽烏」の異名で呼ばれた田淵幸一・山本浩二・富田勝や明大の星野仙一などがいたため、有藤の知名度は低かった。母はプロ入りに反対したため、社会人野球を経験してからプロ入りでも遅くないと考えたり、落ち着かない日々を送っている時、新聞で当時の近鉄・三原脩監督が「高知の人間は素質はあるんだけど、酒と女で潰れてしまう」とコメントした記事を目にした。確かにそれまでプロ野球で大成した高知県人はいなかったが、同じ四国の香川県出身の「知将」が何を根拠にそんなことを言うのかと「何くそ」と腹を立て、プロに入って力を見せつけてやりたいという気持ちが強くなった。 1968年のドラフト1位で東京オリオンズ(翌1969年からロッテオリオンズ)に入団。山内一弘がつけていた背番号8を受け継ぐ。指名当初は社会人野球に進むかで迷っていたものの、「25歳までにレギュラーを取れなかったら大学職員として戻る」という約束を取り付け、プロ入りを決意した。 1969年の1年目から当時の濃人渉監督に三塁手のレギュラーに抜擢され、パ・リーグ新人歴代最多の111三振を喫する一方、打率.285(リーグ11位)、21本塁打の成績で新人王を獲得する。シーズン111三振は、1999年に福留孝介が121三振を記録するまではプロ野球新人記録でもあった。 翌1970年には全試合出場を果たし、オールスターゲームにも選出される(オールスターには以後13年連続で選出された)。主に5番打者としてリーグ6位となる打率.306を残して25本塁打・80打点・27盗塁も記録。同年のチームのリーグ優勝に貢献した。しかし守備面ではリーグ最多の26失策を記録してしまう。読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、5番・1番打者として全5試合に先発出場、しかし21打数4安打1打点と振るわず、1勝4敗で敗退。 1971年には1番・5番・6番打者などで出場するが、2年連続リーグ最多の24失策と守備の課題は解決されなかった。1972年には主に3番打者として自己最多となる29本塁打・31盗塁を残す。守備面でも失策が半減、三塁手としてシーズン147刺殺のパ・リーグ記録を樹立した。 1973年は打率.300(リーグ9位)、20本塁打の成績を残し、10月10日、八木沢荘六の完全試合を見届ける。1974年は25本塁打・20盗塁の活躍でチームの日本一に貢献。中日ドラゴンズとの日本シリーズではMVPは弘田澄男に譲ったが、21打数9安打2打点2本塁打、打率.429を残して打撃賞と技能賞に輝く。 1975年シーズン途中、後期開幕前に登録名を有藤道世に変更。本人は「プロ入りしてから顔にデッドボールを5度食らうなどケガが多く、それである人に勧められて」変更したと話している。 1977年は主に3番打者として活躍し、9月以降は主に1番打者を務めた。同年は自己最高の打率.329で首位打者に輝く。一方で同年のキャンプで左手首の腱鞘炎を発症し、シーズンでもダイビングキャッチをした際に負傷したり死球で肘を痛めたりするなど満身創痍の状態であり、本塁打は16本に終わり、入団以来続けていた連続20本塁打以上の記録が途切れた。 1978年8月31日、今井雄太郎(阪急)の完全試合を見届ける。 1980年は主に5番や6番打者として起用され、打率.309・22本塁打・27盗塁の成績を残す。1981年には通算10度目となるベストナインを受賞した。同年10月19日に監督の山内一弘が1年の契約期間を残して退団、ロッテ本社はフロントを急がせ「10人の候補者リスト」を作り、片っ端から交渉を開始したが野村克也、土橋正幸、豊田泰光と次々に断られ、有藤の監督兼任案も出たが、オーナーの重光武雄が「あと3年、プレーヤーで専任させよう」とストップをかけ、最終的には山本一義が監督に就任した。 1982年、リーグ7位の打率.301を記録するが、翌1983年からは衰えが見られるようになった。1984年に「俺は三塁手失格。監督もやりづらいでしょう。外野に回る」と述べ、落合博満に三塁のポジションを譲り、外野手に転向し、監督の稲尾和久は「エラーもするけど、いいところで打ってくれる。」と有藤を評価した。 1985年7月11日、川崎球場で行われた阪急ブレーブス戦にて、星野伸之から三塁線に二塁打を放ち、パ・リーグの大卒選手では史上初となる通算2000本安打を達成。同年10月14日の西武ライオンズ戦では永射保から代打満塁本塁打を放った。翌1986年に現役引退。引退試合は同年10月19日のダブルヘッター2戦目の日本ハムファイターズ戦で4番・三塁手で出場し、1打席目に現役最後となる安打を高田博久から打った。 引退直後の1987年、ロッテの監督に就任。同年に中日ドラゴンズの監督に就任した星野仙一と共にNPB史上初の戦後生まれの監督となった。1度もAクラス入りすることができず、1989年のシーズン終了を以って退任。 監督退任後の1990年よりTBSテレビ(2005年まで)・TBSラジオ、スポーツニッポンの野球評論家を務める(2009年からはTwellVで放映されるロッテ球団制作の中継も兼任)かたわら、海浜幕張駅近くのお好み焼き屋「有賀藤(ありがとう)」のオーナーでもある(「プレナ幕張」1階にある店は、ロッテ球団公式ショップと通路を挟んで向かい合う)。店は長男が切り盛りしている。 2005年5月6日の横浜ベイスターズ対千葉ロッテマリーンズ(横浜スタジアム)の交流戦開幕始球式で、元大洋の平松政次がマウンドに立った。その際、打席に入ったのが有藤であった。平松が投げたボールを有藤が思わず打ち返した(始球式では、普通は空振りストライクにする)その光景に、スタンドの観客は大いに湧いた。 2022年4月3日、佐々木朗希が登板した際に解説者として「次はノーヒットノーラン、完全試合を。」とノーヒットノーランか完全試合を望む発言をする。そして次の登板となった4月10日、佐々木朗希の完全試合を解説者として見届ける。先述の対戦相手、味方としての完全試合を含め、自身三度目の完全試合の目撃となった(なお1969年8月16日、対阪急ブレーブス戦で成田文男が達成した球団初のノーヒットノーランもスタメン出場しており、2022年現在、球団が達成した3度のノーヒットノーランすべてに居合わせている)。 現役時代の背番号8は、自身が監督に就任した1987年に準永久欠番となったが、球団が千葉に移転した1992年以降は準永久欠番ではなくなった(同年に新外国人のマックス・ベナブルがつけている)。2005年から2015年までは同じ三塁手の今江敏晃がつけていた。今江がFA移籍した2016年は空き番となっていたが、2017年からは中村奨吾がつける。 現役を引退した1986年オフ、監督を務めていた稲尾和久が解任され、稲尾の後任には現役を引退したばかりの有藤が指名された。就任直後に主砲の落合博満が中日ドラゴンズに移籍、さらに1987年オフにはレロン・リーも退団し、長距離打者を欠いたチームは急速に弱体化(有藤は落合とは確執があったために放出し、代わりに来た上川誠二を使うために二塁手だった西村徳文を三塁手にコンバート、前年からレギュラーとして台頭していた佐藤健一が控えにまわってしまい、共に中距離打者の入団2年目の古川慎一や高沢秀昭を4番打者にせざるを得なくなった)。落合の著書によると「(有藤は)監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している。リーの妻である美樹リーの著書によると「リーを使わない」「仲の悪い落合の放出」の2つを監督就任の条件に挙げたという。また有藤は「落合は確かに良く打つが、走れない、守れないではチームプレーが成り立たない。彼がいなくなって、ウチのピッチャーは喜んでいる」と述べている。ただし、有藤本人は当時から現在に至るまでインタビューで「会社にも、監督引き受けたときに“オチは出せない、絶対必要やから”とお願いしてあるんですよ。落合のトレードに関しては、僕はいっさいタッチしていない。」とこれらのことを一貫して否定している。実際落合もリーも直接有藤本人から言われたのではなく人づてからであり、当時落合とリーは球団内でも高額年俸選手であり、フロントが2人を放出のため有藤を利用したことが考えられる。 就任当初は同学年で中日監督となった星野仙一同様に厳しく選手に接し、試合でも抗議等で度々グランドに飛び出して闘争心を露わにしていた。コーチ陣には高校及びオリオンズの先輩となる土居章助や球界を離れていた同郷の浜村孝を据えていた。在任中の成績は5位→6位→6位と低迷、それまで最下位経験がほとんどなかった(フルシーズンでは1983年のみ)ロッテにとって2年連続最下位は球団史上初の屈辱となり、3年で退任することとなった。 1987年は落合が抜けた穴が大きく、シーズンを通じて4番打者を固定できなかった。当初期待されていた古川は打率が振るわず、打線は西村の2年連続盗塁王くらいしか明るい話題がなかった。投手陣は中日から移籍してきた牛島和彦が24セーブを挙げ最優秀救援投手のタイトルを獲得し、先発陣も荘勝雄・園川一美・村田兆治が奮闘したが、同年は5位に終わった。チーム盗塁数こそリーグトップの152個を記録したが、完封負けは17度、本塁打は前年の171本からリーグ最少の104本、チームトップの本塁打数も古川のわずか12本と終始貧打に悩まされ続けた。 1988年は貧打解消のため、メジャーで首位打者4度の実績を持つビル・マドロックを獲得。チームは序盤こそ好調で5月には一時期は2位にも立ったが、後半戦からは連敗を重ねていき、最終的に最下位にまで転落した。期待されていたマドロックは37歳とピークを過ぎていたこともあり、期待されていたほどの成績は残せなかった。一方で西村が55盗塁で3年連続盗塁王を獲得し、高沢秀昭も打率.327で首位打者を獲得している(ただし高沢に首位打者を獲得させるため、阪急の松永浩美に対して11打席連続で四球を与えている)。投手陣も荘・小川博・園川・村田の先発4名が2桁勝利を挙げ、牛島が最多セーブを記録し小川もリーグ最多奪三振を記録(当時連盟表彰なし)したが、園川はリーグワーストの15敗、荘もワースト2位の14敗、牛島もタイトルは取ったが1勝6敗防御率4点台とリリーフ陣が総崩れで投手の駒不足に泣かされた。 1989年は「ランボー」の愛称で親しまれたマイク・ディアズを獲得する。ディアズはシーズンでも打率.301・39本塁打・105打点という成績を残し、西村も42盗塁で4年連続盗塁王を獲得した。投手は先発に転向した牛島が12勝を挙げ、村田は防御率2.50で最優秀防御率を獲得。しかし他の投手陣が軒並み不振に陥り、同年は勝率3割台(.393)という屈辱で2年連続で最下位となった。この結果を受けて有藤は監督を辞任し、後任には金田正一が就任した。後年、有藤はこの監督時代について「本当は1年目に辞めたかった、負けてばかりで悔しい、選手からいきなり監督はやるべきではない」と回想している。 トリプルスリーが狙える程の走攻守三拍子が揃った選手として活躍し、ダイナミックなプレーでファンを沸かせた。同じ三塁手だったが、あまり体格には恵まれていなかった阪神タイガースの掛布雅之は、26歳頃のインタビューで憧れる選手がいるか聞かれた際、「僕は有藤さんが好き。あの人みたいに打ちたい、守りたいのが理想なんだけど、あの人は身体が大きい。だからね……」と残念そうに語っている。 キャンプで相部屋になった西村徳文は、有藤が毎日その日学んだこと感じたことをノートに書いているのを見てプロ意識の高さに感銘を受けたという。 ニックネームのミスターロッテは、金田正一監督が1973年春季キャンプで命名して定着した。 2023年現在、ロッテ球団最多本塁打は有藤の348本である。 各年度の太字はリーグ最高 首位打者:1回 (1977年) 新人王(1969年) ベストナイン:10回 (1969年 - 1975年、1977年、1980年、1981年)※三塁手部門での通算10回受賞と7年連続受賞は共に歴代2位、パ・リーグ記録 ダイヤモンドグラブ賞:4回 (1972年 - 1975年)※1972年は三塁手部門でのパ・リーグ史上初の受賞 日本シリーズ打撃賞:1回 (1974年) 日本シリーズ技能賞:1回 (1974年) オールスターゲームMVP:1回 (1976年 第1戦) パ・リーグプレーオフ技能賞:1回 (1974年) パ・リーグプレーオフ敢闘賞:1回 (1980年) 初出場:1969年4月30日、対西鉄ライオンズ5回戦(小倉球場)、1回裏に偵察要員・岩崎忠義に代わり三塁手で出場 初先発出場:1969年5月5日、対阪急ブレーブス3回戦(東京スタジアム)、6番・三塁手で先発出場 初安打・初本塁打・初打点:同上、7回裏に大石清から 100本塁打:1972年9月20日、対近鉄バファローズ19回戦(西京極球場)、6回表に鈴木啓示からソロ ※史上71人目 150本塁打:1975年5月11日、対日本ハムファイターズ前期7回戦(後楽園球場)、8回表に新美敏からソロ ※史上40人目 1000本安打:1976年9月29日、対日本ハムファイターズ後期11回戦(宮城球場)、8回裏に野村収から右中間二塁打 ※史上98人目 1000試合出場:1977年5月10日、対日本ハムファイターズ前期5回戦(後楽園球場)、2回裏に井上洋一に代わり三塁手で出場 ※史上191人目 200本塁打:1977年7月5日、対クラウンライターライオンズ後期1回戦(宮城球場)、4回裏に永射保から左越先制ソロ ※史上18人目 250本塁打:1979年8月23日、対日本ハムファイターズ後期8回戦(後楽園球場)、6回表に宇田東植から左越ソロ ※史上17人目 1500本安打:1980年8月9日、対南海ホークス後期5回戦(川崎球場)、2回裏に村上之宏から中前安打 ※史上39人目 1500試合出場:1981年6月18日、対南海ホークス前期13回戦(大阪スタヂアム)、5番・三塁手で先発出場 ※史上67人目 1000得点:1982年4月18日、対阪急ブレーブス前期3回戦(川崎球場)、6回裏に宮本四郎から左越ソロ ※史上16人目 1000三振:1982年5月2日、対日本ハムファイターズ前期5回戦(川崎球場)、1回裏に間柴茂有から ※史上8人目 300本塁打:1982年5月8日、対日本ハムファイターズ前期8回戦(後楽園球場)、6回表に間柴茂有から左越ソロ ※史上14人目 3000塁打:1982年8月24日、対阪急ブレーブス後期4回戦(阪急西宮球場)、8回表に佐藤義則から中前安打 ※史上20人目 300二塁打:1984年8月25日、対近鉄バファローズ5回戦(川崎球場)、6回裏に橘健治から左翼線二塁打 ※史上26人目 1000打点:1985年4月20日、対南海ホークス1回戦(大阪スタヂアム)、3回表に藤本修二から左前適時打 ※史上18人目 2000本安打:1985年7月11日、対阪急ブレーブス15回戦(川崎球場)、6回裏に星野伸之から左翼線二塁打 ※史上20人目 2000試合出場:1985年10月17日、対近鉄バファローズ26回戦(藤井寺球場)、5番・指名打者で先発出場 ※史上22人目 シーズン111三振:1969年 ※パ・リーグ新人記録 入団以来8年連続20本塁打(1969年 - 1976年)※歴代4位 オールスターゲーム出場:13回 (1970年 - 1982年) フランチャイズ・プレイヤー:デビューから引退まで移籍なし ※また引退後も同じ球団で監督を務める 8 (1969年 - 1986年) 81 (1987年 - 1989年) 有藤 通世(1969年 - 1975年7月7日) 有藤 道世(1975年7月8日 - 1989年) TBSラジオ エキサイトベースボール(1990年 - 2017年) オールスター感謝祭
オールスター感謝祭'93超豪華!クイズ決定版この秋お待たせ特大号(1993年10月9日) オールスター感謝祭'94超豪華!クイズ決定版この春お待たせ特大号(1994年4月2日) オールスター感謝祭'94超豪華!クイズ決定版この秋お待たせ特大号(1994年10月1日) オールスター感謝祭'95超豪華!クイズ決定版この春お待たせ特大号 1995年4月1日 オールスター感謝祭'95超豪華!クイズ決定版この秋お待たせ特大号 1995年9月30日 オールスター感謝祭'96超豪華!クイズ決定版この春お待たせ特大号 1996年3月30日 オールスター感謝祭'96超豪華!クイズ決定版この秋お待たせ特大号 1996年10月5日 1997年3月29日 1997年10月4日 1998年3月28日 1999年3月27日 (2000年4月1日) BS12 プロ野球中継(2009年 - ) 断然 パ・リーグ主義!!(2011年) SAMURAI BASEBALL(1990年 - 2005年・2015年 - ) ロッテ電子工業「ホカロン」(1981年 - 1982年) - 1982年は落合博満と共演。 SunSet Swish「ありがとう」(2007年8月22日) - 村田兆治と共演。 ^ 同年は右翼手、1985年は左翼手が中心。1986年は三塁手に戻る。 ^ 「有藤さん、『ホカロン』は?」と聞かれると、有藤は「軽く振るだけですよ」と言う。その後、「じゃ、ホームランは?」と聞かれると有藤は再び「軽く振るだけですよ」と言うもの(CMの終盤に野球帽を被り、バットを持った雪だるま(※ロッテを除くパ・リーグの各球団を模したもの)が後ろに並ぶ)。 ^ 価格.com - 「有藤実花」に関連する情報 | テレビ紹介情報 ^ 「ミスターロッテ」有藤氏の思い受け継ぎ「有賀藤(ありがとう)」― スポニチ Sponichi Annex 野球 ^ “三井ゴールデングラブ賞 歴代受賞選手”. 2021年2月17日閲覧。 ^ ホークス一筋・藤原満さん聞き書き「ぶれない」④有藤と三遊間組みリーグ初V - 西日本スポーツ 2022年1月8日配信記事 ^ 有藤通世「我が道」(11) スポーツニッポン連載、2011年3月11日。 ^ 【70年代のプロ野球を語る】ロッテ・有藤通世「同じドラフト1位の野手には負けたくない。プロで長くやれたのもその気持ちがあったから」 | 野球コラム - 週刊ベースボールONLINE ^ 有藤通世「我が道」(19) スポーツニッポン連載、2011年3月19日。 ^ よみがえる1970年代のプロ野球 別冊ベースボール Part2 1975年編(ベースボール・マガジン社、2022年3月刊)p.60 ^ 【虎番疾風録(39)】仰天ロッテ山本監督決定 産経新聞、2018年10月10日 ^ 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.10 [1984年編] (週刊ベースボール別冊秋風号)、ベースボール・マガジン社、2020年、76-77頁 ^ 有藤通世(ロッテ) 1985年…:今昔「安打製造機」 2000安打 写真特集:時事ドットコム ^ 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.2 [1986年編] (週刊ベースボール別冊冬桜号)ベースボール・マガジン社、2019年、60頁 ^ 落合博満『野球人』ベースボールマガジン社、1998年、p.78 ^ 美樹リー『リー、思いっきり愛―不思議の国の四番バッター』河出書房新社、1989年 ^ テリー伊藤著、お笑いプロ野球殿堂 ダメ監督列伝、P171,光文社,2004年 ^ “村田兆治が逆ギレ…ノーサインなのに「何投げさせてるんだ!」理不尽を受け入れたロッテ名捕手が語る“落合博満が電撃トレード後”のチーム事情(岡野誠)”. 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堀内恒夫 山田久志 江夏豊 平松政次 東尾修 村田兆治 北別府学 佐々木主浩 高津臣吾 工藤公康 野茂英雄 山本昌広 岩瀬仁紀 黒田博樹 上原浩治 藤川球児 平野佳寿 山内一弘 榎本喜八 野村克也 長嶋茂雄 広瀬叔功 張本勲 王貞治 江藤慎一 土井正博 高木守道 松原誠 柴田勲 大杉勝男 藤田平 衣笠祥雄 福本豊 山崎裕之 山本浩二 有藤通世 若松勉 谷沢健一 加藤秀司 門田博光 大島康徳 新井宏昌 秋山幸二 駒田徳広 立浪和義 鈴木一朗(イチロー) 清原和博 古田敦也 野村謙二郎 石井琢朗 松井秀喜 田中幸雄 前田智徳 金本知憲 松井稼頭央 小笠原道大 稲葉篤紀 宮本慎也 小久保裕紀 アレックス・ラミレス 中村紀洋 谷繁元信 井口資仁 和田一浩 新井貴浩 福留孝介 荒木雅博 青木宣親 阿部慎之助 鳥谷敬 内川聖一 福浦和也 坂本勇人 栗山巧 大島洋平 表 話 編 歴 1952 与那嶺要 1953 川上哲治 1954 日比野武 1955 飯田徳治 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 豊田泰光 1959 寺田陽介 1960 金光秀憲 1961 宮本敏雄 1962 吉田義男 1963 城戸則文 1964 山内一弘 1965 森昌彦 1966 柴田勲 1967 森本潔 1968 D.スペンサー 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 王貞治 1973 末次民夫 1974 有藤通世 1975 大橋穣 1976 福本豊, 柴田勲 1977 張本勲 1978 島谷金二 1979 高橋慶彦 表 話 編 歴 1953 与那嶺要 1954 本多逸郎 1955 木塚忠助 1956 関口清治 1957 和田博実 1958 川上哲治 1959 岡本伊三美 1960 鈴木武 1961 中村稔 1962 張本勲 1963 広岡達朗 1964 小池兼司 1965 王貞治 1966 王貞治 1967 高倉照幸 1968 王貞治 1969 高田繁 1970 王貞治 1971 王貞治 1972 末次民夫 1973 王貞治 1974 有藤通世 1975 福本豊 1976 B.マルカーノ 1977 大熊忠義 1978 D.ヒルトン 1979 三村敏之 表 話 編 歴 1951 川上哲治, 野口明, 林義一 1952 飯島滋弥 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男 1954 中西太, 山内和弘 1955 山内和弘, 西沢道夫 1956 森下正夫, 吉田義男 1957 大下弘, 宮本敏雄 1958 宮本敏雄, 中西太 1959 山内和弘, 中利夫 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎 1962 ブルーム, 張本勲 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司 1969 土井正博, 船田和英 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三 1989 村田兆治, 彦野利勝 1990 R.ブライアント, 清原和博 1991 古田敦也, 広沢克己 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広 1993 清原和博, T.オマリー 1994 秋山幸二, G.ブラッグス 1995 落合博満, 松井秀喜 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲 1997 松井稼頭央, 清原和博 1998 川上憲伸, 松井秀喜 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋 2002 G.アリアス, 的山哲也 2003 高橋由伸, 金本知憲 2004 松坂大輔, SHINJO 2005 金城龍彦, 前田智徳 2006 青木宣親, 藤本敦士 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助 2008 山﨑武司, 荒木雅博 2009 青木宣親, 松中信彦 2010 阿部慎之助, 片岡易之 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼 2016 筒香嘉智, 大谷翔平 2017 内川聖一, A.デスパイネ 2018 森友哉, 源田壮亮 2019 森友哉, 近本光司 2020 (中止) 2021 菊池涼介, 島内宏明 2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐 2023 柳田悠岐, 万波中正 2024 牧秀悟,佐藤都志也 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 蔭山和夫 1952 中西太 1953 豊田泰光 1954 宅和本司 1955 榎本喜八 1956 稲尾和久 1957 木村保 1958 杉浦忠 1959 張本勲 1961 徳久利明 1962 尾崎行雄 1965 池永正明 1967 高橋善正 1969 有藤通世 1970 佐藤道郎 1971 皆川康夫 1972 加藤初 1973 新美敏 1974 三井雅晴 1975 山口高志 1976 藤田学 1977 佐藤義則 1978 村上之宏 1979 松沼博久 1980 木田勇 1981 石毛宏典 1982 大石大二郎 1983 二村忠美 1984 藤田浩雅 1985 熊野輝光 1986 清原和博 1987 阿波野秀幸 1988 森山良二 1989 酒井勉 1990 野茂英雄 1991 長谷川滋利 1992 高村祐 1993 杉山賢人 1994 渡辺秀一 1995 平井正史 1996 金子誠 1997 小坂誠 1998 小関竜也 1999 松坂大輔 2001 大久保勝信 2002 正田樹 2003 和田毅 2004 三瀬幸司 2005 久保康友 2006 八木智哉 2007 田中将大 2008 小松聖 2009 攝津正 2010 榊原諒 2011 牧田和久 2012 益田直也 2013 則本昂大 2014 石川歩 2015 有原航平 2016 高梨裕稔 2017 源田壮亮 2018 田中和基 2019 高橋礼 2020 平良海馬 2021 宮城大弥 2022 水上由伸 2023 山下舜平大 2024 武内夏暉 表 話 編 歴 1950 大下弘 1951 大下弘 1952 飯島滋弥 1953 岡本伊三美 1954 L.レインズ 1955 中西太 1956 豊田泰光 1957 山内和弘 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 榎本喜八 1961 張本勲 1962 ブルーム 1963 ブルーム 1964 広瀬叔功 1965 野村克也 1966 榎本喜八 1967 張本勲 1968 張本勲 1969 永淵洋三, 張本勲 1970 張本勲 1971 江藤慎一 1972 張本勲 1973 加藤秀司 1974 張本勲 1975 白仁天 1976 吉岡悟 1977 有藤道世 1978 佐々木恭介 1979 加藤英司 1980 L.リー 1981 落合博満 1982 落合博満 1983 落合博満 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 落合博満 1987 新井宏昌 1988 高沢秀昭 1989 ブーマー 1990 西村徳文 1991 平井光親 1992 佐々木誠 1993 辻発彦 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 イチロー 1998 イチロー 1999 イチロー 2000 イチロー 2001 福浦和也 2002 小笠原道大 2003 小笠原道大 2004 松中信彦 2005 和田一浩 2006 松中信彦 2007 稲葉篤紀 2008 リック 2009 鉄平 2010 西岡剛 2011 内川聖一 2012 角中勝也 2013 長谷川勇也 2014 糸井嘉男 2015 柳田悠岐 2016 角中勝也 2017 秋山翔吾 2018 柳田悠岐 2019 森友哉 2020 吉田正尚 2021 吉田正尚 2022 松本剛 2023 頓宮裕真 2024 近藤健介 表 話 編 歴 投 鈴木啓示 捕 岡村浩二 一 大杉勝男 二 山崎裕之 三 有藤通世 遊 阪本敏三 外 張本勲 / 長池徳二 / 永淵洋三 表 話 編 歴 投 木樽正明 捕 野村克也 一 大杉勝男 二 山崎裕之 三 有藤通世 遊 阪本敏三 外 張本勲 / 長池徳二 / G.アルトマン 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 野村克也 一 大杉勝男 二 山崎裕之 三 有藤通世 遊 阪本敏三 外 長池徳二 / G.アルトマン / 門田博光 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 野村克也 一 大杉勝男 二 基満男 三 有藤通世 遊 大橋穣 外 長池徳二 / 張本勲 / 福本豊 表 話 編 歴 投 成田文男 捕 野村克也 一 加藤秀司 二 桜井輝秀 三 有藤通世 遊 大橋穣 外 長池徳二 / 張本勲 / 福本豊 表 話 編 歴 投 金田留広 捕 村上公康 一 C.ジョーンズ 二 山崎裕之 三 有藤通世 遊 大橋穣 外 張本勲 / 福本豊 / D.ビュフォード 表 話 編 歴 投 鈴木啓示 捕 野村克也 一 加藤秀司 二 B.マルカーノ 三 有藤道世 遊 大橋穣 外 佐々木恭介 / 白仁天 / 弘田澄男 指 長池徳二 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 加藤俊夫 一 加藤秀司 二 B.マルカーノ 三 有藤道世 遊 石渡茂 外 門田博光 / 福本豊 / L.リー 指 高井保弘 表 話 編 歴 投 木田勇 捕 梨田昌崇 一 レオン.L 二 山崎裕之 三 有藤道世 遊 高代延博 外 福本豊 / 栗橋茂 / L.リー 指 C.マニエル 表 話 編 歴 投 村田兆治 捕 梨田昌崇 一 柏原純一 二 落合博満 三 有藤道世 遊 石毛宏典 外 福本豊 / 島田誠 / テリー.W 指 門田博光 表 話 編 歴 1972 有藤通世 1973 有藤通世 1974 有藤通世 1975 有藤道世 1976 藤原満 1977 島谷金二 1978 島谷金二 1979 島谷金二 1980 羽田耕一 1981 藤原満 1982 古屋英夫 1983 古屋英夫 1984 松永浩美 1985 古屋英夫 1986 古屋英夫 1987 石毛宏典 1988 石毛宏典 1989 松永浩美 1990 松永浩美 1991 石毛宏典 1992 石毛宏典 1993 石毛宏典 1994 松永浩美 1995 馬場敏史 1996 馬場敏史 1997 片岡篤史 1998 片岡篤史 1999 中村紀洋 2000 中村紀洋 2001 中村紀洋 2002 中村紀洋 2003 小笠原道大 2004 中村紀洋 2005 今江敏晃 2006 今江敏晃 2007 今江敏晃 2008 今江敏晃 2009 小谷野栄一 2010 小谷野栄一 2011 松田宣浩 2012 小谷野栄一 2013 松田宣浩 2014 松田宣浩 2015 松田宣浩 2016 松田宣浩 2017 松田宣浩 2018 松田宣浩 2019 松田宣浩 2020 鈴木大地 2021 宗佑磨 2022 宗佑磨 2023 宗佑磨 2024 栗原陵矢 表 話 編 歴 1位:有藤通世 2位:広瀬宰 3位:池田信夫(入団拒否) 4位:土肥健二 5位:八塚幸三(入団拒否) 6位:山口円(入団拒否) 7位:佐藤敬次 8位:三浦健二(入団拒否) 9位:飯島秀雄 10位:安藤峰雄 11位:藤田康夫(入団拒否) 12位:舞野健司 13位:市原明 14位:飯塚佳寛 日本の野球監督 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の監督 日本の野球選手 近畿大学体育会硬式野球部の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 パシフィック・リーグ最優秀新人 (NPB) 首位打者 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 NPBオールスターゲームMVP 野球解説者 名球会 高知高等学校出身の野球選手 高知県出身のスポーツ選手 1946年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2025/01/25 12:44更新
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aritou michiyo
有藤通世と同じ誕生日12月17日生まれ、同じ高知出身の人
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