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谷村新司と関係のある人
城南海: いい日旅立ち(作詞・作曲:谷村新司/編曲:荒幡亮平)(山口百恵のカバー) 青木望: 陽はまた昇る (1979年、谷村新司) 吉田涙子: その後も入社当初は先輩アナの竹内靖夫や伊東四朗がパーソナリティをしていた番組でアシスタントを務めていたが、その後俳優の地井武男、歌手の谷村新司など大物芸能人の出演番組のアシスタントを務めるようになる。 千葉真一: もともとはアントニオ猪木・池谷幸雄・石田純一・市川亀治郎・今井雅之・内野聖陽・梅宮辰夫・岡崎二朗・ガッツ石松・川地民夫・神取忍・樹木希林・北の湖敏満・京本政樹・具志堅用高・郷田勇三・小林幸子・コロッケ・高橋英樹・竹本直一・田中好子・谷村新司・津川雅彦・十朱幸代・夏八木勲・白竜・張本勲・布施明・風吹ジュン・松井章圭・松坂慶子・美川憲一・三田佳子・やまさき十三・山本 羽田健太郎: 谷村新司 高田みづえ: 作詞・作曲:谷村新司/編曲:梅垣達志 高田みづえ: 作詞・作曲:谷村新司/編曲:梅垣達志 谷村詩織: “速報 谷村新司「支援公演」に変更”. トニーヒロタ: 谷村新司 藤岡和賀夫: 作詞・作曲は谷村新司。 渡嘉敷祐一: 谷村新司 ダンシング谷村: 自身の物真似のレパートリーであり芸名の元となっている谷村新司とは、2000年に東京都内のホテルである企業の営業ステージに出演した後に偶然会っている。 武田鉄矢: 谷村新司と並ぶニューミュージック界の二大ビニ本マニアとして知られ、『3年B組金八先生』第2シリーズの収録終了時に、卒業記念として男子生徒役の役者に自分のコレクションをプレゼントしていたが、直江喜一と沖田浩之は当時既に18歳だったため、「お前ら二人は自分で買え」とのことで武田のコレクションは貰えなかった。 山寺宏一: 谷村新司 オユンナ: 1991年11月 「アジアミュージックシーンIN香港」にサリーイエン、アンディーラウ、谷村新司等と香港スタジアムで共演。 杉並児童合唱団: 「夢人~ユメジン~」:谷村新司、杉並児童合唱団 谷村仁司: 谷村新司 小田原豊: 谷村新司 レッツゴーよしまさ: 谷村新司 湯川れい子: Friends・Love・Believing~ぬくもりをありがとう(ヴォーカル:EPO、大友康平、大橋純子、サーカス、財津和夫、さだまさし、佐藤竹善、THE ALFEE、竹内まりや、谷村新司、中村耕一、松崎しげる、マリーン、南こうせつ、森山良子、山下達郎、ル・クプル、渡辺真知子) 堀内孝雄: 1971年12月25日に谷村新司と堀内孝雄が大阪市南区南炭屋町(現:中央区西心斎橋二丁目)にあるビジネスホテル・大阪帝国ホテルの一室にて、矢沢透が合流することを前提に「アリス」を結成。 大友直人: ポピュラー・ミュージシャンでは加山雄三、JUJU、谷村新司、玉置浩二、藤井フミヤなどと共演している。 林明日香: 各界の著名人からの評価は高く「機関車先生」の作者・シングル「SANCTUARY 〜夢の島へ〜」作詞の伊集院静に「命の歌を歌っている」、シングル「蓮花」の作詞・作曲の谷村新司に「心に響く歌を歌う歌手」と評価を受ける。 瀬尾一三: 谷村新司 玉井タエ: 作詞・作曲:谷村新司 菅沼孝三: 谷村新司のレギュラードラマー。 岩本恭生: 谷村新司 渡辺美里: 3月11日、東京国際フォーラム・ホールCで行われた谷村新司のコンサート「ココロの学校」に、ココロの先生として出演。 妹尾武: 谷村新司、細坪基佳、Lyrico、三浦大知、藤原道山、今井美樹、Fried Pride、Baby Boo、 松井愛: アリスが阪神・淡路大震災(1995年1月17日発災)の犠牲者を追悼する目的で6年後(2001年)の同日に神戸国際会館で開催した「ALICE IN KOBE 2001.1.17」(1081年の活動休止・1987年の「再始動」を経て活動を再び休止していたアリスが「2度目の再始動」を遂げたコンサート)に関する1時間の特別番組で、メンバーの谷村新司・堀内孝雄・矢沢透に対するインタビューを担当。 |
谷村新司
谷村 新司(たにむら しんじ)さんの誕生日は1948年12月11日です。大阪出身のシンガー ソングライターのようです。
人物・エピソード、NHK紅白歌合戦出場歴などについてまとめました。卒業、母親、現在、結婚、映画、テレビ、家族に関する情報もありますね。去年の情報もありました。74歳で亡くなられているようです。
谷村 新司(たにむら しんじ、1948年〈昭和23年〉12月11日 - 2023年〈令和5年〉10月8日)は、日本のシンガーソングライター、タレント、作詞家、作曲家、大学教授。アリスのリーダー。大阪府大阪市住之江区(当時は住吉区)の出身で、同南河内郡長野町(現・河内長野市)生まれの同大阪市東住吉区桑津育ち。愛称はチンペイ。 血液型はAB型(ABO)。3人兄姉の次男(兄1人、姉1人)。娘は歌手の谷村詩織。 両親が第二次世界大戦の最中に大阪府南河内郡長野町(現・河内長野市)の長野温泉で親族が営んでいた旅館に疎開していたことから、大戦後の1948年に同町内で出生。3歳まで生活した後に、大阪市東住吉区へ転居した。 大阪市立桑津小学校、大阪市立東住吉中学校、大阪府立大和川高等学校(現:大阪府教育センター附属高等学校)卒業。桃山学院大学中退。 少年時代は肥満体型で、「ブタ」と渾名されコンプレックスを感じていた。母親は長唄の三味線を、姉は6歳から地唄舞をずっと続けていた。谷村自身、歌を褒められることが多く、歌うこと自体は好きであったというが、かといって音楽の授業が好きなわけでもなかった。本人によれば、特に音楽に関心は無かったが、女にモテるためにはバンドを組んでリーダーをやらなければと思い、高校1年生の時にギターを購入して練習を始めたという。 高校在学中に同級生の山本峰幸と、友人のガールフレンドの妹で声楽をやっていた3歳年下の島津ちづ子の3人でバンド「ロック・キャンディーズ」を結成する。谷村が19歳のときに森の宮の厚生年金ホールで初めてのコンサートを行う。1967年4月に桃山学院大学に入学し、ゴルフ部に入るが、ロック・キャンディーズの活動が忙しくなってきたことなどからゴルフは1年で辞める。 ロック・キャンディーズは大阪と神戸で絶大な人気を誇り、神戸のアマチュア・バンド・サークル「ポート・ジュビリー」の看板グループとなった。1968年9月、シングル『どこかに幸せが』で東芝レコードよりデビュー。1971年には唯一のアルバム『讃美歌』を発表している。 1970年、大阪万博の会場で、後にアリスの所属事務所「ヤングジャパン」社長となる細川健と知り合う。細川の音頭取りで実行したアメリカ・コンサート・ツアーで「ロック・キャンディーズ」や「ザ・フォーク・クルセダーズ」らと共に参加していたソウル・バンド「ブラウン・ライス」のドラマー矢沢透と知り合い意気投合。帰国したら一緒にグループを組もうと約束する。このとき谷村の頭の中には、新グループ「アリス」の構想ができつつあった。このアメリカ・ツアー中にレッド・ツェッペリンのステージを観る機会があり、ジミー・ペイジの独特のギター・プレイに圧倒されたという。同じく訪米中にジャニス・ジョプリンのライブを観る機会にも恵まれ、「当時彼女の生演奏に触れることのできた数少ない日本人として幸運」と谷村本人が語っている。 帰国した谷村は、アマチュア・ロック・バンド「フーリッシュ・ブラザーズ・フット」のボーカル堀内孝雄をアリスに勧誘。堀内は「ポート・ジュビリー」で、既に谷村とは知り合いだった。 1971年12月25日、谷村、堀内の2名で「アリス」結成。桑名正博の実家の蔵で練習を重ねる。 1972年3月5日、シングル『走っておいで恋人よ』でデビュー。同年5月5日、矢沢が正式に合流し、現在のアリスとなった。2ギター&ボーカル、1パーカッションという特異な編成とブルース色の強い演奏については、リッチー・ヘブンスの影響を少なからず受けているとのことである。 デビュー当初はヒット曲もなく、鳴かず飛ばずであった。1000人収容のホールに20人しか入らず舞台の上でお客と車座になって歌ったこともあるほど。所属事務所ヤングジャパンは、何とか打開策を見出そうと、ソウルミュージックの帝王ジェームス・ブラウンを初来日させるが、当時の日本ではマイナーなアーティストだったこともあって、来日公演は不入り。逆の意味で“伝説のライブ”となり、ヤングジャパンは、莫大な借金を背負った。 この際、2700人を収容できる大阪のフェスティバルホールに観客が約200人しか集まらなかった。ライブを盛り上げるため観客席でスタッフらと共に歓声を上げていた谷村は、ジェームス・ブラウンのライブでは恒例のマントショーの最中、舞台袖にいた舞台監督に「もうだめだ、やりたくない」と両手でⅹサインを出しているジェームス・ブラウンの姿が見えたという。 借金返済のためグアムへのクルージング・ツアーを企画するが、これもまた成功には至らず借金をこじらせる結果となる。挙句は帰国途中に谷村が当事者となったコレラ騒動までもが起こった(後にコレラでないと判明するまで船底に一時隔離されていた)。谷村の著書での回想によれば当時人気絶頂だったガロが同行したがスケジュールの都合で途中で帰国。困った谷村達は懸命にアリスで盛り上げようとした。 アリスは、地道なライブ活動(1974年には年間303ステージという記録が残っている)と1975年の『今はもうだれも』のヒットを契機に、『冬の稲妻』、『涙の誓い』、『ジョニーの子守唄』、『チャンピオン』、『狂った果実』等のヒット曲を連発する。 アリスの活動と並行して、ソロ活動も開始。コンサート活動はなかった(アダモとのジョイント・コンサートを除く)ものの、1975年のアルバム『蜩(ひぐらし)』を皮切りに、ソロ名義でのアルバムやシングル制作、他の歌手への楽曲提供を精力的に行う。 1977年、ブティック店員であった妻・孝子と結婚。妻はのちに谷村の個人事務所社長となり、マネジメント業務全般を任されることになる。 1978年、山口百恵に提供した山口24枚目シングル『いい日旅立ち』は、チャート最高位3位、100万枚の売上を記録し、山口のシングル歴代全作品の中では、首位の『横須賀ストーリー』に次ぐ2番目のセールス数を記録した。同曲は2006年、文化庁と日本PTA全国協議会選定の『日本の歌百選』にも選出された。 だが借金返済のため、がむしゃらに活動していたことが祟り、同年過労で緊急入院。メニエール病を発症する。3ヶ月の療養ののち復帰し、8月末には『アリス武道館ライヴ '78~栄光への脱出~ 』を成功させた。同公演は日本人アーティストとして初めての3日間公演として、一時代を築いた。 アリスとは異なる壮大なスケールを背負った歌謡曲は、1979年のファーストソロシングル『陽はまた昇る』を経て、1980年の2ndシングル『昴 -すばる-』で一定の完成をみる。『昴』は、累計売上67.6万枚・オリコン週間ランキング最高2位を記録し、ソロ最大のヒット曲となった。1981年にはシングル『群青』が東宝映画『連合艦隊』の主題歌となる。 同年8月23日、北京・工人体育館にて日中共同コンサート『ハンド・イン・ハンド北京』開催。中国におけるロック・ポップス系コンサートとしては、前年10月23日・24日に工人文化宮で開催された『第一回中日友好音楽祭』に出演したゴダイゴに次ぐものだが、単独公演としてはアリスが初めてであった。 同年11月、アリス活動停止。 1982年、シングル『スーパースター-MY SUPERSTAR-』、アルバム『JADE-翡翠-』をリリースして、本格的にソロ活動をスタート。1983年の『EMBLEM』、1984年の『抱擁』『刺-とげ-』など、1980年代は年に1-2枚のハイペースでアルバムを発表。いずれもアルバム毎に明確なコンセプトをもった意欲作である。またその間1983年の『22歳』や、翌1984年も小川知子とのデュエット曲『忘れていいの-愛の幕切れ-』のシングル曲をそれぞれヒットさせている。 毎年のコンサート・ツアーとは別に、さだまさし、北島三郎、郷ひろみらとジョイント・コンサートも実施。1983年からはニューミュージック系アーティストでは初のディナーショーもスタート。また親友である チョー・ヨンピル、アラン・タムと共に、アジアのミュージシャンを集めたイベント『PAX MUSICA』をスタート。1984年の後楽園球場での公演を皮切りに、年に1回アジア各地で開催され、現在も続いている。ちなみに1985年、映画『サンダーアーム/龍兄虎弟』撮影中に瀕死の重傷を負ったジャッキー・チェンが、復活した姿を初めて聴衆の前に現したのも、香港コロシアムでのPAX MUSICA公演のステージ上であった。 1986年、完成したばかりの東京・青山劇場で1ヶ月のロングラン・リサイタル『CORAZON』を開催。この青山劇場公演は年末の恒例行事となり、2002年の『LA STRADA VI -宝石心-』まで続いた。 1987年、アリスとしての活動を再開。シングル『BURAI』、アルバム『ALICE X』をリリースし健在をアピール。ただし、この時はコンサート・ツアーは行わず、数本のテレビ番組出演をするにとどまった。その後アリスは再び長い活動休止期間に入る。 1988年、ロンドン交響楽団と共演した大作アルバム『獅子と薔薇』を発表。1989年の『輪舞-ロンド-』(国立パリ・オペラ・オーケストラと共演)、1990年の『Price of Love』(ウィーン交響楽団プロジェクトと共演)と合わせ、「ヨーロッパ三部作」を完成させる。1995年のアルバム『I・T・A・N』ではプロデューサーにフィル・ラモーンとジャック・エリオットを起用するなど、80年代後半から90年代前半にかけては欧米のミュージシャン、プロデューサーとの仕事が多かった。 1989年12月、父・新蔵が死去。『第40回NHK紅白歌合戦』で『陽はまた昇る』を追悼曲として歌唱。 1992年11月16日、加山雄三と連名でシングル『サライ』を発表。日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のテーマソングとして使用され、現在でも番組を代表する曲として歌い継がれている。 1993年1月、NHK大河ドラマ『琉球の風』主題歌である『 階(きざはし)』をリリース。同年、阿久悠作詞・谷村作曲『今ありて』が、同年第65回センバツ高校野球大会より、3代目大会歌として起用された。 1996年、世界初の商業用DVDソフトであるライブDVD『シンジ ラ ムニタ』を発表。このことは、2008年9月3日に放送されたテレビ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』の水曜コーナー『クイズ!メイクダウト』でも取り上げられた。 1997年、フジテレビ系列『ボキャブラ天国』シリーズにてタモリが司会の座を退いたことから、谷村がヒロミと共に、新MCに就任。『新ボキャブラ天国』、『黄金ボキャブラ天国』、『家族そろってボキャブラ天国』の3シリーズ・1年半にわたり活動。当時はバラエティ番組の司会として活躍していた。 1999年、テレビアニメ『∀ガンダム』エンディングテーマである『AURA』をリリース。谷村は1981年に『機動戦士ガンダム』劇場3部作第1部のテーマソングであった、やしきたかじんによる『砂の十字架』の作詞作曲を手がけていたこともあり、谷村の死去の際は、多くのガンダムファンからもその死を悼まれた。 2000年、インディーズ・レーベルmama's & papa'sを立ち上げた。リリースしたシングルは『ハーヴェスト』1曲のみであった。 同年末の『第51回NHK紅白歌合戦』でアリスの活動を再開。2001年、1月17日の神戸国際会館でのコンサートを皮切りに、14年ぶりのアルバム『ALICE 0001』のリリース、全国ツアーと活躍。 2002年、アルバム『半空 NAKAZORA』を発表。坂崎幸之助や鈴木康博といった旧友に混じって、元MR. BIGのギタリストポール・ギルバートが参加。 2004年、帯状疱疹を発症する。「(発症は)何かのサインである」との直感から、人生をリセットし、ステップアップするために5年間、様々なテーマについて独学で学び続けた。また、不可思議で強烈なインスピレーション体験から書き下ろされた『昴』の歌詞・メロディなどの謎を紐解くため、次第に独自の形而上学的思索にも没頭してゆく。 2005年、日本国際博覧会「愛・地球博」NHKテーマソング『ココロツタエ』を作詞・作曲。歌:夏川りみ。 2005年、『第56回NHK紅白歌合戦』に、アリスとして2度目の出場を果たす。 2006年、avex ioに移籍、6年ぶりのシングル『風の暦』をリリース。同年より寺社仏閣を会場としたライブイベント『ネイチャーライブ』を開始。 2007年3月、生涯学習カルチャープログラム、トーク&ライブキャラバン『ココロの学校』をスタート。以降同プロジェクトをライフワークとしていた。 2007年4月18日、『半空 NAKAZORA』以来5年ぶりのオリジナル・アルバム『オリオン13』を発売。NHKの番組『にっぽん 心の仏像』に出演した。番組のテーマ曲は本人の歌『カノン』。『オリオン13』に収録されてある『ココロツタエ』には作曲・編曲共千住明によるソロバージョン。 2007年7月8日、平城遷都1300年記念祭テーマソング『ムジカ』(歌・作詞・作曲=谷村新司) 2007年9月19日、『夢人〜ユメジン〜』のシングルをリリース。 2008年3月19日、選抜高等学校野球大会の大会歌『今ありて』のシングルをリリース。 2008年12月10日、『十三夜/マカリイ』のシングルをリリース。『マカリイ』は、『昴』の曲に対するアンサーソング。 2012年2月18日、『風の子守唄〜あしたの君へ〜』のシングルをリリース。『メシアふたたび』(阪神・淡路大震災)に次ぐ東日本大震災で2作品目となる支援団体への印税全額寄贈物。 2017年、母校桃山学院大学にて、同校日本人初の名誉博士学位を授与。 2021年2月、コロナ禍に伴い、公式動画『タニムラテレビ(タニテレ)』の配信を開始。 2023年3月、急性腸炎のため入院。6月よりアリスの全国ツアーを控えていたが、ドクターストップにより中止。6月、予定していた公演もすべて中止を決断し、療養に専念すると発表。 復帰に向けて療養を続けていたが、同年10月8日に死去。74歳没(享年75)。葬儀は15日に近親者のみで営まれ、死去は16日に公表された。戒名は「天昴院音薫法樂日新居士」(てんぼういんおんくんほうらくにっしんこじ)。12月11日には、1983年に初めてディナーショーを開催したグランドプリンスホテル新高輪にてお別れの会が執り行われ、各著名人やファンらおよそ2000人が駆けつけた。 人物・エピソード愛称のチンペイは野末陳平と顔が似ているからとも、シンジ→チンジ→チンペイと変化したからとも言われている。谷村本人によれば、高校時代から下ネタを話すのが好きで、それを周りが当時ラジオ番組で下ネタを話していた野末になぞらえたことで、気がつくとこの愛称になっていたと語っている。 南ベトナムのグエン・カオ・キ元副大統領に顔が似ているとしても知られている。顔の2大特徴のうち、後退気味の額は初期アリス時代からで当時は、キャップを被ることが多かった。さだまさしは、自身と谷村と松山千春を「フォーク界御三毛(ごさんけ)」と呼んだことがある。 トレードマークの口髭は1980年代に入ってから蓄えている。 『セイ!ヤング』は最初ピンで、のちにばんばひろふみの共演で火曜日を担当していたがピン時代からの名物コーナー「天才・秀才・バカ」は現在のテレビでは放送不可能な下ネタのオンパレードで、これが元で現在でも「谷村=スケベ」というイメージで見られている。また当時の女優鳥居恵子との噂がリスナーの中で広がったが、本人は「自分が一方的にファンなだけ。鳥居さんには迷惑なこと」と完全否定した。しかし数年後実は付き合っていたと告白した。谷村の浮いた噂は後にも先にもこれ一つである。 1980年代まではビニ本の収集家でもあり、一説には5000冊ものコレクションを保有していたという。上京したばかりの頃、在京の友人に新宿・歌舞伎町のビニ本屋に連れて行かれたところ、その店の店長と意気投合し、いつの間にか店番を任されるまでになったほどで、店の不良在庫を引き取ったりしているうちに数が増えていった。アリスの日本武道館ライブ終了後にも、いつものようにその店に行き店番をしていたところライブに来ていたファンが来店し、店番をしていた谷村と遭遇して「僕たちの感動を返してください!」と激昂されたというエピソードもある(ちなみに谷村は「これも一つのハンド・イン・ハンドや」と切り返したとのこと)。ある時、あまりにも増えたコレクションの扱いに困った谷村は、200冊ほどをジャパン・アクション・クラブ(JAC)の合宿所に寄贈したところ、当時JAC所属だった真田広之らから大変感謝されたという。 175R、GACKT、TRICERATOPS、ゆず、水樹奈々ら若手アーティストとも積極的に交流を行っていた。また、デーモン閣下が谷村のコンサートにゲスト出演したこともある。ちなみにデーモン閣下とは、歌舞伎町のとある風俗店に谷村が通い詰めていた際に、聖飢魔IIのデビュー前である(世を忍ぶ仮の姿の)閣下がその風俗店の受付をしていたというつながりもある。また、1993年のコンサート『THE MAN』のバックバンドの中には、元爆風スランプのベーシスト江川ほーじんがいた。 アメリカのロックバンドのザ・ベンチャーズとは、プライベートでも交流がある。 曹洞宗の檀家でもある。2007年5月15日、16日にはさいたまスーパーアリーナで開かれた、梅花流創立55周年記念奉讃大会の清興に出演。 2009年、2010年には社会を明るくする運動の広報ポスターに写っている。 仕事を休業する決意をした矢先に上海からの誘いがあり、仕事を受けたとライブMCで述べた。 2001年の『第52回NHK紅白歌合戦』出演時、本番中舞台袖の布をカーテンとしたスペースで着替えをしていた紅組司会の有働由美子(当時NHKアナウンサー)に対し、「うどちゃん頑張ってね」と布をめくって着替えを覗いた。着替えに集中していた有働は「ありがとうございます」と普通に返したが、その時はTバックの下着以外一糸纏わぬ姿だったという。 2017年、68歳で自動車の運転免許を取得した。 JRのテーマソングに携わることも多く、東海道・山陽新幹線の車内チャイムにも使われている『いい日旅立ち』、1992年よりJR西日本のキャンペーンCMにて使用され、関西エリアにて高い人気を誇る『三都物語』、2015年に開業した北陸新幹線金沢PRソングであり、北陸新幹線と特急サンダーバードの車内チャイムとして使用される『北陸ロマン』などは特に親しまれている。 帯状疱疹を患った2年後の57歳の頃、インターネットであらためて昴(プレアデス星団)について検索していたところ、「プレアデスからのメッセージ」という珍奇なホームページがヒットし、アクセスすると莫大なテキストが羅列されたページの最下部に、「我々からのメッセージは全てこの歌詞に込められています」という文言が記されていた。そこには谷村の『昴』の歌詞が掲載されており、谷村は思わず鳥肌を立てた。だが翌朝、ブックマークしたはずの同サイトはサーバーごと全削除されており、二度とアクセスすることは出来なくなったという神秘体験を経験している。その2年後、プレアデス星団からの「これからダイレクトですよ」という謎の問いかけをきっかけに、谷村はプレアデス星団と自由に交信していたという。 いわゆる詞先・曲先と言われるシンガーソングライターの楽曲制作法において、歌詞とメロディが同時に降りる珍しいタイプのアーティストであった。また、それと同時に閃く原風景のイメージもあったという 1981年にアリスが参画した「ハンド・イン・ハンド北京」公演は、李力や王勇ら多くの若手中国人ミュージシャンに影響を与え、中国にポップスが根付く礎となった。また、同年ソロになった谷村が、本格的にアジアに目を向けた活動を始めるきっかけにもなった。 それ以来谷村は、同国と親睦を深め、『昴』『花』『浪漫鉄道』などおよそ50曲が、テレサ・テン、レスリー・チャン、張学友らにより中国語カバー化したことで、有名曲となっている。なかでも『昴』について、駐日大使の呉江浩は「中国で日本語のできる人口は105万人です。この105万人のうち、『昴』が歌えない人はほとんどいません。また『昴』の中国語版は日本語のできない人でも歌えます。絶大な影響力。」と発言している。 2003年には中国国内にて大流行した伝染病・SARS撲滅支援コンサートを催し、収益の一部を寄贈した。 2004年には、上海音楽学院から招聘され、日本人初の同校音楽工程学科名誉教授および中日音楽文化研究センター顧問を兼任し、人材育成に携わった。就任当時は「かみ合わない部分が多い」と煩悶しながらも、「頑張ります。音楽で両国民をつなげていくんだ」と呉に語っていた。同年には、中国人歌手・毛寧のアルバム『我』のプロデュースにも携わった。 2007年には、当時中国国務院総理の温家宝の訪日に伴い、安倍晋三(当時内閣総理大臣)主催の歓迎会にて「昴」を披露した。この時の状況について呉は「終わった時に、みんな魅了されて、拍手を忘れて、本当に静かに感じました」と語っている。同年、南京芸術学院の名誉客員教授に就任。 2010年4月30日には、上海国際博覧会開幕式にて『昴』を披露した。国内外から訪れた著名歌手・芸術団体のなかで、谷村のステージは中国国民から特に高い賞賛を浴びた。 2023年12月、谷村の急逝に伴い催されたお別れの会には、中国外相の王毅からも哀悼の意が送られた。 NHK紅白歌合戦出場歴ソロとして通算16回出場し、白組トリおよび大トリを一度務めている。この他にも、2000年、2005年、2009年はアリスとして出場している。 2024/05/26 09:16更新
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tanimura shinji
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