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郷ひろみと関係のある人
酒井和歌子: 1974年にはドラマ『ちょっとしあわせ』で郷ひろみ、高沢順子らと共演した。 西城秀樹: 西城の訃報を受け、「新御三家」としてライバルでもあり戦友でもあった郷ひろみと野口五郎を始め、数多くの著名人が追悼コメントを発した。 神田広美: 郷ひろみ 内田有紀: 丸八真綿「ファーベット」(2000年、郷ひろみと共演) 松井五郎: 郷ひろみ・松田聖子 是永巧一: 郷ひろみ 加覧愛: パーティーでは郷ひろみ、つんく♂、矢口真里らから歌のプレゼントを受けた。 えんどぅ: 郷ひろみ 「君だけを feat.童子-T」PV・TV・LIVE出演、「男願 Groove!」TV・LIVE・第61回NHK紅白歌合戦(2010年)出演。 野村涼子: 郷ひろみ 沖仁: セラニート、マヌエル・アグヘータ、ドローレス・アグヘータ、アルベルト・ロペス、ハビエル・コンデ、ドミンゴ・オルテガ、グリーシャ、河村隆一、玉置浩二、福田進一、渡辺香津美、coba、梁邦彦、葉加瀬太郎、郷ひろみ、押尾コータロー、タモリ、上妻宏光、小松亮太、近藤真彦、福山雅治、東山紀之、吉井和哉、大貫妙子、平原綾香、宮本笑里、NEWS、石丸幹二、NAOTO、木村大、大萩康司、村治佳織、槇原敬之、MIYAVI、jazztronik、德永英明他多数。 若子内悦郎: 郷ひろみ、谷村新司、浜田省吾、CHAGE and ASKA、吉田拓郎、松田聖子、KinKi Kids等、多くのアーティストのレコーディングやコンサートのサポートを行なってきた。 網倉一也: 郷ひろみ 樹木希林: お化けのロック(1977年、TBS「ムー」劇中歌、郷ひろみとのデュエット) 黒須洋壬: GOLDFINGER '99(1999年、郷ひろみ) かとうれいこ: ※南佳孝の自作曲(1979年発表、作詞は来生えつこ)を1980年の郷ひろみに次いでカバー。 穂口雄右: 郷ひろみ・樹木希林 ナンシー関: 小学生時代は「8時だョ!全員集合」のザ・ドリフターズとアイドルの郷ひろみの熱心なファンであった。 松井玲奈: 2013年(平成25年)3月23日、郷ひろみとCM「ジャーマンクレイフェイスソープ」のPRで『GirlsAward 2013 SPRING/SUMMER』に登場した。 谷山衣枝: 郷ひろみのファン。 栗田貫一: 所ジョージや郷ひろみ、桑田佳祐、細川たかし、松山千春などのモノマネを披露した。 藤原紀香: 司会は徳光和夫が務め、乾杯の音頭に宇津井健、その後は郷ひろみの歌のプレゼント、舘ひろしからの祝辞、たむらけんじの「乱入」等で盛り上げた。 安井かずみ: 以降も伊東ゆかり「恋のしずく」、小柳ルミ子の「わたしの城下町」、沢田研二の「危険なふたり」「追憶」、郷ひろみ「よろしく哀愁」 など数多くのヒット曲を送り出し、多くの賞を受賞した。 安藤まさひろ: バラードで泣かせて - 郷ひろみ 作曲(作詞:売野雅勇/編曲:大村雅朗) 谷村新司: 毎年のコンサート・ツアーとは別に、さだまさし、北島三郎、郷ひろみらとジョイント・コンサートも実施。 疋田拓: 郷ひろみの宴ターテイメント(総合プロデューサー・演出) 萩原朔美: 出演:フォーリーブス・郷ひろみ、監修:ジャニー喜多川 酒井一圭: 入場曲は郷ひろみの「GOLDFINGER '99」。 堀川とんこう: あこがれ共同体(1975年、郷ひろみ、西城秀樹、桜田淳子、森本レオほか)- ディレクター 坂本英三: 70年代、80年代のヘヴィメタル・ハードロックだけでなく昭和歌謡にもかなりの愛着を持っており、特に郷ひろみはソロプロジェクトなどで時折カヴァーするなど、深く心酔している。 榊原郁恵: 郷ひろみのファンで、芸能界入りする前はファンクラブにも入り、郷の自宅やコンサートにも行った経験がある。 |
郷ひろみ
郷 ひろみ(ごう ひろみ)さんの誕生日は1955年10月18日です。福岡出身の歌手のようです。
逸話、デビュー〜アイドル全盛期、社会貢献活動などについてまとめました。父親、卒業、母親、家族、映画、現在、テレビ、事件、結婚、離婚に関する情報もありますね。去年の情報もありました。亡くなられているようです。
郷 ひろみ(ごう ひろみ、1955年〈昭和30年〉10月18日 - )は、日本の歌手、俳優、タレント、実業家、アイドル。新御三家の1人。本名は原武 裕美(はらたけ ひろみ)。福岡県出身。所属芸能事務所はバーニングプロダクション。所属レコード会社はソニー・ミュージックレーベルズ、レーベルは同社の社内レーベルであるSony Records。男性ソロアーティストとして歴代4位のCDシングルセールスを誇る。血液型A型、身長176 cm。 「裕美」という名前は祖父が付け、「心が"美しく"、いろんな意味で"裕福"になるように」という意味が込められている。 父英夫(1929〜2015)は福岡県三潴郡三潴町(現・久留米市)出身、母聖子(1933〜)は福岡県糟屋郡志免町出身。 父は海軍飛行予科練習生(予科練) 生後まもなくジフテリアにかかり、3歳で赤痢、15歳で腹膜炎の一歩手前の状態で盲腸の手術を受けるなど、何度となく病にかかっていた。 子供の頃、福岡の家は牛や馬、鶏などの家畜がいる農家の住まいだった。 旧・国鉄職員の父親の転勤で、4歳の時に福岡から上京し、1962年3月、東京都大田区の仲六郷幼稚園卒園。1966年、小学5年の1学期のみ、福岡県糟屋郡の須恵町立須恵第二小学校へ転校。 転校した理由は、祖母が病気になり、「寂しくて仕方ないからひろみを貸してくれ」と頼まれた為。 京浜東北線の大井町駅に隣接する当時の国鉄大井工場敷地内に建つ社宅へ転居する。その後、父親は山手線の新橋駅・同東京駅・南武線の尻手駅の助役として勤務した後、定年退職した。 1968年3月、品川区立山中小学校卒業。 1971年3月、品川区立伊藤中学校卒業。 野球選手になるのが夢で、中学生時代には友人と野球チーム「ハーキュリーズ (Hercules)」を作っていた。 1971年4月、世田谷区桜上水の日本大学櫻丘高等学校に入学し、野球部に所属。 しかし、芸能活動の多忙化に備えて、同年8月の内に堀越高等学校の芸能コースに転校。 郷が高校に持っていく弁当はジャニー喜多川が作っていた。 1975年7月の終わりに、堀越高校を丸4年かけて1人きりで卒業すると、今度は大学への進学を目指すことを公表。 翌1976年2月20日に青山学院大学法学部を受験したが、不合格。 子供の頃は可愛くて評判の美少年だった。 スパルタ教育の母親に厳しく躾けられて育った。「あなたは赤が似合う」という母の薦めで、赤いシャツを着用することが多かった。 1962年3月、東京都大田区の仲六郷幼稚園卒園。 1968年3月、品川区立山中小学校卒業。 1971年3月、品川区立伊藤中学校卒業。 1971年4月、日本大学櫻丘高等学校に入学するが、芸能活動を優先するため2学期から堀越高等学校芸能コースに転校。高校を約5年かけて卒業。卒業後、猛勉強をし、青山学院大学への受験をするが不合格。翌年日本大学法学部二部を受験し合格したが、通学することはなく退学に至った。 高校一年のとき家族で日比谷に映画を観に行った帰り、フォーリーブスのマネージャーにスカウトされ、彼らの合宿所に出入りするうちジャニーズ事務所所属となった。――と、サンケイスポーツ1975年1月27日付けのインタビューで話していたが、実際は、オーディションで落選した「潮騒」の会場で出会ったジャニーズ事務所社長、ジャニー喜多川に惚れ込まれてスカウトを受け、ジャニーズ事務所に所属となったことが、後年本人談で明かされている。ジャニーズ事務所の所属タレントが住む寮では、他の寮生たちと違い、一人だけジャニー喜多川と同じ食事メニューを与えられるなど、超VIP待遇を受ける。「ジャニー喜多川は郷ひろみの生みの親、だということです。それは絶対に間違いないことです」と述べている。
1972年1月2日、NHK大河ドラマ『新・平家物語』に平清盛の弟、経盛役で俳優デビュー(現在までNHK大河ドラマ合計4作品に出演) する。
1973年、ブロマイド年間売上実績No.1となり、西城秀樹、野口五郎と共に新御三家と呼ばれ、一躍トップアイドルの仲間入りを果たす。
1974年10月28日、初主演テレビドラマ『ちょっとしあわせ』の主題歌「よろしく哀愁」で、自身初のオリコン週間チャートの第1位を獲得する。 1975年4月1日、学校の問題が最大の原因でジャニーズ事務所を退所。ジャニー喜多川が末期の十二指腸潰瘍で入院中に乗じてジャニーズ事務所を退所。大手など選択肢があった中、後のマネージャーとなった小口健二からの熱意に、当時は小さな事務所だった設立4年目のバーニングプロダクションを選択して移籍。渡辺プロダクションの渡辺晋社長と、田辺エージェンシーの田邊昭知社長の仲介により、渡辺の自宅で周防郁雄バーニングプロダクション社長とメリー喜多川副社長の会談が行われ、郷のバーニングプロダクション移籍が決まった。以降、順調にアイドル界のトップ歌手の座に上り詰めていく郷とは対照的に、郷のいなくなったジャニーズ事務所は苦難の道を歩む。
1976年、『さらば夏の光よ』で映画初主演する。
1977年、TBSテレビドラマ『ムー』出演でコミカルな一面が注目され、再びブロマイド年間売上実績が男性部門でNo.1となる。 1978年8月10日、TBSテレビドラマ『ムー一族』の挿入歌「林檎殺人事件」が『ザ・ベストテン』で自身初の第1位を獲得する。 1979年4月 - 1980年4月、日本テレビ系のバラエティー番組『カックラキン大放送!!』に野口五郎と(以降は1年)交替でレギュラー出演する。
1980年7月21日、新御三家で初のCMソングとなる「How many いい顔」が発売される。 1981年12月6日、「お嫁サンバ」で第14回日本有線大賞・有線音楽賞を受賞する。 1982年7月17日、外国曲のカバーで、自身初のスロー・バラード「哀愁のカサブランカ」が発売され、「よろしく哀愁」以来2度目の売り上げ50万枚超(オリコン週間チャート第2位)のヒット。ベストテン番組、賞レースへの出演を辞退する。 1984年2月25日、日本国有鉄道キャンペーン・ソング「2億4千万の瞳」が発売され、20万枚超のヒット。サブタイトルは「エキゾチック・ジャパン」歌詞にある「ジャパ〜ン」という表現が郷を形容するのに使われるようになった。 1985年1月、交際していた松田聖子が破局会見を行う。9月には二谷友里恵と出会う。 1985年11月、翌年3月以降芸能活動を休止して渡米を告知する。
1986年3月、芸能活動を休止し単身ニューヨークへ、1年弱滞在する。 1987年6月12日、二谷友里恵と結婚。披露宴をフジテレビが『おめでとう郷ひろみ・二谷友里恵結婚披露宴』と題して大々的に中継し、霊南坂教会とシドニーのセントメリーズ教会で挙式して新居をニューヨークに構える。 1989年、ニューヨークの住居を引き払い日本に帰国。 1993年1月21日、バラード3部作(3年続けて発売)の1作品目として、カバー曲「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」を発売。
1994年12月2日、「言えないよ」で第27回日本有線大賞・有線音楽優秀賞 (ポップス)を受賞。 1995年12月1日、「逢いたくてしかたない」で第28回日本有線大賞・有線音楽優秀賞 (ポップス)を2年連続受賞。 1997年2月、イタリアンレストランSOGNI di SOGNI、大阪ドーム店が開店する。
1998年4月9日、二谷友里恵との離婚発表と同時に、その経緯を告白本『ダディ』として出版し、ミリオンセラーになる。 1999年8月30日、リッキー・マーティンの「Livin' La Vida Loca」をカバーした「GOLDFINGER '99」のプロモーションとして、渋谷スクランブル交差点にトラックを停車させて無許可でゲリラライブを敢行し、交通渋滞を引き起こして刑事事件になる。
2000年、道路運送車両法違反のため、警察署に出頭する。
2001年12月31日、『第52回NHK紅白歌合戦』への出演を最後として音楽活動を一時休止し、再びニューヨークに移住する。 2004年12月6日、二谷友里恵に対し、離婚に際して交わした娘2人の養育費1億5000万円を信託銀行に預託するとの取り決めを実行していないことや、郷が娘に会う面会権を妨害され精神的損害を受けたとして訴訟を起こす。しかし、娘2人が「父親に会いたくない」と語ったため、取り下げた。 2005年4月、「愛より速く」を発表し日本での芸能活動を再開。
2006年9月、デビュー35周年記念ライブとして、東京日比谷野外音楽堂などで公演する。 2007年5月27日、渋谷で8年ぶりに「Boom Boom Boom」の発売イベントを行う。
2008年11月、『ベストヒット歌謡祭』において自身のメドレー冒頭で、松田聖子の「青い珊瑚礁」を歌唱。 2009年9月2日、刑事事件に発展した渋谷の不祥事から10年、大阪・道頓堀のグリコ看板前に船で現れ、ゲリラ風に「Get Real Love 〜GOLDFINGER'009」の発売イベントを開いた。 2010年10月18日、55歳誕生日に2度目の日本武道館公演「55!伝説」を開催する。これは1955年生まれ、55歳、全国ツアー55公演目のファイナルステージである。
2012年3月31日、徳武定祐の次女で元タレントの女性と入籍したことを自身のオフィシャルサイト内に直筆のメッセージを掲載し、明らかにした。 2014年12月31日、第65回NHK紅白歌合戦に5年連続27回目の出場を果たした。 2015年4月26日 - 7月12日、NHK連続ドラマ『企業病棟』以来、21年ぶりの連続ドラマとして、TBS日曜劇場『天皇の料理番』に粟野慎一郎役で出演。 2015年 還暦を迎え 積極的にロックフェスに参戦 SUMMER SONIC 氣志團万博 2017年 45周年記念CD BOX『The 70's Albums』リリース 2018 ディスコイベント「Dynasty Tokyo Surfer's Night」にサプライズ出演。103枚目のシングルに収録されている「恋はシュミシュミ」「MIRROR BALL FANTASY」を歌唱した。 2019年 「JAN JAN JAPANESE」の発売を記念して、デビュー47年目で“アイドルイベントの聖地”で初のイベント 池袋サンシャインで約3500人のファンと交流した 2019年ロックフェス音髭に出演。大とりで登場。観客を魅了する圧巻のパフォーマンスをみせる。 2020年105枚目のシングル『ウォンチュー!!!』がオリコン7位に。これにより昭和、平成、令和でのオリコンTOP10入りを果たした 2021年7月30日、音楽サブスクリプションサービス上で、楽曲のストリーミング配信を開始した。 2023年6月21日、公式サイトで「不調が長引いていた喉の治療に専念する」と発表。複数のコンサートを中止すると伝えた。 逸話
デビュー〜アイドル全盛期
デビュー当時、母親は原宿で美容院を経営していた。福岡県糟屋郡志免町の母親の実家の祖父母が「ひろみ」の焼印がされた紅白の「ひろみ饅頭」の製造販売を始め、後に叔父・叔母が経営する「御菓子ひろみ」に引き継がれた(2015年頃に閉店)。 デビュー前、フォーリーブスの旭川公演のバックに出演し「ひろみです!」と紹介され、会場から「Go! Go! Let's Go Hiromi!」と声援を受け、そのまま芸名が郷ひろみとなる。また「郷」にはフォーリーブスの弟「5人目のフォーリーブス」という意味もかけている。可愛らしいルックスと鼻にかかった歌声が、若い女性の人気を博し、ファンによる親衛隊も誕生した。 1974年10月、ドラマ『ちょっとしあわせ』で、共演の高沢順子とのキスシーンが騒動になる。ファンから局側に脅迫状が殺到。急きょ唇寸前でカット。釈明試写も開いて対応した。 1976年、日本レコード大賞のノミネート会場(予選会)でキャンディーズとの決選投票に辛勝し、『あなたがいたから僕がいた』で第18回日本レコード大賞大衆賞の受賞が決定した際、感極まって歌が歌えないほど号泣した。レコード大賞では、新人賞で本選へ出場して以来の受賞であった(この年は、投票の様子をリアルタイムで中継していた)。 『アイドル水泳大会』では競泳など多くの競技に出場し、特にフジテレビの番組では『ミスター水泳大会』と呼ばれた。同じく参加していた西城秀樹と常に競い合い、番組を盛り上げていた。郷は水泳の競技だけではなく、水着や体のラインまでライバル心を滾らせていたという。 1977年、郷の特徴に良く似た人形を販売する業者を、肖像権侵害で民事提訴する。史上初の有名人が人形に関する肖像権訴訟であり、1980年5月、勝訴和解する。 1981年、『8時だョ!全員集合』で、中畑妊娠のコントが話題になる。 1982年から洋楽バラードのカヴァーを次々と発売し、アイドル歌手から大人の魅力を持った本格派歌手への脱皮を図る。その洋楽カバー「哀愁のカサブランカ」は初めてのスロー・バラードのシングル曲であり、「よろしく哀愁」以来自身2度目の50万枚突破を記録した。哀しみの黒い瞳、ロマンス〜禁じられた遊び〜、シャトレ・アモーナ・ホテルなどフリオ・イグレシアスの曲も歌った。また、ニューヨークでボイストレーニングを受け、ブレス使いで力まずに声を出す手法を会得し、スロー・バラードをじっくり聞かせられるまでに歌唱力がアップする。 1984年2月25日リリース『2億4千万の瞳』は国鉄のキャンペーンに使われた。2007年にはこの曲をアレンジしたものがBSデジタル放送3000万台突破記念キャンペーンソングとして用いられている。 1975年春、ジャニーズ事務所からバーニングプロダクションへ移籍。このジャニーズJr.6人も伴う移籍騒動で、ジャニー喜多川社長は体調を崩すほどショックを受けたそうである。この移籍に関し、バーニングの当時の社長であった周防郁雄が「郷がジャニーさんとトラブルになったらしい。」との噂は聞き、郷がどのような経緯で辞めたのかよく知らないが、まだ移籍先が決まっていない郷を「ぜひうちでやりたい」との思いがあり、渡辺プロダクションの渡辺晋と、田辺エージェンシーの田邊昭知を仲介役とし、渡辺の自宅にてジャニーズ事務所のメリー喜多川と話し合った。そこでメリーに「私に(郷ひろみを)やらせてください」と頼んだところ、メリーより許可を得ての移籍となった。 フォーリーブスの江木俊夫書の中で、「ジャニーズ事務所に最大の利益を与えたのはSMAPだろうが、ジャニー喜多川さんが今でも理想のアイドル像として思い描いているのは郷ひろみだろう」と述べている。 1972年、「小さな体験」で初出演したフジテレビ系『夜のヒットスタジオ』は、ジャニーズ事務所に当時存在していた「アイドルを夜の番組にはあまり出演させたくない」との方針から新御三家の中では出演機会が少なかったが、バーニングプロダクション移籍後は原則として月1回のペースで出演するようになる。1982年、ランキング番組出演辞退の後もトリをつとめたり、過激かつ派手な演出を用意されるなど厚遇を受けた。1972年から1990年6月27日までの総出演回数は175回。 1979年、「くれる物は戴きますが、今後授賞式には参加しない。」と『日本レコード大賞』・『日本歌謡大賞』などの音楽賞への出演を辞退することを公表する。数年後のインタビューで「年々権威が落ちていく音楽賞には興味がない。」と語った。ただし『日本有線大賞』には出演し賞を受けているほか、1999年には日本レコード大賞・最優秀歌唱賞受賞の打診を受けると、大衆賞を取った1976年以来23年ぶりにそのステージに立ち、ヒットメドレーを披露した。 1982年8月、「哀愁のカサブランカ」で「もういちど思春期」以来10か月ぶりに『ザ・ベストテン』にランクインするが、「自分にとっては自分自身の歌は全部1番、他人に自分の歌のランク付けされるのは賛成しかねる。」という理由で、『ザ・ベストテン』、『ザ・トップテン』等、音楽に関するランキング番組の出演をすべて拒否する。 当時、郷の音楽プロデューサーだった酒井政利は、雑誌『KAMZINE』(2005年6月号)で一連の辞退について触れ、「郷は新御三家として括られるのも好きでなかったし、アイドル的な定型から脱皮したいと思っていた。そして、"自分は人とは違うんだ!"という差別化戦略を選んだ。」と、戦略・挑戦のひとつだったことを明かしている。 1993年1月、楠瀬誠志郎のバラードカバー曲「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」 を発売すると、最高位43位ながらジワジワと売り上げを重ね、「2億4千万の瞳」以来9年ぶりにヒット曲(17.7万枚)となる。これをきっかけに翌1994年「言えないよ」、1995年「逢いたくてしかたない」と続けてオリジナルのバラードを発売し、いずれもロングヒットを記録。この1990年代のバラードヒット3曲を総じてバラード3部作と呼んでいる。 2000年11月、発表のエッセイ『若気の至り』では裏表紙に自らの女性遍歴を年表風にまとめ「大丈夫かこいつ?」と自虐的コピーをつけ『ダ・ヴィンチ』(2月6日号)で腰巻き大賞に選ばれる。「単に奇をてらう言葉ではなく著者の存在感との合わせ技だ。自虐的なコピーなのに少しも嫌味がないし、かえって好感に繋がってしまうのはヒロミ・ゴーの器量だろう。」と選評された。 2001年6月にリリースした『獣は裸になりたがる』のジャケット写真は、特殊メイクで自ら「獣」になっている。この曲のキャンペーンで、フジテレビ系バラエティー番組『笑う犬の冒険』の「はっぱ隊」のコーナーに出演。股間にはっぱ一枚、郷特製ゴールデンリーフを付け、YATTA!の歌を踊った。 1999年8月、「GOLDFINGER '99」のプロモーションとして、所轄の渋谷警察署の道路使用許可を受けず、白昼ゲリラライブを敢行。渋谷スクランブル交差点にトラックを止め、マスコミが逆サイドからカメラを構えると、野次馬が交差点に押し寄せ路線バスなど30分に渡って立ち往生し数本運休するという交通渋滞を引き起こす騒動になる。後に現場関係者6人が道路交通法違反容疑で書類送検され、レコード会社のプロデューサーは懲役3か月、執行猶予2年の判決を受ける事件に発展。当事者の郷も事情聴取を受けたが「何処でやるのかさえ知らされていなかった。」と供述し、罪には問われなかった。この宣伝効果により「GOLDFINGER '99」は有名になりチャートが上昇。最終的に46万枚を売り、代表曲のひとつとなった。 2006年5月、埼玉スタジアムで行われたキリンカップサッカー2006「日本VSスコットランド」戦において国歌独唱を行なった。全身ブルーのスーツで登場し歌い終わった後には、お得意のジャケットプレイで、JFAフラッグを用いたスーツ裏地を見せた。 2006年7月、9月6日発売の「LIFE」で、50歳を記念して郷と同じ1955年生まれの男性を公募し、ミュージック・ビデオで共演する企画に700人以上の応募者があった。 2007年5月、国土交通省が展開する「ビジット・ジャパン・キャンペーン(VJC)」のテーマソングに「Come On Baby」が決まり、大臣から感謝状を手渡された。歌詞には訪日旅行のアピールに"Yokoso"という言葉をちりばめ、日本語のみでなく英語バージョンもあり、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語、タイ語の「ようこそ、日本」を意味する言葉が間奏に盛り込まれ、CDのパッケージに"Yokoso! Japan"のステッカーを添付した。 2007年5月、NHKの『英語でしゃべらナイト』に出演し、ニューヨーク仕込みの英語を披露した。司会のパックンには「大学生レベルの英語」と評される。番組内では英語で「考える・行動する・継続する」という人生の哲学を語った。同番組内で「Come On Baby」の英語バージョンを披露する。 2007年5月、日本テレビで中継された藤原紀香と陣内智則の結婚披露宴で、スペシャルゲストとして「お嫁サンバ」を歌う(のちに2人は離婚している)。 2009年12月、カリフォルニア州のぶどう畑を買い付け、ワインを造り、郷がデザインした「5」ラベルのワイン「マグニフィカファイブ」を歳暮に贈る。 2010年4月12日、東京中日スポーツ創刊55周年「スペシャルサポーター」に就任する。 2015年10月18日、60歳の誕生日を迎える。翌2016年2月、新御三家が3人揃っての還暦祝いを機に、ひろみは西城・野口と久々に再会し「還暦鼎談」に参加した。 2018年
5月25日に西城の通夜、翌5月26日には告別式と、野口五郎ら歌手仲間と共に参列。葬儀の席で野口の後に、郷は西城に向かって「雑誌の対談で久しぶりに新御三家が顔を合わせたのが、秀樹を見た最後になりました。対談の中で『感謝の気持ちを持って歌い続けよう』って締め括ったのに、秀樹は天国に行ってしまいました。本当に残念です」「僕は秀樹のことを兄貴と思っていました。それは今でも変わっていません。これからも秀樹の背中をみて、ずっと歌を歌い続けていきたいと思っています。今まで本当に有難う。そして安らかに眠って下さい」と終始涙を浮かべながら弔辞を読んだ。 12月10日、都内で行われた第95回箱根駅伝競走前の監督会見で、青山学院大学陸上競技部・長距離ブロック監督の原晋が、青山学院大の箱根駅伝・総合5連覇達成を目指し「ゴーゴー大作戦」と満面の笑みで発表。同年大晦日放送の『第69回NHK紅白歌合戦』での本番前日リハーサル時に、報道陣からその事を聞かされた郷は「嬉しい限りですね。心から青学の(箱根駅伝)5連覇を僕自身も期待してはいます」と話している。だが、翌2019年1月2日・3日開催の第95回箱根駅伝での青学大は、結果的に往路6位の大きな出遅れが響いてしまい、翌日の復路優勝は果たしたものの、総合5連覇は逃し総合2位となった。 2019年3月17日、東京都港区の「ザ・プリンスパークタワー東京」で開かれた、「青学大・3大駅伝報告会」において、郷自らサプライズゲストとして急遽生出演。青学大の学生・OBら関係者を始め、一般のファンも合わせて来場者は大喜びに沸いた。郷自ら「実は海外に行っている予定でしたが、移動便を変更して参りました。僕の子供が青山学院の幼稚園でお世話になっている縁もあります」とコメント。更に「僕も日本レコード大賞で『新御三家』の秀樹さん・五郎さんの中で、僕だけが呼ばれなかった事が有り、その悔しさが僕を引っ張ってくれました。人生には多くのことがあり、どう受け取るかで変わると思います」と熱く語りつつ、青学大の巻き返しにエールを送っていた。 1975年、20歳の時に現地日系人等を対象にロサンゼルス公演を行った際、日系人コミュニティのミス・ロサンゼルスとして郷に花束を手渡した女性に一目ぼれし交際がスタートしたが、1978年、ロサンゼルス在住の日系アメリカ人ドロシーと破局。 1985年、祇園の芸妓、佳つ乃と浮名を流し、六本木のクラブのNo.1ホステスと『フライデー』される。 1985年1月、交際を公にしていた松田聖子が突然単独で、東宝スタジオの食堂にて破局会見を行った。 1985年9月、郷が六本木のディスコで合コンしているところに二谷友里恵が来店し郷が一目ぼれ。その場で声をかけ、ゴルフデートの約束を取り交際を開始する。 1987年6月、二谷友里恵と結婚。結婚披露宴の模様は郷を支援するフジテレビが『おめでとう郷ひろみ・二谷友里恵結婚披露宴』と題して大々的に中継し、視聴率47.6%を記録 (披露宴中継、歴代最高視聴率)。結婚後、2年間ニューヨークに移住するなどし、2女を儲けた。 1998年4月、結婚から11年で離婚を発表する。二人の娘の養育費として1億5千万円を支払った。離婚の際に発表した告白本『ダディ』 (幻冬舎) はミリオンセラーとなった。離婚は離婚届を提出した本の発売日まで一切明かされず、離婚会見の代わりとして「すべては本を見てくれればわかる」というものであった。離婚の原因について郷は『ダディ』の冒頭で「僕の数人の女性との浮気」だと打ち明けている。 2000年9月27日、元・恋人である松田聖子とのデュエット曲「True Love Story/さよならのKISSを忘れない」を発売。郷側から声をかけ実現した。 2000年9月同上、「交際していたニューヨーク在住の投資家の娘、大根田名美と11月に結婚する。」と発表。ニューヨークのアルマーニショップで店員をしていた所に郷が訪れる形で出会った。ファンに対して「一日の23時間55分が郷ひろみであり、残りの5分間だけが原武裕美に戻る時間。原武裕美は結婚しても郷ひろみは結婚しない。」と説明した。 2001年3月、年内いっぱいで日本での芸能活動を一時休止し、妻の実家のあるニューヨークに移住することを発表。 2001年5月、二谷友里恵が、ダディの続編的告白本『楯』(文藝春秋)を発売し、離婚後の二方の確執が明らかになった。内容について郷は、「子供たちのために反論しない」とノーコメントを通した。 2005年4月21日、公式サイト上で突然二度目の離婚を発表する。「それぞれの道を歩んでいくことが今後の2人にとって最善の方法。ボクはより一層努力し郷ひろみを極めたい。」 2012年3月31日、交際していた元・タレントで化粧品会社OL、徳武利奈との入籍を公式ホームページで発表。「彼女は、僕よりも僕の両親を大事にしてくれる人」だと紹介した。郷にとって3度目の結婚である。 2013年1月19日、結婚発表から約10か月を経て、芸能関係者ら約400人を招いた結婚披露宴を帝国ホテルで行った。 2014年6月、双子の男児が誕生。 2016年12月20日、『歌う!SHOW学校』に“講師”としてゲスト出演した際、他の出演者達から常に格好良くいられる秘訣を問われ、「“自分は今が一番格好良いんだ”と言い聞かせること、24時間366日“郷ひろみ”でい続けること」と答えた。 2020年、エッセイ集『黄金の60代』(幻冬舎)を出版。女性セブンのインタビューに答え、来世も郷ひろみとして生まれたいか尋ねると、少し考えたのち、「現世での経験を生かせるならば。でも、それ以前に日本人に生まれたいです。日本人は真面目で勤勉できれい好きで…。本当に大好きですね。日本人であることに誇りを感じています」と答えた。 2020年11月27日、ゴルフでホールインワンし、ホールインワン証明書を発行された。その後、ホールインワン保険に入る。 社会貢献活動1995年からチャリティー活動を実践し、アジアの子供達のために寄付を続け、フィリピンにおいて4つの学校建設に貢献した。 1995年11月25日、東京・赤坂プリンスホテルにおいて、アジアの恵まれない子供のためのチャリティーディナーライブを開催。収益金4,388,983円を特別救済活動カスパルに寄付し、フィリピンの学校建設費用に当てられた。松田聖子とのデュエットソング(2000年9月発売)の売り上げの一部も同所に寄付すると発表された。その後もファンクラブサイトやファンクラブイベントでチャリティーオークションを行った売上の一部などを同所に寄付し続けた結果、1995年11月から2007年4月で約1200万円に達し、フィリピンでの4つの学校建設に貢献した。 1999年10月、「GO's CLUB PARTY '99」オークションの売上の一部を「郷ひろみファンクラブ」から日本赤十字社を通じ、トルコおよび台湾の「被害をこうむられた方々が、元気を取り戻し、また、子どもたちが今までどおり、勉強したり遊んだりできるように、一日も早い復興を願い」、震災復興義援金に各50万円ずつの計100万円を寄付した。 2000年11月5日、結婚に伴う、結婚祝いを複数のNPOに寄付した。 2006年11月、ジュエリーブランドRosen Hemdenのプロデュースを始め、利益の一部を寄付する。 2007年5月放送の日本テレビ『トシガイ』(自分の年齢の数だけ(51歳×1万円)お金を好きなものに使えるという番組企画)を通じて自身が学校建設に貢献したフィリピンを初めて訪問し、子供たちから歓迎を受ける。51万円でフィリピンの子供たちに文房具、Tシャツなどをプレゼントした。「これからもライフワークにしていきたい。」と語った。 2024/05/25 10:47更新
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gou hiromi
郷ひろみと同じ誕生日10月18日生まれ、同じ福岡出身の人
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話題のアホネイター
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