都裕次郎の情報(みやこゆうじろう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
都 裕次郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
都裕次郎と関係のある人
斉藤浩行: 翌日の中日戦では都裕次郎から初本塁打を打った。 中尾孝義: 前年6勝の都裕次郎が自己最多の16勝で最高勝率を獲得し、2勝0Sであった牛島和彦が7勝17S、2年目の郭源治が9勝を挙げるなど好成績を残した。 生田啓一: 初安打:1980年10月19日、対中日ドラゴンズ24回戦(草薙球場)、9回裏に鳥原公二の代打で出場、都裕次郎から単打 堀場秀孝: 初本塁打:1983年9月9日、対中日ドラゴンズ20回戦(広島市民球場)、8回裏に西田真二の代打として出場、都裕次郎から左越決勝ソロ 佐野仙好: 1000安打:1984年8月22日、対中日ドラゴンズ19回戦(ナゴヤ球場)、1回表に都裕次郎から ※史上136人目 中司得三: 初安打:1982年9月14日、対中日ドラゴンズ22回戦(後楽園球場)、3回裏に都裕次郎から 権藤博: 郭源治・都裕次郎らを育成したほか、1982年、牛島和彦を監督の近藤とともに「先発をすると甘い球がある。 権藤博: コーチとしてフォーム矯正を施したのは都裕次郎だけだという。 清水治美: 当時の中日には、都裕次郎以外、先発ローテーションとして計算できる左投手がいなかったため、即戦力として期待されていたが、同年は故障に悩まされ、一軍公式戦では1試合も登板できなかった。 堀場英孝: 初本塁打:1983年9月9日、対中日ドラゴンズ20回戦(広島市民球場)、8回裏に西田真二の代打として出場、都裕次郎から左越決勝ソロ 山田和利: 初本塁打:1988年6月18日、対読売ジャイアンツ12回戦(ナゴヤ球場)、7回裏に都裕次郎の代打として出場、桑田真澄からソロ 藤王康晴: 初本塁打:1984年9月23日、対広島東洋カープ23回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に都裕次郎の代打として出場、北別府学から左越同点ソロ 佐藤秀樹: 2018年からは都裕次郎の後任としてチーフスコアラーに就任した。 郭源治: 同年は都裕次郎に次ぐ先発の柱として9勝を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献した。 衣笠祥雄: 1500三振:同上、7回裏に都裕次郎から ※史上初 斉藤浩行: 初本塁打・初打点:1982年7月4日、対中日ドラゴンズ15回戦(広島市民球場)、5回裏に都裕次郎から先制2ラン 水谷実雄: 200本塁打:1982年8月15日、対中日ドラゴンズ21回戦(ナゴヤ球場)、1回表に都裕次郎から左越2ラン ※史上38人目 |
都裕次郎の情報まとめ
都 裕次郎(みやこ ゆうじろう)さんの誕生日は1959年2月25日です。滋賀出身の野球選手のようです。
映画、引退、テレビ、卒業に関する情報もありますね。今年の情報もありました。都裕次郎の現在の年齢は65歳のようです。
都裕次郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 都 裕次郎(みやこ ゆうじろう、1959年2月25日 - )は、滋賀県大津市出身の元プロ野球選手(投手)、スコアラー、野球指導者。 当時の滋賀県滋賀郡堅田町(現大津市)真野で出生し、農業を営む父が映画スターの石原裕次郎ファンであったため、「裕次郎」と命名された。当人によると、最初は祖父が名付けた「定成」(さだなり)に決まっていたが、役所に届ける寸前で父が独断で急遽、裕次郎に変えたという。 大津市立真野小学校時代は野球は近所の仲間と遊びでやったり、町内会でソフトボールをやったりする程度だったが、大津市立堅田中学校時代に本格的に野球を始め、滋賀県立堅田高等学校時代は、硬式野球部に所属しエースとして活躍。滋賀県大会で当時の記録となる7連続三振を記録したが、甲子園大会への出場はなく全国的には無名の存在であった。 1976年のプロ野球ドラフト会議において、中日ドラゴンズから1位指名され入団。滋賀県内の高校生として初のドラフト1位指名となった。 プロ入り当時の投手コーチであった権藤博からは、「とてもプロで続けられるフォームではない」と言われた。選手の個性を重んじ投球フォームに口を出さないことで知られた権藤が、都に対してはフォーム矯正を施した。このフォーム矯正が功を奏し、速球とスライダーを武器に頭角を現し、1978年の第15回ジュニアオールスターゲームに出場。 1979年に一軍デビューし2勝を挙げた。 1981年には、先発ローテーションに定着し、夏場以降は失速し中継ぎになったものの初めて規定投球回に到達。 1982年、オールスターゲームに出場。同年は16勝5敗、勝率.762で最高勝率を記録し、中日のリーグ優勝に大きく貢献した。同年の西武との日本シリーズでは4試合に登板。第2戦で先発するが、先頭打者だった石毛宏典の打球が足に当たり降板。翌々日の第3戦も先発するが、1回に2点を失い、2回途中で交代を余儀なくされた。 1983年は、一時リリーフに回ったこともあり6勝止まりであった。 1984年は、開幕7連勝を含む13勝をマークした。 1985年以降は腰痛や肩の怪我に苦しむ。 1986年には2勝を挙げた。 1989年限りで現役を引退した。 引退後は中日球団に残り、打撃投手やスコアラーを務めた。 2001年にはテレビ愛知のゲスト解説者を務めた。 2002年のシーズン途中に二軍投手コーチに就任。 2003年限りで退任。 2004年からは中日スカウトを務めた。 2007年からは再びスコアラーとなった。チーム付のスコアラーであり、野球中継では都のコメントがリポートされることがあった。その後はチーフスコアラーに昇格した。 2017年11月の秋季キャンプからは二軍投手コーチに就任し、背番号は88となった。なお後任のチーフスコアラーは佐藤秀樹が就任した。 2018年シーズン後に退任し、2019年から再びスコアラーに復帰したが、以前のチーフではなく映像担当兼任スコアラーとなった。 2022年からは査定担当へ異動。 2023年限りで退団 プロ野球の珍プレーといえば、同期入団の宇野勝のイメージが定着しているが、実は都自身も多く、ランナー無しの時に無人の二塁ベース上に牽制球を投げたり、カーブの握りのまま牽制球を投げたことがある。 少年時代は巨人ファンで、特に王貞治のファンだった。中学2年の時に左投げ右打ちだったのを左投げ左打ちに変えたのも王の影響からだった。 次男は2020年に愛知県立小牧南高等学校のエースとして活躍し、高校卒業後は日本福祉大学で野球部に所属している。 各年度の太字はリーグ最高 最高勝率:1回 (1982年) 初登板:1979年8月2日、対横浜大洋ホエールズ18回戦(ナゴヤ球場)、6回表2死に2番手で救援登板、2/3回無失点 初奪三振:同上、7回表に長崎慶一から 初先発登板:1979年8月18日、対阪神タイガース18回戦(ナゴヤ球場)、4回3失点(自責点2) 初セーブ:1979年8月30日、対読売ジャイアンツ21回戦(後楽園球場)、7回裏に2番手で救援登板・完了、3回無失点 初勝利:1979年9月20日、対ヤクルトスワローズ23回戦(草薙球場)、5回裏に2番手で救援登板、4回無失点 初先発勝利:1980年9月28日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、8回1/3無失点 初完投勝利:1980年10月19日、対ヤクルトスワローズ24回戦(草薙球場)、9回2失点 初完封勝利:1982年4月7日、対阪神タイガース3回戦(ナゴヤ球場) オールスターゲーム出場:1回 (1982年) 28(1977年 - 1989年) 90(1990年) 85(2003年) 88(2018年) ^ ““勝手”に変えられた名前「父が独断で急きょ」 人気俳優の影響で…変化した野球人生”. Full-Count. Creative2 (2024年3月3日). 2024年3月4日閲覧。 ^ 当時は大津市立真野中学校は開校されておらず堅田中学校に通学 ^ “滋賀)国際情報の加藤、9連続K、滋賀大会記録”. 朝日新聞. (2018年7月12日). https://www.asahi.com/articles/ASL7C730HL7CPTJB034.html 2021年6月8日閲覧。 ^ “都裕次郎“名前先行”の貴重な左腕からVイヤーのエースへ/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボール (2018年10月14日). 2021年6月8日閲覧。 ^ “【ドラフト会議物語14】目玉はサッシーこと酒井。東海大相模高・原辰徳は指名されず【1976年】”. 週刊ベースボール (2018年10月11日). 2021年6月8日閲覧。 ^ 優勝前日、朝5時に山下公園に集合!?[【都裕次郎さんコラボ前編】 - YouTube ^ “中日、都裕次郎氏&石井昭男氏がコーチで現場復帰”. 日刊スポーツ. (2017年11月1日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/201711010000329.html 2021年6月8日閲覧。 ^ 2018年度の監督、コーチングスタッフを発表 - 中日ドラゴンズ公式サイト ^ エースは元中日投手の息子 9回11K、将来はプロ志望 - 朝日新聞 滋賀県出身の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 個人年度別成績 都裕次郎 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 藤村隆男 1953 大友工, 石川克彦 1954 杉下茂 1955 大友工 1956 堀内庄 1957 木戸美摸 1958 藤田元司 1959 藤田元司 1960 秋山登 1961 伊藤芳明 1962 小山正明 1963 山中巽 1964 石川緑 1965 山中巽 1966 堀内恒夫 1967 堀内恒夫 1968 島田源太郎 1969 高橋一三 1970 村山実 1971 坂井勝二 1972 堀内恒夫 1973 倉田誠 1974 松本幸行 1975 星野仙一 1976 加藤初 1977 新浦寿夫 1978 鈴木康二朗 1979 藤沢公也 1980 福士敬章 1981 江川卓 1982 都裕次郎 1983 津田恒美 1984 江川卓 1985 北別府学 1986 北別府学 1987 川端順 1988 小野和幸 1989 西本聖 1990 斎藤雅樹 1991 北別府学 1992 斎藤雅樹 1993 山本昌広 1994 紀藤真琴 1995 石井一久 1996 斎藤雅樹 1997 三浦大輔 1998 桑田真澄 1999 上原浩治 2000 工藤公康 2001 入来祐作 2002 上原浩治 2003 井川慶 2004 上原浩治 2005 安藤優也 2006 川上憲伸 2007 高橋尚成 2008 館山昌平 2009 D.ゴンザレス 2010 久保康友 2011 吉見一起 2012 杉内俊哉 2013 小川泰弘 2014 山井大介 2015 M.マイコラス 2016 野村祐輔 2017 薮田和樹 2018 大瀬良大地 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 青柳晃洋 2022 青柳晃洋 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1位:都裕次郎 2位:生田裕之 3位:宇野勝 4位:今岡均 5位:高元勝彦 6位:中原勇一 日本の野球選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 最高勝率 (野球) 日本の野球指導者 日本の打撃投手 滋賀県立堅田高等学校出身の人物 滋賀県出身のスポーツ選手 1959年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/24 14:30更新
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miyako yuujirou
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