鈴木康二朗の情報(すずきやすじろう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
鈴木 康二朗さんについて調べます
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井本隆: 1982年オフに鈴木康二朗、柳原隆弘との交換トレードでヤクルトスワローズに移籍する。 ブライアン=シコースキー: 9月以降はセーブ失敗もあり最終的に5敗したが、33セーブを挙げて初タイトルの最多セーブ投手に輝いた(35歳で開幕を迎えたシーズンのセーブ王獲得は1985年鈴木康二朗と並びパリーグ最年長記録タイ、日本プロ野球史上でも右投手として最年長記録タイ)。 武上四郎: 1年目の開幕カード・中日戦(ナゴヤ)では、4月5日の1戦目を先発の鈴木康二朗から井原慎一朗につなぐリレーで接戦をモノにすると、翌6日の2戦目では打たれてもいない先発の神部年男を短イニングで降板させて継投する奇抜な采配で派手な監督デビューを飾った。 岩下正明: 初本塁打:1980年6月14日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤ球場)、8回表に鈴木康二朗の代打として出場、鈴木孝政からソロ ジョン=シピン: この年は、試合中2度も死球に怒ってマウンドに突進して投手(大洋の門田富昭とヤクルトの鈴木康二朗)を殴り、退場を告げられている。 高木孝治: エースとして鈴木康二朗がおり、あまり活躍の場はなかった。 堀内庄: 広岡の胴上げにも立ち会えなかったが、松岡弘・安田猛・鈴木康二朗ら投手陣から人望があったため、リーグ制覇の夜に祝勝会の後で堀内宅に投手陣が集まり祝杯を改めてあげたのであった。 松原誠: 6月8日の広島戦(横浜)で1回裏に高橋里志から左翼へ先制適時二塁打を打って史上12人目の1000打点、7月6日のヤクルト戦(横浜)では2回裏に鈴木康二朗からソロ本塁打を打って史上11人目の300本塁打を達成。 蓑田浩二: 1000安打:1985年8月24日、対近鉄バファローズ18回戦(ナゴヤ球場)、9回表に鈴木康二朗から左翼線適時二塁打 ※史上143人目 早川実: 同18日のヤクルト戦(神宮)で8回裏に鈴木康二朗から初奪三振、5月29日のヤクルト戦(福井)で初セーブを記録。 松原誠: 300本塁打:1978年7月6日、対ヤクルトスワローズ13回戦(横浜スタジアム)、2回裏に鈴木康二朗からソロ ※史上11人目 佐々木正行: 初出場・初打点:1981年4月7日、対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤ球場)、4回表に鈴木康二朗の代打として出場、内野ゴロで打点 山本浩二: 一番本塁打打っている投手は堀内の21本塁打、対戦した投手287人で80打席以上対象とした41人の中で対戦打率が良いのは谷村智啓の.436、2番目に良いのは鈴木康二朗の.416で「谷村は右の本格派で真っすぐ系の高めが多かった。鈴木康二朗はほとんどシンカー系のボール。 世良賢治: 初出場:1975年8月2日、対中日ドラゴンズ15回戦(明治神宮野球場)、7回裏に鈴木康二朗の代打で出場 花ノ国明宏: プロ野球で言うなら、まるで王貞治(巨人)に本塁打世界記録の756号を打たれた鈴木康二朗投手(ヤクルト)みたいじゃないですか」と、大好きなプロ野球に例えて苦笑混じりに嘆いていたという。)で上記の鈴木康二朗に準えて花ノ国に「千代の富士に1000勝を達成した際の対戦相手」として「一代年寄」の名跡を送り、栄誉を讃えると皮肉たっぷりにネタにしているが、結果的に「親方」ではなく、「若者頭」として現役名で日本相撲協会に残る事になった。 王貞治: その3試合後、14打席目(通算7878打数目)の9月3日対ヤクルトスワローズ23回戦3回裏一死無走者の第2打席で、フルカウントでの6球目鈴木康二朗のど真ん中のシンカーをライトスタンドへシーズン第40号を放ち、メジャーリーグ記録を抜く756号を達成した。 柳原隆弘: 1982年オフに鈴木康二朗と共に井本隆との2対1の交換トレードで近鉄へ移籍。 鈴木啓示: 1983年、鈴木康二朗がヤクルトから近鉄に移籍してきたことで鈴木姓の投手が2名となる。 伊勢孝夫: 7月10日の読売ジャイアンツとの対戦では1回に鈴木康二朗の死球を巡り両チームの選手が大乱闘を演じ、その後顔面に自打球を受けた大杉に代り途中出場するが、堀内恒夫から死球を受け退場、救急車で病院に搬送され一時は騒然となる。 早川実: 初奪三振:1976年4月18日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、8回裏に鈴木康二朗から 広岡達朗: 投手陣を優先的に整備し、荒川監督時代に巨人戦でエース級の松岡弘を先発、安田猛を中継ぎ、浅野啓司を抑えで起用して連敗が続くような采配をしていたが、メジャーリーグのようなローテーション確立を目指して、先の3人に鈴木康二朗、会田照夫を加えて5人で先発を回した。 中西弘明: 初打点:1984年5月6日、対近鉄バファローズ8回戦(藤井寺球場)、9回表に鈴木康二朗から内野ゴロの間に記録 簑田浩二: 1000安打:1985年8月24日、対近鉄バファローズ18回戦(ナゴヤ球場)、9回表に鈴木康二朗から左翼線適時二塁打 ※史上143人目 柳原隆弘: 初打点:1978年9月23日、対広島東洋カープ22回戦(広島市民球場)、7回表に鈴木康二朗の代打として出場、大野豊から適時打 足立光宏: ヤクルトとの同年の日本シリーズでは第3戦で鈴木康二朗と投げ合い完封を果たした。 |
鈴木康二朗の情報まとめ
鈴木 康二朗(すずき やすじろう)さんの誕生日は1949年4月18日です。茨城出身の野球選手のようです。
卒業、引退に関する情報もありますね。2019年に亡くなられているようです。
鈴木康二朗のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 鈴木 康二朗(すずき やすじろう、本名:鈴木 康二郎(読み同じ)、1949年4月18日 - 2019年11月19日)は、茨城県北茨城市出身のプロ野球選手(投手)。 小学4年の時に野球を始め、中学卒業後1浪して磯原高へ進学する。3年生の時にエースになるが、夏の県大会3回戦で敗退し甲子園には出場できなかった。社会人野球の日本鉱業日立に進む。1971年の都市対抗野球に日立製作所の補強選手として出場。リリーフとして活躍し準々決勝に進むが、新日本製鐵広畑の山中正竹(住友金属から補強)、三沢淳の継投に完封を喫する。この時のチームメイトに小野寺重之、後にプロで同僚となる渡辺孝博らがいた。 1972年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトアトムズから5位指名を受け入団。1975年に初登板。1976年には主に中継ぎとして起用され43試合に登板、初勝利、初セーブを記録する。 1977年には開幕直後から先発ローテーションに定着、初めて規定投球回(リーグ5位、防御率3.67)に達し14勝9敗と活躍。松岡弘、安田猛と共に三本柱を形成する。勝負を避ける投手が多い中、9月3日の読売ジャイアンツ戦(後楽園球場)にて、勝負を避けずに3回2打席目の王貞治にフルカウントから決め球のシンカーを投じ世界新記録となる756号本塁打を打たれて有名になる。王に世界新記録となる756号を打たれた投手には「サイパン島ペア旅行券」をプレゼントされることになっていたが、プロとしての意地から受け取りを拒否した。『がんばれ!!タブチくん!!』では当時のその様子が大げさに描かれ、試合で必ず「王に756号を打たれた鈴木」と呼ばれていた。1983年に移籍した近鉄の春のキャンプ地が皮肉にもあろうことかサイパンだった(当時のはた山ハッチの4コマ漫画でも現地の人間に歓迎されるという描写でネタにされており、後に単行本「がんばれエガワ君」にも収録された)。通算81勝52セーブという堂々たる数字を球史に刻んでいるにもかかわらず、この話題は長く彼につきまとい、2017年夏に週刊文春で受けたインタビューもやはりこの件が見出しとなった。 1978年も13勝3敗を記録、最高勝率投手となる。チームを初のセ・リーグ優勝、日本一に導く活躍を見せた。同年5月にはセ・リーグ投手部門の月間MVPを初受賞した。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは2試合に先発。第3戦では5回まで3失点ながら打線の援護なく敗戦投手。第6戦は3回表に集中打を打たれ6失点で降板、2敗目を喫した。 1983年に井本隆との交換トレードで柳原隆弘とともに近鉄バファローズに移籍し、主にリリーフとして登板する。石本貴昭とのダブルストッパーとして活躍。1984年、1985年には最多セーブ(最優秀救援投手ではない)を記録した(35歳で開幕迎えたシーズンのセーブ王獲得は2010年ブライアン・シコースキーと並びパ・リーグ最年長記録タイ、日本プロ野球史上でも右投手として最年長記録タイ)。1984年のオールスターゲームに出場した際には、20世紀最後のオールスターゲーム3連投を経験している。 1986年には出番が減り、同年限りで現役引退。同僚だった金村義明によると、ある試合の乱闘で、投球練習中のブルペンから直行し、相手選手に殴りかかった際、空振りをしてしまい右肘が伸び切ってしまったのが原因だったと語っている。 プロ引退後も社会人軟式野球で現役を続け、茨城県代表として1995年の国民体育大会(ふくしま国体)でも登板した。引退後は故郷の北茨城市でアパレル会社や廃棄物処理会社での勤務を経て2010年に定年退職し、以降は故郷の北茨城市で余生を送っていたが、その後脳梗塞を患い、福島市内の病院で療養していた。 2019年11月19日、肺炎のため死去。70歳没。遺族の意向により、訃報は約3年後の2023年2月13日に公表された。 シンカー系の落ちる球を多用し、投球スタイルはスリークォーターであった。外国人選手からは「メジャーリーグで通用しそうな日本人」と言われた。 打撃のいい投手として知られ、1976年には打率.350(20打数7安打)1本塁打、1981年には打率.305(59打数18安打)1本塁打を記録した。通算で5本塁打を放っている。 各年度の太字はリーグ最高 最高勝率:1回(1978年) 月間MVP:1回(1978年5月) 初登板:1975年7月29日、対大洋ホエールズ13回戦(川崎球場)、6回裏に5番手で救援登板・完了、3回2失点 初奪三振:1976年4月4日、対読売ジャイアンツ2回戦(明治神宮野球場)、9回表に淡口憲治から 初勝利:1976年6月6日、対阪神タイガース11回戦(阪神甲子園球場)、4回裏無死に2番手で救援登板・完了、6回1失点 初セーブ:1976年7月31日、対大洋ホエールズ16回戦(明治神宮野球場)、8回表に2番手で救援登板・完了、2回無失点 初先発・初先発勝利:1976年10月19日、対阪神タイガース26回戦(阪神甲子園球場)、6回2失点 初完投勝利:1977年4月6日、対広島東洋カープ2回戦(明治神宮野球場)、9回2失点 初完封勝利:1977年7月5日、対読売ジャイアンツ13回戦(札幌市円山球場) 1000投球回:1981年9月20日、対広島東洋カープ24回戦(広島市民球場) ※史上201人目 初安打:1976年4月28日、対阪神タイガース5回戦(明治神宮野球場)、7回裏に古沢憲司から 初本塁打・初打点:1976年5月4日、対大洋ホエールズ3回戦(川崎球場)、9回表に渡辺秀武からソロ オールスターゲーム出場:3回 (1977年、1978年、1984年) 45(1973年 - 1976年) 21(1977年 - 1982年) 12(1983年 - 1986年) ^ “756号を打たれた男が王さんに感謝!今は海辺で静かに暮らす”. zakzak (2012年2月15日). 2012年2月16日閲覧。 ^ “元ヤクルト・鈴木康二朗さん、2019年に死去 70歳 球団初Vに貢献&王貞治に通算756号本塁打被弾「おれは逃げなかった」”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社). (2023年2月13日). https://www.sanspo.com/article/20230213-IOV65M7SJVLB7MAIR3CB34LDPQ/?outputType=theme_swallows 2023年2月13日閲覧。 ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、297ページ ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年 ^ 【鈴木康二朗さんを悼む】無口で医者嫌い…燕V1戦士の訃報悔し - サンスポ ^ パの乱闘珍伝説 鈴木康二朗はパンチ空振りでヒジ伸びて引退 茨城県出身の人物一覧 東京ヤクルトスワローズの選手一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 個人年度別成績 鈴木康二朗 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 藤村隆男 1953 大友工, 石川克彦 1954 杉下茂 1955 大友工 1956 堀内庄 1957 木戸美摸 1958 藤田元司 1959 藤田元司 1960 秋山登 1961 伊藤芳明 1962 小山正明 1963 山中巽 1964 石川緑 1965 山中巽 1966 堀内恒夫 1967 堀内恒夫 1968 島田源太郎 1969 高橋一三 1970 村山実 1971 坂井勝二 1972 堀内恒夫 1973 倉田誠 1974 松本幸行 1975 星野仙一 1976 加藤初 1977 新浦寿夫 1978 鈴木康二朗 1979 藤沢公也 1980 福士敬章 1981 江川卓 1982 都裕次郎 1983 津田恒美 1984 江川卓 1985 北別府学 1986 北別府学 1987 川端順 1988 小野和幸 1989 西本聖 1990 斎藤雅樹 1991 北別府学 1992 斎藤雅樹 1993 山本昌広 1994 紀藤真琴 1995 石井一久 1996 斎藤雅樹 1997 三浦大輔 1998 桑田真澄 1999 上原浩治 2000 工藤公康 2001 入来祐作 2002 上原浩治 2003 井川慶 2004 上原浩治 2005 安藤優也 2006 川上憲伸 2007 高橋尚成 2008 館山昌平 2009 D.ゴンザレス 2010 久保康友 2011 吉見一起 2012 杉内俊哉 2013 小川泰弘 2014 山井大介 2015 M.マイコラス 2016 野村祐輔 2017 薮田和樹 2018 大瀬良大地 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 青柳晃洋 2022 青柳晃洋 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1950 成田敬二 1951 田原基稔 1952 金田正一 1953 宮地惟友 1954 金田正一 1955 金田正一 1956 金田正一 1957 田所善治郎 1958 金田正一 1959 金田正一 1960 金田正一 1961 北川芳男 1962 金田正一 1963 金田正一 1964 金田正一 1965 村田元一 1966 渋谷誠司 1967 村田元一 1968 石戸四六 1969 河村保彦 1970 石岡康三 1971 松岡弘 1972 松岡弘 1973 松岡弘 1974 松岡弘 1975 松岡弘 1976 松岡弘 1977 松岡弘 1978 安田猛 1979 松岡弘 1980 鈴木康二朗 1981 松岡弘 1982 鈴木康二朗 1983 尾花高夫 1984 高野光 1985 梶間健一 1986 荒木大輔 1987 荒木大輔 1988 尾花高夫 1989 尾花高夫 1990 内藤尚行 1991 内藤尚行 1992 西村龍次 1993 西村龍次 1994 川崎憲次郎 1995 岡林洋一 1996 T.ブロス 1997 T.ブロス 1998 石井一久 1999 石井一久 2000 石井一久 2001 石井一久 2002 藤井秀悟 2003 K.ホッジス 2004 J.ベバリン 2005 石川雅規 2006 石川雅規 2007 石井一久 2008 石川雅規 2009 石川雅規 2010 石川雅規 2011 石川雅規 2012 石川雅規 2013 館山昌平 2014 小川泰弘 2015 小川泰弘 2016 小川泰弘 2017 石川雅規 2018 D.ブキャナン 2019 小川泰弘 2020 石川雅規 2021 小川泰弘 2022 小川泰弘 2023 小川泰弘 2024 サイスニード 表 話 編 歴 1位:永尾泰憲 2位:小田義人 3位:上水流洋 4位:山口高志(入団拒否) 5位:鈴木康二郎 6位:水江正臣 日本の野球選手 日本鉱業日立硬式野球部の選手 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 最高勝率 (野球) 茨城県出身のスポーツ選手 1949年生 2019年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2025/01/23 12:47更新
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suzuki yasujirou
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