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上野千鶴子の情報 (うえのちづこ)
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上野 千鶴子さんについて調べます

■名前・氏名
上野 千鶴子
(読み:うえの ちづこ)
■職業
社会学者
■上野千鶴子の誕生日・生年月日
1948年7月12日 (年齢75歳)
子年(ねずみ年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
富山出身

(昭和23年)1948年生まれの人の年齢早見表

上野千鶴子と同じ1948年生まれの有名人・芸能人

上野千鶴子と同じ7月12日生まれの有名人・芸能人

上野千鶴子と同じ出身地富山県生まれの有名人・芸能人


上野千鶴子と関係のある人

小倉千加子: 『男流文学論』(上野千鶴子・富岡多恵子との鼎談)筑摩書房、1992年(のちちくま文庫)


藤本由香里: 編集者として手がけた書籍として『レイプ・男からの発言』(1988年)、『発情装置』(1998年)、『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(2000年)、『竹宮惠子のマンガ教室』(2001年)、など多数ある。


藤本由香里: 1994年3月 上野千鶴子(編)ニュー・フェミニズム・レビュー vol.5 学陽書房、ISBN 4313840451


富岡多恵子: 『男流文学論』上野千鶴子・小倉千加子 筑摩書房 1992/ちくま文庫 1997


藤本由香里: 4人のフェミニスト上野千鶴子、加納実紀代、樋口恵子、水田宗子とともに白藤花夜子名義で編集委員として名を連ねている。


江原由美子: (天野正子・伊藤公雄・伊藤るり・井上輝子・上野千鶴子・大沢真理・加納実紀代)『新編 日本のフェミニズム』全12巻(岩波書店、2009年〜2011年)


春名幹男: 2021年7月2日、元外交官の飯村豊と社会学者の上野千鶴子が主導となり、ウェブサイト「Change.org」にて、東京オリンピック・パラリンピック反対を求めるオンライン署名活動が開始された。


堤清二: ポスト消費社会のゆくえ(上野千鶴子対談、文春新書、2008年)


岡井隆: この時同僚だった上野千鶴子と交友を持ち始める。


伊藤比呂美: 『のろとさにわ』(1991年12月、平凡社→1995年11月、平凡社ライブラリー)上野千鶴子との共著


斎藤環: 上野千鶴子・宮台真司・小谷真理ほか『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』双風舎、2006年6月。


中野翠: 日本のフェミニズム運動に対して過去に批判的であったこともあり、1987年(昭和62年)のアグネス論争では林真理子を支持し、アグネス・チャンを批判したため、上野千鶴子らフェミニストの猛反発をうけた。


水無田気流: 『非婚ですが、それが何か!?:結婚リスク時代を生きる』(上野千鶴子) ビジネス社、2015年。


大澤真幸: (井上俊・上野千鶴子・見田宗介・吉見俊哉)『岩波講座現代社会学(全27巻)』(岩波書店、1995年-1997年)


荻上チキ: 『バックラッシュ!――なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』 双風舎 2006年、共著 上野千鶴子・宮台真司・斎藤環・小谷真理・鈴木謙介・後藤和智・澁谷知美


姫野カオルコ: 同年4月の東京大学入学式祝辞で上野千鶴子氏が『彼女は頭が悪いから』に言及し、TVニュースにもなって注目された。


北原みのり: 上野千鶴子、信田さよ子、北原みのり『毒婦たち: 東電OLと木嶋佳苗のあいだ』河出書房新社、2013年10月25日。


宮迫千鶴: 1984年エッセイ集『超少女へ』で注目され、上野千鶴子との対談を刊行、絵のほかに多くの女性論などのエッセイを刊行した。


吉行淳之介: フェミニストの上野千鶴子は、ミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)傾向の強い作家として吉行以外に永井荷風を挙げており、ミソジニーの男性には「女好き」が多いと指摘している。


小熊英二: これに関して小熊英二と対談した上野千鶴子は、「田中美津さんがたいへんお怒りになったとおり、あなたの理解は十分に届いていないと思いました。


青木やよひ: 1983年前後、エコロジカル・フェミニズムを掲げて上野千鶴子と論争した。


白石かずこ: その後の「学者フェミニスト」の登場で影が薄くなったが、上野千鶴子が愛するニキ・ド・サンファルを日本に紹介したのは白石である。


三本和彦: 妻:上野千鶴子(1931年 - 2001年9月) - 写真家


鴻巣友季子: 『別冊 NHK100分de名著 フェミニズム』(加藤陽子, 上間陽子, 上野千鶴子共著、NHK出版) 2023.6 ISBN 978-4144072970


大澤真幸: (見田宗介・上野千鶴子・内田隆三・佐藤健二・吉見俊哉)『社会学文献事典』(弘文堂、1998年)


曽野綾子: 学生運動の評価をめぐって上野千鶴子と論争(1989年)。


藤本由香里: 編集者として、あるいはマンガ・フェミニズムの評論家として、上野千鶴子、小倉千加子、中島梓、吉田秋生などの人脈を有しつつ、その一方で少女マンガや、観た映画、編集などで接した知識から、家族問題を考察する『愛情評論 「家族」をめぐる物語』を上梓、精神科医の香山リカは北海道新聞の書評で同書を取り上げ、「現代という戦場で日々を送る若者や女性たちにとっては、格好のブックガイド」であると評価している。


小倉千加子: 『ザ・フェミニズム』(上野千鶴子との対談)筑摩書房、2003年(のちちくま文庫)


乙葉: 「伝説の秋田犬 ハチ」(2006年1月10日) - 上野千鶴子


藤本由香里: 1990年12月 上野千鶴子(編) ニュー・フェミニズム・レビュー vol.1 学陽書房、ISBN 4313840419


上野千鶴子の情報まとめ

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上野 千鶴子(うえの ちづこ)さんの誕生日は1948年7月12日です。富山出身の社会学者のようです。

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学歴・職歴[ソースを編集]、論争[ソースを編集]などについてまとめました。家族、現在、卒業、兄弟、父親、母親、テレビ、結婚に関する情報もありますね。今年の情報もありました。上野千鶴子の現在の年齢は75歳のようです。

上野千鶴子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

上野 千鶴子(うえの ちづこ、1948年7月12日 - )は、日本のフェミニスト・社会学者(社会学博士)。専門は家族社会学、ジェンダー論、女性学。

東京大学名誉教授、NPO法人ウィメンズアクションネットワーク (WAN) 理事長、日本社会学会理事、元関東社会学会会長(2005年-2006年)、元日本学術会議会員(現在は連携会員)、野村ホールディングスダイバーシティ・フォーラム講師(2021年〜)、シューレ大学アドバイザー、「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」共同代表を務める。慰安婦問題の解決をめざす会に所属。

京都大学文学部哲学科社会学専攻卒業、東京大学大学院人文社会系研究科博士。家族社会学、女性学研究者の立場から、フェミニズムについて積極的に発言し、一般層の社会学への関心を誘った。著書に『家父長制と資本制』(1990年)、『おひとりさまの老後』(2006年)などがある。2024年、米タイム誌「世界で最も影響力のある100人」に選出された。

1948年の富山県中新川郡上市町出身、父は満州国帰りの内科医であり、生まれたのは両親の疎開地であった。妹が二人いる開業医の娘として、裕福な家庭で育った。開業医の父と専業主婦の母、5つ上の兄に2つ下の弟、父方の祖母の6人家族の中で、他の女児のように男兄弟に控え目にならず、好き放題の天井知らずと愛されて育った。

幼稚園は富山のミッション系の名門であった。親に言われるがままに富山大学教育学部附属中学校を受験し入学。中学卒業時に一家は石川県金沢市に移住。このときも父親に命じられた学校である石川県立金沢二水高等学校を受験し、入学した。兄弟の中で抜群に成績がよかったものの、学校と家の中だけが生活圏であったことで犬と本だけが友達だった。中学も高校も一人娘を溺愛する父に決められた進学先であった。ただし、13歳の時に父親を「パパ」から「オヤジ」と初めて呼んだ以降から自身の顔色を伺うようになったため、上野は父親のそこにつけこんだこと、母がそれを疎ましい思いで見てたことを明かしている。

このままでは実家から出られないとして、家を出たい一心で国際基督教大学の受験を希望するが、父親に「東京は娘を出すところではない」と即座に却下された。教育パパとママである両親と一緒に、18歳のときに関西へ神戸女学院と関西学院と同志社と京大の4つの大学見学ツアーに行った際に、父が勧める女子大学である神戸女学院は「女子大の選択はなし」で拒否し、男女のカップルがキャンパス内で手をつないでた同志社生より、みんなひとりずつ俯いて歩いてた京大生の姿を見て「あ、ここは私の来るとこだ」と思ったことを明かしている。関西で下宿している兄と同居するという条件で、兄の下宿から通える京都大学と同志社大学を受験し、1967年4月、京都大学文学部哲学科に入学。

同年の1年生の秋に学生運動と初遭遇した。それは同年10月8日に羽田闘争で命を落とした文学部同期生の山崎博昭の追悼デモであり、これが初参加の学生運動であった。両親とも学生運動に反対で、ワンゲル部に入ろうとした際にも反対した。しかし、兄が「学生運動やるより山登っているほうがマシだろ」とかばってくれたことでワンゲル部に入れたが、実は学生運動も親類に隠しやっていたことを明かしている。

全共闘活動家だったが、闘争のバリケードの中でも女性差別を経験した。影で支えるタイプの女性はモテるのに男子と一緒にゲバ棒を持つ同志タイプの女を彼女にしない学生運動家のダブルスタンダード、大学闘争の現場に居た同志であるが性的に開放的な女性を「公衆便所」と呼んでいたことを批判している。「天皇制解体」「家族帝国主義粉砕」と叫んでいるのに、裏では家父長的男性と学生運動の男性が同じことをしていること、頭の中は革命でも体は完全に家父長制で「共産党、家に帰れば天皇制」という時代と何も変わってないことに気づいたと述べている。上野は銃後として、おむすび製作をやらされていたこと、運動には男女もないはずなのに「男並みになろうとする女」はバカにされる男女性差別を味わって私怨が湧き、後のフェミニストになった理由と明かしている。全共闘運動のピークである1969年に京大のバリケードが機動隊によって解除されたことで、失意になり、一年間休学する。

1972年に京都大学を卒業後、同大学大学院に進学。大学院に進学した理由について、衰退期に集団になったときの人間の恐ろしさや運動退潮期に表出した人間の卑劣さを味わったこと、女だけの集まりは特に気持ち悪かったと感じていたため、「就活なんて死んでもしたくない。だから向上心、向学心ゼロでしたが、大学院にモラトリアム入院しました。」と明かしている。

大学院生時代は京大俳句会に所属し、上野ちづこ名義で俳人として活動していた。20代後半の際に日本女性学研究会に友人に誘われて、「気持ちわる〜」と思いながら「1回だけ見てみよう」と軽い気持ちで参加したら、「OL、主婦、教師、いろんな職業の人がいて、みな自立していて、知的で寛大で参加者の女らがとてもチャーミングだった」ためにハマってしまったと述べている。日本女性学研究会の先輩女性らと知り合うまで、男と付き合うのは簡単だけど、女とどう付き合っていいのかわからなかったこと、彼女らのおかげで「女が信じるに足りる生き物だと学んで、ひとりでいることから抜け出せた。」と女性不信を脱却したと明かしている。このとき、「自分を研究対象にできると気づいたことで、初めて自発的に何かをやろうという気になった」という。

構造主義文化人類学と社会科学の境界領域を論じた理論社会学について研究者となり、この頃の1970年代の論文は『構造主義の冒険』にまとめられている。

25歳の京都新聞の求人欄を見た際に8割が「男子のみ」、「男女共」はパチンコ店の住み込み夫婦で、残りの「女子のみ」はホステスか珠算簿記3級以上所持が求められる経理事務であった。「ホステスやるには薹が立ってたし、珠算簿記なんてできない。新聞を見ながら、私には何の能力もない、無芸無能なんだ」と思い知ったことを明かしている。更に、奨学金とバイトで食いつなぎ、当時交際していた彼氏が働いていたから、一時期養ってもらったと述べている。大学に5年、大学院に5年、オーバードクター2年、計12年京大に在学した。教員免許は大学教員ならいらないと気づいて就活を始めた。

1977年3月に京都大学大学院の博士課程を単位取得退学。その後の2年間を日本学術振興会研究員として過ごす。1979年4月の30歳の時に公募により平安女学院短期大学(現:平安女学院大学短期大学部)の専任講師となる。

1980年(昭和55年)、マルクス主義フェミニズムを知り、これの紹介者・研究者となる。上野はのちに『家父長制と資本制 - マルクス主義フェミニズムの地平』(1990年)を書いた。「日本女性研究学会」の「女性学年報」創刊号(1980年10月発行)の編集長を務めた。

また、思想輸入ではない日本の女性問題史の整備にも努め、1970年代に起きたウーマンリブ運動への再評価も行った。

『セクシィ・ギャルの大研究』(1982年)で初メディアデビューした。タイトルを見た両親は「うちみたいな堅い家からなぜあんな子が。お前の育て方が悪かったからだ」と父は母を責め、「あなたが甘やかしたから」と母は父を責めたものの、本屋で買ったモノを他の親戚に勧めてくれたことを明かしている。表紙カバーに推薦文を寄せた栗本慎一郎や山口昌男、あるいは 鶴見俊輔などから評価され、文化人類学・記号論・表象文化論などの方法を使って現代の消費社会を論じるフェミニストとして知られるようになる。特に1987年(昭和62年)から1988年(昭和63年)にかけて世論を賑わせたアグネス論争にアグネス・チャン側を擁護する側で参入した。

1989年(平成元年)、京都精華大学に赴任し、人文学部助教授となる。

1991年の43歳の時に母親が乳がんで亡くなる。上野は3日目からキレてしまうために娘プレイが2泊3日しか出来ず、母親が入退院を繰り返している間ずっと距離を置いて、行かないように逃げてたと述べている。母親の最期の頃に、わぁ〜と気持ちが抑えられなくなったことで、「お母さん、私は家を出てから必死で自分を育て直したのよ」という言葉が口から出てしまったこと、母から「なら、私の育て方がよかったんじゃないの」と言われてショックを受けて、「母という名には勝てやせぬ。」と思ったことを明かしている。母親の死自体には、ずっと離れていたから特に何も思わず、「残された父をどうしよう!」と思っていた。上野によると、父には自身が愛された記憶があるから「この人が衰えて死んでいく姿をちゃんと見届けよう」と思ったこと、父は自身の妻が逝ってから孤独と失意のうちに2001年まで生き、死亡時には肩の荷が下りたと述べている。

1992年(平成4年)、同教授。京都精華大学時代には国際日本文化研究センター客員助教授も務めている。

1993年(平成5年)4月、東京大学文学部助教授に就任。

1994年『近代家族の成立と終焉』(岩波書店)でサントリー学芸賞受賞。

1995年から東京大学大学院人文社会系研究科教授就任。

1990年代以降も家族・建築・介護・福祉の問題や文学・心理学・社会心理学などの学問領域で論じている。近代家族論として『近代家族の成立と終焉』(1994年)などがあり、それを発展させて近代国家論を取り扱った『ナショナリズムとジェンダー』(1998年)や、介護問題に派生させた著作もある。

博士課程退学後にマーケティング系のシンクタンクで仕事をしていたこともあって、消費社会論の著作も多い。

高齢者の介護の研究も進めていた上野は、2011年(平成23年)に東京都武蔵野市へ転居。「日本で初めてリバースモーゲージを始めた福祉公社があり、以前から注目していた」と転居の理由を同市の広報誌で述べている。同年3月に1995年から務めていた東京大学大学院人文社会系研究科教授を定年2年残して退職。2011年4月から認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長就任。

2012年度朝日賞受賞。

2013年(平成25年)、『ケアの社会学…当事者主権の福祉社会へ』で東京大学より博士(社会学)を取得した。

2021年、親友であり介護していた色川大吉の死後の各種手続きを行うために婚姻届を提出し、15時間の婚姻関係にあった。婚姻届の提出にあたり、年長者(親、色川)の姓になる養子縁組か、色川の姓を変える婚姻かを悩んだため、提出がぎりぎりになった。上野は、「ケア・介護問題」について10年以上研究してきたため、色川からは人に「このひとはボクの親友です」「介護の専門家で」「理論を実践している最中です」と紹介されていた。色川との関係について、上野は「ひとりで光る星が、互いに溶け合うことなく、去って行く」ようなものだったと述べている。

学歴・職歴[ソースを編集]

1964年(昭和38年)3月 - 富山大学教育学部附属中学校卒業

1967年(昭和42年)3月 - 石川県立金沢二水高等学校卒業

1972年(昭和47年)3月 - 京都大学文学部哲学科社会学専攻卒業

1977年(昭和52年)3月 - 京都大学大学院文学研究科社会学専攻博士課程単位取得退学

2013年(平成25年)9月 - 東京大学より博士(社会学)学位授与

1977年(昭和52年)4月 - 京都大学大学院文学研究科社会学専攻研修員

1979年(昭和54年)4月 - 平安女学院短期大学(現:平安女学院大学短期大学部)専任講師

1982年(昭和57年)4月 - 平安女学院短期大学助教授

1989年(平成元年)4月 - 京都精華大学人文学部助教授

国際日本文化研究センター客員助教授

1992年(平成4年)10月 - 京都精華大学人文学部教授

1993年(平成5年)4月 - 東京大学文学部助教授

1995年(平成7年)4月 - 東京大学大学院人文社会系研究科教授

2009年(平成21年)5月 - 特定非営利活動法人ウィメンズアクションネットワーク (WAN) を設立して、理事に就任する。

2011年(平成23年)

    3月 - 東京大学退職(退職記念講義は東日本大震災のため7月に延期された)。

    4月 - 特定非営利活動法人ウィメンズアクションネットワーク (WAN) 理事長

    東京大学名誉教授

    2012年(平成24年) - 立命館大学大学院先端総合学術研究科の特別招聘教授(2017年まで)。

    1982年(昭和57年)9月 - ノースウェスタン大学人類学部客員研究員( - 1983年(昭和58年)6月)

    1983年(昭和58年)4月 - シカゴ大学人類学部客員研究員( - 1984年(昭和59年)8月)

    1991年(平成3年)4月 - ボン大学日本語学研究科客員教授( - 1992年(平成4年)3月)

    1996年(平成8年)3月 - メキシコ大学院大学アジア・アフリカ研究センター客員教授

    1996年(平成8年)10月 - コロンビア大学 バーナード・カレッジ、アジア中近東学部客員教授

    1994年(平成6年)12月 - 『近代家族の成立と終焉』でサントリー学芸賞(社会・風俗部門)。

    2012年(平成24年)1月 - 2011年(平成23年度)朝日賞

    論争[ソースを編集]

    上野は様々な分野で発言して多くの論争に関わり、その言動は賛否を受けてきた。上野は論争に強いという評価があり、たとえば、斎藤美奈子『文壇アイドル論』(岩波書店、2002年、pp.142-143)には、「彼女は論争にだけはめちゃめちゃ強かった。逆にいうとアンチ・フェミニストの中に、彼女に勝てるほどの論客がいなかった」「上野千鶴子の強みは、やはり理屈(含む屁理屈)の部分なのです」などの記述がある。また、三浦瑠麗は『不倫と正義』(新潮新書、2022年、pp.149)において「上野さんが常に論争を呼ぶ理由の1つは、強い感じがするから。思想は人が作るものですから、その人の生きてきた軌跡が入っている。上野さんって結構、叩かれっ放しでやっているところもありますよね。その分格好良く、佇まいがいいじゃないですか」と評している。また遥洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(筑摩書房)はそうした「論客」上野のイメージを伝えている。

    アグネス論争やエコフェミ論争以外の主なものは斎藤美奈子『文壇アイドル論』(2002年) にまとめられている。

    アグネス論争[ソースを編集]

    上野が関与した代表的な論争は「アグネス論争」であり、いったんアグネス批判派に傾きかけていた流れが、上野が議論に加わった結果、一気に逆向きになるほどだったとされている。当初の「大人の空間に子供を入れるな」という「林・中野」対アグネス・チャン論争は、上野により「働く母親一般の問題」に変化し、様々な分野の論客が参戦する一大論争になった。

    エコフェミ論争[ソースを編集]

    フェミニズム内部の論争では、たとえばエコロジカル・フェミニズムを唱えた青木やよひに対して、男性優位の文化イデオロギーに過ぎないとして激しい論戦を仕掛けた。いわゆるエコフェミ論争で、上野側の主張は『女は世界を救えるか』(1985年)などにまとめられている。

    マルクス主義フェミニストとして[ソースを編集]

    ベルリンの壁崩壊後の1990年に「女性解放の理論が、マルクス主義の射程から脱け出ていないのは、マルクス主義だけが、ほとんど唯一の、(近代)産業社会の解明とそれからの解放の理論だからである」としており。その後にも、ハンガリー動乱とプラハの春以降もヨーロッパの社会主義者であった人らについて、2008年に「ソ連があるにもかかわらず社会主義者になった、良心的・体制批判的な人たち」と社会主義を「善」とする立場をとっている。2009年には女性の抑圧を解明するフェミニズムの解放理論には社会主義婦人解放論、ラディカル・フェミニズム、マルクス主義フェミニズムの三つしかないと主張している。労働者階級が勝利し階級支配を廃絶すれば女性も解放されるという「社会主義婦人解放論」を強く批判、「ラディカル・フェミニズム」も「社会主義婦人解放論」と同様に「市場」と「家族」が重なり合った近代産業社会における資本主義社会を前提としていることが固有の女性差別の根源であると主張し、マルクス主義フェミニズムを支持している。

    山梨県での講演[ソースを編集]

    2013年10月に山梨県山梨市が、上野に対し在宅医療などをテーマに講演を依頼し、同市は公式サイトなどで参加者を募集したが、市民らから「過去に問題発言を多々行っている上野を呼ぶのはおかしい」などのクレームが入ったことを理由として、同市の望月清賢市長が講演中止を決め上野に通知した。これに対し上野は自身のブログで「(脅迫などを受けたわけでないのに)市は過剰な自主規制を行っている」などの反論を寄せ、同市の対応を批判した。その後、市民から今度は開催を求める抗議を受け、市は非を認めて方針を撤回し、講演会開催を決定し、2014年3月18日に行われた講演の冒頭で、望月市長が「上野先生に無礼を働いた」と陳謝した。

    2019年東大入学式での祝辞[ソースを編集]

    2019年4月12日に行われた東京大学学部入学式において来賓として登壇し、祝辞を述べた。祝辞の中で上野は、2018年に発覚した医学部不正入試問題に触れつつ、東大や四年制大学全体において女子の入学者の比率が低いことに言及し、さらに東大の学生生活や大学組織の中でも未だ性差別が根強く残っていることを指摘した。その上で新入生に対し、現在の自分があるのは努力ではなく環境のおかげであることを自覚するよう促し、自らの能力を自分のためだけではなく、機会不平等が残る社会において恵まれない人々を助けるために使うことを呼びかけた。最後に、異なる環境に身を置くことを恐れず、未知を探求しメタ知識を身につけるよう説き、祝辞を締めくくった。

    この祝辞は大きな反響を呼んだ。一例として、冷泉彰彦はニューズウィーク日本版のコラムにおいて「名演説」と評価し、上野を登壇させた大学の姿勢を「危機感の表れ」と評価した。一方で、週刊新潮の取材を受けた元東大総長の中でも、小宮山宏は賞賛する一方吉川弘之は一部の内容に批判的見解を示すなど、評価は賛否が分かれた。インターネット上においても、日本のTwitterでは上野の名がトレンド入りし、祝辞に対して賞賛の声が上がる一方、「場違いな祝辞」などといった批判の声もあった。

    上野自身は入学式後「AERA」のインタビューを受けて、「賛否ともその大きさは想定以上でした」と反響が大きかったことに驚きながら、内容については「当たり前のことを言っただけ」と語った。

    脱成長主張[ソースを編集]

    2017年2月11日付の東京新聞に「平等に貧しくなろう 社会学者・東京大名誉教授 上野千鶴子さん」という題でのインタビュー記事が掲載された。上野は日本の人口の自然増や社会増(移民受け入れ)は不可能であり、日本は人口減少と衰退を引き受けるべきとの見解を示し、「日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」と述べた。

    社会学者の北田暁大は上野に代表される左派の脱成長論が、移民受け入れに反対するという点でドナルド・トランプ信奉者と変わらないと批判した。

    その他の発言[ソースを編集]

    著書『ジェンダー・フリーは止まらない』(松香堂)において、「女は嫁に行くのが一番」のような信条を犯罪として取り締まるべきだと主張した。

    1986年の著書『マザコン少年の末路』で「自閉症や登校拒否症は母親が甘やかして育てたことが原因で、自立心を失ったマザコン」といった趣旨の記述をして、当事者団体から差別を助長するとの抗議を受けた。その後話し合いが持たれ、この著書に対しては絶版処置を取らず、代わりに上野による総括を掲載した増補版を新たに出版することとなった。

    1988年の著書『女遊びに』において、「おまんこ、と叫んでも誰も何の反応を示さなくなるまで、わたしはおまんこと言いつづけるだろ」、と述べた。

    『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』において、オタクが「女と付き合うのは、めんどうくさい。それよりギャルゲーがいい」といったりすることから、男の幻想を演じる女が少なくなったことを指摘している。また、男女間の関係から生じるノイズをめんどうくさがる男たちについては実際の関係から完全撤退してくれたほうがいい述べ、「ギャルゲーでヌキながら、性犯罪を犯さずに、平和に滅びていってくれればいい。そうすれば、ノイズ嫌いでめんどうくさがりやの男を、再生産しないで済みますから」「ただし、そうなった場合、彼らの老後が不良債権化するかもしれませんね。ところが、彼らが間違って子どもをつくったらたいへんです。子どもって、コントロールできないノイズだから。ノイズ嫌いの親のもとに生まれてきた子どもにとっては受難ですよ。そう考えてみると、少子化はぜんぜんOKだと思います」と主張してる。また、同著の中で「『男女共同参画社会は、新自由主義的なベクトルとフェミニズムとの妥協の産物だ』というのは、100パーセント正しいと思います」と述べている。

    2012年12月の64歳時に朝日新聞beの「悩みのるつぼ」での性欲のために受験に集中出来ないとする男子中学生から性処理についてどうしたら良いかの相談において、「男性というものは性欲に振り回される生き物だから同情に堪えない。」「経験豊富な熟女に、土下座してでもよいから、「やらせてください、」とお願いしてみてください」と回答した。昔は「年下男性の筆下ろしをしてくれる年上女性」がおり、上野の友人男性はこうすることによって、10回に1回はOKをもらったことも明かした上で、自分も若ければ男子中学生の筆おろしをしたいと回答した。上野の発言が話題になり、2012年12月8日放送の東京MXテレビの番組「5時に夢中サタデー!」でも取り上げられた。

    古市憲寿との対談による『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』において、「私は経験科学の研究者だから嘘はつかないけど、本当のことを言わないこともある」やパフォーマンスレベルではデータを出さないこともあると述べ、「ジェンダー研究はフェミニズムのツールです」と自身の研究は運動に利用するためと主張している。これについては小熊英二に「活動家としては正しい」と言われている。

    結婚しているフェミニストに関して、「自分の性的自由を放棄する契約関係に自ら入り、契約を破ったら相手を非難する権利を持つなんて、想像もできない。まったく理解できない人間関係ね」として、信用できないと述べている。

    2010年の著書『女ぎらい』において「フェミニストは女嫌い(ミソジニー)」という説について、ミソジニー社会で生まれ育ってミソジニーを身につけていない女はまずおらず、またフェミニストは自らのミソジニーを自覚してそれと闘おうとしている者のことであるから、「そのとおり」と肯っておけばよい、と述べている。そして、もしミソジニーから完全に自由な女がいたとしたら、その女性は闘う対象を持たないのだから、フェミニストである理由もないと主張している。

    東洋経済オンラインでのインタビューにおいて、「エリート女の泣きどころは、エリート男しか愛せないってこと(笑)。男性評論家はよく、エリート女は家事労働してくれるハウスハスバンドを選べなんて簡単に言うけど、現実的じゃない」と主張している。

    2021年12月のNEWSポストセブンの取材において、「すでに『ブス』という言葉がタブーになりましたから、その対極にある『美人』も言っちゃダメというのは、論理的にも当然」とした上で、女性が男性の容姿について「イケメン」と言うことについては、男は多元尺度であり男にとって最も重要な尺度は金力(稼得力)であるから男性の容姿をいじることは問題ないとした。また「イズム」とは「差別」という意味であると主張した。

2024/06/21 17:49更新

ueno chiduko


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