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大森一樹の情報 (おおもりかずき)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

大森一樹の情報(おおもりかずき) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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大森 一樹さんについて調べます

■名前・氏名
大森 一樹
(読み:おおもり かずき)
■職業
映画監督
■大森一樹の誕生日・生年月日
1952年3月3日 (年齢70歳没)
辰年(たつ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
大阪出身

(昭和27年)1952年生まれの人の年齢早見表

大森一樹と同じ1952年生まれの有名人・芸能人

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大森一樹と同じ出身地大阪府生まれの有名人・芸能人


大森一樹と関係のある人

中村育二: 恋する女たち(1986年、大森一樹監督、東宝) - 小林博史 役


飯島大介: 「トットチャンネル」大森一樹監督(1987年)


川北紘一: 『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)は監督の大森一樹からの要望で昼間の戦闘が中心となった。


渡邊孝好: 以後、大森一樹、藤田敏八監督の助監督などを務める。


川北紘一: 2013年(平成25年)、大森一樹の招きで大阪芸術大学映像学科の客員教授に就任。


渡辺孝好: 以後、大森一樹、藤田敏八監督の助監督などを務める。


大河原孝夫: また作り手の意図をスタッフに伝達させるためには印刷物としてあった方が良いと考えており、『ゴジラvsモスラ』(1992年)では、脚本を手掛ける大森一樹は決定稿が完成したあとに大河原の方で変更を加えることを望んでいたが、大河原は大森へ意見するかたちを選んだと述懐しており、この体制は次作『ゴジラvsメカゴジラ』(1993年)でも同様であった。


坂井孝行: ゴジラvsモスラ(脚本:大森一樹、別冊コロコロコミックスペシャル 1992年10月号-12月号)


笠原秀幸: わが心の銀河鉄道 -宮沢賢治物語-(1996年、監督:大森一樹) - 賢治の弟 役


土方隆行: 『シュート!』大森一樹監督作品(1994年)音楽


牧瀬里穂: 2000年 『ちんちろまい』(ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント、監督:大森一樹) - 貝原直子 役


永岡佑: 津軽百年食堂(2011年、大森一樹監督)


吉満涼太: 劇男一世風靡の一員として原宿歩行者天国で毎週日曜日に寸劇やダンスをしていたが、1986年の東宝映画『恋する女たち』(斉藤由貴主演、大森一樹監督)のナンパな大学生役でデビュー。


田村英里子: 中学3年の終わりに上京、東映映画『花の降る午後』(大森一樹監督)に古手川祐子と数シーンだが共演しスクリーンデビューを果たす。


佐野元哉: T.R.Y.(2003年 大森一樹監督) - 陸軍官僚 役


山口森広: 『ベトナムの風に吹かれて』大森一樹監督 - ドエン/遠藤 役


室井滋: 長崎俊一、大森一樹、山川直人、山本政志、石井聰亙、阪本順治、松岡錠司、緒方明などとともに自主映画のフィールドで活躍。


飯島大介: 「すかんぴんウォーク」大森一樹監督(1984年)


長谷川和彦: 1982年6月、大森一樹、相米慎二、高橋伴明、根岸吉太郎、池田敏春、井筒和幸、黒沢清、石井聰亙ら若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」(ディレカン)を設立、監督代表として取締役に就任する。


宮本大誠: ゴジラvsキングギドラ(1991年、大森一樹監督)


山田辰夫: 1984年の『すかんぴんウォーク』(大森一樹監督、吉川晃司主演)では、大阪映画祭最優秀助演男優賞を受賞。


渡辺蕗子: 1984年2月公開の吉川晃司デビュー映画「すかんぴんウォーク」(大森一樹監督、宮川泰音楽)の音楽制作に参加。


高嶋政伸: デビュー当初は小劇場出身だったこともあり、声が大きく芝居も大げさで勢いだけであったというが、『ゴジラvsビオランテ』(1989年)で監督の大森一樹から滑舌良く喋ることよりも気持ちを大事にすることを教えられ、演じるものの気持ちになって演じることができるようになったと述懐している。


古尾谷雅人: 一般作進出は、1979年のフジテレビドラマ『二人だけの儀式』だが、本格的進出は1980年の映画『ヒポクラテスたち』(監督・大森一樹)。


鈴木清順: 大森一樹が『暗くなるまで待てない!』(1975年)『ヒポクラテスたち』(1980年)と続けて清順を「特別出演」させて以降、彼をリスペクトする若手監督たちの間で「鈴木清順のカメオ出演」が流行のようになり、大量の映画やテレビドラマに出演することとなった。


東恵美子: 花の降る午後(1989年) - 監督:大森一樹


大林宣彦: 大林が商業映画デビューしたこの年が一つのターニングポイントとなり、この流れから自主映画出身者として大森一樹、森田芳光、CM出身者として市川準らが出た。


古尾谷雅人: 3月27日に営まれた通夜では斉藤洋介、竹中直人、阿藤快、大杉漣、ともさかりえ、KinKi Kidsの堂本剛、TOKIOの松岡昌宏、映画監督の大森一樹ら約600人が参列。


川北紘一: また、同年11月から12月にかけて大森一樹や大阪芸術大学映像学科と共に制作した『装甲巨人ガンボット』がテレビ大阪で放送され、これが遺作となった。


永井明: また、その延長線上でコミック『研修医古谷健一』及び『医龍-Team Medical Dragon-』の原案、アニメ版ブラック・ジャックの監修や1990年(平成2年)の映画、『ボクが病気になった理由』では大森一樹との共同脚本を手がけている。


大森一樹の情報まとめ

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大森 一樹(おおもり かずき)さんの誕生日は1952年3月3日です。大阪出身の映画監督のようです。

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ゴジラシリーズについて、監督作品などについてまとめました。映画、父親、卒業、結婚、病気、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。70歳で亡くなられているようです。

大森一樹のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

大森 一樹おおもり かずき1952年〈昭和27年〉3月3日 - 2022年〈令和4年〉11月12日)は、日本の男性映画監督、脚本家。株式会社ファーストウッド・エンタテインメント代表取締役。日本映画監督協会理事、大阪芸術大学芸術学部映像学科学科長。血液型はAB型。文芸作品から怪獣映画まで幅広いジャンルを手掛ける。

1952年に大阪府大阪市東住吉区に医師をしている父親の家で生まれる。1961年に父親の転勤で兵庫県芦屋市に転居、芦屋市立精道中学校、六甲高等学校、京都府立医科大学医学部卒業。医師免許を持つ映画監督という希少な人物でもある。

もともと漫画少年であり、手塚治虫や真崎守の作品などに影響を受ける。六甲高等学校在学中の1968年には仲間たちと自主映画(8ミリ映画)を制作し、村上知彦と知合う。京都府立医科大学在学中は、ジャン=リュック・ゴダールに憧れながら村上・西村隆・小西均らと映画自主上映グループ「無国籍」を結成し、新開地の映画館で邦画のオールナイト上映企画を行った。一方、大森、村上らは、週刊ファイトの高橋聡記者を巻き込んで、ロマンポルノ親衛隊を結成している。また、大学在学中の1975年には高橋が撮影した16ミリ映画『暗くなるまで待てない!』が、自主映画ながらキネマ旬報ベスト・テンで21位に入るなど、高く評価される。

1978年、前年に第3回城戸賞を受賞したシナリオを自ら監督した『オレンジロード急行』で商業映画デビュー。前年の東宝の大林宣彦、同年の日活の石井聰亙らとともに、自主映画作家が助監督経験なしに大手撮影所でいきなり監督をつとめるムーブメントとして話題を呼ぶ。CFの分野で商業映像の経験が豊富だった大林、澤田幸弘との共同監督という形だった石井に対し、アマチュアでありながらメジャー松竹の番線作品で単独の脚本兼監督を担当した大森の事例は際立っていた。この作品は必ずしも高い評価を受けられなかったが、自身の体験を元にして大学病院を舞台にした作品『ヒポクラテスたち』で各種映画賞を受賞。

以降、中学校の先輩である村上春樹作品の映画化『風の歌を聴け』を経て、1980年に10年の在学を経て大学を卒業。同年に同大学出身の眼科医・聖子と結婚、一男一女をもうける。1982年6月には長谷川和彦、相米慎二らと若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」(ディレカン)を設立。

1984年からの吉川晃司主演「民川裕司3部作」以降、会社企画の娯楽映画にも対応できる職人監督として東宝の信頼が厚くなり、1980年代後半は斉藤由貴主演の三部作などを担当。特に1989年の『ゴジラvsビオランテ』ではフリーランス監督としては初めてゴジラシリーズの演出を務めるなど、自主映画出身でありながらプログラム・ピクチャーも撮影可能な若手監督として評価される。ゴジラ作品はその後も『ゴジラvsキングギドラ』をはじめ、多数の作品で監督・脚本を務めた。

1990年に独立し東京都世田谷区にファーストウッド・エンタテインメントを設立したものの、デビューから一貫して関西を拠点としていた。

1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生し自宅マンションが半壊、近くの小学校で仮生活しながら復興活動に尽くす。翌週には映画『緊急呼出し エマージェンシー・コール』ロケのためマニラへ発っており、翌月に帰国してからは『ゴジラvsデストロイア』の設定シナリオを書き上げている。

1998年に『日本沈没1999』の監督に起用されたが、松竹の経営不振により、製作中止になった。

2000年4月から2005年3月大阪電気通信大学総合情報学部メディア情報文化学科教授。2005年4月から大阪芸術大学芸術学部映像学科学科長・同大学院教授。

2015年、第28回東京国際映画祭のコンペティション部門審査員を務める。

2022年11月12日午前11時28分、急性骨髄性白血病のため、兵庫医科大学病院で死去。70歳没。同月20日には「第23回宝塚映画祭」で代表作を上映、舞台挨拶に立つ予定であった。

ゴジラシリーズについて

大森が監督を務めた『ゴジラvsビオランテ』および『ゴジラvsキングギドラ』にて平成ゴジラVSシリーズの方向性を決定づけたとされる。当時は村上龍の『テニスボーイの憂鬱』を映画化しようとしていたが、プロデューサー補の富山省吾から突然連絡があり、田中友幸からストーリー募集の最終候補を読ませられ、細胞の話が面白いと言ったことで、『vsビオランテ』の脚本を直々に打診され、監督も担当することとなったが、ゴジラの依頼がなぜ自分にあったのか、自身もよくわからないという。大森自身は、『vsビオランテ』は大張り切りであったが、『vsキングギドラ』は苦し紛れの開き直りであったと述懐している。一方で、『vsキングギドラ』については、やるだけやらせてもらったことから愛着はあるとも述べている。

森田芳光や相米慎二などの同世代の監督が、作家性の強い作品を撮っていくのを横目で見ていた大森は、文学性の高い作品ではなく、エンタメ性の高い作品を撮影したいと思い、1984年の『ゴジラ』で目指したリアリティのある大人向けの内容に、『エイリアン2』を参考にハリウッド映画調の娯楽性とスピード感を与え、「リアリティのあるゴジラ」ではなく、「強いゴジラ」を目指したという。

『vsビオランテ』については納得いかない部分が多々あったというが、同作品がゴジラ映画の人気投票で1位となったことで、「同作品を見てゴジラを好きになった」と若い世代から言われることが増え、そういう映画であったと納得させられたという。

大森はポリティカル・フィクションを好んでおり、また自分たちの世代が軍人になったらどうなるかという想いを抱いていたことから、ゴジラは現代における戦争映画という想定で、政治的・軍事的要素を取り入れている。また、ゴジラ映画について個人や社会だけでなく、国としての日本が描けることが一番面白いとも語っている。

『vsビオランテ』当時はSFXが流行していたため、大森も特撮について勉強していたが、監督と特撮監督が対等な立場であったことには驚いたという。撮影においては、特撮班と揉めるようなことはなく、互いにアイデアを取り入れるなど協調できていたと語っている。一方で、特撮シーンは特撮班の担当となるため、監督として主役のゴジラやクライマックスを撮影できないことは致命的だといい、特撮部分にも目を通したいと述べていた。『vsビオランテ』冒頭での新宿のミニチュアは、スケジュールの都合から大森の本編班が撮影した。

幼少期に鑑賞した『モスラ対ゴジラ』に感銘を受けたといい、モスラが登場する『モスラVSバガン』や『ゴジラvsモスラ』の脚本を手掛けたほか、『vsビオランテ』も女性的な怪獣のイメージや戦闘シーンの多さなど影響を受けているという。『vsモスラ』では、自身で監督を務める意志もあったといい、モスラに思い入れがあったことから残念であったと述べている。

また、『キングコング対ゴジラ』からも無意識に影響を受けていたといい、同作品を踏襲して「ゴジラと対戦相手がともに海に落ちる」というラストを2度用いている。『ゴジラ第1作』は幼稚園児のころに観たというが、ゴジラが山から顔を出すシーンは覚えているものの、「怖かった」という記憶しかなかったと述べている。

『vsビオランテ』制作時には、昭和期の東宝特撮を手掛けた関沢新一の脚本を読み込んだといい、その時点では絵空事として否定的に捉えていたが、実際に自身で制作して怪獣と現実は噛み合わないと実感し、関沢が偉大であったと思い直し『vsモスラ』などではその手法を取り入れている。そのほか、『ゴジラ』第1作も観たが、現代では同じことはできないと感じ、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』の方が参考になったと述べている。

VSシリーズを通して登場するヒロイン三枝未希について、独自に「三枝未希サーガ」を思い描いており、未希の祖父が旧日本陸軍で巨大兵器を開発していたなどの設定を想定していた。大森は、未希について『モスラ対ゴジラ』の小美人に通ずるキャラクターだと述べている。

VSシリーズのプロデューサーを務めた富山は、大森を柔軟で視点の変えられるクリエイターと評しており、意見を言われることを歓迎している監督であったと述べている。同シリーズで三枝未希を演じた小高恵美は、優しく関西弁で気さくに話しかけてくれ、魅力的であったと述懐している。『vsビオランテ』で主演を務めた三田村邦彦は、大森についてインテリだがおおらかで、映画業界特有の緊迫感がなく、現場も和やかであったと証言している。『vsキングギドラ』に出演した中川安奈は、現場をアクティブに引っ張る熱血漢であったと評している。

『vsビオランテ』に出演した髙嶋政伸は、兄である髙嶋政宏の付き人として大森が監督した『トットチャンネル』(1987年)の現場に参加しており、大森に対して憧れを抱いていたと述べている。『vsビオランテ』の撮影で大森から「なにかできるか」と問われた高島は「耳を動かせる」と応え、その描写が撮影され結局はカットされたが、そういったシーンでも進んで撮影することが従来の映画監督とは異なる大森のアクティブさを感じられたと語っている。

ゴジラ映画については、映画のすべての要素が入った映画そのものであり、ゴジラが好きだからゴジラ映画をやっているのではなく、映画が好きだからゴジラをやっていて面白いのだと語っている。自身の映画の原点として『海底軍艦』を挙げており、後年でもやりたい映画の1つと語っていた。50歳を過ぎたころはゴジラ映画はもう作れないと考えていたが、後にジョージ・ミラーが70歳で監督した『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を観て感激し、自身ももう一度ゴジラを撮りたいという思いが湧いてきたと語っていた。

監督作品

自主制作映画

1969年 『革命狂時代』(製作・監督・脚本・撮影・編集)

1972年 『ヒロシマから遠く離れて』(企画・監督)

1972年 『空飛ぶ円盤を見た男』(監督・脚本)

1972年 『明日に向かって走れない!』(製作・監督・脚本・撮影・編集)

1974年 『死ぬにはまにあわない!』(監督・脚本・撮影)

1975年 『暗くなるまで待てない!』(監督・脚本)

映画

1978年 『オレンジロード急行』(企画・監督・脚本)

1978年 『夏子と、長いお別れ(ロング・グッバイ)』(企画・監督・脚本)

1980年 『ヒポクラテスたち』(監督・脚本)

1981年 『前立腺の病気と予防』(監督・脚本)

1981年 『尿路結石と微小発破』(監督・脚本)

1981年 『風の歌を聴け』(監督・脚本)

1984年 『すかんぴんウォーク』(監督)

1985年 『ユー・ガッタ・チャンス』(監督)

1986年 『テイク・イット・イージー』(監督)

1986年 『恋する女たち』(監督・脚本)

1987年 『トットチャンネル』(監督・脚本)

1987年 『「さよなら」の女たち』(監督・脚本)

1989年 『ゴジラvsビオランテ』(脚本・監督)

1989年 『花の降る午後』(脚本・監督)

1990年 『ボクが病気になった理由』(監督)

1991年 『満月 MR.MOONLIGHT』(監督)

1991年 『ゴジラvsキングギドラ』(脚本・監督)

1992年 『継承盃』(監督)

1994年 『シュート!』(監督)

1995年 『大失恋。』(監督)

1995年 『緊急呼出し エマージェンシー・コール』

1996年 『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』(監督)

1997年 『ドリーム・スタジアム』(監督)

1998年 『ジューンブライド 6月19日の花嫁』(監督・脚本)

1999年 『明るくなるまでこの恋を』(監督・脚本)

2000年 『ちんちろまい』(監督・脚本)

2000年 『風を見た少年』(総監督)

2000年 『ナトゥ 踊る!ニンジャ伝説』(監督・脚本)

2001年 『走れ!イチロー』(監督・脚本)

2003年 『T.R.Y.』(監督)

2005年 『劇場版 超星艦隊セイザーX 戦え!星の戦士たち』(監督)

2006年 『悲しき天使』(脚本・監督)

2008年 『みんな、はじめはコドモだった「イエスタデイワンスモア」』(脚本・監督)

2010年 『世界のどこにでもある、場所』(脚本・監督)

2011年 『津軽百年食堂』(監督・脚本(共作))

2015年 『ベトナムの風に吹かれて』(監督・脚本)

テレビドラマ

1985年 『法医学教室の午後』(監督・脚本)

1985年 『それいけ!ズッコケ三人組』(各話監督)

1986年 『法医学教室の長い一日』(監督・脚本)

1988年 『女優時代』(監督)読売テレビ

1995年 金曜エンタテイメント『炎の料理人 周富徳物語』(監督)フジテレビ

2001年 『最悪』(監督)BS-i、TBS

2007年 ドラマW 『黒い春』(監督)WOWOW

2014年 『装甲巨人ガンボット』(本編演出・製作統括)テレビ大阪

2024/06/19 14:26更新

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