尾高尚忠の情報(おたかひさただ) 作曲家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
尾高 尚忠さんについて調べます
■名前・氏名 |
尾高尚忠と関係のある人
レオ=シロタ: シロタに直接学んだ弟子には松谷穣、長谷川米子(酒井優子)、永井進、豊増昇、蔭山英子、藤田晴子、田中園子、アナトリー・ヴェデルニコフ、園田清秀、園田高弘、尾高尚忠、金沢益孝、東貞一がいる。 森正: 設立者は山田耕筰、近衛秀麿、齋藤秀雄、上田仁、尾高尚忠、金子登、山田一雄、渡辺暁雄、高田信一、森正。 林光: 尾高尚忠の主題による4本のフルートのための主題と変奏(1947年) 森正: 東京大空襲で自宅を焼失し茅ヶ崎へ移ったのち戦後は尾高尚忠の自宅のある鎌倉へ転居。 長岡輝子: 上の妹(四女)の節子(みさおこ)は作曲家・指揮者の尾高尚忠の妻で、息子に作曲家の尾高惇忠と指揮者の尾高忠明がいる。 澁澤龍彦: なお澁澤家は、指揮者尾高尚忠や競馬評論家大川慶次郎とも親類に当たる。 尾高忠明: 作曲家・指揮者である尾高尚忠の次男として神奈川県鎌倉市に生まれる。 山田一雄: 直後の太平洋戦争開戦でローゼンストックの活動に制限がかかり、まず地方公演をローゼンストックに代わって指揮をするようになり、次いで1942年には、共演者とのトラブルで機嫌を損ねてしばらく休養することになった彼の代役として、ローゼンストックが出演をキャンセルした残りの定期演奏会の指揮を尾高尚忠とともに引き受けた。 林光: 尾高尚忠とはベルリン留学中に知り合い、帰国後も親しく交流していた。 吉田雅夫: モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」、イベールのフルート協奏曲を日本初演したほか、尾高尚忠追悼演奏会では林光補筆になる尾高のフルート協奏曲(大編成オーケストラ版、作品30b)を世界初演した。 有馬大五郎: また当時、山下奉文や尾高尚忠と親交を結んだ。 諸井三郎: また、恒平は実業家渋沢栄一・尾高惇忠の縁者であり、さらに実業家尾高次郎の孫の会計学者諸井勝之助が貫一の婿養子となっており、三郎は作曲家・指揮者の尾高尚忠・惇忠・忠明一家とも縁戚関係にある。 林光: 9歳の頃より父の親友である尾高尚忠に師事し、少年ながらも室内楽作品、管弦楽作品など大人顔負けの作品を多く作曲した。 林光: 尾高尚忠の助言により管弦楽編成版も作曲された。 諸井誠: 作曲家・指揮者の尾高尚忠・惇忠・忠明一家とも縁戚関係にある。 ヨーゼフ=ローゼンストック: 改組後は山田、尾高尚忠とともに日響の指揮台を守った。 森正: 初めはフルート奏者として盛んに活動、尾高尚忠にフルート協奏曲の作曲を委嘱し初演するなど、吉田雅夫と並ぶ名手として知られた。 吉田雅夫: 1951年 3月5日、尾高尚忠の『フルート協奏曲』(大編成オーケストラ版、作品30b、林光補筆)を世界初演。 石井歓: 1947年から尾高尚忠に指揮法を師事。 |
尾高尚忠の情報まとめ
尾高 尚忠(おたか ひさただ)さんの誕生日は1911年9月26日です。東京出身の作曲家のようです。
現在、映画、病気、姉妹、結婚に関する情報もありますね。1951年に亡くなられているようです。
尾高尚忠のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)尾高 尚忠(おたか ひさただ、1911年9月26日 - 1951年2月16日)は、日本の作曲家、指揮者。 東京府生まれ。幼少の頃から音楽に親しみ、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)を経て旧制成城高等学校文科(現・成城大学)を半年で中退し、1931年にウィーンに留学、ピアノをベルタ・ヤンベール、音楽理論をリヒャルト・シュテールに学んだ。翌年一時帰国して武蔵野音楽学校で作曲科の教鞭を取り、その間作曲をクラウス・プリングスハイム、ピアノをレオ・シロタに学んだ。1934年に再びウィーンに渡り、作曲をヨーゼフ・マルクス、指揮をフェリックス・ワインガルトナーに学び、個人的にフランツ・モーザーに作曲、管弦楽法、指揮の教授を受けた。在欧中の1938年からはウィーン交響楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立つなど指揮者として活躍し、併せて自作の披露も行った。ウィーンではヴァイオリニストのヴォルフガング・シュナイダーハンと親交があった。 1940年に帰国後、1941年1月に新交響楽団(NHK交響楽団の前身)を指揮し、日本デビューを飾る。新交響楽団が日本交響楽団に改組する直前に山田和男とともに新響の専任指揮者となり、時期的に演奏活動が難しくなっていったジョセフ・ローゼンストックを支え、また定期演奏会の指揮台に立った。戦後も引き続いて日響のタクトを振って活躍したが、戦中から戦後に蓄積した極度の疲労から1951年1月12日の名古屋での地方公演を最後に病に倒れ、39歳で死去した。死因は出血性上部灰白質脳炎。3月5日に山田和男指揮による追悼演奏会が行われた。墓所は多磨霊園。 尾高は死の直前、日響機関誌「フィルハーモニー」に『強行軍的演奏旅行』と形容した当時の日響の超多忙ぶりを示した寄稿をしている。燕尾服の上からヒロポンを注射して指揮台に立つような有様だったという。また尾高の死後には音楽評論家の野村光一が「尾高を殺したのはNHKである。NHKがすべて面倒を見ていれば、楽員は多忙から解放されたはずだ」云々という一文を『毎日新聞』に寄稿したことがきっかけとなり、日響は尾高の死の約半年後にNHKの全面支援を受け「NHK交響楽団」に改称された。また、NHK交響楽団は日本の優れた管弦楽曲に贈られる賞に「尾高賞」の名を冠した。 尾高の残した映像や録音の資料は極めて少ない。録音では、東京交響楽団(東京フィルハーモニー交響楽団の前身であり、現在の同名オーケストラとは異なる)を指揮し、安川加壽子と共演したサン=サーンスのピアノ協奏曲第5番『エジプト風』のスタジオ録音(1943年、ビクター)と、自作の交響曲第1番を振った断片的なライヴ録音の2点、映像では1948年の放送芸能祭でベートーヴェンのオペラ『フィデリオ』の第2幕を指揮しているものが1点、残されているだけである。 学生時代、便所でベートーヴェンの交響曲第9番を口笛で吹きながら出ると外に兄が立っており、「ベートーヴェンを便所の中で、口笛で吹くとは何事だ」と横面を引っ叩かれた。しかし音楽家になってからは、演奏会で指揮するベートーヴェンの交響曲を便所で読みながら勉強していたという。 映画『アメリカ交響楽』を鑑賞した尾高は、「おれもガーシュインと同じく39歳で死ぬよ」と妻にもらした。2人とも下顎が出ていることや同じ9月26日生まれであることからの連想かもしれないが、結果としては当たったことになる(ちなみに、尾高・ガーシュインの双方とも死因は脳の病気である)。 父方祖父は実業家の尾高惇忠、父・尾高次郎は漢学者・銀行家で、母・ふみは渋沢栄一の三女。兄に郷土教育家の尾高豊作、法哲学者でケルゼン門下の尾高朝雄、社会学者の尾高邦雄らがいる。また、作曲家諸井三郎・誠親子も輩出した実業家一族の諸井家とも、渋沢家を通じて、また甥で会計学者の諸井勝之助を通じて縁戚関係にある。 妻の尾高節子(みさおこ)はピアニスト。長男は作曲家の尾高惇忠(祖父と同名)、次男は指揮者の尾高忠明。また、節子の姉に女優・演出家の長岡輝子、節子たち姉妹の姪にチェリストの倉田澄子がいる。倉田澄子の父で尾高の相婿に当たる倉田高もチェリストで、尾高のチェロ協奏曲を初演した。 林光は父が尾高と親しかった関係で、幼少時から尾高に作曲を師事した。尾高がフルート協奏曲の管弦楽伴奏版のオーケストレーションを完成しないまま急逝した際、補筆完成したのは当時まだ10代の林であった。 なお、実子の惇忠と忠明は尚忠が死去した当時、まだ6歳と3歳であり、父から本格的な教育を受けたことはなかった。 日本組曲 Op.6(1936年) 狂詩曲(1937年) 小交響曲(1937年。弦楽のための) 交響詩「蘆屋乙女」Op.9(1937年) 管弦楽のための「みだれ」(1938年。1947年改訂) 第2組曲 (1939年) 行進曲「南進」(1941年。変ロ長調の主部から変ト長調への転調が難しいと演奏者からは敬遠された) 勝而不傲(1942年、交響詩曲「皇軍頌歌」第5曲) チェロ協奏曲イ短調(1943年) シンフォニエッタ Op.24(1943年。弦楽四重奏のための作品。1944年小管弦楽版改訂) 維納さわり集 (1944年) ピアノと管弦楽のための狂詩曲変イ長調 Op.21 (1943年、1947年改訂。発表当時は「狂」の字が敬遠され、「興詩曲」と表記していた) 交響的幻想曲「草原」 Op.19(1944年) 交響的歌曲「いくさうた」 Op.23(1944年。アルトと管弦楽のための作品) 交響的歌曲「斎迫歌(いつきせめうた)」(1945年。ソプラノと管弦楽のための作品) おほみたからの歌 (アルト、バリトン、混声合唱と管弦楽のための作品) 郷土(1945年。小管弦楽のための) 春(1945年。歌と管弦楽のための林光によればレントラー風の小品ということである) 銃後慰安曲「微風」 Op.25(1945年) 架空のバレエのための組曲「夢に踊る」Op.29(1946年) 協奏組曲 Op.28(1946年。ピアノと管弦楽のための) フルート協奏曲イ長調(1948年室内楽伴奏版。1951年管弦楽伴奏版)(後者の版は終結部のオーケストレーションが未完、林光が補筆完成) 交響曲第1番ホ短調(1948年)
交響的協奏曲(未完。ピアノと管弦楽のための) ウィーンの呼び声 オーストリア民謡集 はなたちばなの歌(ソプラノ、アルトと管弦楽のための) ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(1932年) ヴァイオリンとピアノのための2つの小品(1937年) 弦楽四重奏曲第1番ト短調 Op.10(1938年) ピアノ三重奏曲ホ短調(1941年) チェンバロのための組曲(1941年) 弦楽四重奏曲第2番ニ短調(1943年) 夜曲 Op.16-1(1942年。チェロとピアノのための作品) 夕陽讃歌 Op.16-2(1942年。同上) パストラーレ(七重奏のための作品) 「前奏曲とフーガ」(1934年) 「変奏曲」(1935年) 「ローマンツェ」Op.5(1936年) 「日本組曲」Op.6(1936年) 「子供のためのピアノ小曲」(1937年。林光の両親に献呈) 「みだれ」Op.11(1939年。2台ピアノのためのカプリッチョで、ウィーンで親交のあったピアニスト、ヨーゼフ・ディヒラーの結婚祝いとして作曲された) 「ソナチネ」Op.13(1940年) 「三つの肖像画(ポートレ)」(1949年) 「万葉集より」(1934年。全6曲) 「からまつ」(1950年) 富樫康「現代日本作曲家群像(39)尾高尚忠」(音楽之友社『音楽芸術』1953年2月号) 富樫康『日本の作曲家』音楽之友社、1956年 doi:10.11501/2478658 NHK交響楽団『NHK交響楽団40年史 : 1926-1966』日本放送出版協会、1967年 doi:10.11501/2513571 NHK交響楽団『NHK交響楽団50年史 : 1926-1977』日本放送出版協会、1977年 doi:10.11501/12433898 林光「尾高尚忠覚え書き」(NHK交響楽団『フィルハーモニー』1991年5月号) 岩野裕一「NHK交響楽団全演奏会記録・「日露交歓交響管弦楽演奏会」から焦土の《第9》まで」『Philharmony 99/2000SPECIAL ISSULE』NHK交響楽団、2000年。 岩野裕一「NHK交響楽団全演奏会記録2・焼け跡の日比谷公会堂から新NHKホールまで」『Philharmony 2000/2001SPECIAL ISSULE』NHK交響楽団、2001年。 岩野裕一「NHK交響楽団全演奏会記録3・繁栄の中の混沌を経て新時代へ-"世界のN響"への飛躍をめざして」『Philharmony 2001/2002SPECIAL ISSULE』NHK交響楽団、2002年。 ^ “指揮者 尾高忠明(1) ブルックナーの交響曲第9番”. 日本経済新聞 (2020年6月15日). 2020年7月15日閲覧。 ^ 渋沢栄一は尾高惇忠の従弟であり、妹千代の夫でもある。ただし、ふみは千代の娘でなく庶子である。 ^ 尾高次郎の娘・アヤと永田甚之助の三男で、諸井三郎の兄諸井貫一の婿養子となった。 ^ 『N響アワー』2006年9月3日放送 尾高賞 データライブラリー・尾高賞受賞作品リスト FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ アメリカ 日本 オランダ CiNii Books CiNii Research MusicBrainz 日本の男性作曲家 日本の指揮者 近現代の作曲家 武蔵野音楽大学の教員 (音楽) NHK交響楽団の指揮者 尾高家 東京都立小石川中等教育学校出身の人物 東京都出身の人物 1911年生 1951年没 多磨霊園に埋葬されている人物 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 MusicBrainz識別子が指定されている記事
2024/11/18 23:18更新
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otaka hisatada
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