本多勝一の情報(ほんだかついち) ジャーナリスト 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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本多 勝一さんについて調べます
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本多勝一と関係のある人
中野美代子: 『本多勝一を解説する』(晩声社 1992年)、編者代表 岡村昭彦: 本多勝一とは互いに無名だった頃から面識があったものの仲が悪く、「石川文洋と本多勝一は出版社から借金して逃げまわっている」と沖縄県人会の会長に発言したことがある。 堀田あきお: 『本多勝一のこんなものを食べてきた 小学生の頃』堀田佳代共著 朝日新聞社 1999年 草野マサムネ: 好きな作家は本多勝一、好きな詩人は山之口貘である。 中村仁彦: 専門科目が始まる前は今西錦司や本多勝一に影響を受けた。 斎藤貴男: ナンデ?モッタイナイ!』(2006年、三五館)共著:和合秀典・本多勝一・今井亮一・日向咲嗣・松谷宏・堀泰夫・浦井裕樹・日下部雅喜 加賀野井秀一: 『日本人はロバの耳』高梨明・城山三郎・本多勝一・他 青峰社、1991年 山口一臣: 朝日ジャーナル編集部で田中康夫や本多勝一を担当。 野村進: 留学中にフィリピン新人民軍に約5ヵ月間同行した体験をもとに帰国後、デビュー作『フィリピン新人民軍従軍記』を25歳で上梓し、本多勝一や佐木隆三らに絶讃された。 保阪正康: 田辺敏雄も保坂の著書『戦場体験者 沈黙の記録 』に出て来る「平頂山事件」の記述に対し、朝日新聞で連載された本多勝一による中国の旅から45年経っても中国側の説明や証言を鵜呑みにし、日本側の裏づけ取材が皆無な事が繰り返されていると思わざるを得ないと評した。 轡田隆史: 入社同期に筑紫哲也、本多勝一がいる。 由比忠之進: 1966年(昭和41年)に横浜に移って健康を害し、ベトナム戦争の激化を受けてベトナムのエスペランティストと文通で交流、本多勝一の「戦場の村」のエスペラント語訳などに取り組んだ(自殺のため未完)。 稲田朋美: これがきっかけで野田少尉と向井少尉の遺族が『毎日新聞』『朝日新聞』本多勝一らを相手取り、名誉毀損の裁判を起こすことになった。 橋本勝: 本多勝一『貧困なる精神』のイラストを手がけるほか、『週刊金曜日』にもイラストを提供している。 筑紫哲也: 朝日新聞同期入社で、週刊金曜日創刊前から編集委員をともに務めた本多勝一は、「良識派や真のジャーナリスト」がマスメディアの場から締め出されるなか、筑紫には幅広く垣根のない交友関係を築く「武器」があるからこそ活躍できたとする。 長谷川恒男: 本多勝一著 『リーダーは何をしていたか』(朝日新聞社、1997年) ISBN 9784022611994 田代喜久雄: 疋田桂一郎(のち天声人語子)や本多勝一の多用はその表れである。 筑紫哲也: 同期には本多勝一、轡田隆史、上前淳一郎、柴田鉄治、田中豊、和田俊、浅井泰範、田所竹彦、荒垣敬らがいる。 堀江謙一: )この航海について、石原慎太郎から「成功する可能性があり得ないもの」と非難され、堀江を擁護する本多勝一らとの論争を呼んだ。 筑紫哲也: 1993年に創刊された『週刊金曜日』の発刊を呼びかけ、朝日新聞同期入社の本多勝一らとともに手弁当で全国を行脚した。 石川文洋: ベンハイ川を越えて(1974年、朝日新聞社)- 共著:本多勝一 岩瀬達哉: 1996年、講談社の雑誌『Views』に発表した「朝日新聞社の研究」(『新聞が面白くない理由』に収録)において、巻頭コラム「天声人語」の執筆者だった疋田桂一郎や、海外ルポルタージュで知られる本多勝一らの著名記者が、1987年(リクルート事件が発覚する前年)に、当時リクルートコスモスが運営していた安比高原スキー場へのスキー旅行において、リクルート側からの接待を受けていたと報じた。 鈴木明: また小田実は、「本多勝一さんが書いた“南京大虐殺”についての記事には、“百人斬り”をした将校のことがでていた。 |
本多勝一の情報まとめ
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本多 勝一(ほんだ かついち)さんの誕生日は1932年3月28日です。長野出身のジャーナリストのようです。
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評価、受賞歴などについてまとめました。現在、卒業、事故、事件に関する情報もありますね。
本多勝一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)本多 勝一(ほんだ かついち、1932年1月28日 - )は、日本の新聞記者・ジャーナリスト・作家。元朝日新聞編集委員。 長野県下伊那郡大島村(現在の松川町)に生まれる。 長野県飯田高松高校卒。高校3年次の担任はのちに日本古生物学会の会長を務めた鹿間時夫であった。同級に富永明夫がおり、後に本多の義兄となった。 本多には脳性小児麻痺の妹がいた。父は雑貨商を営んでおり、本多には薬科大学に進むことで薬局を加えた店の跡を継いでほしいと願っていた。本多は高校で木原均の講演に感銘を受け、京都大学で遺伝学を学びたいと考えたため、父と衝突した。結局、薬剤師の資格を取得すれば好きなことをやってもよいとの妥協案を受け入れ、千葉大学薬学部に進学。 1954年、千葉大を卒業して京都大学農学部農林生物学科へ1回生として入学、山岳部に入部。 山岳部の雰囲気はアルピニズムに傾倒しており、本多が心酔していた今西錦司や西堀栄三郎らから始まる探検の伝統は引き継がれていなかった。本多は現役生や若手OBと「パイオニア・ワーク」(創造的な登山)について議論を重ねつつ、海外遠征を目論み、同志とともに岩村忍や今西、京大カラコルム=ヒンズークシ学術探検隊から帰還した梅棹忠夫(大阪市立大学助教授)らの助言を受けた。そうして山岳部二回生を中心にヒマラヤ遠征を計画したものの、若手OBの一部の反対は根強いものがあった。 本多らは梅棹に「煽動」され、まず探検家OBを講師とした「第1回探検講座」を5回にわたって実施。講師は今西、中尾佐助、川喜田二郎、桑原武夫、梅棹、藤田和夫であった。探検講座の最終回を終えた1956年3月2日の夜、同じく山岳部に所属していた高谷好一ら11人で日本初の探検部を創設。初代顧問は今西、梅棹、中尾、藤田、川喜田、伊谷純一郎であり、探検部長は今西の助言で芦田譲治に依頼した。 本多らは梅棹、今西、川喜田などの自宅を訪ねるなかで、とりわけ京都大学の近くにあった梅棹の自宅を頻繁に訪れた。梅棹は探検やフィールドワークのノウハウを情熱的に注ぎ込んだ。話題は多岐にわたり、談論風発の場となった。本多は、取材の方法や基本的なものの考えかたにおいて、生涯で最も深く強い影響を梅棹から受けた。 1956年、探検部で最初の海外遠征隊「東ヒンズークシ学術調査隊」を結成し、藤田和夫(大阪市立大学助教授)を隊長としてフォールドワークに赴いた。学生の隊員は本多と吉場健二の2名であった。京都駅には探検部や山岳部の関係者が集まり、今西の発声による「ヤッホー」の唱和で見送られた。その帰途、便乗していた貨物船が第一次南極観測に向かう『宗谷』とすれ違った。宗谷には副隊長で第一次南極越冬隊長となる西堀栄三郎が乗船しており、11月29日、無線ではじめて西堀と言葉を交わした。西堀は親友である今西への伝言を述べ、探検部が南極にも目を向けて実力をつけるよう助言した。 1957年、本多が隊長を務める京大探検部の3人でヒマラヤの6000m級処女峰シャハーンドクの登頂を試みたが、頂上まで100m余りの地点で敗退。 1958年、『知られざるヒマラヤ 奥ヒンズークシ探検記』(角川書店)を発刊。 1959年、朝日新聞社に入社。同期に筑紫哲也、轡田隆史らがいる。 1959年4月から1962年7月まで札幌勤務。1961年には入社3年目にして『きたぐにの動物たち』を59回にわたって連載し、同年、角川新書から「朝日新聞北海道支社報道部編」として出版された。序文を寄せた犬飼哲夫は本書を「いまだ記載されなかった人類の歴史の側面を語る新しい試み」であり、それが「成功をみたことは祝福に値する」と絶賛した。当時、朝日新聞や小雑誌などに執筆した紀行文・ルポルタージュは1979年に『北海道探検記』として発刊された。 1963年1月22日、愛知大学山岳部薬師岳遭難事故にて大スクープ。薬師岳の太郎小屋脇にヘリコプターで強行着陸し、本多が小屋の中を確認して報道したものであり、号外が発行された。 1963年の朝日新聞連載『カナダ・エスキモー』が注目を集め、つづいて1964年には『ニューギニア高地人』を連載、反響を呼んだ。本多はベトナム戦争の取材に取り組みたかったが、一連の連載が好評を博したため、1965年には『アラビア遊牧民』を連載。藤木高嶺とのコンビによるこれらのルポルタージュは「極限の民族」三部作とされ、文化人類学・民族学にインパクトを与えた。1964年に菊池寛賞を受賞。 1967年にはベトナム戦争が苛烈を極める南ベトナムを1年にわたって現地取材、連載ルポとして朝日史上最大の反響を呼ぶ。翌1968年には北ベトナムを取材。一連の報道はルポルタージュの白眉と言われ、1968年に第11回JCJ賞および第22回毎日出版文化賞、1969年にボーン・上田記念国際記者賞を受賞。 ベトナム戦争におけるアメリカの振る舞いを取材するなかでアメリカそのものを「よく見たい」と考え、1969年、アメリカ合州国を半年にわたって取材。 『思想の科学』1970年6月号に掲載された文化人類学批判「調査される者の眼」は反響を呼び、山口昌男は『展望』1970年10月号に「調査する者の眼:人類学批判の批判」を寄せた。本多は『展望』1971年8月号の「殺す者の眼:山口昌男の文章をめぐって」において、山口の批判には「自己顕示症」がみられると切って捨てた。 日中国交正常化前の1971年には中国における戦争中の日本軍の行動を中国側の視点から掘り起こした『中国の旅』を連載。本書は南京事件論争の大きなきっかけとなった。 1972年、加納一郎の古希記念事業として探検関係者の「総力を結集」した朝日講座『探検と冒険』全8巻の編集委員となり、第7巻『日本とその周辺』の責任編集を担った。 1972年6月22日、アイヌ民族の萱野茂が二風谷アイヌ文化資料館を開館した。開館式を取材した本多は、その後の萱野を継続的に支援した。萱野が1992年の第16回参議院議員通常選挙に日本社会党から比例代表で立候補した際には呼びかけ人となった。虐げられつづけるアイヌ民族についての報道・論考は、初任地の北海道支社勤務時代(1959年-1962年)から取り組んでおり、1983年には朝日新聞紙上で長期連載を行っている。 1972年10月から11月と1973年の5月から7月にかけて北ベトナムを石川文洋とともに取材。 1973年から月刊誌『家庭画報』と『潮』にてコラム「貧困なる精神」の連載を開始。「貧困なる精神」は『潮』に1988年2月号まで連載され、社外への寄稿を制限する朝日新聞社の方針に従って『朝日ジャーナル』に引き継がれた。 1975年6月から8月にかけて石川文洋とともにサイゴン陥落後のベトナムを取材。 1976年に『日本語の作文技術』を発刊し、1982年に文庫化。自身最大のベストセラーとなり、版を重ねている。 1978年2月から石川文洋とともにベトナムを取材し、ポル・ポト政権下におけるカンボジア大虐殺の証言を多数得た。1980年には政権崩壊後のカンボジアを現地取材し、虐殺を立証した。 1983年、12年ぶりに中国取材を行い、日本軍が杭州に上陸してから南京に至るまでの進撃コースをたどり、1984年には朝日ジャーナルに半年にわたって連載。洞富雄や藤原彰らと南京事件調査研究会を立ち上げ、南京大虐殺の調査・報告を行った。 1991年、朝日新聞を定年退職。 『朝日ジャーナル』の最終号となった1992年5月29日号の連載コラム「貧困なる精神」において有志による日刊新聞の発行構想を発表した。 『噂の真相』1993年2月号のインタビューにおいて、日刊紙に先行して週刊誌の創刊を予定していることを公表。1993年7月から4号発行された月刊金曜日の編集委員となり、「創刊の言葉」の原案を起草。1993年11月の週刊金曜日発刊後、現在に至るまで編集委員を務める。1994年5月から1997年3月まで社長兼編集長を務め、1999年まで社長を務めた。 2003年4月から10月まで、山中登志子とともに月刊『あれこれ』を発刊。 評価朝日新聞の記者として、1960年代から『極限の民族』三部作やベトナム戦争、アメリカにおける黒人やインディアンの問題などの多彩なルポルタージュを発表。祖父江孝男は1970年の本多との対談で「至るところでセンセーションを巻き起こし」たと述べている。 『極限の民族』三部作についての評価として以下がある。 『カナダ・エスキモー』
岡正雄・松園万亀雄「民族学的教養と鋭敏な観察力,そして生彩ある描写力によって,エスキモーの生活実態を画き出している」 中根千枝「ルポとして実にすぐれたもの」「(『ニューギニア高地人』『アラビア遊牧民』よりも)ぬきんでたもの」 『ニューギニア高地人』
石川栄吉「貴重な学術資料を多く含んでいる」「(本多の「調査マン」としての能力を)なまなかの民族学者を数等上廻る」 中尾佐助「この本はニューギニアというより、新石器時代とはどんな時代であったかを知るために、世界で一番役立つ本」「英語でもこれに匹敵する本の存在を知らない」 『アラビア遊牧民』
桑原武夫「(中尾佐助の『日本こそ、世界の最後の秘境かもしれないね』という言葉とともに)私たちの思想を鍛える鉄床となるはずである」 『極限の民族』三部作
祖父江孝男「生態学や人類学の素養を持った鋭い科学者の目がいつも感じられ、その内容はそのまま学術的報告としても通用する場合が多い」 ベトナム戦争の取材にあたっても、解放区で自ら生活し、戦闘だけでなく解放区で暮らす人々の暮らしをあわせて詳細に記録した。陸井三郎は、米軍が前線に出てきてから終戦までの間に解放区における生活と戦闘を報じた外国人記者は(短期滞在を除けば)本多以外に現れなかったとし、本多の一連の作品を「歴史にのこる意義ふかい作品」と評した。 井川一久は、1978年発刊の『カンボジアはどうなっているのか』について、ポル・ポト政権下におけるカンボジア大虐殺の存在を「世界で最も早く実証しようとした試み」であるとする。1980年の現地取材をもとにする『カンボジアの旅』は、その「規模と様態を最も客観的な形で実証」した。 角幡唯介によれば、沢木耕太郎が意識する書き手の1人として本多を挙げたといい、「事実」を厳密に扱う本多の姿勢が日本のノンフィクション界に大きな影響を与えたとする。 角幡は、近代登山や探検、冒険を考える上で本多の著書は避けて通れず、必読であるとしている。2012年には『冒険と日本人』『新版・山を考える』『リーダーは何をしていたか』の3冊から再編集された『日本人の冒険と「創造的な登山」』が山と溪谷社から文庫で発刊され、2021年には『アムンセンとスコット』が朝日文庫で再版された。 もっとも発行部数の多い著作は1982年(単行本は1976年)に発刊された『日本語の作文技術』であり、文庫化から32年を経た2014年にも林修の推薦文による帯で再版されるなど、ロングセラーとなっている。続編である『実戦・日本語の作文技術』も合わせると累計100万部を超える。斎藤美奈子は『文章読本さん江』において、本書を丸谷才一『文章読本』、井上ひさし『自家製 文章読本』とともに文章読本界の新御三家とした。 受賞歴1964年 - 「未開民族の内に身を挺して、苦楽の生活を共にし、画期的な報道をした功績」により第12回菊池寛賞。 1964年 - 『カナダ・エスキモー』で朝日新聞社賞。 1968年、『戦場の村』で第11回JCJ賞および第22回毎日出版文化賞。 1969年 - ボーン・上田記念国際記者賞。 1987年 - 「ルポルタージュを通じてアジアの今日的問題を掘り下げた功績」により、第3回大同生命地域研究賞特別賞。 2024/06/25 10:22更新
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