村松友視の情報(むらまつともみ) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
村松 友視さんについて調べます
■名前・氏名 |
村松友視と関係のある人
若桜木虔: 静岡高校の同窓のプロ作家には村松梢風(村松友視の祖父で旧制中学の時代)、三木卓(昭和四十八年に芥川賞受賞)、村松友視(昭和五十七年に直木賞受賞)、瀬名秀明(平成七年に日本ホラー小説大賞を受賞)がいる。 安原顕: 当時『海』の編集者であった村松友視が編集長と対立し異動願いを出したため、「代理要員」としてスカウトされたというのが安原の入社の理由であった。 小池真理子: ネコ族の夜咄(1999年6月 清流出版)※共著 村松友視、南伸坊 嵐山光三郎: 他に唐十郎、山野浩一、前田亜土、鎌田忠良、麿赤児、坂崎重盛、村松友視、篠山紀信、南伸坊、糸井重里、篠原勝之、鈴木いづみ、山際淳司らと知り合う。 唐十郎: 中央公論社『海』の編集者だった村松友視の薦めで小説を書くようになり、1983年、「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞する。 村松梢風: その経緯は村松友視の『鎌倉のおばさん』に詳しい。 水道橋博士: 猪木、村松友視、古舘伊知郎の「御三方の言葉には影響を受けまくりました……」とのこと。 伊丹十三: コピーライターの糸井重里、自称「ゲージツ家」の篠原勝之、作家の村松友視などである。 村松梢風: 作家、村松友視の祖父。 白仁裕介: 特集ドラマ 裕さんの女房(初回放送 2021年4月17日、NHK BSプレミアム、BS4K、NHKエンタープライズ、The icon、原作:村松友視、脚本:神山由美子、演出:黛りんたろう)- 石原プロ創設会見の司会者 ※ 糸井重里: しかし糸井は自分の知っているプロレスフリークの編集者の方が面白いと村松友視を紹介した。 武田百合子: 泰淳と百合子の編集者であり、後に作家になった村松友視は、百合子の死の翌年に回想記『百合子さんは何色』を出版し、百合子との思い出や百合子自身のことを追究し「百合子さんは詩人の魂で散文を書いていた」と評した。 水原弘: 村松友視がその生涯をまとめた評伝を書き下ろしている(『黒い花びら』村松友視、河出書房新社、2005年)。 篠原勝之: 嵐山光三郎、赤瀬川原平、南伸坊、糸井重里、村松友視、椎名誠らと親しくなり、彼らの本を「面白エッセイ」として次々に刊行していた情報センター出版局から、1981年に『人生はデーヤモンド』を刊行。 武田百合子: 各界に親交が多く、埴谷雄高、深沢七郎、村松友視、大岡昇平、色川武大、吉行淳之介、辻邦生、いいだもも、女優加藤治子などと親しかった。 鷺沢萠: 好きな作家は深沢七郎・安岡章太郎・村松友視。 川上宗薫: プロレスも好きであったが、「誰が一番強いか」という話題にこだわり、話相手となった村松友視を閉口させた。 赤瀬川原平: 篠原勝之の紹介で、中央公論社の文芸雑誌『海』の編集者だった村松友視と知り合い、篠原、南伸坊、糸井重里らとともに毎月村松宅に押しかけ「ムラマツ宴会」と称する飲み会を行った。 川上弘美: 『武田百合子』 河出書房新社〈KAWADE夢ムック〉2004年 - 村松友視との対談 武田泰淳: なお担当編集者には村松友視・川西政明らがいる。 福島章: 『血が酩酊するとき 精神鑑定講義』村松友視対談 朝日出版社 レクチャーブックス、1985 武田百合子: だが、村松友視の『百合子さんは何色』によると、ゴールデン街の酒場のトイレで、建付けが悪い扉を片手で押さえながら用を足す際に、扉のすきまから星が見えたことをヒントにしたという。 太田光: 『知るを楽しむ・私のこだわり人物伝』(NHK教育、2005年6月)では、向田邦子とドラマ『阿修羅のごとく』を語った「女と男の情景」と題した講義を担当し、2006年元日には村松友視とお互いの講義した人物について語る特別番組が放送された。 |
村松友視の情報まとめ
村松 友視(むらまつ ともみ)さんの誕生日は1940年4月10日です。東京出身の作家のようです。
人物、エピソードなどについてまとめました。退社、再婚、卒業、テレビ、映画、母親に関する情報もありますね。村松友視の現在の年齢は84歳のようです。
村松友視のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)村松 友視(むらまつ ともみ、1940年〈昭和15年〉4月10日 - )は、日本の作家、元編集者、エッセイスト。 東京市渋谷区千駄ヶ谷で生まれ、4歳から静岡県富士宮市、周智郡森町で、終戦後は清水市(現・静岡市清水区)で育つ。祖父は作家の村松梢風。父・村松友吾は中央公論社の編集者。母も中央公論社に勤務。父方のおじに脚本家の村松道平、教育評論家の村松喬、中国文学者の村松暎(慶應義塾大学文学部教授)がいる。 父・友吾は中央公論社を退社した後、妻とともに上海に移住し「上海毎日新聞」の記者となっていたが、友視の生まれる前に腸チフスで他界。祖父梢風は若い未亡人の将来を案じて再婚を薦め、生まれた友視を梢風自身の五男として入籍する。だが梢風は戦後疎開先から戻ると鎌倉で愛人と暮らし、友視は清水で祖母(梢風の妻)一人に育てられる。少年時代から熱狂的なプロレスファンとして育つ。静岡県立静岡高等学校を経て、1963年慶應義塾大学文学部哲学科を卒業。 大学時代はテレビ局でアルバイトをしていたため、そのままテレビ局に入社するつもりでいたが、入社試験に失敗。その後、何社ものマスコミを受験するが合格せず、祖父、父の縁がある中央公論社の社長嶋中鵬二に依頼して、既に締め切っていた中央公論社の試験を受けて入社。入社後は『小説中央公論』『婦人公論』の編集者として働く。『婦人公論』時代にはベトナム戦争下のサイゴンを取材した他、編集者として伊丹十三のサロンに出入りしていた。また叔父村松暎の教え子で『婦人公論』編集者時代に伊丹の担当者だった草森紳一と知り合い、彼の薦めで雑誌「デザイン」等にコラムを執筆した。しかし同人雑誌や文芸クラブなどに所属したことも一切なかったので、作家になろうとはまだ思っておらず、仕事を通じてかろうじて文学と縁をもったという印象だったという。 1969年に文芸誌『海』創刊準備のため、新雑誌研究部というセクションに異動。創刊後はそのまま編集部員となった。途中入社して『海』に参加した安原顯と同僚として交際した。『海』時代は「既成の作家の中にもすごい人はいるけれど、文壇外の作家を探し出すのが僕の本当の役目だという強い意識」があったという村松は、海外文学は安原にまかせ、当時クローズアップされていた「状況劇場」の主宰者唐十郎の戯曲を編集長の反対を押し切って掲載するなど日本の「既成文壇外」の作家を発掘し、江藤淳らに高く評価されるなど名編集者ぶりを発揮した。武田泰淳『富士』、後藤明生『夢かたり』、田中小実昌『ポロポロ』、色川武大『生家へ』、武田百合子『富士日記』などを担当している。また野坂昭如や吉行淳之介の担当編集者でもあった。 編集者として働く一方で、自分の祖父が作家だったという自負から次第に作家への志を持つようになり、文芸雑誌の新人賞に何度も応募するが落選を繰り返す。だが後藤明生に才能を認められ、「吉野英生」名義で、後藤が責任編集の一人である雑誌『文体』(平凡社)に「変装のあと」を発表。この作品が福武書店の編集者の寺田博の目にとまり、雑誌『作品』に「オペラグラス」「悲劇のように」を発表。 しかし文壇への本格的なデビューは思わぬことから果たされる。1980年に情報センター出版局の編集者が、糸井重里にプロレスのエッセー執筆を依頼。しかし糸井は自分の知っているプロレスフリークの編集者の方が面白い、と村松を紹介した。編集者から話を聞いた村松は気楽な気持ちで執筆、更に会社の人間は読まないだろうと先述のペンネームを使わず本名で『私、プロレスの味方です』を出版。本人の予想外のベストセラーとなり、続編『当然プロレスの味方です』も執筆することになった。続けて『野性時代』の編集者見城徹の勧めでに発表した「セミ・ファイナル」と「泪橋」が、相次いで直木賞候補となる。1981年、専業作家への転向を決意して退職。直後の1982年に『時代屋の女房』で第87回直木賞を受賞。この作品は映画化もされて話題となった。 以降は風俗小説や、時代小説などを多数発表。自身とかかわりのあった人物についての評伝的作品も多い。また『夢の始末書』や『鎌倉のおばさん』(泉鏡花文学賞受賞)、『上海ララバイ』のような自伝的な作品もある。 1986年にテレビ放映されたサントリーオールドのCMにも出演し、「ワンフィンガーでやるも良し。ツーフィンガーでやるも良し。」というウイスキーの目分量を指の本数にたとえて表現した、“ワンフィンガー・ツーフィンガー”は1987年の新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞を受賞した。以降、多数のテレビ番組にも出演している。 1997年「鎌倉のおばさん」で第25回泉鏡花文学賞受賞。 人物編集者時代は「武闘派」の人物であったようで、村松本人も安原顯の死後に発表した『ヤスケンの海』の中で、先述の『海』編集長との対立以外にも、中途採用された安原が「大学中退」の学歴を黙っていたことで総務部から苦情を言われると、総務部に怒鳴りこんだなどのエピソードを明らかにしている。また村松が『海』に起用し、その後エッセイストとして活躍する嵐山光三郎は『昭和出版残侠伝』で、編集者時代の村松について「こんなに喧嘩っ早い編集者は見たことがない。」と描写している。 熱狂的プロレスファンである以外には、猫好きで愛猫アブサンについての本を何冊も刊行している。またジャズを好み「ベーシーの客」などの著書もあるほか、タモリなどとも交友があり、綾戸智恵を全国規模の有名人にした。 エピソード両親は二人とも他界したという周りの説明を信じ込んでいたが、中学3年の時に初めて母親が生きており、親戚のおばさんとして何度も会っていたことを知る。ただそれを教えてくれたのは育ての親である祖母ではなく梢風の愛人だった。それ以降漠然とした不安感を抱え、更に大学に入ると祖母がよそよそしくなったことで、大学卒業まで何事にも真摯になれないまま過ごしていたと回想している。 『海』時代は吉行淳之介の担当編集者でもあったために行動を共にする事が多く、吉行伝説の語り部の一人でもある。まだ吉行と親しくなる前に永井龍男から「あなたは吉行淳之介に似ているねえ」と言われたという。 唐十郎は後に「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞するが、そのきっかけは村松が小説執筆を勧めたことにある。また「状況劇場」が戒厳令下の韓国で公演を行う際、「担当作家と同行する仕事」という名目で同行した。唐も村松の直木賞受賞に駆けつけている。また唐との交友から「状況劇場」のポスターを描いていた篠原勝之と知り合い、彼の紹介で赤瀬川原平、南伸坊、糸井重里を知り、毎月末には彼等と村松家で「ムラマツ宴会」なる集まりを行うようになった。この宴会には小林薫や安西水丸が顔を出すこともあった。この集まりは村松の文壇デビューのきっかけになったほか、村松は唐の示唆で赤瀬川に小説を書くよう薦め、彼が尾辻克彦名義で純文学を執筆するきっかけも作っている。 1980年に『私、プロレスの味方です』がベストセラーになった直後、『本の雑誌』を創刊したばかりの椎名誠から執筆依頼がくるが、『本の雑誌』を読んでいた村松は逆に椎名に小説執筆を依頼。椎名の初めての小説「ラジャダムナン・キック」を『海』に掲載する。当時の二人はまだ専業作家ではなかったため、喫茶店で会ってはテーブルの下で原稿を交換していた。 市川猿之助(3代目)とも交際があり、ファンクラブ向けの新聞「おもだかニュース」の編集を手伝っていた。 慶應義塾大学文学部国文科には松村友視という静岡県出身の教授がおり、しばしば村松友視と間違えられることを冗談にしている。 岩手県一関市のジャズ喫茶ベイシーの主人・菅原昭二とは深い親交があり仲人もつとめ、『「ベーシー」の客』という作品を発表している。なお、この店があったため、晩年の色川武大は一関市に引越しした。 執筆のペースをつかむために机の上にハカリを置いて原稿の重さを確かめていた。 2024/06/20 23:06更新
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村松友視と同じ誕生日4月10日生まれ、同じ東京出身の人
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