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水前寺清子の情報 (すいぜんじきよこ)
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【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

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水前寺 清子さんについて調べます

■名前・氏名
水前寺 清子
(読み:すいぜんじ きよこ)
■職業
歌手
■水前寺清子の誕生日・生年月日
1945年10月9日
酉年(とり年)、天秤座(てんびん座)
■出身地・都道府県
熊本出身

(昭和20年)1945年生まれの人の年齢早見表

水前寺清子と同じ1945年生まれの有名人・芸能人

水前寺清子と同じ10月9日生まれの有名人・芸能人

水前寺清子と同じ出身地熊本県生まれの有名人・芸能人


水前寺清子と関係のある人

生田悦子: コント55号と水前寺清子の神様の恋人(1968年、松竹)


上田吉二郎: コント55号 水前寺清子の大勝負(1970年12月30日、松竹) - 天城一家の親分


星野哲郎: 喪主は長男の有近真澄が務め、葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村徹と、愛弟子である水前寺清子が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつらいよ」の曲に乗せて出棺された。


逢川まさき: ゲストには水前寺清子、川野夏美、天草二郎が出演。


藤巻恵理子: 水前寺清子の人生は三百六十五歩のマーチ - BSフジ


小瀬朗: コント55号と水前寺清子の神様の恋人  (1968年、松竹) - 八郎


市川昭介: 水前寺清子


桜むつ子: コント55号と水前寺清子のワン・ツウー・パンチ 三百六十五歩のマーチ(1969年、松竹)


島倉千代子: 島倉の訃報を受けて、当時内閣官房長官だった菅義偉を始め、北島三郎、五木ひろし、細川たかし、氷川きよし、水前寺清子、大月みやこ、都はるみ、八代亜紀、小林幸子、森昌子など島倉を敬愛していた後輩の演歌歌手達、またコロッケ、山田邦子らものまねタレントも追悼のコメントをそれぞれ発表した。


八幡朋昭: 水前寺清子一座


坂上二郎: コント55号と水前寺清子の大勝負(1970年 松竹)


谷よしの: コント55号と水前寺清子の神様の恋人(1968年、松竹。


五木寛之: 艶歌(作曲:安藤実親/歌:水前寺清子、1968年)


樹木希林: コント55号と水前寺清子の神様の恋人(1968年) - 山上愛子


大西信行: コント55号と水前寺清子のワン・ツウー・パンチ 三百六十五歩のマーチ 松竹大船 1969


柴本浩行: 会場には北島三郎・美川憲一・水前寺清子など大物歌手が顔を並べていたが、どうせ優勝などしないと思っていたので全くあがらなかった。


大月みやこ: 大月が紅白初出場を果たした第37回の紅白では、同じ年にデビューした水前寺清子は22回目の出場で、デビュー22年目にして檜舞台の紅白に登場した大月を激励した。


児玉清: 水前寺清子主演の『ありがとう』で一躍人気を得て、以後ホームドラマなどで活躍する。


山岡久乃: ドラマは娘役の水前寺清子とのコンビが評判となり、視聴率50%を突破して「怪物ドラマ」と呼ばれた。


小林幸子: 泉ピン子や夏木マリは美川憲一と同じく、一緒にキャバレー廻りの営業をして互いの低迷時の苦労を知りつくしている親友であり、同期の水前寺清子に都はるみ、五木ひろし、後輩の小柳ルミ子、浅野ゆう子、グッチ裕三、コロッケ、真琴つばさや牧村三枝子なども大の仲良しの間柄でもある。


相澤秀禎: ほかに水前寺清子の個人マネージャーもつとめていた。


瑠川あつこ: 水前寺清子主演 月曜ミステリー劇場 / 警察庁・内偵監察官 桜沢葵の事件簿(2005年、TBS系)


八木正生: コント55号と水前寺清子の大勝負 (1970)


翠みち代: 水前寺清子


市川昭介: 袴をはいた渡り鳥 (元々は畠山みどりに提供するはずだったが、諸事情で水前寺清子「涙を抱いた渡り鳥」として世に出たもののオリジナル)


月丘夢路: 水前寺清子特別公演 花吹雪振袖吉三


雷門ケン坊: コント55号 水前寺清子の大勝負 (1970年 松竹) - 集団就職の学生


生恵幸子: 幸子が流行歌(森昌子「せんせい」、水前寺清子「いつでも君は」など)を聴くに堪えぬ金切声でひとしきり歌い(歌の最中にも幸朗は細かいツッコミを入れる)、歌い終わる頃に幸朗が「止まれ~! ストップ!」と号令を出し歌を終わらせ、「善良なお客さんを前にして、何という耳障りな歌を歌いよるかァ! ……愚かなる女め」とやり込める。


安藤実親: 水前寺清子


トニーヒロタ: 水前寺清子


水前寺清子の情報まとめ

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水前寺 清子(すいぜんじ きよこ)さんの誕生日は1945年10月9日です。熊本出身の歌手のようです。

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略歴、NHK紅白歌合戦でのエピソードなどについてまとめました。卒業、ドラマ、母親、結婚、離婚、テレビ、父親に関する情報もありますね。去年の情報もありました。亡くなられているようです。

水前寺清子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

水前寺 清子(すいぜんじ きよこ、1945年(昭和20年)10月9日 - )は、日本の女性歌手、女優。本名:林田 民子(はやしだ たみこ)。身長158cm、血液型O型。

熊本県熊本市中央区の子飼商店街で生まれ、小学校まで同地で過ごす。熊本市立碩台小学校、洗足学園中学校・高等学校卒業

芸名の水前寺は故郷・熊本市の水前寺成趣園から、清子は熊本ゆかりの戦国武将・加藤清正からそれぞれ取られている。愛称の「チータ」は、小柄な水前寺を作詞家の星野哲郎が「ちいさなたみちゃん」と呼んだことに由来する。動物のチーターとは直接の関係はないが、着物の柄などにチーターの衣裳を用いることがある。

過去には長年にわたってサンミュージックプロダクションに所属していた。

見得を切りながらの歌唱は「んーにゃっ!」という語尾ひねりによって、誇張してモノマネされることが多い。自らのモノマネを意識してあえてひねることもある。

15歳時に出場した「コロムビア歌謡コンクール」に出場し2位になる。その際に星野哲郎が水前寺に声を掛けたことが、のちのデビューのきっかけになった。その後は、歌謡コンクールを主催したコロムビアで11回もレコーディングをしたものの、レコードデビューすることはできなかった。水前寺はクラウンレコードに移籍し、畠山みどりが歌う予定であった「袴を履いた渡り鳥」を、畠山のキーのままで「涙を抱いた渡り鳥」とタイトルを変更した上で、念願のデビューを果たした。

1970年からは民放ドラマ史上最高の視聴率56.3%を記録したTBSのドラマ『ありがとう』に主演し、山岡久乃演じる母と娘(水前寺)の日常生活や、石坂浩二との恋を演じた。プロデューサーの石井ふく子は、このドラマを構想して以来は、水前寺がTBSに歌の仕事に来るたびに局内の女子トイレで待ち構えては口説き、歌手しかやらないという水前寺をついに出演させた。しかし、水前寺が歌手活動に専念したいとの意向で第3シリーズをもって降板し、第4シリーズは主演が佐良直美(母親役は京塚昌子)に交代となった。

1994年にサントリーフーズより清涼飲料水「C.C.レモン」が発売となり、そのCMソング「C.C.レモン」(商品と同名タイトル)を歌ったことで話題になる。

プロサッカークラブのロアッソ熊本応援イメージソング 「HIKARI 〜輝く未来へ〜」を歌った縁から、ロアッソのファンであることを公言している。

『NHK紅白歌合戦』には1965年(16回)から1986年(37回)まで22回連続出場していた。その内紅組の司会を4回務めたことがあり、1960年代後半 - 1980年代にかけて、紅組内ではムードメーカー的存在であることが多かった。トリも1983年(第34回)に1度務めている。全盛を極めていた時代の紅白の象徴的な歌手であり、様々なエピソードが残されている(詳細は後述)。

また、健康日本21推進ウオーキング実行委員長、社団法人日本ウオーキング協会理事の役職も務めており、本業よりもそうした方面での活動も多くなっている。

2011年6月14日に広島で行ったコンサートでステージ中央の階段から落ち、左ひざを剥離骨折する大けがを負った。当日はそのまま公演を続けたが、翌15日に病院で診察を受けたところ、左ひざの骨折だけでなく、靭帯損傷も判明。担当医には「治るまでかなりの時間がかかる。絶対安静」と言われたという。自身のブログでは「大丈夫です。何とかいつものように、あちこちと動けるように努力してま〜す。あまり心配しないでください」と綴った。

これまでに制作した衣装や着物などを自宅内に全て保管しており、ごみ屋敷状態になっていると、2015年10月5日放送の『私の何がイケないの?』で紹介され、捨てずに整理する方法を提案されてから、総勢13名が作業にあたり綺麗に片付いた。

略歴

前史 - 水前寺の父、林田壽は熊本市内で化粧品・洋品店を経営していており、家政婦を何人も雇うほど裕福な環境であった。歌が得意で、のど自慢やコンテストに出場していた民子をいつしか「歌手にしてやりたい」と思った父は、日本舞踊やバイオリンなどの習い事をさせた。しかし、1957年の冬、過大投資が祟って事業は破綻。一家は夜逃げ同然に「あさかぜ」で上京。八畳一間の部屋で親子だけの生活を始める。父は精肉店で働き、母は内職で家計を支えた。裕福だった熊本時代から一変し、生活に余裕はなかったが、父は娘を歌手にする夢を捨てずに音楽を続けさせた。民子はその期待に応えようと努力を惜しまなかった。

1960年 コロムビア歌謡コンクールに出場。2位入賞。作詞家の星野哲郎にスカウトされる。

1964年10月15日 「涙を抱いた渡り鳥」でデビュー。

1965年 NHK紅白歌合戦に初出場。以降、1986年まで22回連続出場。

1968年 「三百六十五歩のマーチ」が100万枚の大ヒット。翌1969年3月開催の第41回選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも採用となる。

1969年 「三百六十五歩のマーチ」で第11回日本レコード大賞大衆賞受賞。

1970年 ドラマ『ありがとう』(TBS)主演。

1981年 『有明けの海』で古賀政男記念音楽大賞、日本作詩大賞に入賞。

1985年 つくば万博での公演に音楽家の小松明がバックバンド兼指揮者として参加。まもなく交際を始める。

1989年 小松との結婚を発表。同年2月28日、水前寺公園の中の出水神社で挙式。小松が水前寺の個人事務所の社長に就任。

2000年 熊本市に老人ケアハウス「水清庵」を設立。また「水前寺清子一座」を旗揚げ、全国公演。

2005年 期間限定再集結聖飢魔IIのミサにゲスト出演し、聖飢魔IIの演奏で「三百六十五歩のマーチ」をデーモン閣下と歌唱。

2017年 第1回ももいろ歌合戦に出場、以後2023年に至るまで毎年出場を続けている。

2018年 自身が司会を務める『人生は三百六十五歩のマーチ』が放送開始。水前寺の55周年をお祝いするという形で親交のあるゲストが毎週出演し、水前寺との思い出を語るという集大成の番組である。

2019年 旭日小綬章受章。

2020年 デビュー55周年を祝いBSフジで司会を務める『人生は三百六十五歩のマーチ』の中でチータ55!と副題をつけたタイトルで2時間の特番が放送された。それを祝いゲストにデビュー当初から親交のある歌手の美川憲一と山田太郎が出演。故郷である熊本ロケも行われた。

2020年12月4日、離婚していたことが報じられた。小松は事務所からも退き、水前寺が社長に就任したことも明らかになった。

NHK紅白歌合戦でのエピソード

水前寺は1960年代半ばから1980年代まで紅組トップバッター2回、紅組トリ1回、紅組司会4回、1981年よりチームリーダー制が敷かれてからは紅組リーダー4回(1983年は盟友である同期デビューの都はるみにその座を禅譲している)をそれぞれ務めた。

1968年、第19回紅白で初の紅組司会を務める。冒頭の選手宣誓で「昭和43年」を「昭和33年」と言い間違えた。またこの頃は、着流しやパンツルックなどボーイッシュな衣装でテレビに出ることが多かったが、芸者姿で司会に挑んだ。水前寺は「当日ドキドキで精神安定剤を飲んだらスーッと気持ちが落ち着いてきたから、『こりゃいいや』と思ってもう1錠飲んだらヘロヘロになっちゃって。選手宣誓の時、昭和43年を34年と言っちゃった」と話している。

1971年、2回目の紅組司会を務めたが、紅組トリおよび大トリとなった美空ひばりの曲紹介を拒否したと噂されたことで、後日謝罪の記者会見を行い波紋を呼んだが、実際は、大トリだけは宮田輝が司会をするということが決まっていた(フジテレビ系「ダウンタウンなう」に出演時の発言より)。

翌1972年の紅組司会は佐良直美に変更となるも、その翌1973年は水前寺が同年3回目の紅白司会を務めている。なお1972年では紅組の「応援団長」を務めたが、この時白組の応援団長を務めたのは、『NTV紅白歌のベストテン』で初期に共演があった堺正章だった。

1979年、4回目の司会を務めた紅白では、歌手としてよりも司会の方に重点を置く意思で司会に臨んだ。特に初出場で緊張の極度にいる歌手に対しては激励の言葉をかけ続けたり、各歌手のいい部分を最大限すくい上げようと司会者面談をいつも以上に念入りに行うなど努力を惜しまなかった。

1982年の入場行進は、それまでの五十音順での行進という鉄則を破って、意表をつく組み合わせでの入場となった。この時に同期の都はるみと共に入場した相手は当時のトップアイドル、近藤真彦・田原俊彦だった。

1983年、「あさくさ物語」で出場19回目にして初の紅組トリを務める。しかしこの年、紅白の直前に最大の理解者であった父が死去。紅組トリでは終始涙を浮かべて歌い上げた。紅組司会の黒柳徹子は「天国のお父ちゃん、聞こえますか?」と曲紹介時に述べた(黒柳の言葉を聞いた水前寺は父親に届いたと思ったという)。なお、水前寺は11月20日の時点で紅組トリ担当を知らされていたが、関係者や親族にも明かしてはならないと、NHKとの取り決めにより、病床の父にもその事実を告げることができなかった。それが心残りとなっていると言い、この事実を父親に告げていれば、紅白本番の時まで父親は生きていてくれたのかもと思っていると話す。そして同年から1985年まで設けられた個人賞「銀杯」を獲得している(優勝チームの個人賞は「金杯」で、白組の沢田研二が獲得)。

1987年、紅白改革の嵐に巻き込まれる形で、出場22回にして落選という挫折を味わう。その際、番組側から水前寺に対し「辞退した」と発表することを許可されたが、「(落選という)結果を正面から受け入れようと思いました。辞退は逃げだと思います」とこれを拒み落選をそのまま公表した。1990年代に入り、紅白でも懐メロが本格的に解禁されて再出場の機会は幾度となくあるものの、落選後は1度も出場できていない。紅白が50回を迎えた時のインタビューでは「今ではテレビで見る立場になってしまいましたが、お声がかかったり時代の流れに乗ればいつでも出るし待ってます」とコメントしている。ただし、紅白の事前番組(『あなたが選ぶ思い出の紅白・感動の紅白』など)にはコロッケらとほぼ毎年出演している。また、2009年11月に読売テレビ制作・日本テレビ系列『情報ライブ ミヤネ屋』にゲスト出演した際、紅白に初出場を果たした歌手が記者会見で「親孝行になった」と発言する姿が印象的だと話し、紅白を「若い歌手に是非出てほしい番組」と推奨していた。

自身のブログでは、「紅白はヒット曲が出ない限りは出場しない。今は半卒業状態」だと綴っていた。

紅白の出場がなくなって久しい一方で、前述の通り2017年から毎年大晦日に開催されている『ももいろ歌合戦』に初回から2023年の第7回に至るまですべての回に出場を続けている。

2024/06/13 14:22更新

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