熊倉一雄の情報(くまくらかずお) 俳優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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熊倉 一雄さんについて調べます
■名前・氏名 |
熊倉一雄と関係のある人
キノトール: 熊倉一雄 山田康雄: 1958年3月、それまで何度か共演していた熊倉一雄に誘われ劇団テアトル・エコーに入団、8月に『男の中の男』の広口役で初舞台を踏んだ。 阪脩: 劇団解散後、熊倉一雄から誘われてテアトル・エコーに入団してアニメ、吹き替えの声優としての活動を始める。 清村耕次: 天国と地獄(1963年、東宝) - 魚市場の事務員 役、声のアテレコは熊倉一雄が担当 浦野光: ポパイで共演した熊倉一雄によると新人時代にアテレコの直前に下痢を理由にブースを退出した共演者と自身の役を生放送で演じ分けるという荒業を披露するも兼任した役の方に力が入ってしまい自身の役の演技がおざなりになってしまった為ディレクターから叱責されたことがあるという。 矢島正明: 「ナガイの海苔」(1980年代、歌・熊倉一雄) 安部公房: 5月11日よりNHKラジオ第1放送にて子供向けのラジオドラマ『ひげの生えたパイプ』を熊倉一雄ほかの出演により放送。 大塚周夫: 東芸の後輩に、田の中勇、富田耕生、熊倉一雄、野沢雅子がいる。 デビッド=スーシェ: NHKおよびCSで放送される『名探偵ポワロ』とその関連番組の日本語版では熊倉一雄がスーシェの声を吹き替え、人気を博した。 山下啓介: 諸国を遍歴する二人の騎士の物語(2015年 / 騎士1役)※熊倉一雄の代役 納谷悟朗: 1957年、交友のあった熊倉一雄の誘いで『ヒッチコック劇場』の吹き替えに出演。 湯川れい子: 愛の芽生え(伊東恵里、山寺宏一、若江準威知、熊倉一雄、ポプラ)(美女と野獣) 石山透: 科学を志し、東京高等学校理科に学ぶが断念、卒業後は学友の熊倉一雄らとともに劇団「感覚座」を主宰。 平井道子: 熊倉一雄に誘われて1957年にテアトル・エコーへ入団。 林りんこ: 熊倉一雄監督 / 永井寛孝演出「こぶとり」赤鬼役 於:テアトルエコー稽古場 納谷悟朗: この頃、日本テレビで大道具係だった熊倉一雄と知り合い、意気投合したことで交友関係が生まれたという。 坂本千夏: テアトル・エコーを選んだ理由は当時、熊倉一雄、山田康雄、槐柳二などの声優がいっぱい所属していたからである。 神谷明: 特に、テアトル・エコー所属時代に指導を受けた山田康雄や納谷悟朗、熊倉一雄などの名前が挙がることが多い。 大平透: 『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福造役について、当初は熊倉一雄が99%内定していたものの、総監督の意向でオファーを受け喪黒の声を披露したところ、原作者の藤子不二雄Aも大絶賛し満場一致で大平に決まったという。 美輪明宏: なお、当時80歳での美輪の出場は正規枠では最年長出場記録を保持しているものの、正規出場者以外では2010年の『第61回NHK紅白歌合戦』に当時83歳で出演した熊倉一雄がいる。 いずみたく: 熊倉一雄/吉幾三/憂歌団/泉谷しげる/ザ50回転ズ/氷川きよし 井上ひさし: 1969年に、『ひょっこりひょうたん島』に声優として出演していた熊倉一雄が主宰する劇団テアトル・エコーに『日本人のへそ』を書き下ろしたのを契機に本格的に戯曲の執筆を始め、小説・随筆等にも活動範囲を広げた。 翠準子: ポワロ役の熊倉一雄とは、かつて熊倉と同じ劇団であるテアトル・エコーに所属していたため古い付き合いだったという。 曽我部和恭: 熊倉一雄や納谷悟朗の指導を受け、テアトル・エコーの舞台公演に出演するとともに、研究生時代からアニメ作品や洋画吹替の声優に端役として参加した。 山寺宏一: 熊倉一雄 神谷明: このコミカルな演技の手本になったのは、駆け出しの頃に影響を受けた先輩声優・熊倉一雄の芝居である。 川久保潔: キャプテンウルトラ ※挿入歌「ハックとジョー」でキケロのジョー役を担当して、ハック役の熊倉一雄と合唱(キング SKD(H)2006M、1979年発売) |
熊倉一雄の情報まとめ
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熊倉 一雄(くまくら かずお)さんの誕生日は1927年1月30日です。東京出身の俳優のようです。
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人物、エピソードなどについてまとめました。現在、卒業、解散、映画、テレビ、ドラマ、退社、姉妹に関する情報もありますね。88歳で亡くなられているようです。
熊倉一雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)熊倉 一雄(くまくら かずお、1927年〈昭和2年〉1月30日 - 2015年〈平成27年〉10月12日)は、日本の俳優、声優、演出家。テアトル・エコー所属で、生涯に渡って代表取締役演劇担当を務めていた。 東京府東京市麻布区(現・東京都港区)三ノ橋出身。父は工作機械のセールスマン。母方の祖父は傘の会社の技師長。青山で1年ほど暮らして、5歳の時、一家は下町、東京府東京市京橋区入船町(現:東京都中央区入船)に越して父の両親と同居。この町で小学校時代を送っていたが、元々虚弱体質であり、小学2年生の時に肋膜炎を罹り3ヶ月ほど自宅療養し、本ばかり読んでいた。将来は発明家になりたいと考えており、エジソンが好きだった。旧制東京府立第八中学校(現・東京都立小山台高等学校)に進学する頃に父が米国企業に転職し、家計は楽になり、一家は再び山の手の東京府東京市大森区大森(現:東京都大田区大森)に転居。中学5年生の時、 旧制第二高等学校(現・東北大学)を受験するも失敗し、慶應義塾大学経済学部予科に進学。1944年、授業など殆どなく、栃木県へ援農(勤労動員)に行ったり、東京都品川区大崎の工場でボールベアリングを作ったり、三交代制で飛行機を作らされる毎日に嫌気が差して秋に中退。翌年4月、外交官を志して旧制都立高等学校文科(後の東京都立大学 (1949-2011)、現在の首都大学東京)を受験し、進学。終戦後、「一体これからどうしていけばいいのか」と、見当がつかなくなり、父も仕事から外れ、しばらくはボンヤリして晴耕雨読のような毎日を送って1年休学。復学をする時に「もっと現実的な職業を考えなきゃ」と考えた際、15歳で虫垂炎の手術をしていた時の医者が素晴らしい人物であったことを思い出し、医者というのは「いい仕事だな」と思っていたという。「医者になろう。少なくとも社会に貢献できる仕事だ」と同高等学校理科(後の東京都立大学 (1949-2011)理学部、現在の首都大学東京都市教養学部理工学系)に編入。編入後、友人に誘われるまま理科演劇研究会に入部し、同高等学校在学中、記念祭で催した芝居のゴーゴリ『検察官』をきっかけに演劇に興味を持ち始める。翌年の記念祭では太宰治作『カチカチ山』のタヌキ役を演じて演技賞までもらってしまったという。同校卒業後の、1949年に劇団感覚座を設立。しかし多額の負債を抱え込み1年で解散。 1950年東京演技アカデミー楽劇科に入学し、将来のミュージカルスターを夢見て、ミュージカルを中心に学ぶが、学校が1年後に倒産。目標を失い、その上帰る家も失い、途方に暮れて、仕方なくアルバイトを続け、その日その日の生計を立てることになったという。戦後も間もない頃のことでそうそう働けるところはなかったが、生来の手先の器用さを利用して、筆耕、看板書きの仕事を見つけては働いていたという。何も仕事のない時には病院に行って、売血をしてその日の糧を得ていた。そんなどん底生活をしていた時、「いい若いモンが己の血を売って生きていくなんていいことじゃない、うちへ飯を食いにこい」と優しい言葉をかけてくれた医師がおり、その先生の家に2年間も居侯させてもらっていた。ある時、進駐軍(アメリカ駐留軍)回りのダンシングチームで、コミックショーをやる男優を何人か探しているという耳よりな情報が仲間からもたらされ、仲間とトリオを組んでショーでパントマイムをやらせてもらうことにして、日本語を喋ってもシャレが通じないと考えたコミックマイムは、大いに受けたという。アメリカ合衆国のヒットナンバーを歌って、柳沢真一とも舞台を共にしていた。ある時、柳沢のマネージャーから、「楽譜が読めるなら写譜を手伝ってくれないか」と頼まれ、即座に書き上げてマネージャーを驚かせる。その話はすぐに広がり、帝国劇場、日本劇場から写譜の仕事が転がり込んでくるようになったという。舞台が開くぎりぎり2、3日前に、どんどん山のように譜面が渡されるのだったことから、猛スピードで仕上げていかなければならず、いつも徹夜で写譜することになった。同時に収入はぐんとはね上がり、貯金もでき、念願のミュージカルタレントになるための軍資金を得ることができたという。その頃、ルネ・クレールのフランス映画『自由を我等に』を見て感銘を受けて、歌える役者を目指して、歩み続ける決意を新たにしていた。1952年、劇団東芸の研究生として入団。東芸の先輩には大塚周夫がいる。その時は公演が始まっても、大道具、照明の係で、裏方として働かされることが多かったという。その後は俳優活動をしていたが、先輩の東宝映画出演が決まって、熊倉にも戦争もので、戦況を伝える伝令役で転がり込んで、配役表に熊倉の名前が印刷された台本を渡され、ロケ地の伊豆大島で、緊張しながらリハーサルをしていた。本番では極度に興奮し、身体がワナワナと震えていくのを感じ、頭の中が空っぽになって台詞が全く出てこなかったという。カメラだけがジーッと音を立てて回り続けて、監督の厳しい声が響き、その後も何回か撮影し直しが続いていたが、いずれも絶句したり台詞を間違えたりしており、監督もサジを投げて、急遽代役が立てられることになったという。その時に「俺はバカだ!こんなバカがどうして役者になんかなろうとしたんだ!!」「役者では芽が出ない」と思うようになり、俳優活動を休止する。 1953年開局間もない日本テレビに入社。スタジオ班に配属され、主にテレビドラマの大道具を担当。当時は放映されるドラマの数が少なく、セットが完成すると次のドラマの準備まで時間が空くため、その合間に「バーテンダーの役をやってみろ」、「婆さんの役をやってみろ」と言われ、通行人等の端役でドラマにも出演していた。このドラマ出演をきっかけに再び俳優業に興味を持つようになり、日本テレビを退社し、劇団東芸に戻り、俳優活動を再開する。 1956年9月、テアトル・エコーへ入団。翌1957年にアルバイトで海外ドラマ『海賊船サルタナ』のアテレコの仕事に出演して声優としての活動を始める。同年に日本テレビで放映された『ヒッチコック劇場』で、元社員であった縁でキャスティングプロデューサーとして声優のキャスティングを担当(アルフレッド・ヒッチコックは放映開始当時、スーパーインポーズで吹き替えはなし)。担当ディレクターに、ヒッチコックの吹き替えに適当な役者がいないと相談したところ、熊倉本人に吹き替えを担当するように指示。これが熊倉の声優としての最初の成功作となる。以後数々の作品に声優として出演する。アニメでのデビューは『ポパイ』のブルート役。プレーヤーズセンターに所属していた時期もある。 1968年には『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌を歌い、キングレコードのヒット賞を受賞。 ディズニーの長編アニメの吹き替えも複数担当していた。 テアトル・エコーでは演出家を兼ねて指導的立場となり、1969年には『ひょっこりひょうたん島』『ブンとフン』などテレビ・ラジオでの協業が多かった放送作家・井上ひさしにデビュー戯曲(実際はこれ以前に雑誌掲載のみの習作もある)『日本人のへそ』の執筆を依嘱。ブレヒト風の歌入り芝居に風刺と推理劇を盛りこみ、二重三重の劇中劇が入り組む前代未聞の作となり、主演と演出を兼ねての公演はセンセーショナルな成功を収める。以後、作・井上ひさし、演出・熊倉一雄のコンビは数年にわたって話題作を連打し日本の演劇界の話題を集め続けた。1977年には『日本人のへそ』映画版にも出演したが、ハナ肇とともに原作にない劇中劇の照明係(そのため出番が少ない)という扱いでのゲスト出演であり、熊倉が初演等の舞台で演じた役はなべおさみに譲られた。井上が大劇場へ転じてからはニール・サイモンなど翻訳喜劇を多く取り上げている。1991年紫綬褒章受章、1998年勲四等旭日小綬章受章、1998年紀伊国屋演劇賞個人賞受賞、2015年NHK放送文化賞受賞。 2015年10月12日午後3時24分、直腸癌のため都内の病院で死去。満88歳没(享年89)。2014年11月に行われた舞台「遭難姉妹と毒キノコ」が最後の出演となった。 人物声優としての当たり役にはヒッチコックのほか、1990年から日本で放送が開始されたテレビドラマ版の『名探偵ポワロ』のエルキュール・ポアロ(デヴィッド・スーシェ)の吹き替えがあり、熊倉のライフワークとなっていた。 『ひょっこりひょうたん島』(トラヒゲ)、『ばくさんのかばん』(ばくさん)でも知られる。 愛称はクマちゃん。 高校時代は音楽部に所属していた。ピッコロを担当したり、中学時代の仲間が結成した未完成室内楽団に入部してもらったりしていた。 エピソード山田康雄や納谷悟朗等を自らテアトル・エコーにスカウトしており、誘われた山田は「熊ちゃんは人拐いだった」と称している。 神谷明は熊倉の三枚目の演技と歌唱に感銘を受け、後に『キン肉マン』で主人公キン肉マンを演じる参考になったと語っている。 2012年に、BSプレミアムで放映された『名探偵ポワロ』の新シリーズの吹き替え収録でのプレマップのインタビューの際には、「ポワロにはまだまだドラマ化されていない作品が残っておりますので、私もこれからも頑張ってやっていきます」と、これからもポワロの吹き替えを続けていく意気込みを語った(ポワロを演じているデヴィッド・スーシェも「全ての作品を演じるまでは続けていく」と語っている)。そして、2014年の最終シリーズ放送に際して行われたインタビューで、「この吹き替えの仕事だけは誰にも渡したくないと思っていたが、生きているうちに最後まで吹き替えられるか心配だったため、無事に完遂して仕事を果たした気持ちになった」と語った。 『名探偵ポワロ』の吹き替えで共演したミス・レモン役の翠準子とは長く同じ劇団にいたため古い付き合いで、ジャップ警部役の坂口芳貞とは酒を酌み交わす仲だという。一方、シリーズ途中でヘイスティングス大尉役の富山敬が死去したことに対して「辛かった」とも述べた。ちなみに富山からヘイスティングス役を引き継いだのは劇団の後輩の安原義人だった。 2024/06/26 07:36更新
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kumakura kazuo
熊倉一雄と同じ誕生日1月30日生まれ、同じ東京出身の人
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