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井上ひさしの情報 (いのうえひさし)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

井上ひさしの情報(いのうえひさし) 放送作家、劇作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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井上 ひさしさんについて調べます

■名前・氏名
井上 ひさし
(読み:いのうえ ひさし)
■職業
放送作家、劇作家
■井上ひさしの誕生日・生年月日
1934年11月16日 (年齢75歳没)
戌年(いぬ年)、蠍座(さそり座)
■出身地・都道府県
山形出身

(昭和9年)1934年生まれの人の年齢早見表

井上ひさしと同じ1934年生まれの有名人・芸能人

井上ひさしと同じ11月16日生まれの有名人・芸能人

井上ひさしと同じ出身地山形県生まれの有名人・芸能人


井上ひさしと関係のある人

宇野誠一郎: また同時期に放送作家だった井上ひさしと知り合い、NHKラジオドラマ『モグッチョチビッチョこんにちは』(1962年)、テレビ人形劇『ひょっこりひょうたん島』『ネコジャラ市の11人』、劇団テアトル・エコーの公演作品など、井上が脚本を手がけた作品で音楽を担当。


太田稔彦: 大学時代は井上ひさしや倉本聰の戯曲を愛読した。


枝元萌: 「私はだれでしょう」(2017年 こまつ座 作:井上ひさし 演出:栗山民也)


井上芳雄: NHKスペシャル ラストメッセージ井上ひさし最後の作品(2013年5月4日、NHK総合)


鈴木邦男: 一水会結成当初の鈴木は、井上ひさし宅に脅迫電話を入れたところ、逆に“君は愛国者だというが、ならば天皇全員の名(諡)を言えるか、私は出来るぞ”と全125代を暗誦されるなどして「返り討ち」に遭い、謝罪したところ許しを得ることができたという(1940年代までの生まれなら普通に受けた教育)。


小曽根真: 組曲虐殺(井上ひさし作、井上芳雄主演、2009年10月、天王洲 銀河劇場) - 小林多喜二役


三田和代: 夢の泪(2003、2010年、新国立劇場 作:井上ひさし 演出:栗山民也)


多田野曜平: 井上ひさし「日本人のへそ」(2010年テアトル・エコー)


馬渕英里何: こまつ座 「人間合格」(作:井上ひさし / 演出:鵜山仁) 紀伊國屋サザンシアター 他 - チェリー旗ほか7役


松田哲夫: 井上ひさし+山元護久『ひょっこりひょうたん島』1990年 -


平田満: 内田洋一 (2011年10月18日). “シス・カンパニー「泣き虫なまいき石川啄木」作者井上ひさしとの苦悩の二重唱”.


綱淵謙錠: 翌年請われて日本ペンクラブ事務局長に就き激務の傍ら「斬」を執筆、同年井上ひさしとともに第67回直木賞を受賞した。


栗塚旭: ※原作:井上ひさし


江良潤: テアトル・エコーに入団するが、井上ひさしの退団を受けて退団。


山元護久: 「ひみつのアッコちゃん」 - 井上ひさしとの共作(作曲:小林亜星)


小沢昭一: 「引退興行」と称して『唐来参和』(井上ひさし原作)の一人芝居を各地で、1982年(昭和57年)から18年間続け、公演660回を数えた。


藤原竜也: 黙阿彌オペラ(2010年、作:井上ひさし・演出:栗山民也) - 五郎蔵 役


六平直政: 表裏源内蛙合戦(2008年、Bunkamura 作:井上ひさし 演出:蜷川幸雄)


井上芳雄: 小曽根真プロデュース「井上ひさしに捧ぐ」(2011年5月11日、Bunkamuraオーチャードホール)


佐藤輝: 天保十二年のシェイクスピア (1974年) -清水次郎長ほか 井上ひさし作 出口典夫演出 西武劇場 全国公演


河野丈洋: 日本人のへそ(作/井上ひさし、演出/鴻上尚史、2020年)※新型コロナウィルス感染症のため延期


山元護久: ネコジャラ市の11人 井上ひさし, 山元護久 原作,上地ちづ子 文,谷口健雄 絵 講談社 1971 (カラーテレビ版名作絵ばなし)


辻萬長: もとの黙阿弥 浅草七軒町界隈(2005年、松竹、作:井上ひさし、演出:木村光一)


渡辺美智雄: 渡辺は1985年に海老名と西舘好子(当時は井上ひさし夫人)の三人で出演したテレビ番組「いい人・E話」(テレビ東京系)の中で、海老名が夫の林家三平(当時既に故人)を賞賛していたエピソードを披露。


矢崎滋: 小林一茶(1979年、作:井上ひさし)主演


高村尚枝: 井上ひさし作『新◎道元の冒険』(安澤事務所プロデュース+ベニサン・ピット協力) 2000年


三宅裕司: 井上ひさしとてんぷくトリオのコント(2012年7月8日、NHK BSプレミアム) - 舞台演出


ビートたけし: 当時、たけしと思しき人物を見た井上ひさしは「不機嫌そうな青年」と、その印象を述べている。


星新一: 星作品の文庫解説には、SF作家仲間や親友ともいえる交友のあった北杜夫以外にも、井上ひさし、大庭みな子、鶴見俊輔、尾崎秀樹、奥野健男ら大物の名が並ぶ(奥野などは本来は新潮文庫での太宰治担当解説者である)。


北村有起哉: 戯作者銘々伝(2015年) 紀伊国屋サザンシアター、他(作・井上ひさし 演出・東憲司)こまつ座


井上ひさしの情報まとめ

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井上 ひさし(いのうえ ひさし)さんの誕生日は1934年11月16日です。山形出身の放送作家、劇作家のようです。

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人物、作家としての特徴などについてまとめました。兄弟、現在、父親、母親、映画、解散、卒業、結婚、離婚、再婚、事件に関する情報もありますね。75歳で亡くなられているようです。

井上ひさしのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

井上 ひさし(いのうえ ひさし、本名:井上 廈(読み同じ)、1934年〈昭和9年〉11月16日 - 2010年〈平成22年〉4月9日)は、日本の小説家、劇作家、放送作家である。文化功労者、日本芸術院会員。

1961年から1986年までの本名は内山 廈(うちやま ひさし)。遅筆堂(ちひつどう)を名乗ることもあった。

日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任した。晩年は自身の蔵書を収蔵した遅筆堂文庫を造り、運営した(後述)。

先妻は西舘代志子。後妻のユリは元衆議院議員米原昶の娘。長女は元こまつ座主宰の井上都。三女は株式会社こまつ座社長の石川麻矢。

1934年11月16日、井上靖と競った文学青年の井上修吉を父とし、井上マスを母として山形県東置賜郡小松町中小松(現・川西町)に生まれる。修吉は実家が薬屋だったため薬剤師を目指す一方、農地解放運動に関わり、地方劇団「小松座」を主宰したほか、1935年には小松滋の筆名で書いた小説『H丸傳奇』が『サンデー毎日』第17回大衆文芸新人賞に入賞している。プロレタリア文学雑誌『戦旗』への投稿や同誌の配布の手伝いもしていた。マスが病院の下働きをしていたときに薬剤師助手の修吉と知り合い駆け落ちしたが、井上の籍には入らず、ひさしたち3兄弟は戸籍上は非嫡出子(婚外子)として生まれた。廈(ひさし)という名前は、『H丸傳奇』の舞台となった中国の厦門(アモイ)に由来する。5歳のとき父が脊髄カリエスで死亡。青年共産同盟(現在の日本民主青年同盟、通称・民青)に加入していた父親は3回検挙歴があり、そのときに受けた拷問の影響で脊髄を悪くしたとも語っていた。母親は夫に替わって薬屋を切り盛りする傍ら、闇米の販売や美容院経営などで3人の子を育てていたが、旅回りの芸人と同居を始める。その義父から虐待を受け、ストレスから円形脱毛症と吃音症になる。その後、義父に有り金を持ち逃げされた。山形では父が残した蔵書を乱読して過ごし、「神童」と言われていた。

母は一関市で飯場を営んでいた義父の居場所を突き止め、会社から義父を追い出して自ら社長の座につき土建業「井上組」を立ち上げた。当時アイオン・カスリーン台風の被害により一関市内の復興需要に対し土建業を担っていた。その際井上自身は、現在の世嬉の一酒造の蔵を借りて運営していた新星映画館(現:一関シネプラザ)にて切符もぎりのバイトをしていた。しかし、井上組の経営はうまくいかず会社は程なくして解散。生活苦のため母はカトリック修道会ラ・サール会の孤児院(現在の児童養護施設)「光が丘天使園」(宮城県仙台市)にひさしを預ける。そこではカナダ人修道士たちが児童に対して献身的な態度で接していた。カナダから修道服の修理用に送られた羅紗もまず子供たちの通学服に回し、自分はぼろぼろの修道服に甘んじ毎日額に汗して子供たちに食べさせる野菜などを栽培していた。このような修道士たちの生きかたは入所児童を感動させ、洗礼を受ける児童が続出した。ひさしもその一人となった(洗礼名:マリア・ヨゼフ。上京後、棄教している)。一方、井上の孤児院時代の友人によると、この孤児院は理不尽な体罰といじめが横行する弱肉強食の環境であり、当時の井上は弟と一緒だったが「小さな弟がいじめられて泣いてもかばえないような奴でした」「口がうまくてそれで渡り歩いたようなところがあった」、という。井上在園当時に園長を務めた石井恭一修道士も「ひさしさんはおとなしい子でしたよ。弟さんは小さくて、よくおねしょをしたので、皆にからかわれていました。彼はかばうことはせずに、はやし立てる仲間の方に加わっていました」と証言している。この当時のことは自著『四十一番の少年』にも描かれている。

1950年、宮城県仙台第一高等学校へ進み孤児院から通学。在校中の思い出を半自伝的小説『青葉繁れる』に記している。在校中は新聞部に所属し、同級生に憲法学者の樋口陽一、1学年上級生には俳優の菅原文太がいた。在学中は投稿や読書、映画、野球に熱中し、成績は低迷。東北大学と東京外国語大学の受験に失敗して早稲田大学の補欠合格と慶應義塾大学図書館学科の合格を果たすも学費を払うことができず、孤児院の神父の推薦で1953年、上智大学文学部ドイツ文学科に入学し、代々木上原のラ・サール修道院から通う。しかしドイツ語に興味が持てなかった上、生活費も底をついたため2年間休学して岩手県の国立釜石療養所の事務職員となる。看護婦への憧れから医師を志し、東北大学医学部と岩手医科大学を受験して失敗。1956年、上智大学外国語学部フランス語科に復学。釜石で働いて貯めた15万円は、赤線に通い詰めて2か月で使い果たした。

在学中から、浅草のストリップ劇場フランス座を中心に台本を書き始める。当時のストリップは1回2時間程度のショーに先駆け1時間程度の小喜劇を出し物としており、殊にフランス座は渥美清を筆頭として谷幹一、関敬六、長門勇と言った後に日本を代表する喜劇役者の活躍の場であった。これらの大学時代の経験は、『モッキンポット師の後始末』に(かなりフィクションが交えられているが)小説化されている。

1960年に上智大学を卒業。放送作家として活動し、1961年、広告代理店に勤めていた好子と結婚(婿養子)、1963年から年子で娘を3人もうける。山元護久と共に『ひょっこりひょうたん島』を手がけ、1964年4月から5年間放映される国民的人気番組となる。舞台であるひょうたん島が「流れ着いた国」の一つ、「国民すべてが郵便局員」であるというポストリアの設定が郵政を馬鹿にしていると抗議があり放送が打ち切りになった。のち1970年4月より『ネコジャラ市の11人』が放送され、作風は近代化されたが時代的背景から体制批判であるとの抗議が立ち、『ひょっこりひょうたん島』に比べれば短期間の3年間の放映で終了となった。また、このころ、お茶の間の人気者として台頭しつつあったてんぷくトリオのコント台本を数多く手がけている(これらの作品は「コント台本」として出版されている)。1969年に、『ひょっこりひょうたん島』に声優として出演していた熊倉一雄が主宰する劇団テアトル・エコーに『日本人のへそ』を書き下ろしたのを契機に本格的に戯曲の執筆を始め、小説・随筆等にも活動範囲を広げた。

1972年7月、「手鎖心中」(『別冊文藝春秋』119号)で第67回直木三十五賞を受賞した。選考委員会では柴田錬三郎が「江戸爛熟期の風俗の調べがゆきとどかず、挿入の小唄が大正製であったりする不備があった」、司馬遼太郎も「作品そのものには多少の瑕瑾を指摘できる」と消極的意見も出される中、水上勉が「軽妙にしてずっしりと重い。おそらく日本文壇は、何年ぶりかで、個性ゆたかな作家を得たといえる」、松本清張も「ふざけた小説だとみるのは皮相で、作者は戯作者の中に入って現代の「寛政」を見ている」など、積極的意見に推されるかたちで綱淵謙錠の『斬』との同時受賞が決まった。

1974年1月から初の連載小説となる「熱風至る」を『週刊文春』に連載した。新選組をモチーフとした時代小説で、掲載予告では「人気絶頂作家の長篇小説が初めて週刊誌に登場」「ひさしの新選組」などの文言が踊る鳴り物入りの連載スタートだった。しかし、近藤勇が被差別部落出身だったとするなどの内容が編集部の不興を買い、連載は丸2年続いた後、完結を待たずに終了となった。

1982年2月、『吉里吉里人』で第33回読売文学賞、第2回日本SF大賞を受賞した。

1983年1月、劇団こまつ座を立ち上げている。第1回は1984年4月5日の『頭痛肩こり樋口一葉』であった。パンフレット「the座」を発行していて、前口上や後口上やシナリオを掲載していた。1986年、好子と離婚。井上、好子ともに記者会見をし、マスコミを賑わせた。この間、1985年12月4日、自宅で睡眠薬を服用して首を吊り、自殺を図ったが未遂に終わっている。翌年、米原ユリと再婚、男児をもうける。

日本ペンクラブ会長、日本文藝家協会理事、日本劇作家協会理事(2004年4月 - )、千葉県市川市文化振興財団理事長(2004年7月 - )、世界平和アピール七人委員会委員、仙台文学館館長(初代)、もりおか啄木・賢治青春館名誉館長(2002年 - )などを歴任した。また多くの文学賞等の選考委員を務めており直木三十五賞、読売文学賞、谷崎潤一郎賞、大佛次郎賞、川端康成文学賞、吉川英治文学賞、岸田國士戯曲賞、講談社エッセイ賞、日本ファンタジーノベル大賞、小説すばる新人賞が挙げられる。2009年より文化学院の特別講師となっていた。以前、姉が文化学院でフランス語を教えていたことと、娘らが文化学院に在籍経験があることから引き受けたという。同年、日本藝術院会員に選ばれた。

1日40本はたばこを吸うという愛煙家で、「喫煙と肺癌は無関係」という見解をたびたび披露していたが、井上自身が2009年10月に肺癌と診断され、「やはり肺がんとたばこには因果関係があるんだね。さすがに禁煙したよ」と述べていたという。治療中の2010年4月9日に死去した。75歳没。

沖縄戦を題材にした新作戯曲『木の上の軍隊』の上演が2010年7月に予定され、豊竹咲大夫の求めに応じて井原西鶴の作品を元にした文楽の新作台本を2011年に上演する計画もあったが、いずれも執筆に至らなかった。

戒名は「智筆院戯道廈法居士(ちひついんぎどうかほうこじ)」。墓所は浄光明寺。

命日の4月9日は没後5年にあたる2015年より、代表作「吉里吉里人」にちなんで吉里吉里忌と名付けられている(文学忌)。

人物

ミステリー小説が好きで『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』を購読していた。自分が書いた芝居も「ほとんどが、全部推理仕立てなんです。推理仕立てで失敗した作品はそうないんです」と語っている。

1982年に行われたインタビューで「僕もエスペラントを、夢中になってやった時期があります」と語るなど、エスペラント語への関心が高かった。戯曲『イーハトーボの劇列車』では、登場人物である宮沢賢治がエスペラントの講習を行っている。

謂れのない批判には猛然と反撃した。朝日新聞の書評で『吉里吉里人』が大江健三郎の『同時代ゲーム』のパロディだと書かれたことをめぐって「僕に対しては勿論、大江さんにも失礼です。書評家の名前が分ったら、僕は決闘を申し込みます。僕は杖術の使い手だから負けません。あの書評家の脳味噌をゴチャゴチャに掻きまわしてやります。批判してはいけない、といっているのじゃありません。事実を調べずに、また肝腎の本を読みもせずにきいた風のことを言う文筆家は困るのです。毒虫です。人間じゃない。言葉の本当の意味で「馬鹿」です」と語っている。

プロ野球の東京ヤクルトスワローズのファンの著名人として知られているが、数少ない国鉄スワローズ時代からのファン。これは1952年に同郷の佐藤孝夫がもしも新人王を取ったらば未来永劫応援し続けるとキリストに祈ったらその通りとなり、結果やめたら「天罰が下るのが怖い」から応援し続けているとのことである。また、三女の石川麻矢によると、パシフィック・リーグでは近鉄バファローズのファンであったという。

作家としての特徴

「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に書くこと」を創作のモットーとしており、文体は軽妙であり言語感覚に鋭い。

言葉に関する知識が、「国語学者も顔負け」と称されるほど深く、『週刊朝日』において大野晋、丸谷才一、大岡信といった当代随一の言葉の使い手とともに『日本語相談』を連載する。また、『私家版日本語文法』や『自家製文章読本』など、日本語に関するエッセイ等も多い。

自他共に認めるたいへんな遅筆で有名。自ら「遅筆堂」という戯号を用いるほどで、特に戯曲『パズル』完成に間に合わず雲隠れした「パズル事件」は有名。休演や初日延期の事態になった場合の損失には私財を投じて補填したという。1983年に自作の戯曲を専門に上演する劇団「こまつ座」を創立したが、その後も唯一の座付き作家である井上の遅筆により、公演中止や幕開け初日の延期による公演期間短縮などの騒動も何度か起こしている。

あまりの遅筆のため、ふつうは上演前に台本の原稿が仕上がると業者に回して謄写版を切ってもらうのだが井上の場合それが間に合わず、自らガリ版を切ることが多かった。娘の麻矢によると「書き始めると早いのだが、それまでに時間がかかった」とのこと。親交のある永六輔によると「『遅筆がひどいのでパソコンで字を書こうと考えている』と話していたが、どちらにしても同じだからやめなさいと説得し、結果やめていた」という。ただし、自ら台本のガリ版を切っていただけあって、井上の原稿は丁寧で大変読みやすいものだった。

戯曲の完成度の高さは現代日本においては第一級のものであり、数々の役職を含め、日本を代表する劇作家として確固たる地位を確立した。死去に際しては「国民作家の名にふさわしい」(別役実、産経新聞)「井上作品のあの深みと重み。同じ方向に行っても勝てるわけはないですから」(三谷幸喜、朝日新聞)「父のような存在でした。いつか“ライバルです”って、言ってみたかった」(野田秀樹、同)と、当代を代表する劇作家たちからの最大級の賛辞が追悼コメントとして並んだ。また井上作品『ムサシ』の英米公演を控えた演出家の蜷川幸雄は訃報を受け「井上さんの舞台は世界の最前線にいるんだということを伝えたい」(報知新聞)と語っている。彼の書評眼の鋭さに対する賞賛の声もまた存在している。

膨大な資料を収集して作品を描くことでも著名で、蔵書は後述の「遅筆堂文庫」として寄贈された。同様に膨大な資料を元に作品を描くことで有名な司馬遼太郎と同じ資料を探していて、一足違いで先を越されたエピソードもある。

井上の政治的姿勢に抗議電話をかけてきた右翼に対し「あなたは歴代天皇の名前が言えるのか、自分は言える」とやりこめた逸話もある。

井上には戯曲『父と暮せば』や『紙屋町さくらホテル』、朗読劇『少年口伝隊一九四五』など広島への原爆投下を題材にした作品も多いが、これについて2009年7月に広島市で行われた講演会で「同年代の子どもが広島、長崎で地獄を見たとき、私は夏祭りの練習をしていた。ものすごい負い目があり、いつか広島を書きたいと願っていた」「今でも広島、長崎を聖地と考えている」と話した。

「浅草フランス座は、ストリップ界の東京大学だった」と語っている。

2024/06/17 06:19更新

inoue hisashi



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