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石原裕次郎の情報 (いしはらゆうじろう)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

石原裕次郎の情報(いしはらゆうじろう) 俳優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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石原 裕次郎さんについて調べます

■名前・氏名
石原 裕次郎
(読み:いしはら ゆうじろう)
■職業
俳優
■石原裕次郎の誕生日・生年月日
1934年12月28日 (年齢52歳没)
戌年(いぬ年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
兵庫出身

(昭和9年)1934年生まれの人の年齢早見表

石原裕次郎と同じ1934年生まれの有名人・芸能人

石原裕次郎と同じ12月28日生まれの有名人・芸能人

石原裕次郎と同じ出身地兵庫県生まれの有名人・芸能人


石原裕次郎と関係のある人

勝野洋: 勝野は持ち掛けられた『太陽にほえろ!』 の話を断るつもりでいたが、石原裕次郎に会えるということで、記念として太陽にゲスト出演、石原裕次郎に挨拶に行き、『太陽にほえろ!』 に出るしかならない状況になり、出演した。


赤木圭一郎: 1961年1月、『激流に生きる男』で主演を演じるはずだった石原裕次郎が、スキーで転倒して骨折したことで赤木にその代役が回ってくる。


江利チエミ: 東映作品『ちいさこべ』では京都市民映画祭で優秀助演女優賞を獲得、『ふんどし医者』など、自身主演の音楽娯楽映画(『唄祭りロマンス道中』(渥美清・共演)、『ジャズ娘誕生』(石原裕次郎・共演)、『チエミの婦人靴』など)以外にも数多く助演した。


島木譲二: 小学校の時に見た映画『俺は待ってるぜ』で石原裕次郎が演じた元プロボクサーのレストラン店主である島木譲次役に憧れ、中学生の頃から本名(濵伸二)と役名(島木譲次)をもじって「ワシは島木譲二や!」と勝手に名乗っていたという。


大坂志郎: 赤い波止場(1958年、日活 主演:石原裕次郎)野呂刑事


山口洋子: ブランデーグラス/石原裕次郎(1977年・1979年再発売)


浮谷東次郎: また、上岡龍太郎が『テレビ探偵団』に出演した際、「僕にとってのヒーローは、石原裕次郎と浮谷東次郎」と語っていた。


渡哲也: 小さい頃から機械いじりが好きだったので就職を希望した日本航空の整備士社員の採用試験 (国語・数学・物理・化学) が全科目英文で不合格となり、「せめて日本語の問題だったら…ブラブラしてて日活撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない」と友人から言われ、出向いていた日活撮影所の食堂で偶然スカウトを受けて1964年(昭和39年)に日活へ入社した。


露口茂: 2001年:『週刊文春』2001年5月3・10日GW特大号の企画「あの人は同級生」で『太陽にほえろ!』についてインタビューに応じており、石原裕次郎の成城の自宅やハワイの別荘に誘われたが、一度も行かなかったことを後悔していること、一度だけ飲みに行ったこと、石原のレコードをもらったことなどを語った。


苅谷俊介: 俳優となり考古学からは一時遠ざかっていたが、1980年に石原プロの社長だった石原裕次郎の新居建設現場から多数の土器を含む遺跡が出土したことを契機に、再び考古学への情熱が再燃。


杉浦直樹: 映画では、1957年の石原裕次郎主演の『俺は待ってるぜ』でデビュー。続いて、1958年に石原裕次郎、小林旭、宍戸錠出演の『錆びたナイフ』で印象的な敵役を演じ、注目を集める。


日高富明: ファイヤー名義のリリース作品はないが、ファイヤーとの演奏は、ガロのラスト・アルバム『三叉路』収録曲「ヘビー・ローラー」、石原裕次郎のシングル「不思議な夢」、劇中の演奏を担当していた時代劇ドラマ『新・座頭市』、アルバム『TOMMY』収録曲の「ショーが始まる」他で聞くことが出来る。


宮内淳: その後の目立ったメディア出演は、『太陽にほえろ! 1979 DVD-BOX II』(2008年発売)収録特典のアンソロジーメイキングや、BS朝日『極上空間』の石原裕次郎没後25年特別編(2012年6月9日放送)のみに留まった。


藤竜也: 『大追跡』の出演交渉に際して、プロデューサーの山口剛から「実際の主役は藤で、加山は『太陽にほえろ!』の石原裕次郎的な存在である」と聞かされ、出演を了承したという。


和田浩治: 東洋音楽学校声楽科在学中の1959年、当時人気の石原裕次郎に似ていることからスカウトされ、日活に入社し、同年の『無言の乱斗』に主演し、映画デビューする。


川地民夫: A面は石原裕次郎「夜の足音」)


石原慎太郎: 実弟は俳優の石原裕次郎


牧村旬子: 同年、石原裕次郎とのデュエットで知られる「銀座の恋の物語」が大ヒットとなった。


岩崎加根子: 『太陽への脱出』では石原裕次郎の相手役を、『座頭市地獄旅』では勝新太郎の相手役を演じた。


三船浩: 当時、フランク永井・神戸一郎・石原裕次郎と共に低音ブームを巻き起こし一世を風靡した。


浜口庫之助: クロスオーバー・ラブ(歌:石原裕次郎)(1978年)


渡辺裕太: 「裕太」という名前は、「裕」の字は、父の徹が「太陽にほえろ!」で共演していた石原裕次郎から、「太」の字は、太陽にほえろの「太」から由来している。


西村滋: 『やくざ先生』は、1960年に石原裕次郎主演で、日活で映画化された。


桜庭和志: しかし何か特定の音楽ジャンルが好きというわけではなく、BOØWY、その前は石原裕次郎、さらにその前はデッド・オア・アライヴ (バンド)と多岐にわたっている。


芦川いづみ: 1956年に田坂具隆監督の『乳母車』で石原裕次郎と初共演して爽やかな演技で人気を確かにすると、北原とともに裕次郎映画のヒロインとして欠かせない存在となり、北原の引退後も裕次郎の相手役として活躍した。


有村架純: 第29回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞 新人賞(『何者』『夏美のホタル』)


浜口庫之助: 粋な別れ(歌:石原裕次郎)(1967年)


ゼナ=マーシャル: ^ 『007 ゴールドフィンガー』のゴールドフィンガー役で有名なゲルト・フレーベや、日本の銀幕スター石原裕次郎など、各国の俳優が出演している大作。


渋川清彦: 第32回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞 助演男優賞(『閉鎖病棟 -それぞれの朝-』『半世界』『WE ARE LITTLE ZOMBIES』)


井上梅次: 鷲と鷹(主演・石原裕次郎、1957) - 日活 ※脚本兼任


石原裕次郎の情報まとめ

もしもしロボ

石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう)さんの誕生日は1934年12月28日です。兵庫出身の俳優のようです。

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ヨットマン(ヨット乗り、セイラー)としての活動、エピソードなどについてまとめました。映画、現在、卒業、結婚、テレビ、ドラマ、病気、解散、父親、兄弟、趣味、家族、退社に関する情報もありますね。52歳で亡くなられているようです。

石原裕次郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

映画『太陽の季節』『狂った果実』『嵐を呼ぶ男』『銀座の恋の物語』

新人賞

1958年『勝利者』

企画賞

1964年『太平洋ひとりぼっち』

石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年〈昭和9年〉12月28日 - 1987年〈昭和62年〉7月17日)は、日本の俳優、歌手。兄は、芥川賞を受賞した小説家で政治家の石原慎太郎。

石原プロモーション創立者で、初代代表取締役社長兼会長。ヨットマンとしても活動していた。昭和を代表する俳優・タレントとされている。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の2位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第6位になった。2014年に発表された『キネマ旬報』の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優の14位となっている。

1934年(昭和9年)12月28日(金曜日)に父石原潔(山下汽船社員、愛媛県出身)、母光子(広島県宮島の出身)のもと、兵庫県神戸市須磨区で誕生。北海道小樽市および神奈川県逗子市で育つ。

小樽のマリア幼稚園(現在の小樽藤幼稚園)卒園、小樽の稲穂国民学校時代に、競泳や(天狗山 で)スキーに親しむ。逗子中学校時代からはバスケットボールに熱中し、五輪出場を目指していたこともあったが、高校2年生の時にケガをして、その夢を諦めた。慶應義塾高等学校の受験に失敗し、慶應義塾農業高等学校に進学したが、1951年に慶應義塾高校に編入学。卒業後は慶應義塾大学法学部政治学科に内部進学するが、正に『太陽の季節』そのものという様な放蕩生活に明け暮れていた。

大学在学中から俳優を目指し、東宝と大映、日活のオーディションを受けるも全て不合格であった。デビューについて複数の説があるが、1956年に、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の時に、映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦があって、同映画作品の端役で映画デビューした。

1957年、映画『俺は待ってるぜ』、『嵐を呼ぶ男』など軒並みヒットし、この頃人気は絶頂を迎えた。またブルーリボン賞新人賞受賞も受賞した。

1960年1月、交際が噂されていた北原三枝とアメリカ婚前旅行、4月には婚約を発表、結婚後も人気を維持し、『あじさいの歌』、『闘牛に賭ける男』など出演作の興業成績が好調であった。1962年頃には渡り鳥シリーズの大ヒットで小林旭人気の高まりとともに、これまでと異なる作品に出演するようになった。

1963年に石原プロモーションを設立。第1回石原プロ製作映画に市川崑監督を迎え、『太平洋ひとりぼっち』を製作し、この作品での芸術祭賞を授与された。1968年、三船敏郎と共に製作した映画『黒部の太陽』は大ヒットした。以降『栄光への5000キロ』『富士山頂』『ある兵士の賭け』など大金を費やした骨太の映画作品をいくつも世に送り出したが、映画界斜陽の時代で興業成績が悪く、事務所の経営が悪化した。1971年には結核を患い療養することになる。

1972年、旧知の舛田利雄の勧めや、 東宝と日本テレビの粘り強い交渉の末、事務所の経済的事情もあり、13話だけでという約束でテレビドラマ『太陽にほえろ!』への出演を開始した。予定の通り13話で降板するという石原を夫人や竜雷太らが説得し、出演を継続することとなり、日活黄金期の石原を知らない若い世代にも番組においての名称であるボスとして認識されるなど、人気を獲得、番組は1986年まで続き、高い視聴率を記録した。

1973年石原プロ製作の映画『反逆の報酬』に主演、その後『凍河』に友情出演、また『わが青春のアルカディア』では声の出演をしたが、この作品が最後の主演にして最後の本格的な映画出演となった。

1976年からは『大都会シリーズ』、1979年からは『西部警察シリーズ』などの企画・助演など多面的に活躍しつづけた。

1977年に発売された『ブランデーグラス』は発売時にはほとんど売れなかったが、数年後に『西部警察 PARTI』の第48話「別離のブランデーグラス」の中で裕次郎が歌うと、売り上げが伸び始め、152万枚を売り上げるヒット曲となった。1986年、病気療養のため渡哲也に代役を任せ『太陽にほえろ!』を一度降板、同番組の最終回718話で復帰、ワンカット7分間のアドリブで命の大切さを語る圧巻の演技を見せたが(後述のエピソード欄にアドリブの補足あり)、これが俳優としての最後の演技に、そして渡哲也との最後の共演になった。

1978年、舌下潰瘍のため入院、手術。その後、悪性腫瘍(舌癌)との診断を受けたが、本人には告知されなかった(1983年再発)。1979年には舌下白板症と診断され、術後部に潰瘍が出来たため再手術する。

1981年4月、『西部警察』のロケ撮影中に背中と胸に激痛が走り、慶應義塾大学病院に緊急入院。当初椎間板ヘルニアが疑われたが、その後、解離性大動脈瘤と診断され大手術を決行。生還率3%と言われたが、奇跡的な回復を遂げ無事退院した。退院後も首、腰の痛み、発熱が続き、右耳が難聴となった。

1984年、肝臓癌が発覚した。前の定期健診で肝細胞癌と診断されるが、裕次郎本人には最期までガン告知をされなかった。

1986年5月、高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院。血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎と診断され、7月の退院後はハワイで静養した。

1987年4月20日、体調不良を受けてハワイから急遽帰国し、慶應義塾大学病院へ検査入院。5月2日に一旦退院したものの、3日後に再入院し容態が悪化。幻覚症状(肝性脳症)を発する。その後も意識不明の状態が続き、7月17日15時43分、医師が臨終を告げ7分後心停止。酸素吸入により一度は心拍が再開するも、16時26分再度心停止し死去。52歳没。裕次郎の遺言は「俺が死んだら即会社をたたみなさい」であったが、まき子夫人が所属俳優やスタッフに言い出せなかったため、石原プロモーションはその後も存続した。

戒名は、陽光院天真寛裕大居士。墓は、万成石五輪塔で神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。墓碑にはまき子夫人の直筆で次のような言葉で綴られている。

死後に生前録音していた『北の旅人』、『わが人生に悔いはなし』が発売され、北の旅人は125万枚を売りげるヒット曲となった。

没後、毎年7月17日には總持寺で法要が行われ、裕次郎が生前あじさいの花が好きだったということにちなんで「あじさい忌」と呼ばれていた。まき子夫人や舘ひろし・神田正輝ら石原プロモーションの俳優・スタッフが集結し、記者会見を行うのが定例となっていた。また多くの一般客ファンも参列し、年忌法要では一般参列者に記念品がプレゼントされるといった、身内だけの法要に留まらない大規模イベントとなっていた。1993年の七回忌は3万8000人、1999年の十三回忌は20万人以上が参列した。十三回忌で20万人以上の参列者の人出で總持寺周辺が大混乱したことから、2009年の二十三回忌は国立競技場に総持寺の本殿を再現した拝殿を建てて行われ、約12万人が参列した。

1991年7月22日、裕次郎ゆかりの品々を展示する石原裕次郎記念館が、裕次郎が幼少時に過ごした小樽、しかもヨットマンだった裕次郎にふさわしい場所である小樽港マリーナの隣に開設された。多数のファンが訪れ裕次郎をしのぶ場となっていたが、2017年8月31日、入場者減少や施設の老朽化もあり、閉館。その代替として、2018年7月17日に行われた32回忌法要では、法要終了後、同年8月22日より2年間、全国8箇所を巡り石原裕次郎ゆかりの品々を展示する「石原裕次郎の軌跡」展を開催することを発表した。

そして2019年7月17日に行われた33回忌法要の終了後の会見にて、まき子夫人が、今回をもって「弔い上げ」とし今後は石原プロとしての墓前供養を行わない旨を発表した。まき子夫人のほか一般参列者が高齢化し、裕次郎の墓がある高台まで昇るのが困難になっていることへの配慮を理由とした。

2020年7月には「株式会社石原プロモーションの商号を石原裕次郎の仏前に返還する」として、2021年1月16日を以て芸能事務所としての業務を終了することが発表された。そして発表通り、2021年1月16日に「解散式」が執り行われ、3月31日に全業務を終了。2021年4月30日、株主総会にて解散が決議された。

ヨットマン(ヨット乗り、セイラー)としての活動

裕次郎は日本のセーリング界でもその歴史に名を残している人物である。

もともと父親が郵船会社の社員、つまり船と海の世界に生きていた人物で、父親の転勤の折、父親の判断で海の近くの逗子、逗子湾近くに住居を構え、その地で裕次郎がヨットに興味を持ち、裕次郎の熱烈な希望に応える形で父親が木製のディンギーヨットを買い与えたのが、裕次郎にとってのヨットとの本格的な付き合いの始まりとなった。兄・慎太郎も一発でこのディンギーヨットの操作方法を会得し、兄弟でヨットを楽しむようになり、主に逗子湾や葉山などをフィールドに経験を深めていった。当時の日本ではそもそもセーリング・ボートを所有している人が大人を含めてほとんどおらず、ましてや学生の身分ですでに自分のセーリング・ボートを所有している人は(ほぼ)いなかったので、二人は日本のセーリング界では稀有な存在となってゆくことになった。

その後、裕次郎が俳優として映画界で活躍するようになると、石原兄弟のセーリングへの情熱、その経験や技術は、映画作品のシーン構築や撮影でも活用されるようになった。結果として日本の映画のシーンにセーリング・ボートが何度も登場するようになり、それを見た映画観客がセーリングに興味を持ち、結果として日本のセーリング人口を増やすのにも貢献した。石原兄弟は有名人となり裕福になるにつれ、艇をディンギーからセーリング・クルーザーへと、そして徐々に高級な艇へとグレードアップしていった。艇には、兄・慎太郎の趣味で「コンテッサ」という名(フランス語で「伯爵夫人」の意)をつけ、その名は艇を買い替えても「コンテッサII」「コンテッサIII」...と継承されてゆくことになる。この名は他には無い独特のものなので、日本のセーリング界では、ヨット・レースなどの出場艇のリストに「コンテッサ」とあれば、誰でも即「石原兄弟の艇だ!」と分かる存在となっていった。コンテッサには、主に石原兄弟の地元の逗子や葉山在住の古くからの仲間などが、クルーとして乗り込んだ。

コンテッサ号は、いくつもの国内ヨット・レースに参加し日本のセーリング界を盛り上げる一翼を担いつづけたが、中でも特筆すべきことは、1963年、裕次郎がトランスパシフィック・ヨット・レースに兄弟の愛艇「コンテッサⅢ」で参加したことである。Transpacific Yacht Race(トランスパシフィック・ヨット・レース、略称「Transpac(トランスパック)」)とは、米国西海岸から出発し、太平洋を渡るようにして進み、ハワイでゴールするセーリング・クルーザーのためのレース。当時、日本から国際的なヨットレースに参加できる人はほぼ皆無であり、裕次郎は日本のセーリング界の歴史に名を残す人物にもなった。

なお裕次郎の歴代の愛艇のうちひとつは、1991年開館の石原裕次郎記念館の入り口付近に展示された。

エピソード

映画デビューについて

1956年3月28日(水曜日)、日活撮影所内の理容室で『太陽の季節』の撮影に際し、太陽族に扮する連中の「慎太郎刈り」のモデルを引き受けたのが、日活での初仕事であった。

『太陽の季節』のカメラマンを務めた伊佐山三郎は水の江瀧子を呼び、エキストラとしてファインダーに映っていた裕次郎を「阪妻がいる」と絶賛。急遽端役が与えられ映画デビューとなった。

歌手活動

日活時代から劇中で歌うシーンが多かったが、コンサートやテレビ番組で歌うことには消極的だった。佐瀬稔の取材に対し、テレビカメラの前で歌うのは緊張して「胃が痛くなる」とした上で、「あの中森明菜みたいな芸当は到底、私にはできない」と答えたという。

「銀座の恋の物語」、「二人の世界」、「夜霧よ今夜も有難う」などの数々のヒット曲がある裕次郎だが、『紅白歌合戦』には1957年・第8回に雪村いづみの応援ゲストとして出演したことはあるものの、歌手としては生涯出場しなかった。

裕次郎の若手時代はヒット曲を多数持つスター歌手が他人の持ち歌をカバーすることに消極的だったが、裕次郎自身はそうした中で積極的に他人の持ち歌をレコードに吹き込んだ。その中には裕次郎がカバーしたことで有名になった曲も存在する。ただ、梶芽衣子の「怨み節」のカバーについては断ったという。

性格

性格として今で言う体育会系の気質があり、車の中や外、店の隅(外)・店内で運転手を待たせることや、自分の車の中に1人でも人が残ることを嫌っていたという。

ロケ先などで女学生に囲まれサインをねだられても断ることが多かった。理由は「真っ白な紙に名前だけ書いて渡すなんて試験の答案のようなもの」であることからと語っていた。

困っていることがあると、自ら率先して動くタイプであった。また「人の悪口は絶対に口にするな。人にしてあげたことはすぐ忘れろ。人にして貰ったことは生涯(一生)忘れるな」という信念を持っていた。

石原プロの名物である炊き出しは、俳優やスタッフ皆が同じ釜の飯を食べようと、元々は裕次郎が考案したものである。

趣味・嗜好

デビューの頃からオーダーメイドで衣装を仕立てていたのは遠藤千寿で、私服が3,000着ほど、トータルで5,000着ほど作ったという。ジャケットの裏地からポケットなどまで、裕次郎がデザインして指定。ワイシャツの襟の高さは5.5cm程度のハイカラー(一般的なものは4cm)を好んだという。

日本では力道山、夏木陽介と裕次郎の3人だけと言われるメルセデス・ベンツ・300SL(〈W198〉ガルウィングクーペのオーナーだった。シートは深紅。車体はシルバー(ただし、ヘッドランプを含むフロントフェンダー部分は所有当初から300SLロードスター用のものに交換されている)。他にロールス・ロイス・シルヴァーシャドウやキャデラックなど複数の高級車を所有するカーマニアであった。

交友関係

勝新太郎とは家族ぐるみの付き合いで、互いを「兄弟」と呼び合った仲。勝は裕次郎の葬儀で友人代表の弔辞も読んだ。

1学年下の長嶋茂雄とは、巨人入団前に対談の企画で出会った。対面を重ねるうち、親交を深め、1959年には裕次郎が応援歌「男の友情 背番号3」の制作を考え、歌唱した。1962年1月には雑誌の企画で、前年結婚したまき子夫人を含めて米国を旅行した。

裕次郎と同じ12月28日生まれの渡哲也は日活所属だった際、1970年の映画『ある兵士の賭け』による石原プロの倒産危機を知ると、180万円を差し出した(貯金全額と書かれている資料もあるが、映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也 週刊朝日ムックには『さらば掟』出演時の渡のギャラ全額相当とある。)裕次郎が気持ちだけは頂くというと、石原プロ入りを志願した。

関町進は、石原プロの車両部として作品に携わり、裕次郎の逝去前まで付き人兼運転手を務めた。

その他

前述の通り公式上の生年月日は1934年12月28日だが、運転免許証によると戸籍上の生年月日は6日後の1935年(昭和10年)1月3日とされている。

1961年12月9日(土曜日)、翌日の10日に開業する伊豆急行線の開業式典にヘリコプターで伊豆急下田駅へ駆けつけた。

主演した『赤い波止場』はジャン・ギャバン主演の、日本で特に人気が高いフランス映画の名作『望郷』が元ネタである。『赤い波止場』のリメイクである渡哲也主演の『紅の流れ星』も『望郷』を手本にしている作品であるが、主人公像はギャバンではなくてゴダール『勝手にしやがれ』のジャン・ポール・ベルモンドがモデルである。これは国民的ヒーローのギャバン=裕次郎と、アウトローなベルモンド=渡という主演スターのイメージや個性・持ち味の違いからきている。

1964年の日活映画『太陽西から昇る』において、当時東宝撮影所近くに存在した石原の自宅(現在は解体済)がロケーションで使用された。

1980年1月に成城の自宅(上神明遺跡内)において、古墳時代の遺跡、土器が発見されたこともある。それが歴史的大発見で話題になった。石原プロの俳優だった苅谷俊介は、裕次郎邸の遺跡発見がきっかけとなって考古学に目覚め、同社を退社して考古学研究の道に踏み出すこととなった。

『太陽にほえろ!』で共演した渡辺徹は、石原からどんな所に住んでいるかを聞かれ、「アパートの三階」と答えたところ、石原の成城の旧自宅をあげると言われ喜んだが、光熱費などだけでも数百万を要することから、当時新人で給料も安い渡辺は、貰うことを諦めたという。

亡くなった1987年7月17日にはテレビ朝日では急遽19:30から1時間半近い特番が組まれた。これにより、当時金曜19:30にレギュラー放送されていた「宇宙船サジタリウス」は10月2日で放送終了が決まっていたが1話分放送できなくなり、急遽翌3日の土曜日に19:30から放送されることになった。

『大都会 PARTIII』の終了後、日本テレビからパートⅣ製作の打診を受けた一方で、テレビ朝日からは大都会の流れを踏襲した様な、新たな刑事ドラマの製作を持ちかけられた。これを聞いた石原は、日本テレビのおかげで石原プロの経営が良好になったこともあり、その義理からテレビ朝日の打診を一蹴した。しかし、義理よりも金銭的に有利なテレビ朝日のオファーを小林正彦専務が強引に押し進める形で、日本テレビからテレビ朝日に鞍替えし、『西部警察シリーズ』が製作されることとなった。

同じ日活出身で、当時『太陽にほえろ!』レギュラー出演した俳優の中で、唯一故人となっていた沖雅也の自殺に相当なショックを受けていた石原は『太陽にほえろ!』最終回において、沖が演じたスコッチ刑事に言及してアドリブで命の大切さを説く演技を見せた。

2024/06/25 03:59更新

ishihara yuujirou


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石原裕次郎と近い名前の人

石原 百恵(いしはら ももえ)
1994年1月17日生まれの有名人 出身

石原 百恵(いしはら ももえ、Momoe Ishihara、1994年1月17日 - )は、日本の女性モデル・タレント。キャスティングドットジェイピー(casting.jp)所属。 2013年のSU…

石原 希望(いしはら のぞみ)
2000年7月25日生まれの有名人 出身

石原 希望(いしはら のぞみ、2000年〈平成12年〉7月25日 - )は、日本のAV女優、YouTuber。LIGHT所属。 2020年6月、5メーカーからAV女優デビュー。 デビュー作となる…

石原 朋香(いしはら ともか)
1983年10月2日生まれの有名人 千葉出身

石原 朋香(いしはら ともか、1983年10月2日 - )は、日本の女性タレントである。ヴァーサタイルエンタテインメントに所属していた。 株式会社石原制作の非常勤の企画部長。 趣味はカポエイラ、ダ…

石原 あつ美(いしはら あつみ)
1986年2月1日生まれの有名人 大阪出身

石原 あつ美(いしはら あつみ、1986年2月1日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル、女優である。旧芸名及び本名、石原 温美(読み同じ)。 大阪府出身。サンミュージック所属。旧芸名は栗田 …

石原 まき子(いしはら まきこ)
1933年7月23日生まれの有名人 東京出身

石原 まき子(いしはら まきこ、1933年7月23日 - )は、日本の芸能プロモーター。石原裕次郎の未亡人で、石原プロモーションの代表取締役会長・石原裕次郎記念館元館長。 旧姓は荒井、愛称は「マコ」…

石原 さとみ(いしはら さとみ)
1986年12月24日生まれの有名人 東京出身

石原 さとみ(いしはら さとみ、1986年〈昭和61年〉12月24日 - )は、日本の女優、タレント。東京都出身。ホリプロ所属。 石原さとみとしてデビューする以前からホリプロ・インプルーブメント・…

石原 直樹(いしはら なおき)
1984年8月14日生まれの有名人 群馬出身

石原 直樹(いしはら なおき、1984年8月14日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはフォワード。 高崎西FC時代からサッカーを始め、同クラブでは青木拓矢ともプ…

石原 大助(いしはら だいすけ)
1971年12月9日生まれの有名人 山梨出身

石原 大助(いしはら だいすけ、1971年12月9日 - )は、山梨県出身の元サッカー選手、地方公務員。ポジションはディフェンダー。史上初の公務員兼プロサッカー選手。 山梨県立甲府東高等学校、日本…

石原 克哉(いしはら かつや)
1978年10月2日生まれの有名人 山梨出身

石原 克哉(いしはら かつや、1978年10月2日 - )は元サッカー選手。大学卒業後は引退するまで17年間ヴァンフォーレ甲府に所属していた。 順天堂大学卒業後の2001年のシーズン開幕直後の4月…

石原 敬士(いしはら たかひと)
1968年7月16日生まれの有名人 愛知出身

石原 敬士(いしはら たかひと、1968年7月16日 - )は、日本のフリーアナウンサー。愛知県愛知郡東郷町出身。 元テレビ新広島アナウンサー。愛称はイッシ。 東郷町立春木中学校の後輩には元西武…

石原 夕里朱(いしはら ゆりか)
1989年12月12日生まれの有名人 京都出身

石原 夕里朱(いしはら ゆりか、1989年12月12日 - )は、日本のタレント、モデル、女優。愛称はりぃちゃん。 京都府京都市出身。 出演 テレビ 携帯配信ドラマ「恋愛約束」(2008年7月、…

石原 優子(いしはら ゆうこ)
1985年9月2日生まれの有名人 広島出身

石原 優子(いしはら ゆうこ、1985年9月2日 - )は、日本のローカルアイドルグループ、サンフラワーのメンバー。呼称は「yu-ko」「ユーコ」。広島県広島市出身。血液型はA型。 広島を中心に活…

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