磯崎新の情報(いそざきあらた) 建築家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
磯崎 新さんについて調べます
■名前・氏名 |
磯崎新と関係のある人
藤森照信: 『磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義』六耀社、2016年 黒川紀章: 博士課程時代の数々の構想案や、磯崎新の代理でアスペン学生デザイン会議に参加するなどの結果、学生時代から国際的に著名で、のちも海外の作品も数多い。 東浩紀: 登壇者は浅田彰、磯崎新、宇野常寛、濱野智史、宮台真司。 平松剛: 2008年「磯崎新の『都庁』」でサントリー学芸賞受賞。 長谷川逸子: 1984年竣工の眉山ホールでの日本建築学会賞作品賞受賞や1986年に槇文彦や磯崎新らが審査員を務めた湘南台文化センターの公開コンペで最優秀賞を受賞し一躍注目を浴びる。 小松左京: 1990年の国際花と緑の博覧会では博覧会の総合プロデューサー(泉眞也、磯崎新と共同)として活躍。 葛西薫: 装幀・エディトリアルデザインでは、磯崎新『ARATA ISOZAKI WORKS30』(六耀社)、上田義彦写真集『FLOWERS』、伊藤俊治監修『VlSlONS of JAPAN」(光琳社出版)など。 篠原一男: 磯崎新と並んでメタボリズム後の日本建築界のリーダーと目され、特に1970年代以降の住宅建築デザインに多大な影響を与えている。 赤瀬川原平: 5歳上の兄・赤瀬川隼と磯崎新が旧制中学の同級生で、磯崎が赤瀬川家によく遊びに来ていた。 山口昌男: 東京大学駒場美術研究会では、磯崎新らと交遊する。 山口昌男: 1984年から1994年まで磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、中村雄二郎と共に学術季刊誌『へるめす』(途中から隔月刊、岩波書店)の編集同人として活躍した。 坂茂: 1982年から1983年の1年間、磯崎新アトリエに在籍したあと、クーパーユニオンに戻って1984年に同建築学部を卒業(建築学士号)。 粟津潔: 『世界のグラフィックデザイン 7』 磯崎新,福田繁雄共編、講談社、1974年 大岡信: 同月、季刊『エナジー』の特集「日本の色」を監修し、磯崎新と対談。 平松剛: 「磯崎新の『都庁』 戦後日本最大のコンペ」文藝春秋、2008年6月。 吉本隆明: 磯崎新、萩尾望都、りんたろう、川本三郎 伊藤鄭爾: 『現代建築愚作論』(八田利也―磯崎新、川上秀光と共著) 黒川紀章: 槇文彦、磯崎新、谷口吉生らと共に丹下健三の門下生である。 丹下健三: 磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成した。 ザハ=ハディド: これは香港のビクトリア・ピーク山上に建設が予定されていた高級クラブのためのコンペで、ジョン・アンドリュース、ガブリエル・フォルモサ、磯崎新、アルフレッド・シウ、ロナルド・プーンが審査委員を務めた。 ル=コルビュジェ: ル・コルビュジエ→前川國男→丹下健三→大谷幸夫・槇文彦・磯崎新・谷口吉生 柄谷行人: 第3期批評空間創刊記念シンポジウムでは、建築や芸術のジャンルから磯崎新や岡崎乾二郎らがパネリストとして並び、地域通貨Qによる流通の変革への期待が述べられた。 平松剛: 安藤忠雄、丹下健三、磯崎新ら、日本の建築史を彩る建築家の思想と人となりを、ドラマチックかつコミカルに表現する作風が特徴的である。 藤森照信: 『磯崎新と藤森照信の「にわ」建築談義』六耀社、2017年 中村雄二郎: 1984年から1994年まで「へるめす」(岩波書店)で磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、山口昌男とともに編集同人として活躍し、その思想は『かたちのオディッセイ』や『悪の哲学ノート』に結実した。 福田繁雄: 『世界のグラフィックデザイン 7 (環境のグラフィック)』粟津潔,磯崎新共編 講談社 1974 柄谷行人: アドバイザリー・ボードと称された編集顧問にはエドワード・サイード、磯崎新、岩井克人、鈴木忠志、マサオ・ミヨシ、ポール・アンドラ、ハリー・ハルトゥーニアン、市川浩、フレドリック・ジェイムソンが名を連ねた。 宮本隆司: 1996年、第6回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展、コミッショナー・磯崎新、建築家・石山修武、宮本佳明と日本パヴィリオンに共同展示して金獅子賞を受賞。 高松次郎: 「影」の応接室(1974年)西日本シティ銀行(旧福岡相互銀行)本店応接室の壁画(磯崎新設計) 藤森照信: 『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』六耀社、2015年 |
磯崎新の情報まとめ
磯崎 新(いそざき あらた)さんの誕生日は1931年7月23日です。大分出身の建築家のようです。
受賞等、評価などについてまとめました。卒業、母親、事故、父親、結婚、現在に関する情報もありますね。91歳で亡くなられているようです。
磯崎新のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)磯崎 新(いそざき あらた、1931年(昭和6年)7月23日 - 2022年(令和4年)12月28日)は、日本の建築家、一級建築士、アトリエ建築家。日本芸術院会員。 大分県大分市出身。父は実業家で俳人の磯崎操次。妻は彫刻家の宮脇愛子。茨城・つくばセンタービルや米国・ロサンゼルス現代美術館などで知られ、ポストモダン建築をリードして国際的に活躍した。 1931年 - 磯崎藻二の長男として生まれる。父の藻二は中学卒業後中国に渡り、東亜同文書院を卒業、帰国して家業の米穀商と廻船業を継ぎ、1924年に大分合同トラックを創業、戦後社長を務めた。 1945年 - 母親が交通事故で死去。 1950年 - 大分県立大分第一高等学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)を卒業。同級生に赤瀬川隼がいた。 1951年 - 父親死去。 1954年 - 東京大学工学部建築学科を卒業。 1960年 - 丹下健三研究室で黒川紀章らとともに東京計画1960に関わる。 1961年 - 東京大学大学院数物系研究科建築学専攻博士課程を修了。伊藤ていじ、川上秀光らと八田利也(はったりや)のペンネームを用い「現代建築愚作論」を執筆し、反響を呼ぶ。 1963年 - 丹下健三研究室(都市建築設計研究所)を退職し、磯崎新アトリエを設立。 1967年 - 大分県立大分図書館竣工。(36歳)初期の代表作で、1997年に改修されアートプラザになった。 1968年 - 株式会社環境計画代表取締役。 1970年 - 大阪万博のお祭り広場(1970年)を丹下と共同で手がけた。 1972年 - 宮脇愛子と結婚。 1975年 - 著書『建築の解体』、群馬県立近代美術館、北九州市立美術館など多産な年。 1980年 - 写真家篠山紀信とコンビで「建築行脚」シリーズを刊行( - 1992年)。 1983年 - つくばセンタービル竣工。ポストモダン建築の旗手と目されるようになった。(52歳) 1986年 - 東京都庁舎のコンペに参加(8社指名)。超高層建築の丹下健三案(当選)に対して、シティホールのあり方を問う中層建築の案を提出した。 1988年 - 熊本県知事の細川護熙に招かれる形で、くまもとアートポリス事業の初代コミッショナーに就任( - 1996年)。 1991年 - 2000年まで世界各地で開催されたAnyコンファレンスを企画、参加。 1991年 - 2002年まで第一期、二期、三期にわたり『批評空間』誌編集顧問。 1996年 - 織部賞の選考委員長に就任。 1996年, 2000年, 2004年 - ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展・日本館コミッショナー。 2017年 - 日本芸術院会員に選出。 2020年 - 同済大学建築都市計画学院名誉教授。 2022年12月28日 - 老衰のため那覇市の自宅で死去。91歳没。 受賞等1967年 - 日本建築学会賞作品賞(大分県立大分図書館) 1969年 - 芸術選奨新人賞美術部門 1975年
BCS賞(1984年、1989年、1991年にも受賞) 1984年 - 毎日芸術賞(つくばセンタービル) 1986年 - RIBAゴールドメダル 1988年 - 朝日賞 1993年 - 日本文化デザイン大賞 1996年 - ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展金獅子賞(第6回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展日本館展示「亀裂」) 2019年
大分市名誉市民 大分県特別功労者 評価CIAM以降、さまざまな現象へ分裂解体しつつあった世界の建築状況を整理し、改めて総合的な文化状況の中に位置づけ直し、全体的な見通しと批評言語を編纂した役割において、磯崎はポストモダン建築を牽引した建築家の一人であると言われる。特に日本では丹下健三以降の世代にとって、1970年以降の建築言説の展開の大凡は磯崎によって編成されてきたと見なされている。 一方で磯崎の活動がつねに批評的な活動を伴っていた事実は、建築家としての磯崎新自身の建築設計や都市計画といった実務的な仕事を、建築史上の特定の動向、様式に位置づけることを著しく困難にさせてきた。ちなみに、様式や形式それ自体も、批評的に選択されていると彼自身が表明している。 そもそも磯崎の出発点は大分市の「新世紀群」という絵画サークルの活動から始まった。そこは後にネオ・ダダで活躍した吉村益信、赤瀬川原平、風倉匠らも在籍した前衛的土壌であった(なお赤瀬川原平の兄の赤瀬川隼(直木賞作家)とは、旧制中学の同級生)。また磯崎が1960年に丹下健三の東京計画1960に加わっていた頃、ネオ・ダダは新宿百人町の吉村アトリエ(通称ホワイトハウス:磯崎による設計)を拠点に反芸術的活動を展開しており、磯崎もたびたびそこを訪れていた。この時点において磯崎はネオ・ダダ的建築家として最も過激な思想の基に模索していた。 1980年代以降はロサンゼルス現代美術館、ブルックリン美術館など日本国外で活躍している。閉塞的な日本のアカデミズムを脱却し、世界的な次元で建築を構想する姿勢は、日本国内では批判に晒されるが、日本の現代建築を世界的なレベルに押し上げた建築家の一人である。古典的なプロポーションの均整を避けるため敢えてキューブのようなプラトン立体を多用することで知られている。 現在は活動の場を海外、とりわけ中国と中東、ヨーロッパなどに移している。そこでは、かつて自身が行ったさまざまな実験やアンビルトとなった建築計画などのレファレンス、構造家とのコラボレーションによる進化論的構造最適化手法などを採用し、オーガニックな形態で特異な空間を現出させようとしている。 2024/06/24 19:14更新
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isozaki arata
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