山口昌男の情報(やまぐちまさお) 文化人類学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
山口 昌男さんについて調べます
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山口昌男と関係のある人
栗本慎一郎: ところが、突如浅田彰や山口昌男ら個別の学者を名指しして批判を始め、「危険な学者」と自称するようになった。 松田哲夫: 武蔵野市立第四小学校では、図工の先生だった安野光雅に、麻布中学校では山口昌男にそれぞれ学ぶ。 河合隼雄: その頃、後に親交ある文化人類学者の山口昌男と出会う。 中上健次: ニューアカデミズムに属するとされる思想家(山口昌男 、栗本慎一郎 、四方田犬彦 など)との活動や対話もおこなった。 饗庭孝男: 『ヴェネツィア――栄光の都市国家』 東京書籍、1993年、山口昌男・陣内秀信共著 掛川源一郎: 文化人類学者の山口昌男や写真家の吉田ルイ子らが写真集に言葉を寄せている。 粕谷一希: しかし1976年に、山口昌男が担当していた連載時評の最終の二回分で、天皇制を文化人類学的に論じ(のち『知の遠近法』、岩波書店に収録)、部下がこれを掲載差し止めする事件が起き、再度編集長を解任された。 湊谷夢吉: 「活字にならなかった死亡記事・漫画家と民俗学者の死 山口昌男」本8月号 大岡信: 同月、磯崎新、大江健三郎、武満徹、中村雄二郎、山口昌男らと編集同人となり、『季刊へるめす』創刊。 河合隼雄: また上記の山口昌男や中村雄二郎をはじめ、梅原猛、鶴見俊輔、森毅、白洲正子、安野光雅、山折哲雄、谷川俊太郎、柳田邦男、養老孟司、工藤直子、安藤忠雄、村上春樹、中沢新一など交友関係は多岐に渡った。 内田魯庵: 山口昌男 『内田魯庵山脈』 晶文社、2001年 ISBN 4794964633 梅沢富美男: 文化人類学者 山口昌男は1981年の東京大学教養学部教養学科 30周年記念連続シンポジウム第4回「芸術の根にあるもの」の席で、「私は今、日本で最高の道化役者を挙げろといわれたら梅沢富美男を躊躇なく挙げる」と絶賛している。 杉浦茂: 山口昌男は杉浦を「へたうまのはしり」と目しており、杉浦が影響を受けた映画や歌舞伎などの世界がコラージュの技法も使って、時間や空間、論理の制約を受けず、登場人物が飛躍する様を「カーニバルのそれに近いイメージの祝祭空間」と評している。 多木浩二: 山口昌男 本多勝一: 『思想の科学』1970年6月号に掲載された文化人類学批判「調査される者の眼」は反響を呼び、山口昌男は『展望』1970年10月号に「調査する者の眼:人類学批判の批判」を寄せた。本多は『展望』1971年8月号の「殺す者の眼:山口昌男の文章をめぐって」において、山口の批判には「自己顕示症」がみられると切って捨てた。 大江健三郎: 1984年、磯崎新、大岡信、武満徹、中村雄二郎、山口昌男とともに編集同人となり、季刊誌『へるめす』を創刊(『M/Tと森のフシギの物語』『キルプの軍団』『治療塔』『治療塔惑星』は同誌に連載された)。 上野千鶴子: 表紙カバーに推薦文を寄せた栗本慎一郎や山口昌男、あるいは 鶴見俊輔などから評価され、文化人類学・記号論・表象文化論などの方法を使って現代の消費社会を論じるフェミニストとして知られるようになる。 多木浩二: 1979年頃、研究会「都市の会」で中村雄二郎、山口昌男、河合隼雄らと出会う。 三浦雅士: 山口昌男『語りの宇宙 記号論インタヴュー集』(冬樹社 1983年、新版1990年)。 高田宏: 小山勝清伝記 解説山口昌男 内田魯庵: 『魯庵日記』 山口昌男・坪内祐三編、講談社文芸文庫、1998年 今福龍太: 『山口昌男著作集』全5巻(筑摩書房 2002-2003) 中沢新一: 博士課程を満期退学し、1983年4月から1993年まで山口昌男のもとで東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手を務める。 村上龍: 1985年刊行の『EV.Cafe 超進化論』では、友人のミュージシャン坂本龍一とともにホスト役を務めて、当時の知の最前線にいる学者・批評家(吉本隆明、河合雅雄、浅田彰、柄谷行人、蓮實重彦、山口昌男)を招いての鼎談を行い、大きな知的刺激を受ける。 村上龍: 吉本隆明、河合雅雄、浅田彰、柄谷行人、蓮實重彦、山口昌男との鼎談を収録 中村雄二郎: 山口昌男と共に1970年代始めから雑誌『現代思想』などで活躍した。1984年から1994年まで「へるめす」(岩波書店)で磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、山口昌男とともに編集同人として活躍し、その思想は『かたちのオディッセイ』や『悪の哲学ノート』に結実した。 上橋菜穂子: 大学は史学科だったが、山口昌男『アフリカの神話的世界』でアフリカ神話に衝撃を受け、文化人類学を学び、大学院に進む。 来生たかお: 35-45歳の頃、来生えつこの仲介により、山口昌男を中心としたテニスサークル“山口組”に夫婦共々参加し、栗本慎一郎や村上龍等とプレーしていたという。 吉本隆明: 人類学者である山口昌男は、『共同幻想論』発表当時、同書中の重要概念「対幻想」について、「それは近代の核家族にのみ通用するものではないか」と批判したが、吉本は「チンピラ人類学者」として罵倒を返したのみであった。 内田魯庵: 『魯庵の明治』 山口昌男・坪内祐三編、講談社文芸文庫、1997年 |
山口昌男の情報まとめ
山口 昌男(やまぐち まさお)さんの誕生日は1931年8月20日です。北海道出身の文化人類学者のようです。
家族・親族、年譜などについてまとめました。兄弟、父親、卒業、趣味、家族に関する情報もありますね。81歳で亡くなられているようです。
山口昌男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)山口 昌男(やまぐち まさお、1931年〈昭和6年〉8月20日 - 2013年〈平成25年〉3月10日)は、日本の教育者・文化人類学者。位階は正四位。勲等は瑞宝中綬章。東京外国語大学名誉教授、文化功労者。 麻布中学校教諭、イバダン大学講師、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長、静岡県立大学国際関係学部教授、札幌大学文化学部教授、札幌大学文化学部学部長、札幌大学学長などを歴任した。 北海道美幌町出身。9人兄弟の次男。父親は鳥取県倉吉市の庄屋の生まれで、地租改正で没落後職を転々とし、網走で菓子屋を営んでいた。 美幌尋常小学校、旧制網走中学校を経て、新制網走高校(現、北海道網走南が丘高等学校)を1950年3月に卒業。 同年4月から青山学院大学文学部第二部に入学し、在学中に展覧会と古書店に頻繁に訪れる。 1951年、東京大学文学部に入学。同学年に作曲家となる三善晃、美学者となる宇波彰らがいた。東京大学駒場美術研究会では、磯崎新らと交遊する。 1955年、坂本太郎の指導のもと、卒業論文「大江国房」を提出して同国史学科を卒業。 同年4月から61年3月まで麻布学園で日本史を教える。同学園での教え子に川本三郎、山下洋輔らがいた。 1957年に東京都立大学大学院に入学し、社会人類学を専攻。1960年、修士論文「アフリカ王権研究序説」を提出して同学大学院社会研究科社会人類学専攻修士課程を修了し、博士課程に進学。 1963年10月からナイジェリアのイバダン大学社会学講師となる。 1966年、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所講師、翌年助教授となり、通称「AA研」と呼ばれた同研究所を拠点に、69年に「文化と狂気」を『中央公論』に、「道化の民族学」を『文学』に連載、「王権の象徴性」(『伝統と現代』)、「失われた世界の復権」(『現代人の思想 第15巻 未開と文明』解説)を執筆して注目される。 岩波書店発行の雑誌『文学』1969年1~8月号に論文「道化の民俗学」を連載した。 中村雄二郎と共に1970年代初頭から、創刊間もない青土社の月刊誌『現代思想』に寄稿し始め、構造主義や記号論を紹介して既存の学問の方向性を転換した上で議論を活性化。西洋近代的知の体系への懐疑を促す大きな力となった。 1970年6月から「本の神話学」を『中央公論』に連載。 1980年代の浅田彰、中沢新一らによって本格化したいわゆるニューアカ(ニュー・アカデミズム)」ブームの下準備をした。 1984年から1994年まで磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、中村雄二郎と共に学術季刊誌『へるめす』(途中から隔月刊、岩波書店)の編集同人として活躍した。 1989(平成元)年、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長となり、1994年に同研究所を定年退職。この間の1992年、電通総研で「経営の精神文化史研究会」発足に尽力。 1994年、静岡県立大学大学院国際関係学研究科教授および中央大学総合政策学部客員教授となる。 1995年、晩年の大著となる『「挫折」の昭和史』、『「敗者」の精神史』の刊行以来、近代日本史の中で重要視されていなかった「旧幕臣」系または「趣味人」系の人々の、人的ネットワークを洗い出し検証する著作が多かった。 1997年に札幌大学文化学部長、1999年同学長となった。 2008年に脳梗塞で倒れてから療養生活を送っていたが、2013年3月10日に肺炎のため東京都内の病院で死去。歿日付けで正四位に叙された。死去の約二ヵ月後、『ユリイカ』2013年6月号で「山口昌男-道化・王権・敗者」と題する特集が組まれた。墓所は府中市観音寺墓地。 研究室には膨大な蔵書が山積みになっていた。しかし海外出張中に電話をかけ「何番目の山の何冊目の何ページを引用するから探せ」と指示を出したという。蔵書は札幌大学図書館に寄贈、「山口文庫」で一般開放されている。 20代の頃から漫画評論を手がけており、先駆的存在である。 アジア・アフリカ・南アメリカなど世界各地でフィールドワークを行い、両性具有・トリックスターをテーマとした著作で「中心と周縁の理論」を発表し評価が高い。 家族・親族NHK美術監督の山口類児は長男。札幌大学女子短期大学部教授の山口拓夢は次男。 年譜1950年 旧制網走中学・新制網走高校(現・北海道網走南ヶ丘高等学校)卒業、1学期のみ青山学院大学文学部仏文科に通う。 1955年 東京大学文学部国史学科卒業。卒論は「大江匡房―平安末期一貴族の意識」、指導教官は坂本太郎。麻布中学校教諭に着任(日本史担当、教え子に川本三郎、山下洋輔など)。 1960年 旧・東京都立大学大学院社会科学研究科社会人類学専攻修士課程修了。修論は「アフリカ王政研究序説」。国際基督教大学非常勤助手。 1961年 麻布学園を退職。 1963年 ナイジェリア・イバダン大学社会学講師。 1965年 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所講師。 1968年 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助教授。 1970年 エチオピア調査を経て、パリ大学ナンテール分校客員教授。 1973年 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授。 1977年 メキシコ大学院大学客員教授。 1989年 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長。 1994年 静岡県立大学大学院国際関係学研究科教授、中央大学総合政策学部客員教授。 1997年 札幌大学文化学部長。 1999年 札幌大学学長。 2013年3月10日 肺炎のため、東京都三鷹市の病院内にて病没。81歳没。 2024/06/20 13:06更新
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yamaguchi masao
山口昌男と同じ誕生日8月20日生まれ、同じ北海道出身の人
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