長谷川滋利の情報(はせがわしげとし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
長谷川 滋利さんについて調べます
■名前・氏名 |
長谷川滋利と関係のある人
五十嵐章人: 初本塁打:1991年6月11日、対オリックス・ブルーウェーブ9回戦(川崎球場)、9回裏に長谷川滋利からソロ ジャック=ハウエル: 1997年、日本からエンゼルスに渡った長谷川滋利の初登板(初先発)の試合では指名打者としてラインアップに名を連ねた。 佐々木主浩: 8月13日のトロント・ブルージェイズ戦で復帰して以降は好調を維持した長谷川滋利がクローザーを務めたため、セットアッパーに回った。 大塚晶文: 2012年8月にNOMOベースボールクラブの青少年育成活動の一環として行われた中学生チームによる日米親善試合で、長谷川滋利が総監督を務めるアメリカ代表チームで投手コーチを務めた。 松井秀喜: 2009年12月16日にロサンゼルス・エンゼルスと年俸600万ドルの1年契約を結び、エンゼルス初の日本人野手となった(投手では長谷川滋利が過去に在籍)。 作山和英: 2回戦(初戦)で東洋大姫路高の長谷川滋利、島尾康史の継投に抑えられ敗退。 会田有志: 2008年はメジャーリーグのボストン・レッドソックスとのオープン戦で1回を0安打1奪三振と抑え、解説者の長谷川滋利から「こんな綺麗なアンダースローはメジャーにいない。 小坂勝仁: よしもとクリエイティブ・エージェンシーのスポーツ部に所属し、長谷川滋利などのマネジメントを担当していた。 伊良部秀輝: 13日のアナハイム・エンゼルス戦では長谷川滋利との投げ合いもあった。 諸積兼司: 2年夏は長谷川滋利(東洋大姫路)と対戦するも敗れた。 ルー=フォード: 初打席で長谷川滋利から右前安打を打った。 嶋尾康史: 東洋大学附属姫路高等学校3年時の1986年に、夏の第68回全国高等学校野球選手権本大会へ兵庫代表で出場すると、長谷川滋利とのダブルエースで活躍。 トロイ=パーシバル: エンゼルス時代にチームメートであった長谷川滋利とは1997年の入団会見以来の仲で、長谷川にとっては「メジャーリーグにおける師匠のような存在」であるという。 中田昌宏: しかし以後は1990年に長谷川滋利・野村貴仁、1991年に田口壮・イチロー、1992年に小林宏・金田政彦、1993年に平井正史・三輪隆らの獲得に成功。 チャド=アレン: メジャー在籍時には、マック鈴木、伊良部秀輝、大家友和、小宮山悟、木田優夫、長谷川滋利らと対戦したことがある。 藤本昌平: ものまねバトルに長谷川滋利(すぐる)とイチロー(しょうへい)のものまねで出演する。 仰木彬: 野茂英雄をはじめ、長谷川滋利やイチロー、田口壮など多くの日本人メジャーリーガーを輩出した。 水尾嘉孝: 同年11月24日に開催されたドラフト会議の前には、小池秀郎(亜細亜大学)とともに「大学球界の左の2枚看板」と高い評価を受け、小池や長谷川滋利(立命館大学)や「社会人ナンバーワン投手」と評された木村恵二(日本生命)とともに即戦力投手の目玉の一人と評されていたが、本人は上京志向が強かったことから在京球団への入団を希望していた。 生島淳: ジャーナリストとして雑誌や新聞のコラムを担当するほか、選手個人にスポットをあてたバイオグラフィー的(伝記的)な著作、選手の家族との共著などの著書があり、元メジャーリーグベースボール選手の長谷川滋利や石井一久などの本では構成を務めている。 松坂大輔: 8月5日のインディアンス戦では長谷川滋利に並ぶ日本人選手3位タイのメジャー通算45勝となる8勝目を挙げる。 ドン=シュルジー: 先発した当時新人の長谷川滋利の後を受けて登板したシュルジーだったがリリーフに失敗し、長谷川のプロ初勝利を消してしまい試合は延長戦へ突入した。 長谷高成泰: なお、元メジャーリーガーの長谷川滋利とは義兄弟の関係である(長谷高の妹が長谷川の夫人)。 杉浦正則: リーグ戦では、同じ回生だった立命館大学の長谷川滋利との投げ合いで同立戦を大いに盛り上げた。 スティーブ=サックス: 因みに、2位は長谷川滋利だった。 大家友和: 25日のブレーブス戦で長谷川滋利を抜いて日本人メジャーリーガー史上2位となる通算46勝を挙げた。 大塚晶文: 野球のワールドカップ(現実世界のワールド・ベースボール・クラシックに相当)などを舞台にした、NHKのテレビアニメ『メジャー』において、長谷川滋利に代わって第5シリーズの野球監修を務めていた。 西勇輝: オリックスの投手としては1993年の長谷川滋利以来、前年未勝利投手の4戦4勝はオリックス前身の阪急ブレーブス時代で当時新人だった1978年の三浦広之以来であった。 佐々木主浩: 6月6日のコロラド・ロッキーズ戦では村上雅則と長谷川滋利に並ぶ日本人最多タイの9セーブ目を記録し、12日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で日本人最多の10セーブ目を挙げた。 山田久志: 現役引退と前後して球団の親会社が阪急電鉄からオリックスに変わったことから、背番号17は球団の永久欠番とはならず、しかも、山田の引退からわずか2年後、1990年オフに入団した長谷川滋利に与えられた。 田中将大: また、4月14日の対千葉ロッテマリーンズ戦で1失点完投、4月22日のロッテ戦で完封、4月29日の対日本ハム戦で野村克也の監督通算1500勝目となる1失点完投と、1993年の小宮山悟、長谷川滋利以来となる開幕から4試合連続完投勝利を記録し、自身初の月間MVPに選出された。 |
長谷川滋利の情報まとめ
長谷川 滋利(はせがわ しげとし)さんの誕生日は1968年8月1日です。兵庫出身の野球選手のようです。
現在、引退、テレビ、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。長谷川滋利の現在の年齢は56歳のようです。
長谷川滋利のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート Shigetoshi Hasegawa 長谷川 滋利(はせがわ しげとし、1968年8月1日 - )は、兵庫県・加古川市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。2016年11月1日からは、オリックス・バファローズのシニアアドバイザー(SA)を務める。 2019年から米国でプロゴルファーとして活動を開始し、現在日本のPGAプロ資格を取得すべく、プロテストに挑戦中である。 オリックス・ブルーウェーブに所属していた日本プロ野球(以下:NPB)の現役投手時代のニックネームは「シゲ」、メジャーリーグベースボール(以下:MLB)でのニックネームは「シギー」。 MLBでは主にリリーフとして9シーズンにわたり活躍し、日本人最多記録となる通算517試合に登板した。 高砂市加古川市組合立宝殿中学校に在籍時、投手として第5回全国中学校軟式野球大会で優勝。東洋大姫路高校では2年春、2年夏、3年夏甲子園出場。41年ぶりに再開された立命館大学のスポーツ推薦を受けて経営学部に進学し、在学時は関西学生野球連盟で5度最優秀投手の表彰を受け通算40勝。1回生のときには古田敦也が4回生に在籍していた。また、同志社大学に在籍していた杉浦正則と同じ回生で、立同戦が大いに盛り上がった。 1990年のドラフトでオリックス・ブルーウェーブの1位指名を受け入団。入団時の背番号は17。 1991年には、4月11日の対西武ライオンズ戦(グリーンスタジアム神戸)で、先発投手として公式戦にデビュー。9回を完投したものの、4失点で黒星が付いた。この試合から6連敗を喫したものの、6月5日の対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で先発したところ、9回1失点の完投で初勝利。7月に開催されたジュニアオールスターゲームでも、ウエスタン・リーグ選抜チームの先発で好投したことから、試合後に最優秀投手賞を授与された。さらに、レギュラーシーズンの後半戦で白星を積み重ねた結果、12勝9敗という好成績でパ・リーグの最優秀新人賞に選ばれた。 1992年には、前年に続いて、レギュラーシーズンの開幕を先発ローテーションの一角で迎えた。開幕後は調子が上がらず、中盤には救援に回された。後半から先発に復帰すると、パ・リーグの最終規定投球回へ到達。しかし、打線の援護に恵まない試合が相次いだこともあって、シーズン通算では6勝8敗と負け越した。 1993年から先発ローテーションに再び定着すると、1995年まで3年連続で2桁勝利を記録。11勝を挙げた1994年には、パ・リーグ最多の3完封勝利も記録した。1995年には、12勝、防御率2.89という好成績でチームのパ・リーグ初優勝に貢献したほか、オールスターゲームにも出場した。 その一方で、1993年からは契約更改のたびに、将来メジャーリーグ(MLB)へ挑戦する意向があることを球団側に伝達。1995年1月13日の契約更改では、年俸の大幅な増額(前年から5500万円増の推定7500万円)を勝ち取ったばかりか、球団代表の井箟重慶(当時)から「来年(1996年)MLBに行かせる」という確約を得た。実際にはこの確約どおりにことが運ばず、長谷川は1996年もチームに残留したが、球団ではMLB球団との間で長谷川のトレードを模索。長谷川は、成績こそ4勝6敗1セーブにとどまったものの、チームのパ・リーグ2連覇と日本シリーズ初制覇に貢献した。 前述した事情から、エド・クラビンを代理人に立てたうえで、1997年1月に金銭トレードでアナハイム・エンゼルスに移籍した。推定年俸57万ドルの1年契約で、日本人のプロ野球選手が金銭トレードでMLBの球団に移籍した事例は、この時の長谷川が初めてである。 1997年4月5日のクリーブランド・インディアンス戦でメジャー初先発。NPBでもプレーしたフリオ・フランコやケビン・ミッチェルらを下位打線に擁するインディアンス打線に捕まり、5回9番サンディー・アロマーに本塁打、4番マット・ウィリアムスに二塁打を打たれるなど、4.1回を4失点で敗戦投手となるなどメジャーの洗礼を浴びた。15日のニューヨーク・ヤンキース戦の8回にリリーフ登板し、メジャー初勝利を挙げる。この時の帽子はアメリカ野球殿堂に飾られた。その後計4試合に先発したが0勝2敗、防御率7.10、WHIP1.73と結果を残せず、5月中旬からはリリーフに専念。リリーフとしては25試合に登板し1勝2敗、防御率3.04、WHIP1.24の成績で前半戦を折り返した。8月18日のロサンゼルス・ドジャース戦では野茂英雄と、20日のヤンキース戦では伊良部秀輝との対決もあった。9月7日のデトロイト・タイガース戦では延長12回から登板し、4回を1安打無失点8奪三振の好投で3勝目を挙げ、村上雅則の日本人メジャー最多登板数45を更新した。16日のミネソタ・ツインズ戦以降の3試合で再び先発登板したが、0勝1敗、防御率6.00、WHIP1.73と結果を残せなかったが、リリーフとしては後半戦も18試合の登板で2勝2敗、防御率2.54、WHIP1.30と好投した。オフには1年79万ドルでエンゼルスと再契約。 1998年は6月4日のシアトル・マリナーズ戦でメジャー初セーブを記録し、前半戦は31試合の登板で3勝1敗1セーブ、防御率3.57、WHIP1.26の成績で前半戦を折り返す。8月24日のヤンキース戦では野茂に次ぎ日本人メジャーリーガー2人目となる100試合登板を達成。後半戦は30試合の登板で5勝2敗4セーブ、防御率2.64、WHIP1.15と好投。最終的にチームベストの防御率3.14を記録し、地元メディアの選出する年間チームMVP投票でゲーリー・ディサーシナ(英語版)に次ぐ2位の評価を受けた。オフには1年90万ドルで再契約し、日米野球にも出場する予定だったが、球団からの要請を受け辞退する。 1999年4月18日に1年90万ドル(2年目は年俸90万ドル、3年目は年俸115万ドルの球団オプション)で契約を延長。しかし前半戦は1先発を含む34試合の登板で1勝3敗、防御率4.17、WHIP1.47。後半戦はトロイ・パーシバルの出場停止処分を受けクローザーも務めるも、30試合の登板で3勝3敗2セーブ、防御率5.97、WHIP1.48。 2000年は5月に16試合の登板で4勝0敗2セーブ、防御率2.53、WHIP1.31と好調だったが、6月5日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でバリー・ボンズに本塁打を打たれて初黒星。6月は9試合の登板で2勝2敗、防御率5.93、WHIP1.76。7月から8月1日のデトロイト・タイガース戦まで20回連続無失点を記録し、8月にはパーシバルの故障を受けてクローザーを務める。9月16日のミネソタ・ツインズ戦で日本人メジャーリーガー史上4人目の10勝目を挙げ、後半戦は30試合の登板で4勝3敗7セーブ、防御率1.84、WHIP1.13と好投を続けた。 2001年は4月13日のマリナーズ戦でオリックス時代の後輩であったイチローと、MLBでの日本人初対決が実現した。遊撃手への内野安打を許したが、1勝目を挙げた。5月下旬から6月末まで右肩回旋筋板の部分裂傷で初の故障者リスト入りしたが手術は回避。復帰後は8月24日のヤンキース戦で日本人通算200勝目となる4勝目を記録。最終的にキャリア最少の46試合の登板に終わった。 2002年1月11日にシアトル・マリナーズと1年200万ドル(2年目は年俸250万ドルの球団オプション)で契約を結んだ。シーズン開始直後、ジョン・ハラマからロッカー横のテーピングに日本語で「わにのうで、わにのあし」と書かれるいたずらに遭うが、例年調子の悪かった4月を月間防御率0.00で終え、前半戦は防御率1.01、WHIP0.95と好投を見せ、ハラマのいたずら書きはゲン担ぎとしてロッカーにつけ続けた。しかし8月に4試合連続失点を喫するなど調子を落とし、後半戦は防御率5.45、WHIP1.61。オフには球団からオプションを行使されなかったが、11月7日に1年180万ドルで契約を延長した。 2003年はそれまで「特殊な持ち方をするんでしっくりこない」という理由で習得を諦めていたフォークとツーシームを習得し、前年は通算で39だった奪三振が4月だけで10を記録する好調なスタートを切った。前半戦を失点4の防御率0.81で折り返し、オールスターゲームに出場。後半は佐々木主浩の故障を受けクローザーに起用される。10セーブ目を挙げた8月10日のヤンキース戦で球団新記録となる25試合連続無失点を樹立し、29試合まで記録を更新した。以降は勤続疲労で調子を落とすも、最終的に63試合の登板で2勝16セーブ、防御率1.48、WHIP1.10という好結果を残す。オフには2年630万ドルで契約を延長する。 2004年はエディ・グアダードの加入に伴いセットアッパーとして起用される予定だったが、グアダードの故障に伴い開幕当初はクローザーとして起用された。 2005年は開幕から絶好調で防御率1点台をキープしていたが、6月10日のワシントン・ナショナルズ戦で6失点を喫する。7月24日には日本人初となる500試合登板を達成した。58試合以上の登板で翌年の契約が自動的に更新されるオプションが契約条項にあったが46試合の登板に終わり、オフにはFAとなった。その後、NPB/MLB数球団からのオファーがあったが「マウンド上でのモチベーションを維持することが困難になった」との理由で2006年1月に正式に引退を表明した。 2006年よりスポーツニッポン評論家に就任。NHK総合テレビやNHK BS1がアメリカ本土からMLB公式戦中継を放送する場合には、本数契約扱いの解説者として、中継先の球場から出演している。 MLB Urban Youth Academyで総監督を務めており、2011年、2014年には日米親善少年野球大会でオレンジカウンティー選抜の監督を務め、野茂英雄が監督を務める日本選抜と対戦した。 2013年からローカルの選手16歳から18歳が中心。育成チーム(PTC MAZDA)を運営する。主にUSA PREMIER LEAGUE に登録。Mazda USA社,Wakunaga of America社がスポンサー。 2016年には、11月1日付で、ブルーウェーブの後継球団であるオリックス・バファローズのシニアアドバイザー(SA)に就任。外国人選手の獲得などに関するフロントへの助言などを担う。2019年はMLB開幕戦(シアトル・マリナーズ対オークランド・アスレチックス)が日本で開幕するため、プレシーズン中継も兼ねて日本テレビのゲスト解説者〈副音声も含めて〉として出演。 2019年からは、マネジメント業務をパシフィックリーグマーケティング株式会社へ委託するとともに、アメリカでプロゴルファーとしての活動を開始。日本のPGAプロ資格を取得すべく、PGA主催のプロテストに挑戦している。 2024年4月からは、株式会社ゲームプランに所属している。 学生時代から「いつかはアメリカに行きたい」と思っていたため、オリックスへの入団後も英語を学習。野球映画『フィールド・オブ・ドリームス』の台詞を録音したうえで、当時発売されていたスクリプト(台本、脚本)を読みながら、移動の新幹線などで台詞を聞いていた。MLB球団への在籍中には、日本人向けに英語の学習方法を記した著書を発表したほか、現場で使われる英語を紹介している。 オリックスへの在籍中に近鉄バファローズのエースとして何度も投げ合った野茂英雄が、任意引退の手続きを経て1995年からロサンゼルス・ドジャースへ入団することを知った時には、「先にやられた」という思いと羨ましさが交錯して眠れなかったという。もっとも、その直後の契約更改で長谷川にMLB行きを確約した井箟は、「僕の夢と長谷川の夢が一致した(から確約した)。彼(長谷川)ならメジャー(MLBの公式戦)で2桁勝利を挙げられる」とコメント。現に長谷川は、エンゼルス時代の2000年に、オール救援ながら10勝を記録している。 オリックスとマリナーズでチームメイトだったイチローとは、「シギー」と呼ばれるほど、プライベートでも親交が深い。イチローが2019年のMLB開幕第2戦で現役引退を表明した際には、「イチローがMLBの価値観を変えた」と語っている。 パソコン好きで一時期インターネットを閲覧し過ぎて肩こりが酷くなったこともあったと語っている。 ゴルフの腕前にも優れ、2004年にベスト・アマゴルファーのライアン・ムーアが始球式に登場した際には「チームNo.1ゴルファー」として捕手役に抜擢された。ノーラン・アレナドとゴルフ仲間である。 オリックスSAへの就任直後に兵庫県内で開かれた講演会(2016年11月5日)で、「(SAへ就任する前の2016年シーズン中に)日本ハムから一軍監督就任のオファーを受けたが、(同球団が)パ・リーグで優勝したためにオファーが消滅した」とされる話を披露。この話が一部で報じられたところ、日本ハムの球団幹部が「事実無根で(講演の3日前に契約を延長したばかりの)栗山英樹監督に失礼」として即座に否定したため、オリックス球団では7日付で日本ハム球団に謝罪した。日本ハムでは、2016年のシーズン途中から栗山の続投を決めていたため、講演の時点までに長谷川を一軍監督の候補に検討したことは皆無だという。結局、長谷川は「場を盛り上げるために言った」と陳謝した。 各年度の太字はリーグ最高 新人王(1991年) 月間MVP:2回(1994年8月、1995年5月) サンスポMVP新人賞(1991年) 初登板・初先発登板・初完投:1991年4月11日、対西武ライオンズ3回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回4失点で敗戦投手 初勝利・初先発勝利・初完投勝利:1991年6月5日、対日本ハムファイターズ10回戦(東京ドーム)、9回1失点 初完封勝利:1991年8月9日、対西武ライオンズ18回戦(グリーンスタジアム神戸) NPBオールスターゲーム出場:1回(1995年) 28.2回連続無失点(2003年) ※マリナーズ球団記録 MLBオールスターゲーム選出:1回(2003年) 517試合登板 ※日本人最多記録 17 (1991年 - 1996年、2002年 - 2005年) 21 (1997年 - 2001年) 『適者生存―長谷川滋利メジャーリーグへの挑戦 1997‐2000』(2000年11月:ぴあ) 『メジャーリーグで覚えた僕の英語勉強法』(2001年11月:幻冬舎) 『適者生存―メジャーへの挑戦』(2003年9月:幻冬舎文庫) 『不可能を可能にすること 僕のメジャーリーグ日記』(2003年12月:幻冬舎) 『自分管理術―チャンスに勝つ ピンチで負けない』(2005年10月:幻冬舎文庫) 『超一流じゃなくても「成功」できる』(2006年8月:新潮社) 『素晴らしき!メジャーリーガー人生』(2006年10月:日経BP社) 『素晴らしき日本野球』(2007年4月:新潮社) 『長谷川 滋利のメジャーリーグがますます楽しくなる観戦術』(2007年7月:ワニブックス) 『一球の心理学-勝敗をわける分ける微妙なアヤを読み解く』(2008年5月:ダイヤモンド社) 『メジャーリーグここだけの話』(2010年8月:講談社) 『メジャーで勝つ-日本人ピッチャーの心技体』(2011年9月:ベースボールマガジン社) 『私が見た-大谷翔平とメジャー新時代』(2019年9月:祥伝社新書) ニュースステーション(テレビ朝日)1991年、2000年にゲスト出演。 メジャーリーグ中継(NHK) 長谷川滋利の野球術 (TBSラジオ、2006年10月2日 - 2007年3月26日) 松本ひでおと長谷川滋利のやっぱり、野球は面白い!(ニッポン放送、2007年4月2日 - 2008年9月8日) ^ 「長谷川 滋利 | アスリートマネジメント」『パシフィックリーグマーケティング株式会社』。2020年1月7日閲覧。 ^ 「大谷翔平は「イチロー以上になるかも」 エ軍の先輩・長谷川滋利氏が期待」『Full-Count』2018年3月1日。2020年4月15日閲覧。 ^ 契約更改「ゴネれば得なのか」当事者が明かす ^ 『別冊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球Part.2 1995(平成7)年編』p.72「12球団TOPICS1995 オリックス・ブルーウェーブ」 ^ 「メジャーリーグの敏腕エージェントが教えてくれた「一流の気遣い」(長谷川 滋利)」『週刊現代』2016年11月11日。2018年3月25日閲覧。 ^ IBEC USA とは? ^ Japan Junior All-Star Team vs. MLB Urban Youth Academy - 日米親善野球大会 ^ 野茂 英雄 Junior All-Star Japan Team 対 長谷川滋利 MLB Urban Youth Academy ^ USA-JAPAN Jr. HIGH SCHOOL BASEBALL GAMES 2014 ^ 長谷川滋利が50歳でプロゴルファー挑戦の理由 元メジャー投手が選んだ第2のスポーツ人生 東洋経済ONLINE 2019年06月22日 ^ “長谷川滋利氏が弊社所属に”. 株式会社ゲームプラン (2024年3月6日). 2024年10月25日閲覧。 ^ 「英語の話せるイチローは、なぜ一流の通訳を雇うのか(長谷川 滋利) @gendai_biz」『現代ビジネス』2017年5月17日。2020年1月7日閲覧。 ^ 「長谷川滋利氏「イチローが変えたメジャーの価値観」(写真=共同)」『日本経済新聞 電子版』2019年3月23日。2020年1月7日閲覧。 ^ 笑顔の守護神の意外な活力源 レンジャーズ大塚とブログ スポーツナビ 2006年07月28日 ^ 日本人メジャーリーガー・ウォッチング RISING SUN『月刊スラッガー』2004年11月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-11、58頁。 ^ 長谷川SA発言でオリックスが日本ハムに謝罪(『日刊スポーツ』2016年11月7日付記事) ^ オリックスSA・長谷川氏「場を盛り上げるため言ってしまった」 日本ハム監督オファー発言で陳謝(『夕刊フジ』2016年11月8日付記事) ^ 「【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者」『SANSPO.COM』産業経済新聞社、2016年11月23日。2017年9月8日閲覧。 兵庫県出身の人物一覧 立命館大学の人物一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 メジャーリーグベースボールの選手一覧 H 日本出身のメジャーリーグベースボール選手一覧 個人年度別成績 長谷川滋利 - NPB.jp 日本野球機構 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register) 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE アスリートマネジメント 長谷川滋利 長谷川滋利 (shiggyhasegawa) - Facebook 長谷川滋利のブログ ShiggyHasegawa‘sBlog 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 蔭山和夫 1952 中西太 1953 豊田泰光 1954 宅和本司 1955 榎本喜八 1956 稲尾和久 1957 木村保 1958 杉浦忠 1959 張本勲 1961 徳久利明 1962 尾崎行雄 1965 池永正明 1967 高橋善正 1969 有藤通世 1970 佐藤道郎 1971 皆川康夫 1972 加藤初 1973 新美敏 1974 三井雅晴 1975 山口高志 1976 藤田学 1977 佐藤義則 1978 村上之宏 1979 松沼博久 1980 木田勇 1981 石毛宏典 1982 大石大二郎 1983 二村忠美 1984 藤田浩雅 1985 熊野輝光 1986 清原和博 1987 阿波野秀幸 1988 森山良二 1989 酒井勉 1990 野茂英雄 1991 長谷川滋利 1992 高村祐 1993 杉山賢人 1994 渡辺秀一 1995 平井正史 1996 金子誠 1997 小坂誠 1998 小関竜也 1999 松坂大輔 2001 大久保勝信 2002 正田樹 2003 和田毅 2004 三瀬幸司 2005 久保康友 2006 八木智哉 2007 田中将大 2008 小松聖 2009 攝津正 2010 榊原諒 2011 牧田和久 2012 益田直也 2013 則本昂大 2014 石川歩 2015 有原航平 2016 高梨裕稔 2017 源田壮亮 2018 田中和基 2019 高橋礼 2020 平良海馬 2021 宮城大弥 2022 水上由伸 2023 山下舜平大 表 話 編 歴 1位:長谷川滋利 2位:戎信行 3位:野村貴仁 4位:岩崎久則 5位:山本栄二 表 話 編 歴 松田博明 伊藤義博 竹内昭文 上岡良一 志村亮 湯舟敏郎 葛西稔 小林昭則 酒井光次郎 長谷川滋利 金賀孝 瀬戸輝信 大川清 小川泰生 渋谷寿成 十河章浩 野村謙二郎 山路哲生 大森剛 長谷高成泰 新宅則和 笘篠賢治 福田英彦 大塚孝二 内匠政博 山崎繁孝 表 話 編 歴 内田俊雄 伊藤義博 岩井美樹 岸雅司 大庭恵 小坂勝仁 小池秀郎 高津臣吾 長谷川滋利 水尾嘉孝 落合英二 若松幸司 関川浩一 瀬戸輝信 長谷川義法 矢野輝弘 加藤茂樹 斉藤慎太郎 奈良原浩 堀内尊法 宮川一彦 奥村伸一 浜名千広 梶田茂生 斉藤一也 中村孝志 町田公二郎 松尾幸典 伊礼忠彦 ISNI VIAF 日本 日本の野球選手 立命館大学硬式野球部の選手 日米大学野球選手権大会日本代表選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 パシフィック・リーグ最優秀新人 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2024/11/15 03:32更新
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