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長谷邦夫の情報 (ながたにくにお)
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【6月2日】今日誕生日の芸能人・有名人

長谷邦夫の情報(ながたにくにお) 漫画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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長谷 邦夫さんについて調べます

■名前・氏名
長谷 邦夫
(読み:ながたに くにお)
■職業
漫画家
■長谷邦夫の誕生日・生年月日
1937年4月7日 (年齢81歳没)
丑年(うし年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和12年)1937年生まれの人の年齢早見表

長谷邦夫と同じ1937年生まれの有名人・芸能人

長谷邦夫と同じ4月7日生まれの有名人・芸能人

長谷邦夫と同じ出身地の人


長谷邦夫と関係のある人

横田徳男: 「漫画研究」に短編ギャグ作品が掲載され、「漫画研究」の投稿者の集会で赤塚不二夫、長谷邦夫らと会い、勧めにより石森章太郎が主宰する「東日本漫画研究会」の「墨汁一滴」に参加する。


林真理子: 赤塚のアシスタントだった長谷邦夫は、林がその内容に激怒し出版社を恫喝して連載を打ち切りに追い込んだと述懐していたが、赤塚作品を研究する名和広によると、長谷の事実誤認としている。


赤塚不二夫: この同人の東京支部に長谷邦夫やよこたとくおがいた。


徳南晴一郎: 2010年1月末、前年の12月24日に死去していたことが長谷邦夫のブログから明らかになった。


よこたとくお: 「漫画研究」に短編ギャグ作品が掲載され、「漫画研究」の投稿者の集会で赤塚不二夫、長谷邦夫らと会い、勧めにより石森章太郎が主宰する「東日本漫画研究会」の「墨汁一滴」に参加する。


真船一雄: ^ 長谷邦夫 1994, p. 317.


高平哲郎: 「ジャック」の常連には他に、長谷邦夫・山下洋輔・森山威男・坂田明・三上寛・長谷川法世・南伸坊らがいた。


赤瀬川原平: 赤塚不二夫と全日本満足問題研究会(赤塚不二夫、赤瀬川原平、奥成達、高信太郎、長谷邦夫)、タモリ、山下洋輔、坂田明、小山彰太、林美雄


赤塚不二夫: この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌5本、月刊誌7本の同時連載をこなす一方で長谷邦夫の紹介によりタモリと出会う。


古谷三敏: 長谷邦夫


とりいかずよし: 赤塚のアシスタントを務め、またアイデアマンとして赤塚や長谷邦夫、古谷三敏とともに『おそ松くん』『天才バカボン』『もーれつア太郎』のネタ出しに携わった。


真船一雄: ^ 長谷邦夫 1994, p. 318.


矢崎泰久: 1972年には、赤塚不二夫、長谷邦夫と雑誌『まんがNo.1』を、日本社からの刊行で発行する。


横山孝雄: 就職活動のために一時上京し、東日本漫画研究会の会員であった赤塚不二夫、よこたとくお、長谷邦夫らと交流を深め、手塚治虫を訪問しトキワ荘を案内されたうえ同室で一泊するという経験をする。


竹熊健太郎: 長谷邦夫 - 赤塚不二夫の片腕的存在。


よこたとくお: 1965年、スタジオ・ゼロの雑誌部で、長谷邦夫と共に赤塚不二夫『まかせて長太』のアイデアスタッフを務める。


赤瀬川原平: また1976年から、『週刊読売』誌上で「全日本満足問題研究会」(赤塚不二夫・赤瀬川原平・奥成達・高信太郎・長谷邦夫)と名乗り「バカなことを真面目にやる」連載を行った。


土田よしこ: 土田を採用したのは長谷邦夫であり、兄弟子に古谷三敏、高井研一郎などがいたが、とりいかずよしはまだおらず接点がなかった。


三山のぼる: 長谷邦夫『ニッポン漫画家名鑑』データハウス、1994年3月1日、331頁。


横井福次郎: ^ 長谷邦夫『ニッポン漫画家名鑑―漫画家500人のデータブック』データハウス、1994年、371 - 372頁。


横田徳男: 1965年、スタジオ・ゼロの雑誌部で、長谷邦夫と共に赤塚不二夫『まかせて長太』のアイデアスタッフを務める。


高平哲郎: また、1978年には「全日本満足問題研究会」(赤塚不二夫、赤瀬川原平、奥成達、高信太郎、長谷邦夫)のLP『ライブ・イン・ハトヤ』もプロデュースした。


所十三: 長谷邦夫『ニッポン漫画家名鑑』データハウス、1994年。


赤瀬川原平: 日本満足問題研究会(1976年、赤塚不二夫、赤瀬川原平、奥成達、高信太郎、長谷邦夫


赤塚不二夫: 出演:赤塚不二夫/赤瀬川原平/長谷邦夫/奥成達/高信太郎/タモリ/山下洋輔/坂田明/小山彰太/林美雄/常木健男/伊東鳩子/ハトヤ混声合唱団/下落合テンタクルス/ハトヤ男子従業員一同/ビクター女子従業員一同/ハトヤ・ダンシングチーム/ハトヤ・オールスターズ


徳南晴一郎: このころ、曙出版専属漫画家の親睦会「+画人会」(ぷらすがじんかい)のメンバーに長谷邦夫、川田漫一、ヒモトタロウ、江戸川清、鈴原研一郎らがいた。


高平哲郎: 共著:山下洋輔・筒井康隆・奥成達・平岡正明・坂田明・日比野孝二・河野典生・上杉清文・山口泰・伊達政保・舎人栄一・岡崎英生・瀬里なずな・小山彰太・池上比沙之・堀晃・黒鉄ヒロシ・赤瀬川原平・高信太郎・長谷邦夫・南伸坊・末井昭・長谷川法世・タモリ・吉峯英虎・赤塚不二夫・高平哲郎・朝倉喬司


石ノ森章太郎: 第一期の会員には赤塚不二夫、横田徳男、長谷邦夫、横山孝雄、高井研一郎、徳南晴一郎などがいた。


赤塚不二夫: 1965年(昭和40年)、長谷邦夫、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等と東京都新宿区十二社(現在の西新宿)にフジオ・プロダクションを設立。


タモリ: 1975年の春、山下が行きつけの新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」で、「山下がそんなに面白いと言うのなら一度見てみたい」と、タモリを上京させる機運が高まり、バーの常連(奥成達、高信太郎、長谷邦夫、山下洋輔、森山威男、坂田明、三上寛、長谷川法世、南伸坊ら)により「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が結成され、会のカンパによって、1975年6月に上京を果たす。


長谷邦夫の情報まとめ

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長谷 邦夫(ながたに くにお)さんの誕生日は1937年4月7日です。

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経歴・生涯[ソースを編集]、人物・エピソード[ソースを編集]などについてまとめました。81歳で亡くなられているようです。

長谷邦夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

長谷 邦夫(ながたに くにお、1937年4月7日 - 2018年11月25日)は、日本の漫画家、漫画評論家、小説家、エッセイスト、詩人、作詞家、元大垣女子短期大学・椙山女学園大学・中京大学・宇都宮アート&スポーツ専門学校等の講師。元日本マンガ学会理事。赤塚不二夫の長年のブレーン役。パロディ漫画におけるパイオニアとして知られる。日本の教育における漫画学科の草創期から関わっている人物でもある。

石森章太郎主宰の東日本漫画研究会の同人として、赤塚不二夫とデビュー前から交流していた。彼らがトキワ荘に入居すると通い組として参加。もともと現代詩を書く文学青年でもあり、江戸川邦生名義で小説も発表した。また、SF同人誌『宇宙塵』の初期からの会員でもあった。他に1974年、井上陽水『氷の世界』収録曲「桜三月散歩道」(元来は『まんがNo.1』の付録のソノシートのために作成された曲)の作詞で日本作詩大賞LP賞を受賞した。1970年代は山下洋輔トリオとの交友も深く、タモリが上京して初めて芸を披露した場面にも立ち会っている。

のちに所属したフジオプロでは、アイデアマン・作画などを担当し、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』『もーれつア太郎』『ギャグゲリラ』など主要作品の全てに関わる。また、赤塚のアメリカ取材(『MAD』編集部への往訪)や赤塚が企画した写真漫画(『週刊少年サンデー』掲載。アクターとして出演)にも携わった。

文章を書かない赤塚に代わりゴーストライターとして赤塚名義で発表した原稿も多い。週刊少年ジャンプ誌の赤塚賞、週刊少年サンデー誌の新人コミック大賞の選考も、赤塚が体調を崩していた頃(1986年)、その代理として担当していた。『ライブ・イン・ハトヤ』や『ウナギイヌ合唱隊』など、赤塚が漫画以外の活動をした時も常に共に行動するなど一心同体の存在だった。

フジオ・プロのマネージャーなども務めた横山孝雄と共に、デビュー前からの赤塚の同人仲間でもあり、二人はフジオプロ内では赤塚と対等以上に付き合える数少ない存在でもあった。

90年代の独立以降は、漫画家として創作活動をするよりも、主に講師として後進の指導や、漫画評論家としての講演を行っていた。このため、同時代の漫画事情に同年代の漫画家よりも詳しかった。また2006年4月からは、アートアンドスポーツ専門学校が新設した小説・シナリオ科の大衆文藝演習の講師も務めていた。

経歴・生涯[ソースを編集]

東京府東京市葛飾区(現:東京都葛飾区金町)に生まれ育つ。少年時代は『漫画少年』に投稿。手塚治虫選考の『漫画教室』に投稿した4コマ漫画が2点同時に掲載されたのが初入選だった。

やがて投稿仲間の石森章太郎が主宰する東日本漫画研究会の同人となり、肉筆回覧同人誌『墨汁一滴』の執筆陣に加わる。石森や赤塚不二夫らが住む豊島区椎名町のトキワ荘に出入りしていたため、新漫画党員ではないが広義の「トキワ荘メンバー」に含める場合がある。同じ東日本漫画研究会員で、トキワ荘に入居または出入りしていたメンバーには、横田とくお、横山孝雄、高井研一郎、山内ジョージなどがいた。

1955年の高校三年の夏休みに、東京の小松川で就職をしていた赤塚不二夫と共に、上京してきた石森章太郎を出迎えて、三人で初めて手塚治虫のいた並木ハウスを訪ねた。翌日、石森と二人で初めてトキワ荘を訪れ、寺田ヒロオや藤本弘(藤子・F・不二雄)、安孫子素雄(藤子不二雄A)の三人とも対面する。

同年、『漫画少年』の廃刊の知らせを受けて、赤塚と二人で学童社の編集部を訪ねる。そこで次号が出ていれば、寺田ヒロオ選考の『漫画つうしんぼ』への投稿が入選していた事実を知り怒りに打ち震えた。石森の『二級天使』の原稿を回収。自身の入選作は『墨汁一滴』に掲載した。

東京都立芝商業高等学校を卒業後、塩野義製薬に就職したが、結核の兆候が発見されたため、入社3ヶ月で退職。餞別に抗結核薬のパラアミノサリチル酸カルシウム顆粒の大瓶を貰う。

退職したあとは漫画一本の生活に入る。デビューは若木書房の『爆発五分前』。3冊目からは曙出版を中心に貸本マンガを1964年まで約7年間執筆した。この時期、徳南晴一郎の仕事を手伝ったこともある。

1957年、SF小説同人誌宇宙塵が創刊されると連絡をとり、星新一や光瀬龍らの同人と交流を持った。また主宰の柴野拓美の勧めで同誌において初めて短編小説『石段』を発表する。手塚治虫も参加した日本SF大会の第一回からの参加者でもあり、石森章太郎にも参加するように呼びかけた。

1965年、トキワ荘グループが創立したアニメ企画会社スタジオゼロに藤子・石森に請われて入社する。同社雑誌部のチーフアシスタントになり、『オバケのQ太郎』や『レインボー戦隊ロビン』を手掛ける。また、赤塚の『まかせて長太』のアイデア・アシスタントをよこたとくおと務めた。

同年スタジオゼロの新宿十二社の市川ビル移転に伴い、雑誌部は、藤子スタジオ、つのだプロ、赤塚のフジオ・プロダクションに分割される。長谷はフジオプロ所属となった。この時から古谷三敏と二人で、赤塚作品のアイデア・スタッフを務めるようになる。またマネージャー業務、ペン入れ作業なども手伝い始める。この時期、赤塚不二夫にキャラクターを描いてもらった『しびれのスカタン』を、少年画報で連載開始する。

1966年、『おそ松くん』ブームの最中、華書房の依頼により赤塚不二夫名義で『シェー!!の自叙伝―ぼくとおそ松くん』を書き下ろす。これが文章本の初めての書き下ろし仕事となるが、文章が90ページにしかならず、後半は赤塚漫画の収録になった。

1969年、『COM』にパロディ漫画『バカ式』(『ねじ式』と『天才バカボン』の混合)、『ゲゲゲの星』(『ゲゲゲの鬼太郎』と『巨人の星』の混合)などを次々と発表。一連の混合パロディ漫画シリーズは、当時流行っていた漫画評論におけるギャグ漫画軽視や、過剰解釈に対する強烈なメッセージであった。しかし掲載誌の変更に伴い、そういったメッセージ性は減少していった。

またこの年に朝日ソノラマのサンコミックスから筒井康隆原作をもとに長谷邦夫がコミカライズした『東海道戦争』が出版される。

1970年、赤塚不二夫名義で『ニャロメのうた』『ケムンパスでやんす』で初の作詞に挑戦する。この曲はニャロメブームの影響も相俟って、オリコンチャート62位。公称10万枚を売り上げた。つづけて『ココロのシャンソン』など赤塚キャラクターソングの作詞を手掛ける。音楽方面の仕事がきっかけで、藤圭子や井上陽水の売り込みの相談を受けたり、山下洋輔と面識を得る。

曙出版より『フジオプロ作品集 長谷邦夫*盗作全集 バカ式』が発売。

1971年、実業之日本社より『盗作漫画全集 少年マネジン』の単行本が出る。当時パロディ漫画を、自虐的に盗作漫画と称していた。

1972年に赤塚不二夫責任編集と題した雑誌『まんがNo.1』が創刊されると編集長を任された。しかし赤塚は多忙を理由に編集作業には一切関わらず、事実上は長谷の個人誌のような有様になり、配本の不手際など実務の不慣れも重なって赤字を垂れ流すだけになり、一度も利益を出さないまま廃刊になった。

1973年、中村誠一から、博多のタモリの存在を聞かされて興味を持つ。彼を呼び寄せるために新宿のバー「ジャックの豆の木」で交通費のカンパを募った。やがてカンパで上京してきたタモリの芸に圧倒され、赤塚不二夫に紹介しようとするが、最初はそんな芸達者な素人がいるとは信じようとしなかった。しかしタモリを見た赤塚はたちまち虜になり、この年に離婚をして一人暮らし用に借りていた目白のマンションを、無償でタモリに提供することになる。

1974年に二度目の単行本書き下ろし『人生破壊学』を発行(赤塚不二夫名義、執筆は奥成達と共同)。

その年、フジオプロの経理担当による数億ともいわれる横領事件が、マネージャー業務を担当していた横山孝雄らの調査により発覚。これによってフジオプロ在籍の各作家の印税プール金の支払いに支障をきたすことになった。その後赤塚は、負債額を全額返済するものの、古谷三敏と芳谷圭児は、アシスタントを引き連れフジオプロを離脱しファミリー企画を設立。長谷は北見けんいちや、あだち勉、斎藤あきらなどと共にフジオプロに残留した。

1977年3月8日、「赤塚不二夫のステージ・ギャグゲリラ」が開催されると、それに出演した。

1978年、長谷が赤塚不二夫名義で書いた自叙伝『笑わずに生きるなんて―ぼくの自叙伝』が海竜社より出版される。

1981年、NHK特集『現代マンガ家立志伝』で、『ギャグゲリラ』のアイデア会議の様子を撮影される。また、取り壊される前のトキワ荘を手塚治虫や赤塚ら元住人で訪問する際も、通い組としてつのだじろう、横山孝雄と共に参加。

1984年、本格長編推理〈私〉小説と銘打った『マンガ狂殺人事件』を赤塚不二夫名義で作品社より出版。

1988年、赤塚自身が赤塚作品それぞれを分析するという体裁の『ラディカル・ギャグ・セッション―挑発する笑いの構造』を、赤塚不二夫名義で書き下ろし。河田書房新社より出版される。(同書は2018年に『ギャグ・マンガのヒミツなのだ!』と改題、フジオプロ監修で追補・再構成され文庫化された)。長谷邦夫としてのエッセイ単行本『1の思想』をMG出版より発表。

1989年、『まんが「消費税戦略」入門―この対策であなたの会社は得します』を赤塚不二夫名義でダイヤモンド社より描き下ろす。二ヶ月で描き上げるためホテル・カンヅメ生活が続き、2月9日に亡くなった手塚治虫の通夜には行けなかった。3月2日の本葬には、赤塚不二夫、北見けんいちの三人で出席した。

講談社より『赤塚不二夫の名画座・面白館』を赤塚不二夫名義で描き下ろす。

1990年、原作を担当した描き下ろし単行本『カーマスートラ』(作画・永井豪)、『コミック・スウェデンボルグの大霊界 ヴィジョン1』(作画・かきざき和美)が徳間書店より発売される。

1992年に長谷や赤塚の先輩格だった寺田ヒロオが過度な飲酒の末に亡くなる。同じ頃に赤塚のアルコール依存症も進行して漫画活動に支障を来たすようになり長谷はフジオ・プロを退職した。退職に至る直接のきっかけは、91年から週刊女性に連載していたリメイク版『へんな子ちゃん』のアイデア会議に呼ばれなくなったことによる。机も私物もそのままで電話で退職を伝えたと本人は語る。しかし実際は赤塚夫人で社長の真知子と桑田裕との確執によりフジオプロ内での立場が悪化、赤塚も長谷を擁護せず、追放される形での退職だった。

飛鳥新社の『日刊アスカ』の編集部・マンガ班顧問を務めたが、休刊になったのちは単独で仕事をしていた。

1997年、冒険社より『ギャグにとり憑かれた男―赤塚不二夫とのマンガ格闘記』を発表。赤塚不二夫との思い出をイラストや漫画を交えて表現した。

1999年、『詩の雑誌 midnight press』にて、ポエトリィ・コミックと題する2ページ漫画の連載を開始。2004年まで、全20回掲載された。

2002年、長谷の過去のパロディ漫画を網羅した『パロディ漫画大全』が発売される。

2004年5月に、ノンフィクション小説『漫画に愛を叫んだ男たち トキワ荘物語』を発表。赤塚不二夫に出会ってから、トキワ荘時代とスタジオゼロを経て、全盛期のフジオプロ時代、そして決別に至るまでの出来事を詳細に綴っており、自身による赤塚不二夫論の集大成になり、赤塚ファンや関係者の間で話題になる。

この本の出版をきっかけに、元赤塚番記者の武居俊樹と数十年ぶりに面会し、自身も赤塚との思い出を文章にまとめると伝えられる。これは翌2005年に『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』と題した単行本として発表された。この年は長谷も、赤塚不二夫の生涯を、今度は漫画作品『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』として描き下ろした。

2008年、『マンガ編集者狂笑録』を発表。

2011年12月には『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』を発表。半世紀近い漫画家人生を文章で振り返った。

2012年にはトキワ荘時代の棚下照生と寺田ヒロオの関係テーマにした、SF・パロディ漫画『伝説 トキワ荘の真実』を発表した。これが最後の単行本作品となる。

続いて自身が漫画家を志すきっかけとなった手塚治虫の「手塚論」の執筆にとりかかっているとブログで報告していたが、2013年4月30日、脳出血で倒れ、以後本人に変わって長男がブログを代筆するようになる(この時点で事実上、活動は終了となった)。11月には特別養護老人ホームに入所していたことが報告された。

それから5年ほど動静が途絶えていたが、2018年11月25日、うっ血性心不全のために死去していたことが12月2日に公式サイト及び公式ブログにて報告された。81歳没。報告によると、栃木県高根沢町の特別養護老人ホームに入所していたが、2017年夏頃に痰の吸引が必要となって同町内の病院に移り、誤嚥性肺炎を繰り返し身体の衰弱が進行して亡くなる半年ぐらい前から心不全状態であったという。

2017年には、西武池袋線椎名町駅自由通路の「椎名町駅ギャラリー」にて、トキワ荘ゆかりの漫画家の一人として、「長谷邦夫展」が開催されていた。

人物・エピソード[ソースを編集]

生前に親交のあった竹熊健太郎が、長谷の功績を書き残しているが、アルコール依存になったリバイバルブーム時代以降の作品はすべて長谷が手掛けたとしているのは事実誤認である。吉勝太が具体的な制作工程を説明の上、竹熊の主張を否定している。

生真面目な性格で、赤塚不二夫とはノリが異なっており「理屈っぽいよ」とたびたび嫌な顔をされていた。

フジオプロの給料や印税などは、趣味などの活動にほとんど出て行き、蓄財などは苦手だったという。常に赤塚にくっついて飲食、遊興などにありついているのを、“お呼ばれおじさん”などと揶揄する仲間もあったといわれる。

薄いハイボールをちびちび飲むのが精一杯といった下戸であり、そういう面でも赤塚が親密にしていた界隈とは一線を画していた。

天才バカボンのマガジンからサンデーへの移籍を画策した人物とされているが、講談社の通信講座「講談社フェーマススクール」「マンガコース」の講師をしていた長谷は、赤塚が単独で行なったとしている。実行者の一人である武居俊樹は、その著書『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』にて、酒の席での長谷の冗談をヒントに編集長に引き抜き策を提案したと記している。なお、小学館の広瀬徳二第二編集部長からの説得に折れ、移籍を決意したのは赤塚自身である。マガジンの内田勝編集長に、バカボン移籍を申し出に行く際に、赤塚に呼ばれて同席した時の感想を長谷側も書き残している。

トキワ荘に出入りしていたころに、石森と赤塚が加入する新漫画党に入党希望していたが、漫画少年の入選も少なく、貸本で仕事をしていただけの長谷は基準を満たして無かったという。

石森と赤塚と三人で昼飯を食いに銀座の鮨屋に入り、大金を請求されて困ったことがある。後年の『まんが道』にもこのエピソードは描かれていて、長谷の代わりに満賀と才野(藤子不二雄)の二人が一緒にいたことになっていた。

『まんが道』における長谷は、石森赤塚が初登場した際に、一緒に挨拶をしていただけの登場にとどまり、『愛…しりそめし頃に…』の最終回に至るまで、二度と出てくることは無かった。もっとも、石森が主宰していた東日本漫画研究会の関連人物は、たとえトキワ荘に居住していたよこたとくおや、後の掲載誌であるビッグコミックの本誌で長年活躍することになる高井研一郎ですら一切登場しない作品ではあるので、その中では優遇されていたことになる。

手塚治虫のCOM誌において、トキワ荘の思い出を関連作家がリレー形式で綴る漫画「トキワ荘物語」(1969年10月号~1970年8月号)の企画に際して、通い組としてはつのだじろうのみが選ばれたものの、同誌にて同じ頃に掲載されていた「長谷邦夫パロディ劇場」内において、滝田ゆうの『寺島町奇譚』のパロディでトキワ荘の思い出(主に赤塚不二夫らとの思い出)を綴った「椎名町奇譚」(1969年12月号)を発表した流れから、後に「トキワ荘物語」がアンソロジーとして単行本化された際、本作も併せて収録された。

1985年に廣済堂出版より『ニャロメの原子力大研究』と題する東電監修の原発紹介まんがを赤塚不二夫名義で執筆する。科学知識にも明るい長谷としては、原発礼賛まんがにしないという約束で引き受けた仕事だったという。翌年にはチェルノブイリ原発事故が発生した。

フジオプロ内ではグーグル役を務め、晩年親交のあった竹熊は知性の人と称するなど博識ある人物とされる。

名和広の調査よると長谷の赤塚の創作活動への関与は、エッセイのほか、カルチャーコミック20本余り、連載漫画については『元祖天才バカボン』(全4巻)、『しびれのスカタン』(全3巻)の2本のみ。

2005年、『赤塚不二夫漫画大全集 DVD-ROM』(2002年発売)に長谷名義の『しびれのスカタン』が収録されていることが発覚。小学館が3000万円の赤字見込みで発売したと聞いた長谷はDVDが欲しいと希望したが、結局少額の印税のみ支払われることになった。

日本漫画家協会の近藤日出造会長に、著作権の扱いについての杜撰な意見を述べられたことから、とっくに退会していることをブログで明かした。

2018年に長谷が亡くなっていたことについて、元フジオプロのてらしまけいじが思い出をブログにしたためた。

2024/05/29 13:36更新

nagatani kunio


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長谷邦夫と近い名前の人

長谷川 憲司(はせがわ けんじ)
1974年9月10日生まれの有名人 埼玉出身

長谷川 憲司(はせがわ けんじ、1974年9月10日 - )は三井物産の社員で、元日本テレビアナウンサー。埼玉県春日部市出身。 埼玉県立春日部高等学校、早稲田大学商学部(海上保険専攻)卒業。 1…

長谷川 理恵(はせがわ りえ)
1973年12月1日生まれの有名人 神奈川出身

長谷川 理恵(はせがわ りえ、1973年12月1日 - )は、日本のファッションモデル、タレント。身長170cm。 神奈川県に出生。大手自動車メーカーに勤める父親の海外勤務のため、3歳から7歳まで…

長谷川 百々花(はせがわ ももか)
2006年12月14日生まれの有名人 福島出身

長谷川 百々花(はせがわ ももか、2006年〈平成18年〉12月14日 - )は、日本の女優。女性アイドルグループ・AKB48の元メンバーである。福島県出身。Mama&Son所属。 201…

長谷川 京子(はせがわ きょうこ)
1978年7月22日生まれの有名人 千葉出身

長谷川 京子(はせがわ きょうこ、1978年7月22日 - )は、日本の女優、ファッションモデル。千葉県出身。所属事務所はレプロエンタテインメント(2022年退社)を経て現在はフリーで活動。 中学…

長谷川 愛(はせがわ あい)
1990年2月6日生まれの有名人 大阪出身

長谷川 愛(はせがわ あい、1990年2月6日 - )は、大阪府出身の女性タレント、歌手、女優。2PS所属。公式ファンクラブは「長谷川愛 official member’s」。 カメレオン昭和ユニ…

長谷 直美(はせ なおみ)
1956年5月15日生まれの有名人 東京出身

長谷 直美(はせ なおみ、1956年〈昭和31年〉5月15日 - )は、日本の女優、元アイドル歌手。本名、長谷川 順代(はせがわ のぶよ)。 東京都大田区出身。沢井事務所を経て、現在 FLYINGD…

長谷川 典子(はせがわ のりこ)
1943年6月19日生まれの有名人 茨城出身

長谷川 典子(はせがわ のりこ、1943年6月19日 - )は、日本の政治家。茨城県常総市長(1期)、茨城県議会議員(2期)、水海道市議会議員(3期)などを歴任した。 1966年(昭和41年)3月…

長谷川 沙遊(はせがわ さゆ)
2月27日生まれの有名人 愛知出身

長谷川 沙遊(はせがわ さゆ、2月27日 - )は、愛知県出身のファッションモデル。特技は、フラフープ、スノーボード、バスケットボール。ニュートラルマネジメント (NMT inc.)所属。 ソニー…

長谷部 瞳(はせべ ひとみ)
1985年4月27日生まれの有名人 神奈川出身

長谷部 瞳(はせべ ひとみ、1985年4月27日 - )は、日本の女優、タレントである。神奈川県横浜市出身。ヒラタオフィス所属。 東放学園高等専修学校卒業。 2001年にスターダストプロモーション…

長谷川 麻衣(はせがわ まい)
1988年12月5日生まれの有名人 東京出身

長谷川 麻衣(はせがわ まい、1988年12月5日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル。東京都出身。バグジー所属。 2009年 - 週刊プレイボーイ「第5回ビキニプリンセスを探せ!」におい…

長谷川 千紗(はせがわ ちさ)
1982年4月1日生まれの有名人 高知出身

長谷川 千紗(はせがわ ちさ、1982年4月1日 - )は、日本の女優、映画監督、脚本家。 早稲田大学第一文学部卒。趣味は旅行、特技はマラソン、英語、着付け。出演作は映画、テレビドラマ、Vシネマ、…

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