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鹿内信隆の情報 (しかないのぶたか)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

鹿内信隆の情報(しかないのぶたか) 経営者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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鹿内 信隆さんについて調べます

■名前・氏名
鹿内 信隆
(読み:しかない のぶたか)
■職業
経営者
■鹿内信隆の誕生日・生年月日
1911年11月17日
亥年(いのしし年)、蠍座(さそり座)
■出身地・都道府県
北海道出身

鹿内信隆と同じ1911年生まれの有名人・芸能人

鹿内信隆と同じ11月17日生まれの有名人・芸能人

鹿内信隆と同じ出身地北海道生まれの有名人・芸能人


鹿内信隆と関係のある人

野間脩平: その容貌を当時の鹿内信隆社長に買われ、1968年4月放送開始の『3時のあなた』の初代の司会に高峰三枝子とともに抜擢され、森光子や寺島純子(現在の富司純子)、坪内ミキ子、加茂さくらなどと司会を続けた。


清原武彦: この間、78年から3年弱、鹿内信隆社長時代における秘書室長を務めた。


前田武彦: それが反共・右派である鹿内信隆の逆鱗に触れ、同年秋には夜ヒットの司会降板に繋がった。


桜田武: 松岡駒吉や西尾末広ら、労働界指導者との親交も厚く、1960年に民社党が設立した当初の資金の大部分は桜田が調達し、その実務は鹿内信隆が実行したという。


桜井輝夫: 鹿内信隆


頼近美津子: これに慌てた春雄の父・鹿内信隆はなりふり構わずニッポン放送株を取り戻そうとして、美津子が相続した時価にすれば100億円は下らないニッポン放送株は鹿内家に6,600万で買い戻された。


福原直英: 同期の小島、西山同様、鹿内信隆・鹿内春雄・鹿内宏明のいわゆる「鹿内家支配」時代に入社した最後のアナウンサーでもある。


五社英雄: 新たに劇画の原作などを書いていた五社だったが、元日本国粋会の森田政治が結成した「蒼龍会」の理事長に五社が就任したことが、フジテレビの鹿内信隆の逆鱗に触れた。


朝妻一郎: 鹿内信隆 - ニッポン放送創設者・社長。


植村甲午郎: また、ニッポン放送社長を務め、フジテレビ創設にかかわったことから、鹿内信隆との関係が深く、1968年(昭和43年)より74年頃まで、財団法人サンケイスカラシップ第2代会長として海外留学生公募に携わる。


妹尾河童: 会社を相手どって裁判に持ち込むなどの抗議をしたので、当時財界の右翼の旗手といわれた社長の鹿内信隆が「なに、河童がか」と激怒したそうだ。


村上七郎: ニッポン放送時代に、専務だった鹿内信隆と出会うが、後にフジサンケイグループ議長として君臨する鹿内は、村上の人生に大きな影響を与えた。


白洲次郎: 「白洲さんは悪い人じゃないけど、女にもて過ぎたのがいかんですね」- 鹿内信隆


村上七郎: 『ロングラン』では、鹿内信隆に関しては事実関係の記述に徹し、個人的な思いは意識的に控えている。


西山喜久恵: 鹿内信隆・鹿内春雄・鹿内宏明のいわゆる「鹿内家支配時代」に入社した最後のアナウンサーである。


徳間康快: フジテレビの名物プロデューサー・横澤彪は、労働組合争議を闘ったことから、左翼嫌いの経営者・鹿内信隆によって子会社の出版社に左遷、冷遇されていた時期があった。


高橋信三: 鹿内信隆 - KRT(現・TBSテレビ)とのネットワーク成立が困難になった際、個人的親交から、彼を通してフジテレビ(CX)とのネット成立を目指していた。


桜田武: 鹿内信隆は「桜田というのは、今後ちょっと出ない男です。


中部慶次郎: 鹿内宏明(球団に資本参加していたニッポン放送の元会長で、鹿内信隆の娘婿)


高橋信三: しかし、MBSテレビは当初希望していたラジオ東京(KRT、現在のTBSテレビ)との東阪間ネットを断られ、またニッポン放送専務鹿内信隆との親交から実現しかけたフジテレビとのネットワークも社長水野成夫が先に開局した大関西テレビ(KTV、現在の関西テレビ)の設立母体だった産経新聞社社長に就いた絡みでKTVに奪われてしまう。


斎藤守慶: 斎藤は高橋に相談、高橋はラジオの『FOLネット』(NJB、ニッポン放送、ラジオ九州によるスポーツ中継専用のネット)を通じて親交のあったニッポン放送専務鹿内信隆に掛け合う。


横澤彪: 若手時代には、労働組合運動に関わったことが当時フジテレビ社長の鹿内信隆(フジサンケイグループ議長)の逆鱗に触れ、1970年に産経新聞出版局に出向させられるなど辛酸をなめたが、この時代、同じ業界の光文社の神吉晴夫から「既成概念にとらわれない」ということを学ぶ。


池田勇人: 財界四天王に鹿内信隆を加えた少人数で話し合う会は極秘中の極秘だった。


桜田武: 戦時中に仕事の付き合いがあった鹿内信隆と桜田はこの会の主導メンバーで後にコンビを組む。関東経営者協会の初代は足立正委員長=諸井貫一副委員長であったが、労使激突の時代で倒れ、桜田委員長=鹿内信隆副委員長という労務問題でのコンビが再成立、これが1948年4月、経営者が団結して戦うための戦略本部・日本経営者団体連盟(日経連)設立に至る。


田丸美寿々: 入社時、「報道をやりたい」と当時の鹿内信隆会長に直訴すると半年間、お茶くみやコピーとりばかりの閑職に追いやられた。


大川博: 鹿内信隆と水野成夫が財界の意を体し、株主も十に満たないため比較的すっきりとした資本構成に落ち着いた。


鹿内宏明: フジサンケイグループ会議初代議長の鹿内信隆の娘婿であり、同議会の第3代議長を務めた。


水野成夫: 鹿内信隆はこの時の陸軍の担当事務官(需品本廠監督官)。


太田垣士郎: 1964年、財団法人サンケイスカラシップの発起人として小林中、大河内一男、高村象平、水野成夫、鹿内信隆、沢村義夫等と共に名を連ねている。


服部敬雄: しかし、開局直前に株式を巡る株主間のトラブルが発生したため、服部が調停に入りYTSは山形新聞グループに組み込まれたほか、系列も服部と鹿内信隆フジテレビ会長(当時)の個人的な関係からフジテレビ系列に変更された。


鹿内信隆の情報まとめ

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鹿内 信隆(しかない のぶたか)さんの誕生日は1911年11月17日です。北海道出身の経営者のようです。

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エピソード、家族・親族などについてまとめました。母親、映画、卒業、現在、テレビ、脱退、結婚、退社、解散、事件、家族に関する情報もありますね。

鹿内信隆のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

鹿内 信隆(しかない のぶたか、1911年(明治44年)11月17日 - 1990年(平成2年)10月28日)は、日本の実業家。フジサンケイグループ会議議長。

津軽藩の御蔵番だった祖父が、御維新で北海道樺太監獄の典獄長(刑務所長)に左遷され、北海道に渡る。

北海道の夕張郡の当時は人口6,000人程度の村だった由仁町に父・鹿内徹、母・モヨの長男として生まれた。母・モヨは写真館を経営していた。父・徹は撮影技師だったが由仁町に来てからは歯科医になった。

1924年、岩見沢中学に進むと弁論部に入って主将を務めていたが、鹿内は、「小生意気な子供であった」という。通学用の革靴が買えなくて、母親の婦人靴をぱかぱかいわせながら穿いていた。母親も事あるごとに借金しようとしたが、由仁町の平均的生活感情からは、「変った一家」とみられたため、誰も金を貸すものはいなかった。

1929年に単身上京し、早稲田第一高等学院に入学した。同校では演劇に熱中、左翼的空気の中で脚本や演出を学んだ。この頃の仲間には、後に社会派の映画監督となる山本薩夫や谷口千吉らがいた。3年後に早稲田大学政治経済学部に進学した鹿内は財政学を専攻し、研究サークル「政経攻究会」に所属した。このころの鹿内のあだ名は、“図書館ゴロ”であったという。

1936年大学を卒業して、何としても新聞記者になろうと思っていたが、当時早稲田の教授で、東京日日新聞の副主筆も務めていた阿部賢一に叱責を受け、阿部の斡旋で倉敷絹織(現在のクラレ)に入社した。鹿内は、同社専務で事実上の社長を務めていた菊池寅七に預けられたが、菊池は後に信隆の岳父となった。鹿内は四国の工場に配属され、1938年になると、特殊金属を扱う企業として新たに倉敷絹織が設立した日本電気冶金三徳工業に転籍した。

1938年に応召し、予備役召集第1回の士官候補生となり牛込区若松町に置かれていた陸軍経理部に進み、のち主計少尉。軍務時代慰安所設置などに尽力(本人著「いま明かす戦後秘史」に詳しい)。鹿内は監督官の立場で、軍需工場を見て廻り、日清紡の営業部長で軍と折衝していた桜田武や大日本再生紙社長の水野成夫らと、需給計画を通じて知り合い、有力財界人と急速に親しくなる。岩畔豪雄をリーダーとする陸軍戦備課は1938年、軍用の製紙会社・国策パルプを設立し、続いて水野と南喜一を支援して1940年大日本再生製紙を設立するが、鹿内はその担当事務官であった。ただ、水野は岩畔との関係からインド独立工作に一生懸命で、水野に会ったのは戦後だという。

除隊後の1943年、鮎川義介の日産コンツェルンが資金的にバックアップしていた日本電子工業の創立に関わり、戦後はリュックサックを背負ってヤミ屋もやったが、1946年4月の経済同友会創設に参画。鹿内は当時は全く無名の日本電子工業常務であったが、戦中からの付き合いだった「財界四天王」からの信任を得て、36歳の若さで設立総会の司会を務めた。戦中から仕事の付き合いがあった桜田が鹿内を非常に買い、同年6月の関東経営者協会の発足で、桜田委員長=鹿内信隆副委員長という労務問題でのコンビを成立させ、これが総労働に対する資本家側のタテとして発足した1948年4月の日本経営者団体連盟(日経連)設立に至る。桜田は日本電子工業の常務だった鹿内を引き抜いて、日経連の初代専務理事として迎えて、桜田総理事=鹿内専務理事として再びコンビを組み、戦後の約10年を日本共産党に指導されて各地で起ったラジカルな労働争議を闘った。また桜田の師匠・宮島清次郎が若手財界人を束ねて帝大同期の吉田茂政権を支援したことから、桜田を通じて政財界人脈を拡げることになる。混乱期に「財界四天王」からの信任を得て、「財界主流派」の中心メンバーとして、戦後の日本経済の基盤作りを行い、政財界の舞台裏を取り仕切った人物の一人である。鹿内自身「私のいちばん記録に残すべき時代は日経連時代なんです」と述べている。

「財界四天王」+桜田の弟分・今里広記らが鹿内を後見人として見守り、戦後の1954年のニッポン放送設立に加わり、1957年文化放送の社長になった水野と協力してフジテレビを開局させた。これらは財界のためのマスコミ機関として認識された。1961年、ニッポン放送社長、1963年にフジテレビ社長就任する。

鹿内には常に"財界"というスポンサーが付いており、血の滲むような借金の苦しみをしたことはなかった。若くして環境に恵まれ、日経連の闘士として総労働を相手に闘って来たが、始めから表舞台に立ったエリートコースを歩み、幸運のエスカレーターに乗って順風満帆、勝ち戦ばかりで苦労を知らずで、「人の褌で相撲を取ってきた」という批判もあった。水野との関係は悪化していったが、1968年、水野が病で倒れると鹿内の独壇場になった。サンケイの傷が意外に深いことを知った桜田武・小林中・今里広記は、鳩首収拾策を練り、嫌がる鹿内にフジテレビ・ニッポン放送・産業経済新聞社・文化放送のマスコミ四社の総指揮を執るように命じた。これにより鹿内は1967年、フジサンケイグループ会議初代議長に就任した。1968年、産業経済新聞社社長就任。就任4ヵ月足らずの1969年2月にタブロイド版という思い切った紙型と、週刊誌的な話題で作った娯楽新聞『夕刊フジ』が、サラリーマン層に浸透し大ヒットした。同誌は従来の新聞のネックである宅配の負担を避けるために駅売り専門としたこと、通勤車中でも読みやすいようにタブロイド版にし、内容も週刊誌的な編集する等、従来の新聞にないものだった。『夕刊フジ』の成功は、就任当時、年2億4000万の赤字決算を出していた社業の直接立て直しに寄与し、またサンケイ社員の士気を高めた。他の功績としてポニー(現在のポニーキャニオン)など、ニッポン放送グループの時代に先んじたカセット事業が挙げられる。これは当初何年も赤字が続いたが、鹿内が無理に続けさせた事業で、ビデオ時代になってイニシアチブを執れるようになった。

1969年、箱根 彫刻の森美術館館長・フジサンケイグループ会議初代議長を務め、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。1974年、郵政官僚出身の浅野賢澄に社長職を譲り、自らは会長に就任。また、ニッポン放送社長を同郷の後輩である石田達郎に譲った(石田の後任は鹿内の大学の後輩である羽佐間重彰で、後にフジテレビの社長も務めた)。

1982年、郵政官僚出身の浅野賢澄にフジテレビ会長のポストを譲り、1984年フジサンケイグループ最高顧問の座に就いた。しかし1988年、長男・春雄の死去を受け、春雄が大量に所有していたフジテレビの親会社にあたるニッポン放送株を春雄の未亡人・頼近美津子が相続すれば、フジテレビは頼近の支配下に置かれかねない状況に陥ったため、慌てて頼近からニッポン放送株を買い戻し、再びグループ会議議長の座に就任した。1990年10月28日、78歳でその生涯を閉じた。

エピソード

太平洋戦争中、主計将校だった鹿内は慰安所の開設と運営に関与していた。自伝「いま明かす戦後秘史」では、マニラ大学の女学生がフィリピンに上陸した日本軍将校の慰安婦になったというエピソードが語られている。

愛称は「ハイジャッカー」。名付け親は、司馬遼太郎(当時、産経記者)といわれる。

戦中、陸軍省経理局のエリート将校だった鹿内は、謀略家として知られた岩畔豪雄に近い部下であった。鹿内の半端な除隊も謀略の一作戦と見られ、常務として入社した日本電子工業は陸海軍の表に出せない金を処理する影の部隊だったといわれる。鹿内はここで敗戦の準備や占領軍の慰安所設置の仕事をして、戦後、GHQと親しくなっていく。鹿内や植村甲午郎はM資金にも手の届く位置にいたとされる。

役員を務めていた会社には労働組合を作ることはおろか存在も認めず、作ろうとする者には解雇・配転という形で妨害行為を行い、存続させる場合でも御用組合化を行った。産経では主流派労組が新聞労連を脱退し、スト権を明確に放棄したことから、労使協調色が強かった全日本労働総同盟からも「スト権もないのでは組合とは言えない」として加盟を断られたほどだった。その後、産経では主流派の御用組合化に反発した論説委員の松沢弘をはじめとする社員が1994年に“闘う”組合として第二組合(反リストラ・マスコミ労働者会議産経委員会、通称「反リストラ産経労」)を結成した。フジテレビでは後に社長を務めた日枝久や横澤彪などの関係者が後に「恐怖政治だった」と回顧するほどであったが、五社英雄は信隆シンパであったという。一時フジテレビの制作部門が本体から切り離され、子会社として設置した「ワイドプロモーション」所属の社員として本体社員よりも(待遇・給与面において)一ランク下の位置付けで扱われるに至ったのも制作部門の社員に労組の幹部が多数在籍していたことから、部門全体に連帯責任をかぶせる意味合いで採られた措置であるとされている(のちに「ワイドプロモーション」は「フジ制作」に名称を変更、1980年に本体に吸収されこれによりフジテレビ内の制作部門が完全復活した)。

社長時代は、フジテレビ・ニッポン放送では正社員にあたるアナウンサーへの女性の採用を禁じ、派遣社員クラスにあたる報道局所属のレポーターとしての採用や、25歳での結婚退社を強制した。ただし、議長に復帰した1988年は男女雇用機会均等法の制定後であったことから、長男の春雄が行った女性差別制度廃止の措置を撤回させることはできなかった。

「新聞が本当に不偏不党の立場でまかり通るような安泰なものに、今、日本の国内情勢が成っているでしょうか」「敢然と守ろう『自由』、警戒せよ、左翼商業主義!」(産経新聞創刊に際して広告主向け説明会で発言)

1973年、サンケイ紙上に論評欄「正論」登場。右派・タカ派知識人を総動員して反共・国家主義を提唱。論壇誌「正論」は、小林秀雄、田中美知太郎らの右派文化人が、「左傾化する世論」を憂いて「中道の雑誌が必要」だと鹿内に直談判し、創刊されることとなった。

1978年5月、編集主幹として、編集の全権を掌握。

1989年10月、10億ともいわれる巨費を投じて、アメリカ大統領を退いたばかりのロナルド・レーガンを招待し、産経新聞で20ページからなる特集記事を掲載。

鹿内のフジテレビ社長時代に入社したアナウンサー・逸見政孝は、大学の同期で友人でもあった松倉悦郎と共にフジテレビの入社試験に臨んだ際、鹿内から「早稲田の文学部から2人受けているが、君、1人しか受からなかったらどうするかね?」と質問されたという。逸見は困惑しつつ「それは困ります」と答えた。

鹿内のフジテレビ会長時代に入社した山中秀樹は幼少時代からの広島東洋カープファンでかつアンチ巨人でもあったため、フジテレビの入社試験で鹿内から「君が退社して、もし日テレからの仕事があったらどうするかね?」と質問されたが、山中は「死ぬまでフジテレビ以外は出演しません」と答えたという。

鹿内は徹底的な合理主義者として知られ、水野が産経新聞社長に就任した際、「部長以上の管理職は全員クビにした方が良い」と進言した。「産経残酷物語」の水野でさえ、この一言には耳を貸さなかったが、のちに産経新聞社の経営が再度悪化した際、「僕の言う事を聞かなかったからこうなったんですよ」と水野を責めたという。水野から引き継いだ事業のうち、プロ野球のサンケイアトムズと琵琶湖畔のスキー場・サンケイバレイの経営権を売却し、日本フィルハーモニー交響楽団を解散に追い込む一方(その後労働組合を母体とした自主運営で再建し、退団した団員は新日本フィルハーモニー交響楽団を設立)、有楽町駅前のラクチョウビルや夕刊フジ(もともと水野が温めていた企画)はフジサンケイグループの収益事業として育成するなど、カネにならない物は容赦なく切り捨てた。

前述のように社内外では強烈な反共主義者でならした信隆であるが、歴史認識に関しては必ずしも今日の自由主義史観論者とは合致しない一面もあった。一例として蒋介石秘録において南京事件の存在を肯定的に扱った蒋介石の談話を掲載させている点等がある。

美術品の蒐集家としても知られており、箱根 彫刻の森美術館や美ヶ原高原美術館をオープンさせた他、河田町のフジテレビ旧社屋には美術品ギャラリーがあった。

家族・親族

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2024/06/07 21:26更新

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