もしもし情報局 > 5月22日 > 作家、詩人

中勘助の情報 (なかかんすけ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

中勘助の情報(なかかんすけ) 作家、詩人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

中 勘助さんについて調べます

■名前・氏名
中 勘助
(読み:なか かんすけ)
■職業
作家、詩人
■中勘助の誕生日・生年月日
1885年5月22日
酉年(とり年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
東京出身

中勘助と同じ1885年生まれの有名人・芸能人

中勘助と同じ5月22日生まれの有名人・芸能人

中勘助と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


中勘助と関係のある人

小宮豊隆: 同学年に安倍能成、中勘助、藤村操、尾崎放哉、岩波茂雄がいた。


橋本武: 「生徒の心に生涯残り、生きる糧となる授業をしたい」との思いから、1950年、新制灘中学校で新入生を担当することになった時点から、「教科書を使わず、中学の3年間をかけて中勘助の『銀の匙』を1冊読み上げる」国語授業を開始する。


橋本武: 具体的には『銀の匙 中勘助 橋本武案内』(小学館文庫、2012)に詳しい。


今江祥智: このころ、岩波文庫めあての古書店めぐりに熱中し、中勘助『銀の匙』を読んで感動、座右の書とする。


和辻哲郎: 京子は幼少のころ中勘助に偏愛されたことでも知られる。


富岡多恵子: 『中勘助の恋』創元社 1993 のち平凡社ライブラリー


橋本武: 中学の3年間をかけて中勘助の『銀の匙』を1冊読み上げる国語授業「『銀の匙』授業」で知られる。


中庸助: 芸名の「中庸介」は、敬愛する中勘助に因んだもの。しばらく「中庸介」で通したが、二枚目風なのが気に入らず、「もともと中勘助から頂いた名前なので」ということで、「中庸助」に改名した。


富岡多恵子: 1994年、評論『中勘助の恋』で第45回読売文学賞受賞


橋本武: 2012年に小学館から発行された、中勘助著『銀の匙(小学館文庫)』には、橋本による案内(解説)が全編に併載されており、当時の「『銀の匙』授業」の様子を活字の形で追体験することが出来る。/中勘助×橋本武/夏目漱石が絶賛した、明治少年のみずみずしい見聞が、伝説教師の解説を全編に添え、新たな扉を開ける――。


赤塚真人: 暴れん坊将軍III 第28話「偽りの拝領妻」(1988年) - 竹中勘助


中澤まさとも: 中勘助「漱石先生と私」(私〈中勘助〉)


中勘助の情報まとめ

もしもしロボ

中 勘助(なか かんすけ)さんの誕生日は1885年5月22日です。東京出身の作家、詩人のようです。

もしもしロボ

略年譜、家族などについてまとめました。結婚、卒業、家族、病気、姉妹に関する情報もありますね。亡くなられているようです。

中勘助のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

中 勘助(なか かんすけ、1885年(明治18年)5月22日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は、日本の小説家・詩人・随筆家。明治末期から大正初頭にかけて執筆した小説『銀の匙』が、学生時代の恩師である夏目漱石の推挙を受けて「東京朝日新聞」に連載されたことで文壇に認められる。漱石門下のひとりに位置づけられる一方で、文壇の潮流とは一線を画した文学活動を維持したことから「孤高の作家」と評される。

1885年(明治18年)5月22日、東京府神田区東松下町7番地(現・東京都千代田区神田東松下町14付近)の旧今尾藩邸で、今尾藩士の父・勘弥(当時43歳)と母・鐘(志やう、しょう、当時37歳)の五男として生まれた。出生当時、中家には両親のほか、祖母のみき(当時74歳)、次兄の金一(当時14歳)、長姉のはつ(当時7歳)、次姉のちよ(当時5歳)、寄留していた母方の伯母(母の一番上の姉)がいた。兄姉のうち、長兄・三兄・四兄は夭逝していた。勘助が生まれた3年後の1888年(明治21年)には妹の栄、翌1889年(明治22年)には末妹のやすが生まれた。

勘弥は今尾藩士として藩主・竹腰正旧に仕え、今尾藩の権大属に任命されていた。しかし、廃藩置県のため1872年(明治5年)に藩主とともに東京に移住した。勘弥は家令として竹腰正旧・正己父子に仕え、輸入商会などを営んで主家の財政再建に努めた。

1889年7月、やすが生まれる少し前に母と勘助の健康のために東京府東京市小石川区小日向水道町92番地(現・東京都文京区小日向2丁目11番地付近)の新築の家に一家で転居した。幼い勘助は、鐘が産後の肥立ちが悪く病弱だったため、代わりに伯母によって育てられた。生まれつき体が弱く、神経過敏で頭痛に悩まされる子供だった勘助は、外で遊ぶことはなく、幼少期のほとんどを伯母以外の人と接することなく育った。

東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)を経て、1902年(明治35年)9月、第一高等学校に進学した。同級には、江木定男(江木鰐水の孫)、山田又吉、安倍能成、小宮豊隆、野上豊一郎、尾崎放哉、藤村操らがいた。翌1903年4月には、イギリス留学から帰国した夏目漱石が講師として第一高等学校に着任し、漱石の講義を受けた。同年5月には藤村操が華厳滝から投身自殺して社会問題となった。この頃、兄・金一は子爵・野村靖の娘・野村末子(当時19歳)と結婚した。結婚後まもなくして金一は単身でドイツに留学した。

翌1904年(明治37年)には留年した岩波茂雄、荻原井泉水らが同級となる。安倍や岩波などとは卒業後も交流が続いた。

1905年(明治38年)、東京帝国大学英文科に進学。第一高等学校と兼任で東京帝国大学でも講師として勤めていた漱石から引き続き講義を受けた。翌1906年(明治39年)10月15日、父・勘弥が死去した。1907年(明治40年)には国文科に転科している。

卒業を半年後に控えた1909年(明治42年)1月、野村靖が死去した。同月末には野村の初七日のため福岡から上京してきていた金一が、突然脳溢血を起こして倒れ、失語症などを患う重症を負う。結果として、金一は九州帝国大学での教授職を辞任せざるを得ず、小石川の自邸で末子や家族に介護されることになった。家長たる金一が倒れたことにより、事実上の次兄である勘助には金一の代わりに一家の大黒柱として家族を支えることが求められるようになった。しかし、勘助は同年7月に東京帝国大学を卒業するも、家族のいる実家に戻らず、家から逃げるように各地を転遷するようになる。

大学卒業後、1910年(明治43年)に勘助は一年志願兵として近衛歩兵第四聯隊に入隊するが、翌1911年(明治44年)4月に衛戍病院に入院することになり、同年6月頃には除隊となった。同年9月、除隊となった勘助は野尻湖弁天島に向かい、そこに籠もるようになる。

1912年(大正元年)夏から秋にかけて、野尻湖畔で「銀の匙」を執筆する。同年7月には、小宮豊隆の勧めで「夢の日記」を雑誌『新小説』に大内生名義で発表し、作家としての一歩を踏み出した。その後、「銀の匙」の前篇部分を書き上げた勘助は、学生時代の恩師である漱石にその原稿を送付した。「銀の匙」は漱石から高く評価され、漱石の推薦もあり1913年(大正2年)4月から同年6月にかけて「東京朝日新聞」上に那珂名義で連載される。

1914年(大正3年)6月末には、比叡山横川・慧心院で「つむじまがり」を執筆し、同じく漱石の推薦で翌1915年(大正4年)4月から同年6月にかけて「東京朝日新聞」上で連載された。

勘助は『銀の匙』によって一躍注目を集める作家となったが、その後6年近くほとんど作品を発表せず、作家として沈黙を保った。そして、私生活の上では病兄や老母のいる小石川の実家には戻らず、各地を転遷し続ける隠遁生活を送った。

1920年(大正9年)2月、千葉県我孫子町我孫子(現・千葉県我孫子市)の高嶌貰治郎方に仮寓。当時、近辺に居住していた志賀直哉と交流を深める。この頃から我孫子を引き払うあたりの1923年11月までの日記は、のちに日記体随筆「沼のほとり」となる。同年4月17日、「提婆達多」を脱稿した。

同年11月、兄の発病を契機とした家庭内紛糾は、最終的に勘助が生家の世話を引き受けることで一応の収束を迎える。勘助は、家の基盤を整えるための財産整理として、小石川の実家を岩波茂雄に買い取ってもらった。そのため、家族を一時的に東京府東京市四谷区元町59番地に移らせたが、勘助は家族とともに四谷には移らず、我孫子に留まった。

1921年(大正10年)5月、森田草平の紹介で新潮社から『提婆達多』を刊行したのを皮切りに、同年12月には『銀の匙』を岩波書店から刊行するなど、作家としての活動を再開した。翌1922年(大正11年)には、初めて実名の中勘助名義で「犬(未定稿)」を岩波書店から刊行されている文芸誌『思想』にて発表した。しかし、同作は性欲描写などを理由に問題視され、『思想』は発禁処分を受け、岩波茂雄が警視庁に呼び出される事態に発展した。岩波の取りなしもあり、性欲描写に該当すると指摘された箇所を伏字にする処置で一応の解決がなされた。ただ、勘助が晩年「作者の本意がわからない人びとの軽蔑や、嫌悪や、邪推や、憤慨や、大変だった」と述懐するほど、発禁処分を受けたという事実は周囲や世間から非難される要因となった。

1922年7月、東京府東京市赤坂区表町二丁目13番地(現・東京都港区)に家を購入し、四谷へ一時的に移していた家族を引っ越させる。四谷のときと同じくそのときは勘助は我孫子に留まったが、翌1923年(大正12年)12月に我孫子を引き払い赤坂へ移った。

1924年(大正13年)5月、『犬 附 島守』を岩波書店から刊行。赤坂とは別に神奈川県平塚町西海岸(現・神奈川県平塚市)に家族の避暑避寒のため家を建て、夏期・冬期以外を平塚の家で暮らすようになる。この平塚で暮らした期間の日記はのちに「しづかな流」となる。

1925年(大正14年)4月、発表していた『銀の匙』の改稿に着手する。同年7月、『沼のほとり』を岩波書店から刊行。翌1926年(大正15年)4月、改稿した『銀の匙』を岩波書店から刊行する。1928年(昭和3年)、猪谷妙子(旧友・江木定男の長女、猪谷善一の妻)のために「菩提樹の蔭」を執筆し、翌1929年(昭和4年)10月には『思想』に発表した。

1931年(昭和6年)1月、この頃から和辻哲郎の長女・和辻京子のために童話『鳥の物語』の構想が生まれる。同年4月、『菩提樹の蔭』を、翌1932年(昭和7年)6月、『しづかな流』をともに岩波書店より刊行した。同年9月、平塚の家を売却し、赤坂の家に家族と同居するようになる。この頃から1936年(昭和11年)9月までの日記がのちに日記体随筆『街路樹』となる。

1934年(昭和9年)10月、母・鐘が老衰のため死去した。同年12月、「母の死」を『思想』に発表する。『銀の匙』以来長らく小説や日記体随筆を書く作家だったが、1935年(昭和10年)に発表した詩集『琅玕』を端緒に、詩人としての文芸活動を開始した。1936年(昭和11年)に詩集『機の音』と『海にうかばん』、1937年(昭和12年)に詩集『吾往かん』、1938年(昭和13年)に詩集『大戦の詩』、1939年(昭和14年)に詩集『百城を落す』をそれぞれ岩波書店より立て続けに刊行した。

1940年(昭和15年)、勘助とともに家族を支えてきた嫂の末子が蜘蛛膜下出血を起こして倒れる。末子を看病しながら、のちに日記体随筆となる「氷を割る」を書く。1942年(昭和17年)4月、末子が死去する。同年7月には、猪谷妙子も35歳で死去した。立て続けに愛する人たちを亡くし、勘助は病床の金一とともに残された。自身も老いてきたなかで不仲である兄の介護をひとりで行うのは困難と勘助は判断し、知人の紹介を受けて嶋田正武の娘・嶋田和子と結婚することを決意する。

1942年(昭和17年)10月12日、結婚式当日、勘助と和子の結婚式は予定通りに執り行われる運びだった。しかし、挙式当日に長い闘病生活に苦しんだ金一が自殺した。当日予定通りに結婚式は挙行されている。

結婚後、末子や妙子を追慕する随筆「蜜蜂」、「妙子の手紙」を執筆する。1943年(昭和18年)5月、『蜜蜂』を筑摩書房より刊行した。

1943年、静養のため静岡県安倍郡服織村(はとりむら)新間字樟ヶ谷(現・静岡市葵区新間)に移り、戦況の悪化にともない疎開も兼ねてしばらく移住することになる。1945年3月には同村羽鳥(現・静岡市葵区羽鳥本町)に移る。詩集『藁科』、随筆「樟ヶ谷」「羽鳥」など、この地を題材にした作品を著す。1945年(昭和20年)、服織で終戦を迎える。終戦後、1948年に勘助夫妻は服織を去り、赤坂の自邸が戦火に焼かれたことなどもあり、勘助は夫妻は東京都中野区新井町にある和子の実家に身を寄せる。

勘助は、和子の実家で義妹である嶋田豊子、秀とともに亡くなるまで暮らした。1949年(昭和24年)5月、『鳥の物語』を山根書店より刊行する。1951年1月、『白鳥の話』を角川書店より、同年6月に詩集『藁科』を山根書店より刊行した。

1956年(昭和31年)、胆嚢その他の病気のため東京都千代田区飯田橋にある日本医科大学附属第一病院に入院した。同年6月に退院するも9月に再入院し20日後再退院する。1958年(昭和33年)には感冒から肺炎を併発し、一時危篤となるなど、老衰から健康を損なうようになる。

1960年(昭和35年)12月、角川書店から『中勘助全集』の刊行を開始する。当初は全11巻予定だったが、のち2巻増補され、全13巻で1965年(昭和40年)1月に完結した。同年「全集」完結と多年の業績により朝日文化賞を受賞した。

同年4月28日午前3時台、就寝していた勘助が突然大声を上げ和子を呼び起こした。そして「頭が痛い。父のようだ。あわてるな! 豊はすばやいから、豊を起せ。」と話したのち昏睡し、意識が戻らなくなった。勘助は、すぐに日本医科大学附属第一病院に搬送されたが、病状は回復せず昏睡状態が続いた。

1965年5月3日、脳出血のため、飯田橋の日本医科大学附属第一病院で死去した。享年79歳。戒名は慈恩院明恵勘真居士。

略年譜

1885年

    5月22日 - 東京府神田区東松下町7番地今尾藩邸にて、今尾藩士の父・勘弥と母・鐘の五男として生まれる。

    1889年

      7月 - 母と勘助の健康のため、小石川区小日向水道町に一家で転居する。

      1891年

        4月 - 正規の学齢より1年早く市立黒田尋常小学校に入学。

        1897年

          9月 - 城北中学校(現・都立戸山高等学校)に入学。

          1902年

            9月 - 第一高等学校第一部に入学。

            1905年

              9月 - 東京帝国大学文科英文学科に入学。

              1906年

                10月、父・勘弥が死去。

                1907年

                  9月 - 国文学科に転科。

                  1909年

                    1月 - 兄・金一が脳溢血で倒れて失語症など重症を負う。

                    7月 - 東京帝国大学国文学科を卒業

                    1910年

                      12月 - 一年志願兵として近衛歩兵第四聯隊に入隊。

                      1911年

                        4月 - 衛戍病院に入院。2ヶ月後、除隊。

                        夏 - 野尻湖畔の安養寺に仮寓。9月からは弁天島に籠もる。

                        1912年

                          夏から秋にかけて、野尻湖畔に滞在。「銀の匙」を執筆する。

                          1913年

                            4月 - 夏目漱石の推薦により「銀の匙」が「東京朝日新聞」に連載される。

                            1914年

                              6月 - 比叡山横川で「銀の匙」後篇を執筆する。

                              1915年

                                4月 - 「銀の匙」後篇が「東京朝日新聞」に連載される。

                                1917年

                                  6月 - 「漱石先生と私」を『三田文学』に発表。

                                  1920年

                                    2月 - 千葉県我孫子町に仮寓。

                                    11月 - 生家の世話を見ることになり、財産整理のため小石川の実家を岩波茂雄に売却する。

                                    1921年

                                      4月 - 『提婆達多』を新潮社より刊行。『銀の匙』を岩波書店より刊行。

                                      1922年

                                        4月 - 「犬(未定稿)」を『思想』に発表し、発禁処分を受ける。

                                        1924年

                                          5月 - 『犬 附 島守』を岩波書店より刊行。

                                          12月 - 平塚に家を建て、我孫子から転居して主にそこに暮らす。

                                          1925年

                                            7月 - 『沼のほとり』を岩波書店より刊行。

                                            1926年

                                              4月 - 『銀の匙』を岩波書店より再度刊行。

                                              1931年

                                                4月 - 『菩提樹の蔭』を岩波書店より刊行。

                                                1932年

                                                  6月 - 『しづかな流』を岩波書店より刊行。

                                                  1933年

                                                    4月 - 『提婆達多』を岩波書店より刊行。

                                                    1934年

                                                      10月 - 母・鐘が死去。

                                                      1935年

                                                        3月 - 詩集『琅玕』を岩波書店より刊行。

                                                        1936年

                                                          5月 - 詩集『機の音』を岩波書店より刊行。

                                                          12月 - 詩集『海にうかばん』を岩波書店より刊行。

                                                          1937年

                                                            6月 - 『街路樹』を岩波書店より刊行。

                                                            10月 - 詩集『吾往かん』を岩波書店より刊行。

                                                            1938年

                                                              12月 - 詩集『大戦の詩』を岩波書店より刊行。

                                                              1939年

                                                                9月 - 詩集『百城を落す』を岩波書店より刊行。

                                                                1940年

                                                                  5月 - 『逍遥』を岩波書店より刊行。嫂・末子が蜘蛛膜下出血で倒れる。

                                                                  1941年

                                                                    10月 - 『鳩の話』を岩波書店より刊行。

                                                                    1942年

                                                                      3月 - 詩集『飛鳥』で筑摩書房より刊行。

                                                                      4月 - 嫂・末子が死去。

                                                                      7月 - 猪谷妙子が死去。

                                                                      10月12日 - 嶋田和子と結婚。同日、兄・金一が自殺。

                                                                      1943年

                                                                        5月 - 『蜜蜂』を筑摩書房より刊行。

                                                                        10月 - 静岡県安倍郡服織村に疎開。

                                                                        1945年

                                                                          3月 - 服織村羽鳥に移る。

                                                                          1947年

                                                                            7月 - 『余生』を八雲書店より刊行。

                                                                            1948年

                                                                              2月 - 『鶴の話』を山根書店より刊行。

                                                                              4月 - 東京都中野区新井町にある妻の実家に移る。

                                                                              1949年

                                                                                5月 - 『鳥の物語』を山根書店より刊行。

                                                                                1951年

                                                                                  1月 - 『白鳥の話』を角川書店より刊行。

                                                                                  6月 - 詩集『藁科』を山根書店より刊行。

                                                                                  1953年

                                                                                    11月 - 『中勘助自選随筆集』上巻が創元文庫に入る(下巻は翌1月)。

                                                                                    1956年

                                                                                      胆嚢ほかの病気のため日本医科大学附属第一病院に入院。入退院を繰り返す。

                                                                                      1958年

                                                                                        2月 - 感冒より肺炎を併発し、一時危篤となる。

                                                                                        1960年

                                                                                          12月 - 『中勘助全集』を角川書店から刊行開始。

                                                                                          1965年

                                                                                            1月 - 『中勘助全集』完結。朝日文化賞を受賞。

                                                                                            5月3日 - 日本医科大学附属第一病院にて死去。享年79歳。

                                                                                            家族

                                                                                            父・勘弥(1842-1906) - 今尾藩士

                                                                                            母・鐘

                                                                                            兄・金一(-1942) - 九州帝国大学教授。妻は子爵野村靖の娘・米子。1902年に文部省留学生としてドイツに公費留学し、帰国後九帝大教授となったが、脳溢血により失語症となり退職、妻に先立たれたのち、世話になっていた勘助の結婚式の日に自殺した

                                                                                            姉・ちよ(1880年生) - 夫は東京高等師範学校教授・野田貞(ただし)。貞は東京帝国大学理科大学卒の物理学者でドイツ公費留学の経験を持つ。

                                                                                            姉妹・タカ(孝子) - 父勘弥の養女として勘弥の主君竹腰正旧に嫁ぐ

2024/06/25 07:57更新

naka kansuke


中勘助と同じ誕生日5月22日生まれ、同じ東京出身の人

佐々木 心音(ささき ここね)
1990年5月22日生まれの有名人 東京出身

佐々木 心音(ささき ここね、1990年5月22日 - )は、日本の女優、シンガーソングライター。元グラビアアイドル。 女優としての所属事務所は、FilMoa(フィルモア)。シンガーソングライターと…

黒澤 美澪奈(くろさわ みれな)
2001年5月22日生まれの有名人 東京出身

その他のテレビ番組 バラエティ 黒澤 美澪奈(くろさわ みれな、2001年5月22日 - )は日本の俳優、タレント、元アイドル。放映新社・アンドラフ所属。以前はアミューズに所属していた。さくら学院…

赤澤 巴菜乃(あかざわ はなの)
2003年5月22日生まれの有名人 東京出身

赤澤 巴菜乃(あかざわ はなの、2003年5月22日 - )は、日本の女優、タレント。東京都出身。ホリプロ所属。 2018年、第43回 ホリプロスカウトキャラバンにてファイナリストに選出される。以…

原 史奈(はら ふみな)
1981年5月22日生まれの有名人 東京出身

原 史奈(はら ふみな、1981年5月22日 - )は、日本の女優、タレント、元グラビアアイドル。愛称はハラフミ(名づけ親は内村光良)。東京都出身。スターダストプロモーション所属。 昭和女子大学附…

彩 イリス(あや いりす)
1989年5月22日生まれの有名人 東京出身

彩 イリス(あや いりす、1989年5月22日 - )は、スリーライズに所属していた元女性ファッションモデル、元レースクイーン。 旧芸名は「青山 イリス」(あおやま いりす)。フランス人と日本人のハ…

珠 めぐみ(たま めぐみ)
1950年5月22日生まれの有名人 東京出身

珠 めぐみ(たま めぐみ、1950年5月22日 - 2013年)は、日本の女優、歌手。 東京都新宿区出身。生前は松竹、東京俳優生活協同組合、蛭川企画に所属していた。東京都立鷺宮高等学校卒業。姪はタレ…

伊達 正隆(だて まさたか)
1971年5月22日生まれの有名人 東京出身

伊達 正隆(だて まさたか、1971年5月22日 - )は、NHKの元アナウンサー、ラジオプロデューサー、ディレクター。 東京都立戸山高等学校を経て早稲田大学卒業後、1995年入局。 アナウンス…

藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう)
1897年5月22日生まれの有名人 東京出身

藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年〈明治30年〉5月22日 - 1985年〈昭和60年〉2月22日)は、日本の政治家、実業家。 外務大臣、経済企画庁長官、衆議院議員(6期)、日本商工会…

立花 みほ子(たちばな みほこ)
1970年5月22日生まれの有名人 東京出身

立花 みほ子(たちばな みほこ、1970年5月22日 - )は、日本の女性声優。夫は声優の梁田清之。 東京都武蔵野市出身。玉川学園卒業。 学生時代は運動会では短距離で1位、高跳び、跳び箱など、記…

阪口 あや(さかぐち あや)
1959年5月22日生まれの有名人 東京出身

阪口 あや(さかぐち あや、本名:二川 文〈ふたがわ あや、旧姓阪口〉、1959年5月22日 - )は、日本の女性声優、歌手。所属事務所は大沢事務所。東京都出身。血液型はO型。学習院大学法学部卒業。 …

錦織 一清(にしきおり かずきよ)
1965年5月22日生まれの有名人 東京出身

錦織 一清(にしきおり かずきよ、1965年5月22日 - )は、日本のダンサー、歌手、俳優、声優、タレント、演出家。愛称は、「ニッキ」(古くからのジャニーズ事務所の仲間は「ニシキ」)。 東京都世田…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


中勘助と近い名前の人

田中 完(たなか かん)
1964年2月3日生まれの有名人 東京出身

田中 完(たなか かん、1964年2月3日 - )は、日本の舞台俳優、声優。81プロデュース所属。東京都中野区出身。 専修大学中退。 鈴置洋孝プロデュースの舞台に多数出演。鈴置洋孝追悼公演では『…

田中 寛一(たなか かんいち)
1882年1月20日生まれの有名人 岡山出身

田中 寛一(たなか かんいち、1882年(明治15年)1月20日 - 1962年(昭和37年)11月12日)は、日本の教育心理学者。文学博士。東京文理科大学名誉教授。日本の心理測定の先駆者。「田中ビネ…

田中 寛次(たなか かんじ)
1900年8月23日生まれの有名人 島根出身

8月23日生まれwiki情報なし(2024/06/26 05:01時点)

田中 誠人_(子役)(たなか まこと)
2011年12月3日生まれの有名人 出身

田中 誠人(たなか まこと、2010年〈平成22年〉8月25日- )は、日本のミュージカル俳優、声優、歌手、子役俳優である。劇団ひまわり所属。 趣味はピアノ、将棋、音読、ルービックキューブ5×5。…

田中 雅彦_(バドミントン選手)(たなか まさひこ)
1966年12月10日生まれの有名人 神奈川出身

田中 雅彦(たなか まさひこ、1966年12月10日 - )は、オーストリアのバドミントン選手。身長170 cm。右利き。神奈川県横浜市神奈川区出身。横浜市立松本中学校、神奈川県立鶴見高等学校、京都外…

田中 裕二_(ミュージシャン)(たなか ゆうじ)
1957年5月29日生まれの有名人 北海道出身

田中 裕二(たなか ゆうじ、1957年5月29日 - 2022年12月17日)は、日本のドラマー、ミュージシャンである。血液型はO型。 北海道旭川市出身。1977年からロックバンド『安全地帯』のメン…

田中 裕二_(お笑い芸人)(たなか ゆうじ)
【爆笑問題】
1965年1月10日生まれの有名人 東京出身

田中 裕二(たなか ゆうじ、1965年〈昭和40年〉1月10日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、随筆家、俳優、声優、歌手、アイドル。芸能事務所「タイタン」所属。お笑いコンビ・爆笑問題のツッコミ…

田中 直樹_(お笑い芸人)(たなか なおき)
【ココリコ】
1971年4月26日生まれの有名人 大阪出身

田中 直樹(たなか なおき、1971年〈昭和46年〉4月26日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、俳優。お笑いコンビ・ココリコのリーダーでボケ担当。相方は遠藤章造。大阪府豊中市庄内出身。吉本興業…

田中 直樹_(バレーボール)(たなか なおき)
1962年4月2日生まれの有名人 福岡出身

田中 直樹(たなか なおき、1962年4月2日 - )は、日本の男子元バレーボール選手。バレーボール全日本の選手。 福岡県北九州市出身。福岡県立直方高等学校、日本体育大学を経て、住友金属(本拠地:…

田中 理恵_(体操選手)(たなか りえ)
1987年6月11日生まれの有名人 和歌山出身

田中 理恵(たなか りえ、1987年6月11日 - )は、日本の元体操選手。元2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事。マネジメント所属は株式会社フィルブロード。 和歌山県…

田中 理恵_(声優)(たなか りえ)
1979年1月3日生まれの有名人 北海道出身

田中 理恵(たなか りえ、1979年1月3日 - )は、日本の女性声優、歌手。北海道札幌市南区出身。オフィスアネモネ所属。 小学校時代、学校から帰ってくると玄関にランドセルをそのままポイと置いて外…

田中 昭二_(物理学者)(たなか しょうじ)
1927年9月19日生まれの有名人 神奈川出身

田中 昭二(たなか しょうじ、1927年9月19日 - 2011年11月11日)は、日本の応用物理学者。東京大学名誉教授。国際超電導産業技術研究センター顧問。妻は「わいふ」編集長を務めた田中喜美子。 …

田中 さなえ(たなか さなえ)
1972年12月6日生まれの有名人 大阪出身

田中 さなえ(たなか さなえ、1972年12月6日 - )は、日本のタレント。旧芸名は田中 早苗(読み同じ)。 大阪府四條畷市出身。松竹芸能所属。 関西外国語大学短期大学部英米語学科在学中、学園…

田中 早苗_(アナウンサー)(たなか さなえ)
1970年10月5日生まれの有名人 鹿児島出身

田中 早苗(たなか さなえ、1970年10月5日 - )は、鹿児島放送 (KKB) のアナウンサー。鹿児島県鹿児島市出身。 鹿児島女子大学(現・志學館大学)を卒業後、1993年4月にKKBに入社。…

田中 幸雄_(内野手)(たなか ゆきお)
1967年12月14日生まれの有名人 宮崎出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 田中 幸雄(たなか ゆきお、1967年12月14日 - )は、宮崎県都城市出身の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投右打)・二軍監督・…

田中 幸雄_(投手)(たなか ゆきお)
1959年2月27日生まれの有名人 千葉出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 田中 幸雄(たなか ゆきお、1959年2月27日 - )は、千葉県流山市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 1986年から1…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
中勘助
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

からっと☆ ひめキュンフルーツ缶 Prizmmy☆ Silent Siren 乙女新党 LinQ 風男塾 CoverGirls 愛乙女★DOLL 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「中勘助」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました