仁志敏久の情報(にしとしひさ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
仁志 敏久さんについて調べます
■名前・氏名 |
仁志敏久と関係のある人
藤井将雄: この時のチームメイトに松中信彦、仁志敏久らがいる。 小坂誠: 1000安打:2006年4月15日、対横浜ベイスターズ5回戦(横浜スタジアム)、9回表に仁志敏久の代打で出場、木塚敦志から左中間二塁打 ※史上239人目 金澤健人: 1イニング4奪三振:2004年8月1日、対読売ジャイアンツ21回戦(阪神甲子園球場)、2回表に小久保裕紀(振り逃げ)・二岡智宏・佐藤宏志・仁志敏久から ※史上9人目(10度目・阪神の投手初) 鈴木尚広: 2003年、再び内野手(二塁手)に挑戦し、レギュラーの仁志敏久が故障しプレーに不安を見せると、二塁と外野を兼任し104試合に出場した。 内田順三: 巨人コーチ1期目には仁志敏久・清水隆行・高橋由伸・阿部慎之助など多くの打者を育て、特に阿部に対して、打撃と守備との切り替え、集中を諭して、その後の成長のもとを築いたという。 斎藤雅樹: この試合での150勝はお預けかと思われた矢先に当時新人の仁志敏久がサヨナラ本塁打を放ち、土壇場で150勝を達成した。 石川雄洋: 2009年は、開幕スタメンは逃すが、遊撃手のポジション争いをしていた藤田一也が仁志敏久の不調により二塁手に固定されたことで、レギュラーに定着。 吉田填一郎: また巨人時代の仁志敏久のことを「My敏久」と呼んでいた。 加藤武治: 初奪三振:2003年5月25日、対読売ジャイアンツ11回戦(横浜スタジアム)、9回表に仁志敏久から見逃し三振 青山道雄: 同年シーズン終了をもって二軍監督を勤めていた仁志敏久の退任が発表されたため、同年オフのみやざきフェニックス・リーグでは、青山が監督代行を務めた。 藤田一也: 2007年、読売ジャイアンツから移籍した仁志敏久が二塁のレギュラーに定着したことや、俊足内野手の野中信吾の台頭もあり、前年より出場機会を減らした。 江尻慎太郎: 6月1日の対巨人戦では6回1点リードというプロ初のホールド機会で登板し、6回を無失点に抑えたが、7回に連続安打から斉藤宜之の犠打を自身がエラーして無死満塁とし、仁志敏久の併殺打で同点に追いつかれて救援失敗した。 高村良嘉: 1996年は新人の仁志敏久の不調・三塁コンバート等で空いた二塁のポジションに、元木大介との併用でスタメン出場をするなど、自己最多の66試合に出場した。 野中信吾: 内野守備では仁志敏久を参考にしている。 清水隆行: また、同期入団の仁志敏久も新人ながら内野手レギュラーの座を掴んでおり、新人選手2人がレギュラーに定着するという年になった。 脇谷亮太: このシーズンは自己最多の132試合に出場し、初めて規定打席に到達(巨人の二塁手の規定打席到達選手は2005年の仁志敏久以来)。 小坂誠: 2006年の巨人は遊撃二岡智宏、二塁仁志敏久がいたが、小坂は開幕二塁手のスタメンを勝ち取り、この年はほとんど二塁で起用された。 金子誠: 同年のセントラル・リーグの新人王は、同じ常総学院のOBでもある仁志敏久だった。 清田育宏: 新人選手がポストシーズンで複数の本塁打を放ったのは読売ジャイアンツの長嶋茂雄、原辰徳、仁志敏久以来、4人目であり、パリーグでは初となった。 工藤公康: 翌年4月、同大学院人間総合科学研究科に仁志敏久・吉井理人とともに入学した。 ブレット=ハーパー: 2010年シーズン当初はアトランティックリーグに加盟するランカスター・バーンストーマーズ(当時の同僚に仁志敏久とライアン・マルハーンがいる)でプレーした。 内田順三: 「結果を出す二軍の教え」(KADOKAWA、2023年8月31日、ISBN 978-4-04-606492-9) - 小久保裕紀、仁志敏久、松元ユウイチ、木田優夫と共に解説。 堀内恒夫: 一番から仁志敏久、清水隆行、ローズ、高橋由伸、小久保、ペタジーニ、阿部慎之助、二岡智宏と続く「史上最強打線」はプロ野球記録のチーム259本塁打を記録した。 谷佳知: 背番号は仁志敏久が着用していた8に決まった。 小田嶋正邦: オフに仁志敏久+金銭とのトレードで読売ジャイアンツへ移籍。 木内幸男: 仁志敏久(早稲田大学→日本生命→読売ジャイアンツ→横浜、96年新人王) 石井琢朗: また、巨人から移籍した仁志敏久が1番打者に入ったことで、石井は2番打者を打つことが多くなる。 藤田一也: 二塁手・遊撃手・三塁手と複数ポジションをこなし、2013年5月には、テレビ番組で仁志敏久に「日本一守備がうまい選手」とその守備力を評されている。 岡崎郁: 1995年には二塁手としての起用が多くなるが、元木大介の成長や仁志敏久の入団などから出場機会が減少。 師岡正雄: 2007年12月21日放送の『松本ひでおのショウアップナイターネクスト』で、金曜パーソナリティ仁志敏久がKICK THE CAN CREW「クリスマス・イブRap」をリクエストした際、隣のスタジオにいた師岡はグループ名を「きくざわかんくろう」と聴き間違えてスタジオに乱入して俺でも出来ると豪語した。 |
仁志敏久の情報まとめ
仁志 敏久(にし としひさ)さんの誕生日は1971年10月4日です。茨城出身の野球選手のようです。
卒業、テレビ、引退に関する情報もありますね。今年の情報もありました。仁志敏久の現在の年齢は53歳のようです。
仁志敏久のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 仁志 敏久(にし としひさ、1971年10月4日 - )は、茨城県古河市出身の元プロ野球選手(内野手・右投右打)、野球指導者、体育学者。学位は体育学修士(筑波大学大学院・2016年)。江戸川大学客員教授。 常総学院高等学校では1年生からレギュラーを務め、エースの島田直也と共に活躍した。全国高等学校野球選手権大会に3年連続で出場し、1年時の第69回全国高等学校野球選手権大会では決勝でPL学園高等学校に敗退し準優勝。1988年の第70回大会では始球式打者として、当時の徳仁親王と対戦。高校通算28本塁打。 早稲田大学人間科学部に入学。野球部では大越基と同期入部となった。1年次からメンバー入りし、水口栄二が卒業後の2年から遊撃手に定着すると4年では主将としてチームを牽引し、東京六大学野球春季リーグでは早慶戦史上初のサヨナラ満塁本塁打を放つ(その試合では2本目の本塁打)などシーズン6本塁打を記録するなど活躍。自身は前年秋の早慶戦で優勝を逃すサヨナラ失策を犯している(併殺を焦ってゴロをファンブル)。秋季リーグでは監督の石井連藏に進言して選手だけでオーダーを作り、チームを優勝に導いた。明治神宮大会では高木浩之が先発し、河原純一にリレーした駒澤大学に決勝で敗れた。当たり出すと猛打賞だがノーヒットも多かった。リーグ通算79試合出場、280打数91安打、打率.325、11本塁打、40打点、27盗塁、ベストナイン3回。大学在学中の知己にフジテレビアナウンサーの佐野瑞樹がいる。 プロからの誘いもあったなかでオリンピックも視野に入れて、日本生命に進むが、遊撃手失格の烙印を押され三塁手に転向する。1995年の都市対抗野球では4番を打って、準々決勝では本塁打を放つが敗退。1995年のドラフト会議で読売ジャイアンツから2位指名(逆指名)を受けて入団。長年主砲として活躍し前年に引退した原辰徳の背番号「8」を与えられた。幼いころから原の大ファンで、入団時には少年時代に懸賞で原のサイン入りバットが当選した、というエピソードが紹介された。仁志は、当時野球評論家に就任して間もない原との対談でそのバットを見せながら「(プロ入り初打席は)このサイン入りバットで打ちたい」と発言していた(実際は使用しなかった)。プロ入り後に「巨人に入団して変わったことは」と聞かれ、「これまで「原」「原」と呼び捨てにしていたのが「原さん」に変わった」とコメントしている。 1996年、開幕当初は二塁手での起用だったが新外国人のジェフ・マントが開幕から一ヶ月で解雇されるなどがあり、シーズン途中から三塁手に定着。打率.270、7本塁打、24打点を記録し、巨人の野手では原辰徳以来15年ぶりのセ・リーグ新人王受賞。巨人の野手の新人王は2009年に松本哲也が受賞するまで10年以上現れなかった。同年の阪神戦で久慈照嘉のサードゴロをトンネルしサヨナラ失策をしてしまい悔しさで顔をしばらく上げられないほど落ち込んだが、それ以来守備の意識が高くなった。8月16日の対ヤクルト17回戦では延長12回二死無走者の打席で山本樹からサヨナラ本塁打を放った。日本シリーズではチームは1勝4敗で敗れて日本一を逃し、仁志自身もシリーズ最後の打者になったものの(鈴木平にレフトライナーで打ち取られて試合終了)、敢闘賞を受賞した。 1997年、二塁手に転向。7月19日の対ヤクルト戦では、巨人キラーの石井一久に対して、松井秀喜以外はすべて右打者を並べるという監督の長嶋茂雄の采配のために左翼手を守った(二塁が元木大介、三塁が石井浩郎)が、その試合で池山隆寛の高い飛球をランニング本塁打にしてしまい、その後二度と守ることはなかった(試合後、長嶋は自分の起用ミスのせいであると仁志を庇い、先発の斎藤雅樹に謝罪した)。同年は打率.242と前年より下がったが、10本塁打、39打点と本塁打と打点は前年より上がった。小柄な体格だったがコーチの土井正三の熱心な指導もありこれ以降二塁手としての評価を伸ばした。 1998年、106試合に出場し、打率.274、11本塁打、33打点を記録した。 1999年、6月25日の対広島東洋カープ(広島市民球場)でサイクル安打を達成した。シーズンでは打率.298を記録。また、守備面でも自身初のゴールデングラブ賞を受賞した。 2000年、7月11日の対広島戦(札幌市円山球場)では2回に高橋建から自身初の満塁本塁打を放った。シーズンでは打率.298、本塁打20本を記録。日本シリーズでは優秀選手賞も受賞。 2001年、自身初の全試合出場を果たした。20本塁打を放ち、自身初の盗塁20を記録した。二年連続20本塁打は記録したものの、仁志本人としては技術面の衰えを感じ始めていた。 2002年、原辰徳が監督に就任したこともあり、投手の左右を問わず安定した働きを見せていた清水隆行を1番に固定し、仁志を2番で起用する構想を打ち出す(原曰く「1番打者が2人いるような打線」を組もうとする構想)。仁志自身も前年から感じていた衰えを補うべく、ウエイトトレーニングを初めたところ身体のバランスを崩してしまい、打撃不振に陥った挙げ句に故障してしまい、二岡智宏が2番に起用された。復帰後は7・8番に定着し、規定打席には僅かに及ばなかったものの得点圏打率.320と活躍したほか、リーグ2位の22盗塁で盗塁成功率100パーセントを記録(盗塁数20以上での成功率100パーセントはセ・リーグ初)した。なお規定打席に到達しなかったのはプロ入り初である。日本シリーズでも日本一に貢献した。この年もゴールデングラブ賞を受賞したが、これで1999年から4年連続でゴールデングラブ賞を二塁手として受賞した。 2003年、一時は首位打者になるなど順調なスタートを切ったものの、ジョージ・アリアスの飛球を捕った元木大介に激突し、シーズン早々に故障した。この年の故障は打撃・守備・走塁に尾を引いてしまい欠場中や後半戦には俊足の鈴木尚広が起用されることも多かった。 2004年、監督が堀内恒夫に交代。再び1番打者を任され自己最多の28本塁打を記録(106得点はリーグ1位)。一方で盗塁3、盗塁死10と脚力は回復できず、オフにFA宣言し、スコット・ボラスと代理人契約を結んでメジャーリーグ移籍を目指したが、同時にメジャー挑戦を表明した井口資仁に注目が集まったためか手を挙げる球団がなく巨人に残留する。 2005年、1番打者としてスタートしたが、4月の不振からセ・パ交流戦直前に9番仁志、1番清水に配置転換を迫られる。その交流戦こそ12球団選手中打率4位の成績を残すもののセ・リーグ投手陣相手には苦しみ後半戦には若手の台頭で6・7番を担当。シーズンオフに千葉ロッテマリーンズから小坂誠が移籍し、更に原が監督復帰した。 2006年、2002年の清水・仁志の「ダブル1番構想」にこだわりをみせる。しかし不調のため小坂に開幕スタメンを奪われる。仁志と小坂は同様に1割台後半の不調に陥り、小坂が2番打者として優先的に使われ仁志起用時は7番・8番打者として使われることが多くなる。シーズン中盤に離脱した後は一軍に上がれず、手首も骨折した。64試合出場、打率.185、1本塁打、7打点、1盗塁と過去最低のシーズンとなった。 監督構想からも外れ、自らトレードを志願して球団も受け入れ、11月6日、小田嶋正邦+金銭とのトレードで横浜ベイスターズへ移籍。背番号は日本生命時代に着用していた「7」。 2007年、開幕から28試合連続出塁記録を樹立するなど序盤は首位打者争いを競いオールスターにも出場。序盤の横浜首位の原動力のひとつとなったもののチームも自身も後半失速。シーズン後半まで1番に座っていたが盗塁と四死球が少なかった。 2008年、ほとんどの試合で2番で出場。リーグ3位となる34犠打を記録した。2008年3月25日、祥伝社より『プロフェッショナル』というタイトルで自伝を出版した。原稿は仁志が原稿用紙に直筆で綴ったものである。 2009年、開幕を「2番・二塁手」でスタートしたが打率1割台と極度の不振に陥り、5月半ば以降は開幕当初は遊撃手であった藤田一也にレギュラーを奪われる。以降も休養を入れながらスタメン出場するも調子は上がらず、終わってみれば51試合の出場で打率.159、3打点、本塁打と盗塁はプロ入り後、初のゼロと自己最低の成績に終わった。極度の不振とチームの若手育成のため、2009年度限りでの退団、他球団でのプレーを希望した。オフに収録されたズームインサタデーのインタビューにおいてメジャーリーグ挑戦を表明した。 2010年、独立リーグのアトランティックリーグに加盟するランカスター・バーンストーマーズに入団、当時のチームメイトに、後に横浜ベイスターズへ入団するブレット・ハーパー、埼玉西武ライオンズに入団するライアン・マルハーンがいた。同年は、4月22日から31試合に出場し、打率.208、1本塁打、3打点の成績を残したが、右太もも痛の悪化により6月8日に現役を引退した。 帰国後の7月17日、横浜ベイスターズ対読売ジャイアンツ戦(横浜スタジアム)の試合前に引退セレモニーが行われた。 2010年9月、独立リーグサザンメリーランド・ブルークラブスの野手臨時コーチに就任。 2011年、フジテレビ『すぽると!』のレギュラー野球解説者を務める。また、同じフジテレビ系列の野球中継である『BASEBALL SPECIAL〜野球道〜』にもゲスト解説として出演。2011年の解説者としての仕事は専らフジテレビで行っていた。 2012年、文化放送の野球解説者にも就任。文化放送においては当初、週末の『ホームランナイター』を中心に出演し、『ライオンズナイター』にはあまり出演しなかった。そのため、前年まで仁志とほぼ同様の出演パターンであった豊田泰光の後任とみることもできた。豊田もかつてフジテレビと文化放送を兼任しており、フジテレビの出演は平日が多かったという点でも仁志と共通する。ただし、2013年ごろから両番組を同程度こなすことも多くなっており、豊田の出演パターンは駒田徳広や2016年から解説者に復帰した西本聖が担っている。 2013年7月、筑波大学大学院 人間総合科学研究科に合格したことを公表(同時期に工藤公康、吉井理人も合格している)。 2013年10月15日、「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」の日本代表内野守備・走塁コーチを務める。 2014年4月、筑波大学大学院 人間総合科学研究科で体育学を学ぶ。 2014年、野球日本代表(侍ジャパン)のU-12(小学生以下)監督に就任。同年8月の12Uアジア選手権では決勝まで進むがチャイニーズ・タイペイに3-7で敗れる。 2014年9月18日「2014 SUZUKI 日米野球」の日本代表内野守備・走塁コーチを務めることが発表された。 2015年2月6日「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」の日本代表内野守備・走塁コーチを務めることが発表された。 2015年7月16日「第1回WBSCプレミア12」の日本代表内野守備・走塁コーチを務めることが発表された。 2016年1月28日「侍ジャパン強化試合 日本 vs チャイニーズタイペイ」の日本代表内野守備・走塁コーチを務めることが発表された。 2016年3月25日、筑波大学大学院 人間総合科学研究科 体育学専攻を修了。 2016年10月18日、「侍ジャパン 野球オランダ代表 野球メキシコ代表 強化試合」の日本代表内野守備・走塁コーチを務めることが発表された。 2017年1月28日「第4回WBC」の日本代表内野守備・走塁コーチを務めることが発表された。 2018年4月23日「第2回 WBSC U-23ワールドカップ」の日本代表コーチを務めることが発表された。 2020年、江戸川大学社会学部経営社会学科の客員教授に就任。 2021年、横浜DeNAベイスターズの二軍監督に就任することが2020年11月18日に正式発表された。背番号は87(巨人時代の背番号8と、横浜時代の背番号7を組み合わせた番号である)。2021年1月13日、文化放送の「斉藤一美 ニュースワイド SAKIDORI! OVERTIME」にリモート出演した際に、10年に引退してから11年目、初めてプロ野球の指導者としてユニホームを着るが、DeNAから声を掛けられたのは「はっきりとは言えませんがずいぶん前からです。皆さんが想像されているよりは前ですね」と語り、これまでにも同じく古巣の巨人から「過去にはそんな話をしていただいたこともある」と明かした。しかし「こちら側のタイミングとか、チームのコンセプトとかを聞いてからでないと就けないなと思っていたので」とし、コロナ禍にある同年だったが「自分がやってきたことがようやく整ってきて、準備が万端になったのが今だった」とユニホームを着る決断をしたと語り、理想の監督像としては、母校・常総学院の恩師の木内幸男を挙げた。 2023年限りで横浜DeNAベイスターズの二軍監督を退団。 2024年からはフジテレビ・TBSチャンネル・J SPORTS・文化放送の野球解説者に復帰。同年11月に開催予定のU12アジア野球選手権の監督に就任。 2025年1月1日付で埼玉西武ライオンズの野手チーフ兼打撃コーチに就任。背番号は78。 ズームイン!!サタデーのスポーツコーナーでは、ジャイアンツ時代から政治や他のスポーツでの深い話を語る「雑学キャラ」となっている。ベイスターズ移籍後もこの番組にはよく出演しており(このためコーナー担当の宮本和知は、仁志の移籍後はジャイアンツ対ベイスターズ戦が行われる日に取材を優先する傾向がある)、2007年11月10日放送分ではスポーツコーナーを完全に独占された。なお、プロ野球選手といえど引退後の人生設計まで考えて、社会に出る前に「社会性」ということはどこかで学ばなければならないという考えを持つ。 1988年の昭和最後の全国高校野球大会では、浩宮徳仁親王(2019年5月1日より、今上天皇・元号「令和」)が始球式を務め、その際の打者となった。 各年度の太字はリーグ最高 太字年はゴールデングラブ賞受賞年 新人王(1996年) ゴールデングラブ賞:4回(1999年 - 2002年) 日本シリーズ敢闘賞:1回(1996年) 日本シリーズ優秀選手賞:1回(2000年) オールスターゲーム優秀選手賞:1回(1998年第2戦) 東京ドームMVP:1回(2000年) 出身地別東西対抗戦優秀選手:1回(2000年) 初出場・初先発出場:1996年4月5日、対阪神タイガース1回戦(東京ドーム)、1番・二塁手として先発出場、5打数3安打 初打席・初安打:同上、1回裏に藪恵壹から中前安打 初得点・同上、三走として落合博満の適時二塁打で生還 初盗塁:同上、2回裏に二盗(投手:藪恵壹、捕手:関川浩一) 初打点:1996年5月25日、対広島東洋カープ8回戦(広島市民球場)、4回表に大野豊から中越適時二塁打 初本塁打:1996年6月19日、対中日ドラゴンズ10回戦(ナゴヤ球場)、6回表に今中慎二から 1000本安打:2004年5月2日、対広島東洋カープ6回戦(東京ドーム)、1回裏にジョン・ベイルから右中間へ二塁打 ※史上216人目 100本塁打:2004年5月9日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)、1回表にジョン・ベイルから左越先頭打者本塁打 ※史上231人目 1000試合出場:2004年6月4日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、1番・二塁手として先発出場 ※史上393人目 1500本安打:2008年6月4日、対埼玉西武ライオンズ2回戦(西武ドーム)、8回表に岡本真也から中前安打 ※史上96人目 150本塁打:2008年7月17日、対広島東洋カープ14回戦(横浜スタジアム)、6回裏に梅津智弘から左越3ラン ※史上149人目 1500試合出場:2008年7月25日、対広島東洋カープ15回戦(広島市民球場)、2番・二塁手として先発出場 ※史上161人目 1試合5三振:2005年4月16日、対ヤクルトスワローズ2回戦(明治神宮野球場) ※史上11人目(セ・リーグ史上7人目) サイクル安打:1999年6月25日、対広島東洋カープ11回戦(広島市民球場) ※史上50人目 通算初回先頭打者本塁打:24本(表9本、裏15本) ※歴代7位 シーズン初回先頭打者本塁打:7本(2004年) ※歴代7位タイ シーズン盗塁成功率100%(2002年) ※20盗塁以上でのシーズン盗塁成功率100%は、セ・リーグでは史上初 オールスターゲーム出場:5回(1998年、2000年、2001年、2004年、2007年) 8(1996年 - 2006年) 7(2007年 - 2009年) 87(2013年 - 2023年) 78(2025年 - ) 2015 WBSCプレミア12 日本代表 「Walk This Way」Run-DMC(2001年) 「Born To Run」Bruce Springsteen(2002年) 「Departures」ノーフィアー入場曲(2003年) 「HYSTERIC」丸藤正道入場曲(2004年) 「Early This Morning」JAY-Z(2005年) 「99 Problems」JAY-Z(2005年) 「Love, Peace & Soul」SOUL'd OUT(2006年) 「Eye Of The Youngin」Fabolous vs Survivor(2007年) 「GRAND SWORD」小橋建太入場曲(2008年) 「What You Know」T.I.(2009年、KENTA入場曲) 「スパルタンX」三沢光晴入場曲(2009年) 松本ひでおと仁志敏久のショウアップナイターネクスト!(ニッポン放送) - 2007年10月から2008年3月まで金曜日に出演。 すぽると!(フジテレビ、2011年 - ) 野球道 (フジテレビ系列)(同上) 文化放送ライオンズナイター(2012年 - ) 文化放送ホームランナイター(同上) FOX SPORTS ジャパン 「BASEBALL CENTER」(FOX bs238、2013年 - ) 仁志敏久から学ぶ 野球の基礎・基本 - 2012年12月17日より連載開始 ライオンのグータッチ(フジテレビ)グータッチサポーター 熱視線 KHBスーパーベースボール(東日本放送、2018年6月9日) - 「広島 × 東北楽天」解説 グラゼニ(2018、本人(プロ野球解説者)役) - アニメ版第9話に声のみカメオ出演 『プロフェッショナル』(祥伝社、2008年4月発行) ISBN 978-4-396-11107-6 『反骨』(双葉社、2010年5月発行) ISBN 978-4-575-30215-8 『わが心の木内野球』(ベースボール・マガジン社、2011年7月発行) ISBN 978-4-583-10393-8 プロ野球スピリッツシリーズ(コナミデジタルエンタテインメント) - いずれも解説として声の出演
プロ野球スピリッツ2014 プロ野球スピリッツ2015 プロ野球スピリッツA プロ野球スピリッツ2019 eBASEBALLプロ野球スピリッツ2021 グランドスラム ^ 「第11回 BFA U12アジア野球選手権」が2020年11月から2024年に開催延期されたため2020年までの任期。 ^ なお、仁志の受賞により、巨人の背番号「8」を付けた新人選手は、3人連続して受賞(高田繁・原辰徳)されることとなった。 ^ 仁志 敏久 全世代侍ジャパン選手リスト 野球日本代表侍ジャパンオフィシャルサイト 2024年6月5日閲覧。 ^ 「仁志敏久 客員教授」学校法人江戸川学園 江戸川大学、2020年4月1日。2021年6月1日閲覧。 ^ 「巨人に“不動の正二塁手”が出てこない理由 仁志敏久氏が語る「育てる難しさ」」『スポーツナビ』Yahoo! JAPAN、2013年6月14日、1頁。2016年12月18日閲覧。 ^ ベースボールレコードブック1997 ^ 「斎藤熱投150勝 延長12回 仁志劇的サヨナラ弾」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1996年(平成8年)8月17日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「巨人・仁志がサイクル安打達成」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)6月26日付朝刊、19面(スポーツ面)。 ^ 「仁志、初の満塁アーチ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2000年(平成12年)7月12日付朝刊、23面(スポーツ面)。 ^ 【衝撃】え、そんなに前から辞めることを意識してた!?なぜ仁志敏久さんは巨人を退団したのか?【2022年DeNAの展望も】【名手再会SP ⑤/5】【横浜巨人】 上原浩治の雑談魂 YouTube 2022年3月11日 ^ 「お疲れさま…仁志氏に巨人&横浜ファンが大拍手球」『スポーツニッポン』2010年7月17日。2024年4月21日閲覧。 ^ 「仁志氏が9月から1カ月米へコーチ留学 - MLBニュース」『日刊スポーツ』2010年8月27日。2020年11月19日閲覧。 ^ 「小久保ジャパン 仁志、矢野、立浪の3氏が入閣へ 世界一奪還へ若返り」『スポーツニッポン』2013年10月10日。2024年4月21日閲覧。 ^ 「12U代表監督に仁志敏久氏が就任、インターネット上での「全日本合同トライアウト」を実施」『野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト』2014年6月24日。2024年4月21日閲覧。 ^ 「侍ジャパン12U代表 チャイニーズ・タイペイに惜敗し準優勝」『野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト』2014年8月31日。2024年4月21日閲覧。 ^ 「「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」コーチングスタッフについて」『野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト』2015年2月6日。2024年4月21日閲覧。 ^ 「トップチーム、WBSC世界野球プレミア12へ向けて、コーチ陣を発表!」『野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト』2015年7月16日。2024年4月21日閲覧。 ^ 「侍ジャパン強化試合「日本vsチャイニーズ・タイペイ」コーチングスタッフ発表!」『野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト』2016年1月28日。2024年4月21日閲覧。 ^ 本学学群を卒業するトップアスリートによる記者会見および大学院を修了する元プロ野球選手による記者会見 ^ 「11月に東京ドームで開催する侍ジャパン強化試合に出場する選手28名が決定」『野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト』2016年10月18日。2024年4月21日閲覧。 ^ 「仁志敏久新ファーム監督就任のお知らせ」『横浜DeNAベイスターズ オフィシャルホームページ』2020年11月18日。2020年11月18日閲覧。 ^ 「DeNA・仁志2軍監督 理想の監督像は母校・常総学院の木内氏、ソフトBの強さとの共通点指摘 | スポーツニッポン」『スポーツニッポン』2021年1月13日。2021年1月13日閲覧。 ^ 「【DeNA】仁志敏久2軍監督、大家友和2軍投手コーチの今季限りでの退団を発表」『スポーツ報知』2023年10月3日。2023年10月11日閲覧。 ^ 侍ジャパンU-12代表監督・投手コーチ決定およびデジタルチャレンジの実施について 野球日本代表侍ジャパンオフィシャルサイト (2024年6月5日) 2024年6月5日閲覧。 ^ “人事異動ならびにコーチングスタッフに関するお知らせ”. 埼玉西武ライオンズ (2024年10月22日). 2024年10月22日閲覧。 茨城県出身の人物一覧 早稲田大学の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 仁志敏久 オフィシャルサイト 個人年度別成績 仁志敏久 - NPB.jp 日本野球機構 選手の通算成績と情報 The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register) 選手名鑑 - 横浜DeNAベイスターズ公式サイト - Internet Archive 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE
表 話 編 歴 74 西口文也 91 鳥越裕介(ヘッド) 81 豊田清(投手チーフ) 95 大石達也(投手) 96 中田祥多(バッテリー) 78 仁志敏久(野手チーフ兼打撃) 83 立花義家(打撃) 80 大引啓次(内野守備走塁) 84 熊代聖人(外野守備走塁) 79 小関竜也(監督) 72 土肥義弘(投手総合) 98 渡辺智男(投手) 93 青木勇人(投手) 85 榎田大樹(投手) 82 野田浩輔(二軍バッテリー) 87 黒田哲史(二軍野手) 77 辻竜太郎(二軍野手) 86 赤田将吾(二軍野手) 88 大島裕行(二軍野手) 97 青木智史(三軍総合) 76 田辺徳雄(三軍野手) 94 鬼﨑裕司(三軍野手) 89 木村文紀(三軍野手) 11 上田大河 12 渡邉勇太朗 13 髙橋光成 14 増田達至 15 與座海人 16 隅田知一郎 17 松本航 19 佐藤隼輔 20 田村伊知郎 21 武内夏暉 23 糸川亮太 25 平井克典 29 青山美夏人 34 甲斐野央 36 山田陽翔 40 浜屋将太 41 成田晴風 42 ボー 43 羽田慎之介 45 本田圭佑 47 杉山遙希 48 今井達也 54 アブレイユ 56 宮澤太成 57 黒田将矢 58 中村祐太 59 大曲錬 61 平良海馬 69 水上由伸 70 豆田泰志 71 菅井信也 2 岡田雅利 22 古賀悠斗 27 炭谷銀仁朗 37 柘植世那 38 野田海人 53 牧野翔矢 65 古市尊 0 児玉亮涼 4 山野辺翔 5 外崎修汰 6 源田壮亮 8 渡部健人 10 佐藤龍世 30 元山飛優 31 平沼翔太 32 山村崇嘉 50 髙松渡 52 陽川尚将 60 中村剛也 62 滝澤夏央 66 ブランドン 67 野村大樹 99 村田怜音 1 栗山巧 7 金子侑司 9 蛭間拓哉 33 古川雄大 35 松原聖弥 46 鈴木将平 51 西川愛也 63 長谷川信哉 68 岸潤一郎 73 高木渉 75 奥村光一 ガルシア 114 上間永遠 115 佐々木健 116 ロペス 120 井上広輝 121 三浦大輝 125 シンクレア 127 森脇亮介 129 川下将勲 131 木瀬翔太 122 是澤涼輔 118 野村和輝 126 谷口朝陽 130 金子功児 134 川野涼多 119 モンテル 135 仲三河優太 表 話 編 歴 1953 簑原宏 1954 大下弘 1955 戸川一郎 1956 稲尾和久 1957 宮本敏雄 1958 藤田元司 1959 土屋正孝 1960 田宮謙次郎 1961 J.スタンカ 1962 吉田義男 1963 稲尾和久 1964 山内一弘 1965 森下整鎮 1966 渡辺泰輔 1967 足立光宏 1968 長池徳二 1969 長池徳二 1970 井石礼司 1971 山田久志 1972 足立光宏 1973 野村克也 1974 高木守道 1975 山本浩二 1976 柴田勲 1977 河埜和正 1978 足立光宏 1979 井本隆 1980 小川亨 1981 井上弘昭 1982 上川誠二 1983 西本聖 1984 山沖之彦 1985 石毛宏典 1986 達川光男 1987 篠塚利夫 1988 宇野勝 1989 新井宏昌 1990 岡崎郁 1991 川口和久 1992 岡林洋一 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 小林宏 1996 仁志敏久 1997 松井稼頭央 1998 大塚光二 1999 川上憲伸 2000 城島健司 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 金本知憲 2004 井上一樹 2005 矢野輝弘 2006 川上憲伸 2007 ダルビッシュ有 2008 A.ラミレス 2009 髙橋信二 2010 和田一浩 2011 吉見一起 2012 稲葉篤紀 2013 長野久義 2014 R.メッセンジャー 2015 山田哲人 2016 B.エルドレッド 2017 宮﨑敏郎 2018 鈴木誠也 2019 亀井善行 2020 戸郷翔征 2021 山本由伸 2022 J.オスナ 2023 紅林弘太郎 2024 今宮健太 表 話 編 歴 1957 豊田泰光 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 近藤和彦 1961 塩原明 1962 岩下光一 1963 王貞治 1964 K.ハドリ 1965 林俊彦 1966 長嶋茂雄 1967 D.スペンサー 1968 柴田勲 1969 足立光宏 1970 黒江透修 1971 黒江透修 1972 長嶋茂雄 1973 高田繁 1974 山崎裕之 1975 中沢伸二, 外木場義郎 1976 B.ウイリアムス 1977 福本豊 1978 若松勉 1979 水谷実雄 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 佐藤孝夫 1953 権藤正利 1954 広岡達朗 1955 西村一孔 1956 秋山登 1957 藤田元司 1958 長嶋茂雄 1959 桑田武 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 城之内邦雄 1964 高橋重行 1966 堀内恒夫 1967 武上四郎 1968 高田繁 1969 田淵幸一 1970 谷沢健一 1971 関本四十四 1972 安田猛 1974 藤波行雄 1976 田尾安志 1977 斉藤明雄 1978 角三男 1979 藤沢公也 1980 岡田彰布 1981 原辰徳 1982 津田恒美 1983 槙原寛己 1984 小早川毅彦 1985 川端順 1986 長冨浩志 1987 荒井幸雄 1988 立浪和義 1989 笘篠賢治 1990 与田剛 1991 森田幸一 1992 久慈照嘉 1993 伊藤智仁 1994 藪恵市 1995 山内泰幸 1996 仁志敏久 1997 澤﨑俊和 1998 川上憲伸 1999 上原浩治 2000 金城龍彦 2001 赤星憲広 2002 石川雅規 2003 木佐貫洋 2004 川島亮 2005 青木宣親 2006 梵英心 2007 上園啓史 2008 山口鉄也 2009 松本哲也 2010 長野久義 2011 澤村拓一 2012 野村祐輔 2013 小川泰弘 2014 大瀬良大地 2015 山﨑康晃 2016 髙山俊 2017 京田陽太 2018 東克樹 2019 村上宗隆 2020 森下暢仁 2021 栗林良吏 2022 大勢 2023 村上頌樹 表 話 編 歴 1972 J.シピン 1973 J.シピン 1974 高木守道 1975 大下剛史 1976 D.ジョンソン 1977 高木守道 1978 土井正三 1979 高木守道 1980 基満男 1981 篠塚利夫 1982 篠塚利夫 1983 高木豊 1984 篠塚利夫 1985 岡田彰布 1986 篠塚利夫 1987 正田耕三 1988 正田耕三 1989 正田耕三 1990 正田耕三 1991 正田耕三 1992 和田豊 1993 和田豊 1994 和田豊 1995 立浪和義 1996 立浪和義 1997 立浪和義 1998 R.ローズ 1999 仁志敏久 2000 仁志敏久 2001 仁志敏久 2002 仁志敏久 2003 今岡誠 2004 荒木雅博 2005 荒木雅博 2006 荒木雅博 2007 荒木雅博 2008 荒木雅博 2009 荒木雅博 2010 平野恵一 2011 平野恵一 2012 田中浩康 2013 菊池涼介 2014 菊池涼介 2015 菊池涼介 2016 菊池涼介 2017 菊池涼介 2018 菊池涼介 2019 菊池涼介 2020 菊池涼介 2021 菊池涼介 2022 菊池涼介 2023 中野拓夢 2024 吉川尚輝 表 話 編 歴 太田誠 鈴木三好 中尾卓一 原貢 大西敏文 木村龍治 佐々木善丈 鶴田泰 門奈哲寛 関根裕之 河原純一 渡辺秀一 田口昌徳 一鍬田学 柳沢裕一 印出順彦 神野純一 渡辺峰雄 上茂雄 小田裕剛 小久保裕紀 高田義宜 仁志敏久 天野義明 伊礼忠彦 杉村昭 真中満 竹間容祐 今田康博 表 話 編 歴 川島勝司 井尻陽久 山本清春 伊藤義博 杉浦正則 高橋建 山部太 米正秀 渡辺秀一 川村丈夫 織田淳哉 田嶋大三 大久保秀昭 柳沢裕一 谷口英功 旗手浩二 松本尚樹 小久保裕紀 十河章浩 仁志敏久 高林孝行 梶田茂生 佐藤友昭 大野倫 表 話 編 歴 川島勝司 垣野多鶴 大田垣耕造 杉浦正則 豊田次郎 藤井政夫 森昌彦 大塔正明 小野仁 澤田和基 大久保秀昭 佐伯稔 髙木大成 松中信彦 松本尚樹 福留敏雄 仁志敏久 藤嶺典優 筒井壮 佐藤友昭 高林孝行 中村大伸 山田正浩 表 話 編 歴 30 川島勝司 31 垣野多鶴 32 大田垣耕造 33 井尻陽久 11 河原純一 14 川尻哲郎 15 山内泰幸 16 大塔正明 17 前田克也 18 松嶋隆進 19 杉浦正則 9 大久保秀昭 21 黒須隆 22 髙木大成 1 松本尚樹 2 原井和也 3 谷口英功 4 仁志敏久 5 徳永耕治 6 十河章浩 10 若林重喜 20 中村豊 23 中村大伸 24 高林孝行 25 佐藤友昭 26 重東俊吾 表 話 編 歴 川島勝司 垣野多鶴 大田垣耕造 井尻陽久 森昌彦 杉浦正則 木村重太郎 須合哲哉 舩木聖士 小野仁 倉野信次 大久保秀昭 黒須隆 髙木大成 西郷泰之 松中信彦 松本尚樹 仁志敏久 今岡誠 井口忠仁 中村大伸 高林孝行 佐藤友昭 谷佳知 表 話 編 歴 90 小久保裕紀 73 奈良原浩(ヘッド) 79 大西崇之(外野守備・走塁) 80 稲葉篤紀(打撃) 87 仁志敏久(内野守備・走塁) 88 矢野燿大(バッテリー) 89 鹿取義隆(投手) 10 松井裕樹 11 菅野智之 14 則本昂大 15 澤村拓一 16 大谷翔平 18 前田健太 19 増井浩俊 21 西勇輝 22 大野雄大 24 山﨑康晃 29 小川泰弘 30 武田翔太 35 牧田和久 27 炭谷銀仁朗 37 嶋基宏 52 中村悠平 2 今宮健太 3 松田宣浩 5 川端慎吾 6 坂本勇人 9 中島卓也 13 中田翔 23 山田哲人 60 中村剛也 7 中村晃 8 平田良介 25 筒香嘉智 55 秋山翔吾 表 話 編 歴 90 小久保裕紀 73 奈良原浩(ヘッド) 72 権藤博(投手) 80 稲葉篤紀(打撃) 87 仁志敏久(内野守備・走塁) 79 大西崇之(外野守備・走塁) 84 村田善則(バッテリー) 10 松井裕樹 11 菅野智之 12 秋吉亮 14 則本昂大 15 宮西尚生 17 藤浪晋太郎 19 増井浩俊 20 石川歩 30 武田翔太 34 岡田俊哉 35 牧田和久 41 千賀滉大 66 平野佳寿 9 炭谷銀仁朗 22 小林誠司 27 大野奨太 2 田中広輔 3 松田宣浩 4 菊池涼介 6 坂本勇人 13 中田翔 23 山田哲人 1 内川聖一 7 青木宣親 8 平田良介 25 筒香嘉智 51 鈴木誠也 55 秋山翔吾 表 話 編 歴 1位:原俊介 2位:仁志敏久(逆指名) 3位:清水隆行 4位:大場豊千 5位:大野倫 6位:小林聡 ISNI VIAF 日本 CiNii Books CiNii Research この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 日本の野球選手 常総学院高等学校出身の野球選手 早稲田大学野球部の選手 日本生命硬式野球部の選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 埼玉西武ライオンズ関連人物 ランカスター・バーンストーマーズの選手 セントラル・リーグ最優秀新人 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 アジア競技大会野球日本代表選手 日本のアジア競技大会金メダリスト 日米大学野球選手権大会日本代表選手 日本の野球監督 野球解説者 筑波大学出身の人物 修士(体育学)取得者 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2024/11/22 00:31更新
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nishi toshihisa
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