二岡智宏の情報(におかともひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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二岡智宏と関係のある人
稲田直人: 後にプロでチームメイトになる3学年上の二岡智宏が骨折しても尚、監督に叱られながらブルペンで投げ続ける姿に衝撃を受け、広陵高校に入学を決意する。 阿部慎之助: 2021年も引き続き二軍監督を務めたが、二軍公式戦全日程終了後の10月5日から一軍作戦コーチに配置転換された(二軍監督代行は三軍監督の二岡智宏が務めた)。 篠塚和典: コーチ時代には、高橋由伸、阿部慎之助、二岡智宏、坂本勇人、亀井義行、長野久義らの選手が育っていったがいずれも打率が良く、スランプ時の指導などをしていた。 長嶋茂雄: 1999年は大物ルーキー上原浩治が20勝を挙げ、同じく新人の二岡智宏も遊撃に定着、2年目の高橋は3割30本を記録するなど若手が活躍したが、桑田や斎藤、ガルベスのベテラン投手陣に衰えが目立ち、シーズン終盤にこの年好調だった高橋が故障で離脱。 河端龍: 初奪三振:同上、3回裏に二岡智宏から空振り三振 武豊: 2006年と2023年には阪神甲子園球場で阪神-巨人戦の始球式を務めた(2006年の際はディープインパクトの主戦騎手だったため金子真人ホールディングスの勝負服で登場、打者は二岡智宏)ほか、試合のテレビ中継のゲストとして出演した経験もある。 小坂誠: 2006年の巨人は遊撃二岡智宏、二塁仁志敏久がいたが、小坂は開幕二塁手のスタメンを勝ち取り、この年はほとんど二塁で起用された。 トレイ=ムーア: 初奪三振:同上、1回裏に二岡智宏から空振り三振 中井哲之: 二岡智宏(元北海道日本ハムファイターズ) 山川穂高: 4月13日、古巣・西武戦では、2006年の二岡智宏以来となる2打席連続の満塁本塁打を記録した。 宮本洋二郎: 1998年のドラフトで地元広島出身の大型内野手の二岡智宏の指名を逃したが、奇しくも同年の11月27日、オリックススカウトの三輪田勝利(大学の後輩)が自殺する事件が起きており、ひどく憔悴しきった宮本の様子を見かねた妻は、しばらくの間、宮本がどこに行くにも付き添ってきたという。 黒田哲史: 2006年、原辰徳が監督に復帰すると、チームは千葉ロッテマリーンズから小坂誠と、北海道日本ハムファイターズから古城茂幸、またシーズン中には広島東洋カープから木村拓也をそれぞれトレードで獲得し、内野守備の充実を図り、また正遊撃手の二岡智宏がフル出場を果たした他、ルーキーの脇谷亮太の台頭などに押し出される形で活躍の機会を失い、夏場以降は一軍での出場はなかった。 内星龍: 父は元アマチュア野球の選手であり、近畿大学時代には二岡智宏とプレーし、社会人野球のヤマハでは外野手としてドラフト候補にも挙がったことがある。 エディ=ギャラード: しかし、9月24日に東京ドームで開催された読売ジャイアンツ(巨人)27回戦(最終戦)では、リーグ優勝へのマジックを1としていた巨人打線を相手に4対0(4点リード)の9回裏から登板するも、江藤智に同点満塁本塁打を打たれ、続く二岡智宏にはサヨナラ優勝決定本塁打を打たれて敗戦投手となった。 川相昌弘: 1999年には大型遊撃手の二岡智宏の加入により出場機会は減少したものの、守備要員・バント要員で依然チームに欠かせない存在だった。 出口雄大: 5月に一度一軍に上がったものの、5月19日の福岡ドームでの古巣・巨人戦における右翼守備で、二岡智宏の打球にダイビングキャッチを試みた際、ボールを蹴ってランニングホームランにしてしまうという失態を犯してしまい、9月まで一軍には呼ばれなかった。 元木大介: 2000年9月24日の中日ドラゴンズ戦(東京ドーム)で「2番・左翼手」として先発出場し、8回まで被安打5・無四球無失点と、好投を続けていた前田幸長からライト前ヒットで出塁、2番手エディ・ギャラードから江藤智が同点満塁弾、二岡智宏がサヨナラ本塁打を放ち、巨人が4年ぶりにリーグ優勝を決定する口火を切った。 佐藤宏志: 同年秋の明治神宮大会準決勝は、前年の大学選手権決勝と同じ相手、宇高伸次投手や二岡智宏らの4年生擁する近畿大を下し、決勝の東北福祉大戦では先発し優勝を果たした。 武藤茉里奈: 用稲千春(元東日本放送アナウンサー→元セント・フォース、元フリーアナウンサー、二岡智宏の妻) 金澤健人: 1イニング4奪三振:2004年8月1日、対読売ジャイアンツ21回戦(阪神甲子園球場)、2回表に小久保裕紀(振り逃げ)・二岡智宏・佐藤宏志・仁志敏久から ※史上9人目(10度目・阪神の投手初) 工藤隆人: シーズン終了後の11月14日、二岡智宏・林昌範との交換トレードにより、マイケル中村とともに読売ジャイアンツに移籍。 山村路直: 九州共立大学1年時の1997年秋、明治神宮大会で当時アマチュア球界最強を誇った3年二岡智宏擁する近畿大(この大会で優勝)を相手に好投し注目を集めた。 仁部智: 初奪三振:同上、7回表に二岡智宏から見逃し三振 坂本勇人: 開幕戦で二岡智宏が負傷した影響もありその後は遊撃手としてスタメン出場を続けたが、夏場には打率が2割2分台にまでさがり、代打を出されることも増えたものの、二岡の復帰後も遊撃手の位置を譲ることはなく全試合スタメン出場を果たした。 長坂秀樹: 1年時から頭角を現し、2年時の全日本大学野球選手権大会決勝で4年二岡智宏擁する近畿大に3-4で惜敗したものの準優勝。 木佐貫洋: 2006年1月に二岡智宏とともに奄美大島での小久保裕紀・斉藤和巳の自主トレに同行。 マイケル中村: 2009年も引き続き守護神として活躍するかと思われたが、11月6日に右の強打者と左の中継ぎを求めていた日本ハムの球団事情により、二岡智宏・林昌範との交換トレードで工藤隆人とともに読売ジャイアンツへ移籍。 乾真大: 2019年、富山の新監督に就任した二岡智宏からの要望を受け、投手コーチを兼任する。 福原忍: 二岡智宏とは小学校から広陵高校まで同窓で、小学校では4度クラスメイトになった。 藤井彰人: 進学先の近畿大学では、まだ内野手への未練を残していたが、同学年の内野手には二岡智宏がいて、さらに1学年下に山下勝充もいたため、捕手に専念することになった。 |
二岡智宏の情報まとめ
二岡 智宏(におか ともひろ)さんの誕生日は1976年4月29日です。広島出身の野球選手のようです。
事故、母親、父親、卒業、結婚、引退、テレビ、趣味に関する情報もありますね。今年の情報もありました。二岡智宏の現在の年齢は48歳のようです。
二岡智宏のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 二岡 智宏(におか ともひろ、1976年4月29日 - )は、広島県三次市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、プロ野球コーチ。 2024年シーズンから、読売ジャイアンツのヘッド兼打撃チーフコーチを務める。 広島県三次市出身。同じプロ野球選手の福原忍と小学校から高校(広陵高等学校)まで同窓であり、中学校までは二岡がエースだった。 1993年(広陵高校2年生時)の秋、翌1994年春の選抜高校野球大会の実質的な予選となる広島県秋季大会に選手として出場。10月2日に行われた同大会の準決勝を応援に向かった両親が交通事故に遭う。二岡は準決勝終了後に、母親は無事だったが父親が意識不明であることを知らされる。当日夜は病院で父に付き添い、10月3日の決勝へ臨むこととなった(この頃「自分の責任ではないか」とも思えていたという。)。決勝は広島商業と対戦し、9回裏二死まで8-0とリード、福原が完封目前だったが中井哲之監督の配慮で二岡が登板、3球三振で試合を決めた。父親は10月7日に他界。この経験からプロ入り後、親が交通事故に遭った小・中学生を試合に招待する活動を行うことになる(後述)。 1994年(同高校3年生時)には福原との二枚エース兼三塁手のレギュラーとなる。この年の広陵高校は全国高等学校野球選手権広島大会の優勝候補筆頭であったが、3回戦で新井貴浩のいた広島工業高校に敗れた。高校卒業時にプロからの誘いもあったが、元々進学希望であったのでこれを断り、近畿大学に進学。なお、実兄も広陵高校野球部に所属し、1991年の第63回選抜高等学校野球大会の優勝メンバーだった。 進学した近畿大学では1年生時からレギュラーとなる。7季連続ベストナイン、関西学生リーグ通算91試合に出場し、打率.324、13本塁打、70打点、114安打を記録し、宇高伸次や1年上の清水章夫両投手、藤井彰人捕手らと共に大学日本一など多くのタイトルを獲得。1997年には春・秋のリーグ戦、大学選手権、明治神宮野球大会、社会人野球日本選手権優勝チームとのアマ王座決定戦の全てで優勝し、史上初のアマチュア5冠達成の原動力となった。同年8月にはIBAFインターコンチネンタルカップに日本代表として出場、優勝メンバーの一員となる。 1998年のドラフトでは、二岡の獲得を巡って地元球団の広島東洋カープのほか、阪神タイガース、読売ジャイアンツ(巨人)が争うこととなった。広島は地元出身の二岡を高校時代から評価しており、同年春の段階で希望入団枠制度枠(希望枠)による獲得を目指すことを早々に公表、また希望枠による選手獲得は二岡以外には行わない姿勢を見せた。阪神も二岡が地元関西の近畿大学在学とあって同年春に1位指名を表明したものの、一時は全国高等学校野球選手権大会で大活躍した松坂大輔指名に傾くなど迷いを見せ、秋になって再度、二岡指名を表明した。 広島スカウトの宮本洋二郎は、近畿大学在学中の4年間常に二岡をマークし、全日本代表に選ばれた際にはオランダ・イタリアまで遠征し、1998年秋の時点で広島に来てくれるという確かな感触を掴んでいたという。球団も野村謙二郎の後継者として期待していたが、最終的に二岡はドラフト直前になって一気に交渉を進め巻き返した巨人(上原浩治の1位指名を予定していたため、2位指名が確実だった)を逆指名。入団断りの連絡が大学関係者から広島球団に入った際、諦めきれなかった宮本は「僕は二岡君本人から入団断りの言葉を聞いていない、それを聞くまでは下がれません」と食い下がったが、宮本が二岡本人の言葉を聞くことは最後までなかった。 ドラフトから3年後の2001年9月に出版された『青い空を見上げて-読売ジャイアンツ二岡智宏』において、二岡の母は、二岡本人が当時「自分では決められない、くじで決めたいぐらいだ」と言うほど悩んでいたこと、『広島を拒否』などと身に覚えのない発言や契約金を巡った憶測を記事にする報道に対し、本人がそれまでに見たことないほど怒っていたこと、広島をひっそりと出発せざるを得なくなったことに対し、「何も悪いことをしていないのに」と複雑な気持ちだったことを明かした。 だが2012年3月15日、朝日新聞朝刊にて1998年のドラフト指名に際し、最終的に巨人から二岡側に5億円+退団時の功労金7000万円+出来高3000万円が支払われていた疑惑が報じられる。契約では、球界で定められた最高標準額1億5千万円を超過する金額については複数年の分割払いとし、各年の出来高条件の一部をクリアした場合に支払われるとされていた。巨人にとって出来高払いは税務上、契約金の分割払いとみなされ、通常の出来高払いとは違う会計処理をしていた。二岡も税務申告する際、契約金の一部であることを明らかにしていた。 1999年、長期にわたり巨人の遊撃手のレギュラーだった川相昌弘からポジションを奪取。その川相は「ショートを二岡がやるんだったら、私はサードでもセカンドでもどこでもできますよ。…ということをアピールしてやろう」という自身の心境を自著で書いている。4月24日の対横浜ベイスターズ戦で9回二死一塁の打席で阿波野秀幸からサヨナラ2点本塁打、5月16日の対横浜戦で1回裏、矢野英司から自身初の初回先頭打者本塁打、8月12日の対ヤクルトスワローズ戦で7回二死満塁の打席で山本樹から自身初の満塁本塁打、8月31日の対中日ドラゴンズ戦で6回、川上憲伸から球団通算7000号となる本塁打、9月19日の対広島戦で9回一死無走者の打席で横山竜士からサヨナラ本塁打を打った。新人選手が1シーズンにサヨナラ本塁打を2度記録したのは、1952年の佐藤孝夫(国鉄スワローズ、現・東京ヤクルトスワローズ)以来で47年ぶり、史上2人目。シーズン通算では126試合に出場し打率.289、18本塁打の成績を残した。例年ならば新人王に選ばれても決しておかしくない活躍だったが、同期入団で投手主要タイトルを総ナメにしていた上原浩治が新人王に選出された。 2000年はシーズン序盤から右手親指の故障に苦しみ、118試合に出場したものの規定打席には大きく届かなかったが、シーズン後半には優勝争いをしていたチームに復帰し、7月16日の対ヤクルト戦で9回無死無走者の打席で五十嵐亮太からサヨナラ本塁打を打ったほか、9月24日の対中日戦では9回一死無走者の打席でエディ・ギャラードから巨人のセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝を決めるサヨナラ本塁打を打った。 2001年は開幕直後から陥ったスランプと7月19日の対阪神戦で負った左手有鈎骨骨折で苦しみ、86試合出場に留まった。 2002年は新監督の原辰徳の構想で当初2番を予定していた仁志敏久が開幕から不振に陥り、シーズン途中から2番打者として定着、5月末に脹脛痛などで一軍登録を抹消されるなどこの年も故障に苦しみながらも、7月2日の対中日ドラゴンズ戦では2-2の同点の延長12回二死一・二塁の打席で遠藤政隆からサヨナラ3点本塁打を放ち、シーズンでは112試合に出場し、巨人の遊撃手としては初の20本塁打以上となる24本塁打を放った。同年秋の西武ライオンズとの日本シリーズでは、シリーズ史上初の3戦連続猛打賞、第1戦の第2打席から第2戦の第2打席まで5打席連続安打(1977年の土井正三と並び、日本シリーズ歴代3位、球団タイ記録)、第3戦では三井浩二から満塁本塁打を放つなど4試合通算で19打数9安打(打率.474)、打点5の成績を残し、日本シリーズMVPに輝いた。 2003年、5月15日の対横浜戦で自身初の1試合3本塁打を記録。チーム内に故障者が多発する中、自身初の全試合出場を果たし、初の打率3割、自己最多の29本塁打、67打点、14盗塁を記録してベストナインを受賞した。 だが、翌年2004年の春季キャンプ中に左脹脛を痛めてしまう。故障者続出のチーム事情から調整不十分での出場を余儀なくされ、91試合に出場したが本塁打は一桁の9本、盗塁はプロ入り初のゼロに終わるなど成績は大きく低下する。また、この年より、交通事故で親が死亡或いは重い障害を負った小、中学生を試合に招待する「二岡ボックス」の実施を始めた。 2005年は開幕から40試合本塁打がなく、シーズン初本塁打は5月19日に対福岡ソフトバンクホークス戦(福岡ヤフードーム)で5回一死一塁の打席で星野順治から打ったランニング本塁打だった。8月12日の対阪神戦で延長10回一死無走者の打席で久保田智之から打ったサヨナラ本塁打により、同一リーグの対戦球団全てからサヨナラ本塁打を記録。夏場になると調子を上げていき、8月30日から9月29日まで22試合連続試合安打を記録するなど安打を量産し、自己最高打率を更新(.301)した。オフの12月18日、フリーアナウンサーの用稲千春と結婚。 2006年4月30日の対中日6回戦(東京ドーム)で、NPB史上初の2打席連続満塁本塁打を含む3本塁打10打点を挙げた(#記録)。6月8日の対ソフトバンク戦で球団第71代目の四番打者として先発出場。巨人の生え抜き選手での四番打者は高橋由伸以来7年ぶりであり、巨人の「四番・遊撃手」は1961年の長嶋茂雄以来45年ぶりであった。その後も安定した成績を残し、夏に喉に投球を当てたり、終盤に膝痛を発症し前半戦は首位打者争いを演じていた打率は3割を割るほど低下しながらも試合には出場し続け、チームがBクラスに低迷する中3年ぶりに全試合出場(チームでの全試合出場も自身以来)と気を吐いた。 2007年は開幕戦こそ怪我で欠場したものの、4月1日の対横浜戦でシーズン初出場。この年は主に5番での出場が多く、打率3割には届かなかったが、2年連続で20本塁打をクリアし、自己最多となる83打点を挙げた。 2008年は高橋由伸に代わり第15代目巨人軍選手会長に就任。同年の開幕戦に出場するものの試合中に右ふくらはぎを肉離れし、翌日より二軍調整。当初は7月11日に復帰する予定だったが、後述の山本モナとの不倫スキャンダルが発覚したため、延期となった。7月20日の横浜戦で一軍復帰したが、正遊撃手には当時19歳の坂本勇人が定着したため、三塁手としての出場となった。その後9月14日に右足首を捻挫して再び二軍落ちするとこれ以降一軍に復帰することはなかった。自己最少の31試合の出場に終わり、チームはリーグ連覇したがポストシーズンに出場することはないままシーズンを終えた。 2008年11月14日、マイケル中村・工藤隆人との交換トレードで林昌範とともに北海道日本ハムファイターズへ移籍。なお、「選手会長の任期1年での解任」と「選手会長がトレードに出されたこと」は異例中の異例で、ともに球団史上初めてのことである。11月25日に札幌市内で入団会見を行った。背番号は「(巨人時代の)7以外なら何でもいい」という本人の要望により23となった。 2009年の春季キャンプでは足の故障の影響で中盤から別メニューで調整し、終了後も二軍調整していたが、オープン戦期間中に一軍復帰。3月14日に行われた中日戦(札幌ドーム)で試合途中に移籍後初出場。3月17日の巨人戦(東京ドーム)では移籍後初安打を放った。シーズンが始まると、4月4日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(札幌ドーム)で移籍後シーズン初安打を、4月7日の千葉ロッテマリーンズ戦(東京ドーム)で移籍後初本塁打を打った。この年は自身初となる指名打者枠でオールスターゲームのファン投票で出場した。代打としても21回起用され、代打での打率は.400(20打数8安打)だった。 2010年4月15日から4月18日、5月16日から5月22日、5月29日から6月2日までと4番遊撃手・三塁手・指名打者で出場した。5月19日の巨人戦(札幌ドーム)でディッキー・ゴンザレスから本塁打を打ったことで、セ・パ12球団全てからの本塁打を記録した。また、2年連続指名打者枠でオールスターゲームに出場した。シーズン10月19日に痛めていた、右肘の手術を行った。 2011年5月7日の試合で勝ち越しの本塁打を放ち、ヒーローインタビューを受けた際に同じく本塁打を打った中田翔に対して「中田の品のないホームランよりは、僕のほうが品があったんじゃないかと思います」とジョークで札幌ドームの日ハムファンの笑いを誘った。シーズンを通しては様々な故障を抱えていることや、稲葉篤紀やマイカ・ホフパワーが一塁手で使われるようになったことなどがあり、守備には一度もつかず、出場数が減ることとなり、主に指名打者もしくは代打での出場が主となった。7月9日の楽天戦では川岸強から代打満塁本塁打を放った。 2012年は、打率.353と高打率を残し、特にスタメン時は打率.444、得点圏打率.343と勝負強さを発揮した。契約更改では球団からは前年まで3年連続ダウン提示を受けこの年もアップ提示はされず現状維持を提示されたが二岡は保留せずサインした。 2013年もシーズン序盤から代打要員として一軍に帯同していたが、両脹脛の不調もあって5月30日に二軍降格、10日間の調整を経て再び一軍に復帰するも本来の調子が取り戻せず、42打数3安打、打率.071とシーズンを通して不調に終わった。10月3日に球団から戦力外通告を受けた。 日本ハムからの戦力外通告後は、12球団合同トライアウトへ参加しない一方で、2013年の各球団の仕事納め(12月27日)を期限に現役続行への道を模索。しかし、期限までにどの球団も関心を示さなかったことから、将来の指導者転身を視野に現役からの引退を決意。 2014年1月9日に現役引退を表明。引退を決めた理由については、「走・攻・守全部できないと意味がない」という表現で、下半身の故障によって守備や走塁を満足にこなせないことを挙げた。15年間の現役生活については、「ケガが多かったことには悔いがない。完全燃焼できた」という言葉で、すがすがしく述懐した。引退会見は日本ハム二軍寮の食堂に急遽用意された会場で行うといった簡素なものであった。 引退後は国際スカウトへの助言を目的に、古巣・巨人と業務委託契約を締結する。フロントには所属せずに、日本の他球団に所属する外国人選手やアジア各国のプロ野球選手を、「日本のプロ野球に適合するか」という視点から球団の必要に応じて幅広く調査する。このような契約を結ぶ背景には、二岡に「グラウンドの外からバッティングを勉強したい」という意向が強いことや、巨人の国際部に日本人のプロ野球経験者が少ないことが挙げられている。その他に北海道放送・北海道テレビ放送・日テレジータスの解説者として2年間を務めた。 2015年10月27日、2016年から巨人の二軍打撃コーチに就任することが発表された。12月15日、背番号は「75」と発表された。3年ぶりの現場復帰。また、2017年からは一軍打撃コーチに就任。岡本和真に助言を送り、急成長に寄与したが、2018年10月22日に退任が発表された。 2018年11月8日、ベースボール・チャレンジ・リーグの富山GRNサンダーバーズと監督就任で合意したことが発表された。2019年シーズンは、前期は優勝マジックを点灯させながら2位であった。後期は3位に終わり、シーズン終了後の9月17日に今シーズン限りでの退任が球団から発表された。理由は明らかにしていない。 2020年から読売ジャイアンツに三軍総合コーチとして復帰することが、2019年11月29日に発表された。2020年8月1日からは三軍監督に就任。 2021年7月21日に行われた全軍混合紅白戦「リアルジャイアンツカップ」では二岡軍として優勝を決めた。 2021年10月、二軍監督代行に就任し、2022年より正式に二軍監督に就任。 グラウンドや打席ではポーカーフェイスを貫いている。これは中学・高校時代の「野球選手はグラウンドで歯を見せるな」という教えを守っているためであるという。 右に打つ技術はトップクラスであり、2007年の本塁打は半分を右に放ち、「ミスター右中間」とも称された。守備では肩が抜群に強かった。 2003年オフに、それまで個人シートを設置していた川相昌弘が中日ドラゴンズへ移籍したこと、打率.300、29本塁打の好成績、ベストナイン受賞、年俸1億円突破などの功績で主力選手と認められたことで、2004年シーズンより二岡の自費で観客を招く『二岡ボックス』の設置が球団から許可された。この二岡ボックスは、本人の「交通事故によって(親を失った)自分と同じような境遇にある子どもたちに僕のプレーを見てもらいたい」という希望により、交通事故で親が死亡または重い後遺症を背負った小・中学生を対象に、東京ドームで開かれる読売ジャイアンツ主催のプロ野球公式戦の全試合に、各試合4人ずつを招待する(チケット並びに交通費など観戦費用の補助も含む)為の席として設けられた。 二岡ボックスの実施により、2004年11月には、独立行政法人自動車事故対策機構から感謝状を贈呈されている。 2008年7月6日に、同郷の広島県出身である山本モナと「東京都品川区五反田のラブホテル街に出入りしていた」という記事が、2008年7月10日発売の女性週刊誌『女性セブン』に、写真付きで不倫スキャンダルとして掲載された。プロ野球史上最も歴史が古い巨人は長年、「巨人軍は紳士であれ」という伝統を受け継いでいるため、その伝統を汚してしまった。このため一軍復帰は見送られた。同年のシーズンオフをもって、林昌範とともに日本ハムにトレードとなる。長年巨人を支えた看板選手の一人でなおかつ当時は選手会長であり、その年は故障で若い坂本にスタメンを奪われたものの当時32歳でまだまだ坂本ら若手と競争となってもスタメンを奪回できる機会や実力はあると思われたため、1シーズンの不振でトレードされたことについてはこのスキャンダルが原因と考える世論も多かった。 同時にトレードされた林もプライベートでのスキャンダル疑惑が当時写真誌に報じられており、それらの報道の真偽がどうであれ球団のイメージダウンに繋がる可能性もあるため、「二岡と共に球団のイメージダウンを嫌って追放されたのでは」と週刊誌等で臆測が流れていた。二岡は、髪を丸刈りにしてこの騒動を謝罪した。 2011年3月11日に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の義援金として日本赤十字社を通じ200万円を寄付している。 趣味はゴルフ。富山の監督に就任した際に富山での生活について聞かれ「ゴルフクラブを持っていけば大丈夫かなと思っています」と返答したほど。 自分で料理を作るのが嫌いで、日本ハムでチームメイトだった武田勝からも「あの人は絶対に自炊しない」と言われた。本人曰く「料理ができないわけではないが、後片付けがめんどくさい」とのことで、富山では単身赴任での生活となるが「スーパーで惣菜を買います」と語っている。 各年度の太字はリーグ最高 ベストナイン:1回(遊撃手部門:2003年) JA全農Go・Go賞:1回(好捕賞:2007年7月) 日本シリーズMVP:1回(2002年) 東京ドームMVP:1回(2003年) 初出場:1999年4月2日、対阪神タイガース1回戦(東京ドーム)、8回表に川相昌弘に代わり遊撃手で出場 初打席:同上、8回裏に福原忍から中飛 初先発出場:1999年4月3日、対阪神タイガース2回戦(東京ドーム)、7番・遊撃手で先発出場 初安打:同上、7回裏に川尻哲郎から中前安打 初本塁打・初打点:1999年4月14日、対広島東洋カープ2回戦(東京ドーム)、5回裏に黒田博樹から左越ソロ 初盗塁:1999年4月21日、対広島東洋カープ5回戦(広島市民球場)、3回表に二盗(投手:菊地原毅、捕手:西山秀二) 100本塁打:2005年6月3日、対福岡ソフトバンクホークス4回戦(東京ドーム)、5回裏に新垣渚から左中間へソロ ※史上239人目 1000試合出場:2007年5月18日、対中日ドラゴンズ10回戦(ナゴヤドーム)、5番・遊撃手で先発出場 ※史上417人目 1000安打:2007年6月2日、対西武ライオンズ1回戦(グッドウィルドーム)、5回表に山崎敏から左越3ラン ※史上245人目 150本塁打:2007年8月2日、対横浜ベイスターズ17回戦(横浜スタジアム)、1回表にマットホワイトから先制ソロ ※史上145人目(巨人選手として11人目) 2打席連続満塁本塁打:2006年4月30日、対中日ドラゴンズ6回戦(東京ドーム)、4回裏に石井裕也、5回裏にクラウディオ・ガルバから ※史上初 1試合2満塁本塁打:同上 ※史上2人目 1試合10打点:同上 ※セ・リーグ最多タイ 全球団から本塁打:2010年5月19日、対読売ジャイアンツ2回戦(札幌ドーム)、6回裏にディッキー・ゴンザレスから左越決勝2ラン ※史上18人目 オールスターゲーム出場:7回(1999年、2000年、2003年、2004年、2006年、2009年、2010年) 7(1999年 - 2008年、2019年) 23(2009年 - 2013年) 75(2016年) 81(2017年 - 2018年) 76(2020年 - ) 「ハッピーサマーウェディング」モーニング娘。(2000年) 「Tubthumping」Chumbawamba(2001年開幕 - 4月中旬) 「Stand Up」倉木麻衣(2001年4月中旬 - 9月下旬) 「My Star」Naimee Coleman(2001年9月下旬 - 終了) 「Sky High」DJ Miko(2002年 - ) 「Sky High」Jigsaw(2002年 - 2013年) スポーツマンNo.1決定戦(第9回、2003年) ^ 後にヤクルトで活躍する村上宗隆(当時6歳)はこの試合を現地で観戦しており、それを機にプロ野球選手を目指すようになった。 ^ 1951年10月5日の飯島滋弥(大映スターズ)と並び史上最多、セ・リーグでは初。 ^ 1985年8月10日のレオン・リー(横浜大洋ホエールズ)、1999年7月22日のロバート・ローズ(横浜ベイスターズ)、同年8月12日の江藤智(広島東洋カープ)と並ぶ。プロ野球記録は飯島滋弥の1試合11打点(1951年10月5日)。 ^ 『野球小僧』2011年6月号 89ページより ^ 「巨人、6選手に契約金36億円 球界申し合わせ超過」『朝日新聞』2012年3月15日。2012年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月15日閲覧。 ^ 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気持ちは2番」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2003年(平成15年)5月16日付朝刊、23面(スポーツ面)。 ^ 「堀内監督「75点」 巨人も打ち上げ」『北海道新聞』(縮刷版) 2004年(平成16年)2月27日付朝刊、21面(スポーツ面)。 ^ 「二岡ボックス 子供たち招待」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2003年(平成15年)12月20日付朝刊、21面(スポーツ面)。 ^ 「二岡ランニング本塁打」『北海道新聞』(縮刷版) 2005年(平成17年)5月20日付朝刊、21面(スポーツ面)。 ^ 「サヨナラ二岡弾 久保田ひと飲み トラ打ち 久々に酔った」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2005年(平成17年)8月13日付朝刊、21面(スポーツ面)。 ^ 「二岡選手が結婚」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2005年(平成17年)12月19日付夕刊、14面。 ^ 「1試合詳細:プロ野球:野球」『スポーツ報知』報知新聞社、2006年4月30日。2007年2月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月20日閲覧。 ^ 『中日新聞』2022年5月8日朝刊スポーツ面25頁「村上 2戦連続満塁弾 ツバメ首位に導く感謝の放物線」(中日新聞社) ^ 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.90 ^ 北海道日本ハムファイターズ ニュース ^ 「苦労人日本ハム高浜プロ2号は二岡以来の代打満塁弾「素晴らしかった」監督」『日刊スポーツ』2021年6月5日。2023年1月2日閲覧。 ^ 「二岡が引退会見「完全燃焼できた」」『日刊スポーツ』2014年1月10日。2014年1月29日閲覧。 ^ 「【日本ハム】二岡引退会見 周囲に感謝」『日刊スポーツ』2014年1月9日。2014年1月29日閲覧。 ^ 日本ハム・二岡 泣くに泣けない2軍寮食堂 引退会見場はあまりに暗く ZAKZAK 2014.01.11 ^ 「二岡氏が国際スカウト「日本に適合するか」を調査」『スポーツ報知』2014年1月28日。2014年2月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月29日閲覧。 ^ 来季の一、二軍コーチングスタッフについて - 読売巨人軍公式サイト(2015年10月27日) ^ 「巨人・井端コーチは82 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31 赤星優志 32 鈴木康平 33 ケラー 36 馬場皐輔 41 中川皓太 45 畠世周 46 又木鉄平 47 森田駿哉 48 田中千晴 49 バルドナード 52 伊藤優輔 53 高梨雄平 54 直江大輔 56 石田隼都 57 髙橋優貴 58 船迫大雅 62 横川凱 63 泉圭輔 64 大江竜聖 65 メンデス 66 平内龍太 68 代木大和 90 山田龍聖 91 堀田賢慎 93 松井颯 96 菊地大稀 97 井上温大 99 京本眞 22 小林誠司 24 大城卓三 27 岸田行倫 37 郡拓也 67 山瀬慎之助 94 喜多隆介 00 湯浅大 0 増田大輝 2 吉川尚輝 5 門脇誠 6 坂本勇人 25 岡本和真 35 泉口友汰 39 モンテス 40 中山礼都 55 秋広優人 60 菊田拡和 61 増田陸 95 中田歩夢 98 ウレーニャ 7 長野久義 8 丸佳浩 12 萩尾匡也 13 梶谷隆幸 23 立岡宗一郎 38 岡田悠希 42 ヘルナンデス 43 重信慎之介 44 佐々木俊輔 50 オコエ瑠偉 51 浅野翔吾 59 若林楽人 012 三浦克也 016 千葉隆広 018 木下幹也 019 園田純規 020 戸田懐生 023 田村朋輝 026 吉村優聖歩 028 富田龍 034 森本哲星 035 ルシアーノ 041 黃錦豪 047 鴨打瑛二 063 花田侑樹 006 坂本勇人 010 大津綾也 022 亀田啓太 004 村山源 005 田上優弥 007 宇都宮葵星 008 相澤白虎 027 北村流音 003 鈴木大和 009 笹原操希 013 ティマ 031 三塚琉生 033 平山功太 037 フルプ 044 大城元 051 舟越秀虎 表 話 編 歴 鈴木康友 2007 - 2009 横田久則 2010 - 2011 進藤達哉 2012 - 2013 吉岡雄二 2014 - 2017 伊藤智仁 2018 二岡智宏 2019 田畑一也 2020 吉岡雄二 2021 - 2024 未定 2025 - 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 南村不可止 1952 別所毅彦 1953 川上哲治 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 近藤昭仁 1961 宮本敏雄 1962 土橋正幸, 種茂雅之 1963 長嶋茂雄 1964 J.スタンカ 1965 長嶋茂雄 1966 柴田勲 1967 森昌彦 1968 高田繁 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 弘田澄男 1975 山口高志 1976 福本豊 1977 山田久志 1978 大杉勝男 1979 高橋慶彦 1980 J.ライトル 1981 西本聖 1982 東尾修 1983 大田卓司 1984 長嶋清幸 1985 R.バース 1986 工藤公康 1987 工藤公康 1988 石毛宏典 1989 駒田徳広 1990 O.デストラーデ 1991 秋山幸二 1992 石井丈裕 1993 川崎憲次郎 1994 槙原寛己 1995 T.オマリー 1996 T.ニール 1997 古田敦也 1998 鈴木尚典 1999 秋山幸二 2000 松井秀喜 2001 古田敦也 2002 二岡智宏 2003 杉内俊哉 2004 石井貴 2005 今江敏晃 2006 稲葉篤紀 2007 中村紀洋 2008 岸孝之 2009 阿部慎之助 2010 今江敏晃 2011 小久保裕紀 2012 内海哲也 2013 美馬学 2014 内川聖一 2015 李大浩 2016 B.レアード 2017 D.サファテ 2018 甲斐拓也 2019 Y.グラシアル 2020 栗原陵矢 2021 中村悠平 2022 杉本裕太郎 2023 近本光司 2024 桑原将志 表 話 編 歴 1950 白石勝巳 1951 平井正明 1952 平井正明 1953 平井三郎 1954 広岡達朗 1955 吉田義男 1956 吉田義男 1957 吉田義男 1958 吉田義男 1959 吉田義男 1960 吉田義男 1961 河野旭輝 1962 吉田義男 1963 古葉毅 1964 吉田義男 1965 吉田義男 1966 一枝修平 1967 藤田平 1968 黒江透修 1969 藤田平 1970 藤田平 1971 藤田平 1972 三村敏之 1973 藤田平 1974 藤田平 1975 三村敏之 1976 三村敏之 1977 河埜和正 1978 高橋慶彦 1979 高橋慶彦 1980 高橋慶彦 1981 山下大輔 1982 宇野勝 1983 高橋慶彦 1984 宇野勝 1985 高木豊 1986 高橋慶彦 1987 宇野勝 1988 池山隆寛 1989 池山隆寛 1990 池山隆寛 1991 野村謙二郎 1992 池山隆寛 1993 池山隆寛 1994 川相昌弘 1995 野村謙二郎 1996 野村謙二郎 1997 石井琢朗 1998 石井琢朗 1999 石井琢朗 2000 石井琢朗 2001 石井琢朗 2002 井端弘和 2003 二岡智宏 2004 井端弘和 2005 井端弘和 2006 井端弘和 2007 井端弘和 2008 鳥谷敬 2009 坂本勇人 2010 鳥谷敬 2011 鳥谷敬 2012 坂本勇人 2013 鳥谷敬 2014 鳥谷敬 2015 鳥谷敬 2016 坂本勇人 2017 田中広輔 2018 坂本勇人 2019 坂本勇人 2020 坂本勇人 2021 坂本勇人 2022 中野拓夢 2023 木浪聖也 表 話 編 歴 1位:上原浩治(逆指名) 2位:二岡智宏(逆指名) 3位:加藤健 4位:安原政俊 5位:酒井純也 6位:玉峰伸典 7位:進藤実 8位:高野忍 表 話 編 歴 本川貢 内田俊雄 後藤寿彦 清水章夫 小池俊児 林卓史 川上憲伸 宇高伸次 松修康 上原浩治 安田真範 鈴木郁洋 藤井彰人 高橋光信 高須洋介 三島裕 門岡泰弘 二岡智宏 松瀬大 山下勝己 奥野桂 飯塚智広 高橋由伸 古屋和之 板野真士 井阪真之 小関幸夫 山口法弘 橋本大祐 高勝 箭内一彦 古澤智紀 小笠原孝 木村茂 白岩敬之 小野間義和 佐々木忍 表 話 編 歴 30 佐竹政和 池田善吾 伊藤義博 11 松修康 14 建山義紀 16 川上憲伸 17 前田和之 18 上原浩治 19 池添修世 20 椎葉厚生 9 大橋晋也 21 黒須隆 22 小田幸平 1 福留孝介 2 上村匡史 3 二岡智宏 5 松葉研志 6 桑元孝雄 7 前田健吾 8 西郷泰之 10 高林孝行 24 坪井智哉 25 佐藤友昭 26 川崎博孝 27 石田勝彦 表 話 編 歴 大田垣耕造 荒井信久 筒井大助 池添修世 杉浦正則 建山義紀 宮田仁 川上憲伸 上原浩治 清水章夫 黒須隆 藤井彰人 阿部慎之助 西郷泰之 桑元孝雄 田頭欣士 福留孝介 田原隆三郎 二岡智宏 高須洋介 高林孝行 梶山義彦 船尾隆広 渡辺敦 高橋由伸 表 話 編 歴 大田垣耕造 垣野多鶴 萩野友康 林裕幸 荒井信久 中野渡進 上原浩治 矢野英司 山村路直 宇高伸次 吉野誠 佐藤宏志 愛敬尚史 的場直樹 藤井彰人 阿部慎之助 門間真 二岡智宏 山下勝己 吉見宏明 砂塚陽介 佐藤毅明 的場寛一 石井康雄 赤尾秀幸 板野真士 西澤祐介 表 話 編 歴 30 後藤寿彦 31 村上忠則 32 荒木大輔 33 田尾安志 11 長田秀一郎 15 内海哲也 16 加藤大輔 17 山北茂利 19 中村泰広 38 相木崇 43 真田裕貴 54 苫米地鉄人 63 坂元弥太郎 2 鈴木郁洋 22 大野隆治 51 米野智人 6 井端弘和 7 二岡智宏 8 岩舘学 10 木元邦之 23 北川利之 33 古木克明 52 川﨑宗則 1 高山久 5 濱中おさむ 9 鷹野史寿 29 吉浦貴志 61 喜多隆志 表 話 編 歴 3 長嶋茂雄 33 中畑清 32 大野豊 31 高木豊 11 木佐貫洋 13 岩瀬仁紀 15 黒田博樹 16 安藤優也 18 松坂大輔 19 上原浩治 21 和田毅 30 小林雅英 61 石井弘寿 8 谷繁元信 9 城島健司 2 小笠原道大 6 宮本慎也 7 松井稼頭央 17 二岡智宏 48 井端弘和 1 福留孝介 5 和田一浩 10 谷佳知 23 木村拓也 24 高橋由伸 日本の野球選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 富山GRNサンダーバーズ 日本の野球監督 近畿大学体育会硬式野球部の選手 日米大学野球選手権大会日本代表選手 広陵高等学校出身の野球選手 広島県出身のスポーツ選手 1976年生 存命人物 Pages using the JsonConfig extension ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/12 15:05更新
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nioka tomohiro
二岡智宏と同じ誕生日4月29日生まれ、同じ広島出身の人
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