もしもし情報局 > 1903年 > 8月13日 > お笑いタレント

古川ロッパの情報 (ふるかわろっぱ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月15日】今日誕生日の芸能人・有名人

古川ロッパの情報(ふるかわろっぱ) お笑いタレント 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

古川ロッパさんについて調べます

■名前・氏名
古川ロッパ
(読み:ふるかわ ろっぱ)
■職業
お笑いタレント
■古川ロッパの誕生日・生年月日
1903年8月13日 (年齢57歳没)
卯年(うさぎ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
福岡出身

古川ロッパと同じ1903年生まれの有名人・芸能人

古川ロッパと同じ8月13日生まれの有名人・芸能人

古川ロッパと同じ出身地福岡県生まれの有名人・芸能人


古川ロッパと関係のある人

西条凡児: 最初、五代目笑福亭松鶴に弟子入りするが芸人を志し、来阪した古川ロッパや初代大辻司郎に弟子入り志願をしたが断られ、知人の紹介で当時「漫談屋」と称していた花月亭九里丸の内弟子となる。


川田晴久: 一方、1939年には古川ロッパ主演の東宝映画「ロッパの大久保彦左衛門」にグループで映画に初出演。


岸井明: 1935年(昭和10年)には、古川ロッパと組み、数々の映画や喜劇に出演。


川村朋栄: “オフィスワンダーランド 第36回公演「アチャラカ 昭和の喜劇人・古川ロッパ、ハリキる」出演”. 演劇・ミュージカル・ダンス等のクチコミ&チケット予約★CoRich舞台芸術!. 2016年10月2日閲覧。


千田正: 千田を題材にした芝居が古川ロッパで上映された際に、千田は「一言の断りも無く芝居にするとはけしからん」とロッパに抗議文を送付。


三橋美智也: 19歳の時に「歌だけではなく違う世界も知りたい」と三味線一本を持って上京し、榎本健一・古川ロッパの家に弟子入り志願で出向いた事もあった。


滝大作: 『古川ロッパ昭和日記』(監修担当。


斎藤寅次郎: 榎本健一の『エノケンの法界坊』、古川ロッパの『ロッパのお父ちゃん』、エンタツ・アチャコの『水戸黄門漫遊記』なで人気コメディアン主演の喜劇映画を手掛け、大ヒットさせる。1945年の『東京五人男』はいまだ焦土の東京でエンタツ・アチャコや古川ロッパを自在に活躍させた、代表作のひとつである。


徳川夢声: まだ弁士時代の1926年(大正15年)から、特別イベントとして古川ロッパらと弁士らの珍芸劇団「ナヤマシ会」を数年、開催。


潮健児: 1942年 古川ロッパ一座に入団(応召のため、正式入団は1945年)。


笠置シヅ子: 1954年(昭和29年)に招待された古川ロッパはあまりの豪華さに驚かされて、その様子が雑誌に報じられたほどであった。


伊達三郎: 復員後の1945年に大映京都に入社し、翌1946年、片岡千恵蔵と古川ロッパが共演した稲垣浩監督の『おかぐら兄弟』でデビューを果たす。


上山雅輔: 入社にあたっては、姉みすゞが古川ロッパに送った手紙が後押しとなった。


柳田貞一: 弟子であるエノケンよりもかなり酒乱らしく、古川ロッパの『昭和日記』によると1934年、ロッパが一杯酒を飲みたくなったため、酒場「甲子郎」へ行った。


徳川夢声: 漫談レヴュウ 古川ロッパ、岡田時彦共著 「現代ユウモア全集 第18」同刊行会 1929


服部良一: また、1950年代に東京都内の自宅には、古川ロッパ、榎本健一、トニー谷らも訪ねたとされるほか、ジャニー喜多川もその1人であり、2023年になって次男の服部吉次が性被害を受けていたことが明らかとなっている。


菊田一夫: そののち、1933年(昭和8年)に古川ロッパらにより、浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」に座付き作家として迎え入れられ、劇作の道に入った。


曾我廼家五郎: 日本の近代喜劇の第一人者として、榎本健一、古川ロッパら喜劇人の尊敬を集めた。


トニー谷: 1951年には「帝劇ミュージカルズ」第1回公演『モルガンお雪』で榎本健一・古川ロッパや宝塚歌劇団在団中の越路吹雪と共演。


園井恵子: 1942年1月には、東宝の高峰秀子と共に古川ロッパ一座の舞台へ客演。


古川緑波: これらの日記については、一部散逸したものを除き『古川ロッパ昭和日記』として出版されている。


榎本健一: 一方、常盤興行は、映画雑誌編集者であった古川ロッパの声帯模写などの素人芸に目を付け、トーキーの進出で活躍の場を失っていた活動弁士の徳川夢声や生駒雷遊らと「笑の王国」を旗揚げさせのち松竹に所属、さらに東宝に移籍して有楽座で主に学生などインテリ層をターゲットとしたモダンな喜劇の公演を旗揚げし、「下町のエノケン、丸の内のロッパ」と並び称せられ、軽演劇における人気を二分した。


益田喜頓: 初笑い寛永御前試合 1953年 監督斎藤寅次郎、主演花菱アチャコ、共演江川宇礼雄、光岡早苗、キドシン、森川信、堺駿二、清川虹子、藤間紫、内海突破、横山エンタツ、シミキン、古川ロッパ、川田晴久、小笠原章二郎、伴淳三郎、柳家金語楼、神楽坂はん子 ※新東宝


藤田房子: ^ 『古川ロッパ昭和日記 戦中篇 昭和16年‐昭和20年』晶文社、2007年、107頁。


井口静波: 浪花節語りから、大正時代に弁士として活動し、1926年(大正15年)に古川ロッパ、徳川夢声らとともに『ナヤマシ会』に結成に参加した。


滝大作: 1987年、400字詰め原稿用紙にして3万枚に及ぶ古川ロッパの日記を全4巻の『古川ロッパ昭和日記』に編集して刊行。


榎本健一: また、過去に「犬猿の仲」といわれた古川ロッパと1947年4月東京有楽座『弥次喜多道中膝栗毛』で初共演。


渡辺はま子: 以降ビクター在籍中はアトラクションに度々出演し、藤山一郎や古川ロッパらの相手役を務めている。


森繁久彌: 同年に長兄・弘の紹介で東京宝塚劇場(現・東宝)に入社し、日本劇場の舞台進行係を振出しに、東宝新劇団、東宝劇団、古川ロッパ一座と劇団を渡り歩いて下積みを過した。


長谷川一夫: 研究熱心で、終戦直後、長谷川がルンバなどの最新のダンスを舞台で演じたのを見学した古川ロッパはその上手さに舌を巻き「まったくあなたの努力はすごい」と激賞したと日記に書き残しているように、歌舞伎舞踊を基礎としながらも常に新しい境地を開拓する姿勢は最後まで衰えなかった。


古川ロッパの情報まとめ

もしもしロボ

古川ロッパ(ふるかわ ろっぱ)さんの誕生日は1903年8月13日です。福岡出身のお笑いタレントのようです。

もしもしロボ

人物、血縁の著名人などについてまとめました。映画、病気、兄弟、家族、解散、テレビ、ドラマ、引退、子役、趣味に関する情報もありますね。57歳で亡くなられているようです。

古川ロッパのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ、古川 緑波とも、1903年(明治36年)8月13日 - 1961年(昭和36年) 1月16日)は、1930年代の日本の代表的コメディアン。本名は古川 郁郎(ふるかわ いくろう)。 編集者、エッセイストとしても活動した。

古川郁郎は東京帝国大学総長を務めた加藤弘之男爵の長男である加藤照麿男爵の六男として東京市麹町区に生まれた。嫡男以外は養子に出すという家訓により、生後間もなく義理の叔父(父の妹婿)で満鉄役員の古川武太郎(元陸軍中将の古川宣誉の長男)の養子となる。幼少期より文才に優れ、のちに芸名として用いた「緑波」の号は尋常小学校3年生の頃、童話作家の巖谷小波にちなんで自らつけた筆名である。始めは読み方を「リョクハ」としたが、芸能界入り後は舞台活動では「ロッパ」、文筆活動では「緑波」と使い分けた。

1911年、福岡県門司に転居し、1916年旧制小倉中学校に入学。1917年東京に戻り旧制早稲田中学校に転校。在学中の1918年には映画雑誌『映画世界』を発行し、映画評論を執筆して早熟ぶりを発揮する。同時に『キネマ旬報』などの映画雑誌に緑波の名で投稿を始め、1921年早稲田第一高等学院に進学、そこでキネマ旬報編集同人となる。さらに1922年には小笠原プロ・小笠原明峰監督『愛の導き』で映画初出演。その実績を買われて旧制早稲田大学文学部英文科在学中に菊池寛に招かれ、文藝春秋社に雑誌『映画時代』の編集者として入社した。

1925年に早稲田大学を中退し文筆活動に専念する。翌年には雑誌編集の傍ら、宴会での余興芸の延長線上として当時親交のあった徳川夢声らとナヤマシ会を結成し演芸活動を開始。それまで寄席芸で「形態模写」と呼ばれていた物真似に「声帯模写」と名付けるなど、モダンな芸風も仲間内の受けが良かった。

1930年、菊池の後援で『映画時代』の独自経営に乗り出すが失敗、多額の負債を抱える。雑誌休刊後は東京日日新聞の嘱託として映画のレビューや映画関係の書物の執筆、雑誌『漫談』の編集などを行う。1931年には俳優として五所平之助監督の『若き日の感激』や田中栄三監督の『浪子』などの映画に出演した。

その後、素人芸ながら達者なところを買われ、菊池寛や小林一三の勧めで喜劇役者に転向。1932年1月、兵庫県宝塚中劇場公演『世界のメロデイー』でデビューを果たす。このときはロッパの我儘に対する小林の厚意で、フィナーレは花吹雪の中大階段を降りながら歌う演出、千両役者にちなんで千円の祝儀をもらうという破格の待遇を受けながら、肝心の芝居のほうは本人も恥じ入るほどに散々な出来だった。

そのような失敗を乗り越え、1933年には浅草で夢声・大辻司郎・三益愛子・山野一郎らと劇団・笑の王国を旗揚げした。その内容は、ロッパの人脈を活かしたナヤマシ会関係者や他劇団、映画関係者などの寄せ集めによるアチャラカと呼ばれる軽いナンセンス喜劇が中心だった。「前受けばかり狙ったお粗末至極」 なものばかりで、スケジュールは、一日2回から多い時は3回半の公演、約2週間ごとに出し物が変わるというハードなもので、のちにロッパが「思いもかけないことだ!」 と回想するほどの苦戦を強いられたが、このとき後にコンビを組む脚本家菊田一夫と出会い、自作の『凸凹放送局』、『われらが忠臣蔵』などがヒットする。彼のアチャラカ芝居への熱情は、チャップリンや曾我廼家五郎、曾我廼家喜劇への傾倒から来たもので、喜劇への第一歩も菊池からの「モダン曾我廼家になりたまえ」の一言だった。

「エノケン」のニックネームで同時期に活躍した喜劇役者榎本健一とはしばしば比較され、「エノケン・ロッパ」と並び称されて人気を競った。丸顔にロイド眼鏡、肥った体型がトレードマークのロッパは、華族出身のインテリらしく、品のある知的な芸を持ち味とした。小柄で庶民的、軽業芸も得意なエノケンとは異なり、身体の動きは鈍かったが、軽妙洒脱な語り口と朗々たる美声に加えて、生来の鷹揚さから来る、いかにもお殿様らしい貫禄が大衆に好まれた。戦後、安藤鶴夫がロッパの芸を「口千両」としつつも「下半身から足にかけては寧ろ甚だ大根役者」と断じたことにも「この位ピッタリ言ひ当てられては一言もない」と述べており、自身も芸の長短を心得ていた。

1931年ごろからは歌手としても数多くのレコード吹き込みを残したが、中でも軽妙なコミックソングを得意とした。代表作の『ネクタイ屋の娘』は作詞が西條八十、作曲が古賀政男という大御所による作品である。他にはナンセンスな『嘘クラブ』、小唄勝太郎と共演した『東京ちょんきな』などの民謡風、『明るい日曜日』などのパロディ物、シリアスな『柄じゃないけど』(渡辺はま子と共演)、アニメ映画の挿入歌『潜水艦の台所』、明治製菓のコマーシャルソング『僕は天下の人気者』などがある。舞台では、得意としたティペラリーや尻取り歌などのほか、わざと音程を外して歌う芸も披露した。

舞台では歌や漫談、声帯模写と幅広い芸を披露したが、中でも十八番とした声帯模写の巧みさは超一流だった。1931年8月8日、ラジオの生放送番組に出演予定の徳川夢声が酒と睡眠薬の飲み過ぎで倒れ、ロッパが代役として夢声の名で出演し、40分間を夢声の声色で通して、誰も代役と気付かなかったという伝説的な逸話を残した。自宅でラジオを聴いた夢声の妻は、夫が隣室でいびきをかいているのにラジオから夢声の生放送での喋りが流れているのが信じられなかった と語っている。夢声自身も、戦後にラジオ番組「話の泉」の企画でロッパによる声色の録音を聞き、「これは私です」と断言した という。ロッパの声帯模写は、いくつかレコードに残されており、その至芸を偲ぶことができる。

1932年、小林一三は東京宝塚劇場(東宝)を設立し、当時松竹が権勢を誇っていた東京の劇界に進出する。旧知のロッパは早速スカウトされ、翌1934年3月、開場間もない東京宝塚劇場公演『さくら音頭』への出演を持ちかけられる。これは仲介に立った東宝側の秦豊吉の不手際から頓挫するが、1935年5月、東宝の前身PCLに引き抜かれる。7月横浜宝塚劇場で一座の公演が始まり、8月には劇団名も「東宝ヴァラエテイ・古川緑波一座」と改め、有楽座で『唄ふ弥次喜多』、藤原義江特別参加の『カルメン』、当たり狂言の『ガラマサどん』が大評判となり、丸の内へも進出。1936年には浅草時代の盟友である菊田一夫を招き入れて、ロッパの芸歴の中でも最も輝かしい時期を迎える。当時の日記ではライバル榎本健一に対して「遥かによきものを提供できる自信はついている」 とし、「日本の東京、その真ん中の東洋一の大劇場を、満員にしてセンセーションを起してゐるのだ。死んでもいゝ、死んでも本望―此の上何を望むべきか、といふ気持ちである。神も仏も護らせたまふ、幸せな僕である」と高揚した気分を記している。

ロッパ一座の特色は、歌舞伎・新派を基本とした旧来のアチャラカ喜劇に、欧米のモダンさを加え、特にミュージカルを意識して音楽をふんだんに用いた斬新なもので、狂言の中にも『春のカーニバル』『歌えば天国」など、必ず音楽主体の演目を加えた。一座の洗練された舞台は、丸の内の大手企業や外資系企業のサラリーマンを中心とするホワイトカラー層の支持を集め、浅草のブルーカラー層の支持を受けていた榎本健一とは対照的だった。

『ガラマサどん』『歌ふ弥次喜多』『ロッパ若し戦はば』『ロッパと兵隊』『ハリキリボーイ』などの演目は大ヒットし、菊田作の『道修町』では大阪の観客の幅広い支持を集めた。若手の育成にも力を入れ、その中には後に名をなす森繁久弥や山茶花究もいた。

スタッフは座付作者としてロッパ自身と菊田一夫、俳優には渡辺篤・三益愛子などの実力派を揃えた。また、時には徳山璉・藤山一郎・渡辺はま子・中村メイ子・轟夕起子などを起用したり、台本作家として火野葦平や内田百閒の協力を得たりと、プロデューサーとしての才能を発揮して話題を集めた。ロッパ自身も戦後に「企画の新しさと広さと、まわりの芸達者を存分に活躍させることで客をつかんできた」 と回顧している。

さらにレコード吹き込みやラジオ出演、ロッパ個人のステージ活動、雑誌への執筆活動と大活躍し、1940年10月大阪北野劇場出演中に病気で倒れるまでの5年間は、ロッパの黄金時代でもあった。

舞台の傍ら、映画へも盛んに出演し、一座をひきいて出演した『ロッパ歌の都に行く』『ロッパの大久保彦左衛門』『ガラマサどん』『ハリキリ・ボーイ』などで人気を集めた。演技にも定評があり『頬白先生』『婦系図』などの映画作品ではシリアスな役もこなした。中でも長谷川一夫と共演した『男の花道』(1941年東宝作品、マキノ正博監督)での芸州浅野家藩医・土生玄碩役は名高い。もとより映画好きであったが、売れっ子になってからも暇を見つけては夥しい数の映画を鑑賞し、チャップリンやマルクス兄弟、アルベール・プレジャン、エルンスト・ルビッチなどの外国喜劇映画、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル、『会議は踊る』『ブルグ劇場』などのドイツ映画の名作、ライバルの榎本健一の映画評などを日記に記すなど、自身の芸のために熱心に研究していたことが窺われる。

1940年10月1日、東宝は傘下の全演劇団を東宝国民園劇団移動隊に統合、ロッパも移動演劇班を率いて地方巡業を行う役割を担うこととなった。 1941年1月、東京有楽座『ロッパと開拓者』『日本の姿』で再び舞台にカムバックすると、大東亜戦争中は、『花咲く港』『歌と兵隊』『スラバヤの太鼓』『レイテ湾』『歌と宝船』などの舞台や『突貫駅長』『勝利の日まで』などへの映画出演、地方への慰問巡業などを精力的にこなしている。だが、この頃から方針の違いにより菊田一夫と対立し、菊田に同調する団員との軋轢や、当局による度重なる検閲や統制、さらに1944年2月には戦局悪化のため閣議決定された決戦非常措置要綱によって、有楽座帝劇が閉鎖されるなど、多くの難問に悩まされた。

戦時中のロッパは愛国的であり、「僕は、何処までも、娯楽のために挺身するため、すべての用意をすべきだ」 と自身の日記にあるように、芸能活動を通じて国民を元気づけるスタンスを取りつづけたが、理不尽な弾圧や規制には真っ向から反発し、1943年7月には当局から芸名を「ロッパ」のカナ文字使用から「緑波」に変えるように要請され、憤慨の余り「腹立つ。アダ名なら兎に角、ロッパというのは俺の名だ。それを片仮名で書いちゃあ何故悪い?もう少しで警視庁へのり込んであばれてやらうかと思った」とその想いを日記に書きつけている。そして警察当局へのあてつけに「フルカワ緑波コウエン」と書いた新聞広告を掲載しようと企てたりと、反骨精神は衰えることがなかった。

戦争末期の1945年、当局は国民の士気向上のために従来の方針を改め、喜劇への検閲を廃止した。ロッパは渋谷の東横映画劇場を本拠地とする公演に加え、空襲下の京浜地区で工場への慰問活動を行っている。この年の4月2日付の『東京新聞』には『われらチンドン屋』と題した手記を寄稿し「かくて、われらは、アチャラカ芝居と蔑称され、低級喜劇(尤も、高級とよばれたことも一度ある。これは、高級娯楽追放の日だった。)と嘲笑されたところの、われらのポンチ絵本は、今こそ、本来の蠧のまま見えることができるのだ。………われらは挺身して、都民への永年の恩返しをしなければならない。……滑稽芝居の体当たりだ。われらは此の時代のチンドン屋、世紀のヂンタ屋であらねばならない」と悲壮な覚悟を述べている。また、東宝に月給をギャラとするラジオ出演をもちかけるなど、困難な状況にもひるむことなく積極的な活動を続けていた。

そんな中、1945年5月25日には空襲で下落合の自宅が焼失する。幸いロッパ自身は東北方面に巡業中であり、家族も疎開していて難をのがれたが、多くの貴重な文献(日記は防空壕に埋めていたので無事)を失った。当時の日記でも「本が惜しかった。一冊も疎開させなかったのが口惜しい」と無念さをにじませている。7月に一旦帰京、田園調布の知人宅に身を寄せ、空襲下の最悪の条件下にも屈せず、ラジオ出演や慰問活動を続けながら終戦を迎えることになる。

終戦直後の1945年末、映画『東京五人男』で活動を再開する。大晦日にはNHK『紅白音楽試合』(『NHK紅白歌合戦』の前身)の白組司会を務めた。1945年12月には、戦前からロッパの私的トラブルの相談相手だった上森子鉄を経営者として、一座は東宝から独立。積極的に舞台活動をするが、ホームグラウンドの東京宝塚劇場が占領軍に接収され、活動範囲が狭められた上にインフレによる諸経費の高騰も重なり、戦前ほどの収益を上げられずに一座の経営は苦境に立たされる。

そのような状況下、同年4月東京有楽座で、榎本健一一座と合同公演を行う。出し物の『弥次喜多道中膝栗毛』はロッパ一座の戦前の当たり狂言を元にしたものだが、今回はロッパ・エノケンという喜劇の両雄の初めての共演ということで、笑いに飢えていたファンの支持を受けて大入りとなり、2か月のロングランを記録する。以後、2人の共演の機会が増えるが、裏を返せば、榎本の力を借りなければならないほどに人気が衰えたことを示していた。しかしながら、プライドの高いロッパは、川口松太郎ら友人たちや関係者の忠告にも耳を貸さず、それまでの旧態依然とした芸風と尊大な態度を頑なに守り続けた。1948年には上森の多額の横領が発覚して一座から上森を追放するが、すでにラジオなどに人気を奪われていた劇団の存続は困難となり、1949年に一座は解散した。

また、戦時中から台頭してきた清水金一や、元座員の森繁久弥、後輩の伴淳三郎・トニー谷などの新たなスターたちに人気を奪われ、戦前の横暴も祟って周囲の人間もロッパから離れていった。1948年、ロッパは引きたててくれた小林一三のもとを訪れ、有楽座出演の希望を訴えるが「ロッパの人気は肥った円い顔にロイド眼鏡だが、今じゃそのロイド眼鏡が珍しくなくなった。実力でいけ。お情けにすがるな」と説教されている。後援者にも見放されたロッパは何とか新境地を開こうとするが、努力も空しく、映画は三流作品の脇役が多くなり、舞台も地方巡業が増えていった。

1949年には、アメリカ映画『三人は帰った』(アグネス・キース  (Agnes Newton Keith) のノンフィクション (Three Came Home (book)) 映画化)における「良心的な日本軍人」役のスクリーン・テストで最終候補に上がるが、結局その役は、早川雪洲が演じることとなった。

その一方で、1954年には社団法人日本喜劇人協会設立に際し、柳家金語楼とともに副会長に就任(会長は榎本健一)し、重鎮としての存在感を示していた。脇役中心ながらもラジオや映画出演は依然多く、日本テレビ開局時より放映開始された連続テレビドラマ『轟先生』の主人公を演じて茶の間の人気を博しており、黎明期のテレビ放送のパイオニア的存在となった功績は大きい。

舞台でも1953年3月、東京有楽座の第1回東京喜劇祭りで金語楼、榎本らと共演した『銀座三代』、1958年7月芸術座公演菊田作の『蟻の街のマリア』、翌8月の宇野信夫作『月高く人が死ぬ』などの演技が高く評価された。

しかし、すでにロッパの身体は50代前半にもかかわらず、長年の美食と鯨飲馬食による持病の糖尿病のほか、再発した結核にも蝕まれていた。晩年の彼の日記には、日々喀血と呼吸困難に苦しめられる様子が克明に記されている。また、銀行を信用せずに常時持ち歩いていた金銭も盗まれてしまい、多額の借金を抱えてしまう。ロッパは病魔と闘いながら生活のために芸能活動を続けなければならず、映画監督や小説家になる野心も失われていった。

1960年代になると舞台や映画も端役が多くなる。50代後半ながら体力が落ちて覇気のない演技を批判されたり、弟子筋の森繁久彌からは引退勧告を迫られるなど、すっかり過去の人間と成り果ててしまった。病状も悪化する一方で、1960年11月の大阪・梅田コマ劇場公演『お笑い忠臣蔵』の出演中に倒れるが、辛うじて千秋楽を迎えて帰京する。

翌1961年1月3日には東京順天堂病院に入院するが、16日午前11時55分に肺炎と全身衰弱により死去した。57歳没。ロッパの葬儀は1月21日の正午より東京都港区の青山葬儀所にて行われた。ロッパ死去の報を伝える新聞記事の扱いは小さく、往年の人気を知る者には寂しい哀れな最期だった。墓所は雑司ヶ谷霊園。

人物

美食家・健啖家であり、また読書家・日記魔としても知られていた。学生の頃から文藝春秋に出入りして映画関係の雑誌を編集するほどの文才があり、ネーミングのセンスにも長けていた。 その一方で良家育ちでわがままも多く、生涯を通じて対人関係や金銭のトラブルにも見舞われた。

ヘビースモーカーであり、結核を患っても喫煙を止めることは出来なかった。喀血を繰り返すたびに禁煙を行うが、長続きはせず遂に家族からその意志の弱さを強く責められてしまうほどであった。

文才

日記については浅草でデビューした頃から死の直前まで休み無く綴られており、ある俳優の一代記としてだけではなく、日本喜劇史・日本昭和風俗史においても貴重かつ重要な資料となっている。これらの日記については、一部散逸したものを除き『古川ロッパ昭和日記』として出版されている。

演劇批評の分野では『劇書ノート』という本を書いたり『演劇界』などにも寄稿した。 また、忙しい合間を縫って榎本健一らライバルの舞台やレビュー・歌舞伎・新派・小芝居・映画を観に出かけ、夏目漱石・永井荷風・チェーホフなどの文学書や鶴屋南北・河竹黙阿弥などの脚本、歌舞伎俳優の芸談、ストリンドベリなどの演劇関係の専門書を自身の創作の参考としていた。その姿勢は晩年まで続いており、石原慎太郎の『太陽の季節』や石原裕次郎の映画も評価している。

舞台での演技も絶えず工夫を凝らすことを忘れず方言も本格的に学んでおり、特に東北弁の使い方が絶品だった。第二次世界大戦の終戦後はイギリス軍やアメリカ軍の占領の影響からか、英会話を身につけようと英和辞典をまるごと暗記しようとした。暗記したページは丸めて食べていったとの逸話がある。

ロッパのネーミングのセンスは、寄席芸の「形態模写」を言い換えた「声帯模写」(せいたい もしゃ)という新語や「ハリキる」「イカす」など、後に日本語の口語会話に定着した造語からもうかがえる。また駄洒落の名手で「菊池寛」をもじって「クチキカン」「ユージン・オニール」と聞いて「オニールとは君の友だね」と即興で答えるなどの話が残されている。

グルメ

食に関しては『あまカラ』誌などに連載を持つ他、日記にも頻繁に記した。これらは『ロッパ食談』や『悲食記』などの著書にまとめられている。 食の魅力へ開眼するきっかけは、ロッパが学生時代に菊池寛から西銀座の一流レストランで西洋料理を奢ってもらい、その美味さに感動したことが始まりで「ああいう美味しいものを、毎日食える身分になりたい。それには、何しても千円の月収が無ければ駄目だぞ」と発奮。成功を収めてようやく千円の月収を手に入れた時には食糧難となり「努力を続け、漸くその位の事が出来る身分となったのに…」と菊池に愚痴をこぼした。

食糧事情が著しく悪化した戦争末期においても、あらゆる伝手を用いて美味を追い求めた。 レストランで人数分以上の注文をすることが禁止された時には、門人を連れて行って2人前を注文して門人には一口も食べさせず、自分だけで平らげたという逸話が残っている。 当時の日記には「何たる東京!ああもう生きていてもつまらない……涙が、出そうな気持。食うものがなくなったからとて自殺した奴はいないのかな」と深刻な思いを述べている。こうした食への執着は経済苦に陥っても尽きることは無く、しばしば有力者をスポンサーにして高級料理にあり付く始末だった。

魚や貝が食べられなかったり、蕎麦も下痢を発症するため口にしなかった。寿司ネタは赤身の魚を食べると蕁麻疹が出てしまい、蕎麦の方は成人になってから症状が出るようになった。本人は「日本料理については、カラ駄目」と語っている。

交友

谷崎潤一郎・宇野浩二・菊池寛・川口松太郎などの作家や歌舞伎・新派・演劇関係者・小林一三・森岩雄ら興業関係者、鈴木文史朗らマスコミ関係者・嘉納健治らの侠客とも幅広い交友関係を持っていた。

華族出身であり、下積みを経験せずにスターとなったこともあって傲慢でわがままな面も多く、ある宴席で座席の順を気にする若手俳優に「お前が座れば、どこでも下座だよ」とにべもなく言い放ったり、自分の失敗の八つ当たりに対して、若手に暴力を振って殴ったりもした。全盛期にはそれでも影響力を発揮出来たが、人気が落ちると逆に見放されることになった。

1945年 にロッパ一座に入団した潮健児は『轟先生』の撮影に付き人として同行した際、セットで転倒して水をこぼしてしまい、怒鳴り付けられて一座を抜け出した。その後1952年に『さくらんぼ大将』で共演することになり、ロッパが演じる主人公を潮が演じる助監督が突く芝居で、潮が遠慮気味に芝居をしていると小声で注意を促し、撮影終了後に潮が不義理をしたことを詫びに楽屋に訪れると、温厚な表情で迎え入れている。

その一方で、子供などには温かく接していた。実生活では子煩悩で子役達も我が子同様に可愛がっていたが、特に中村メイコのことは「天才」と評して目に掛けていた。戦時中の日記にも映画のロケ先で、疎開児童達との別れに涙を流した下りが記されている。

金銭感覚

文藝春秋社から独立し、発行した雑誌の失敗もあって金銭面にはうるさく、出演料でしばしば興行主と揉めていた。日記には、営業の記述の後に「(20)」などと、円単位と思われるギャラの額が記されている。

一座のある俳優は「……貧乏貴族で、そのせいかケチでしたよね。座長部屋では誰も見ていないと、札束を勘定してる。銀行には不安で預けられないんです」と述懐した。その一方で金銭感覚に乏しく、食事や遊興への出費に劇団の乱脈経営も重なって税金対策に関しても無頓着だった。税金にまつわるやり取りでは「十五万のつもりが一万五千だったりして計算出来ず」と自嘲している。晩年は借金まみれとなり、その日の暮らしにも困る有様だった。

小沢昭一によれば、ロッパは友人の正岡容の通夜に参列した時、浪曲師の相模太郎に対して「この香典は何だっ!」と罵倒した。正岡作の浪曲『灰神楽三太郎』で売った相模にとっては額が少な過ぎるということで、余りの剣幕に周囲は声も出なかったと証言している。当時、貧窮していたロッパは香典を用意出来なかった様で、その無念さが相模への態度に繋がったともいわれている。

ライバル

全盛期に、尊敬する谷崎潤一郎から榎本健一との共演を勧められたが、ロッパは対抗心むき出しに「これはどっちかが完全にペシャってからでないと、絶対にそんなことはあり得ませんな」と答え、谷崎は「当時はエノケン君に敵意を燃やしてゐたらしかった」と感想を述べている。それでも、曾我廼家五郎を尊敬する2人は1940年ごろから定期的に「親子会」という名で公演に上京する五郎を囲んで食事を楽しんでいた。

料理屋でロッパとエノケンが劇団員同志の喧嘩の仲裁に入った時に、初め2人とも険悪なムードだったがお互いに謝罪し、話し合う内に意気投合して楽しい酒席となった。この時ロッパは「エノちゃん、大いにやろう。喜劇と言えばエノケン・ロッパだ。いま日本で一番偉いのは君と僕だ。天皇陛下は別だぜ。ネェ、俺たち二人が一番偉い人間なんだ!」と怪気炎を上げた。

最晩年のロッパの日記には、エノケンのテアトロン賞受賞に「癪にさわる。ヤキモチ・ひがみ―その受賞祝いに顔を出すのは辛いやねえ。」 と記しており、自身の凋落ぶりと比較してかなり複雑な感慨を持っていた。

林家三平はロッパが評価した数少ない戦後の芸人で、彼の高座を聴いて大いに笑ったことが日記に記されている。逆に評価が低いのは四代目柳亭痴楽や関西の芸人達で、中には「嫌な奴だ」などと日記に名指しで書かれている者もいた。

趣味

麻雀好きであり、日記にはどんなに多忙であろうと・あるいは空襲下であろうと晩年の病苦に悩まされようが麻雀を楽しんでいる記事が書かれている。相手は座員や心を許した友人達だった。日本麻雀連盟(略称 日雀連)が昭和7年に開いた新得点を決める会合において、ケチ臭いから500点に決めよう!とロッパが力説したことにより、麻雀のルールにおいて満貫が子あがりで8000点となった。その他ポーカーもしばしば行っていた。

1934年3月には、多くの文士・俳優らと共に麻雀賭博容疑で警視庁に検挙されている。

玉川一郎の著作「泉筆・万年ペン・万年筆」によると、万年筆のコレクターでもあったという。ロッパの死後、その万年筆コレクションは玉川一郎に渡って後に梅田晴夫が手に入れている。

病気

晩年には以前罹患していた結核が再発したが、経済状態の悪いロッパは治療どころではなく仕事が無くなることを恐れ、親族以外には隠し続けた。恰幅のいい体格も病み衰え、外部の者には座布団を腹に巻きつけて太鼓腹であるかのように誤魔化していた。日記には連日のように喀血を表す「SH」が見られ、病気に苦しむ悲惨な姿が窺われる。

血縁の著名人

実兄に弁護士、推理作家、貴族院議員の浜尾四郎、音楽評論家で子爵の京極高鋭がいる。さらに甥には東宮侍従の濱尾実、カトリック教会の大司教、枢機卿の濱尾文郎がいる。

長男は演劇プロデューサー古川清(東宝所属、のちフリー。主な作品に『屋根の上のヴァイオリン弾き』、『レ・ミゼラブル』、『ミス・サイゴン』などがある)、次男は古川ロックの芸名で俳優となった。なお、芸能活動等はほとんどしていなかったが、長女の洋子とは一度だけラジオ番組で共演した事がある。

2024/06/12 09:48更新

furukawa roppa


古川ロッパと同じ誕生日8月13日生まれ、同じ福岡出身の人

美月 リカ(みづき りか)
1988年8月13日生まれの有名人 福岡出身

美月 リカ(みづき リカ、1988年8月13日 - )は、日本のフォトグラファー、音楽プロデューサー。音楽レーベル・easy revenge records代表。株式会社がんばれ代表取締役。2019年…

金子 みゆ(かねこ みゆ)
2003年8月13日生まれの有名人 福岡出身

金子 みゆ(かねこ みゆ、2003年8月13日 - )は、日本の女性タレント、モデル、歌手、TikToker、インフルエンサー、元アイドル。Uniiique(ジョブ・ネット系列)所属。株式会社STAR…

津崎 佑美(つざき ゆみ)
2001年8月13日生まれの有名人 福岡出身

津崎 佑美(つざき ゆみ、2001年8月13日 - )は、日本のタレント、アイドルである。 ソウル出身。ケイダッシュステージ所属。 男装アイドルグループ風男塾の葉崎アランとしても活動中。パーソナ…

廣瀬 四郎(ひろせ しろう)
1941年8月13日生まれの有名人 福岡出身

8月13日生まれwiki情報なし(2024/06/13 16:42時点)

倉富 純男(くらとみ すみお)
1953年8月13日生まれの有名人 福岡出身

倉富 純男(くらとみ すみお、1953年8月13日 - )は、日本の実業家。西日本鉄道代表取締役会長、九州経済連合会会長、福岡県経営者協会会長、九州経営者協会会長、日本バス協会副会長。 福岡県うき…

森田 隼人(もりた はやと)
1976年8月13日生まれの有名人 福岡出身

森田 隼人(もりた はやと、7月15日)は、日本の企業経営者、料理人、国際スラム解放活動家、クリエイター、作家である。大阪府出身の元プロボクサーである。 第11回農林水産省料理人顕彰制度「料理マスタ…

小野 一也(おの かずや)
1968年8月13日生まれの有名人 福岡出身

小野 一也(おの かずや、1968年8月13日 - )は、福岡県北九州市小倉南区出身の元プロ野球選手(投手)。 常磐高校時代はとにかく球速が速いことで知られ、1986年春の福岡県大会ではノーヒット…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


古川ロッパと近い名前の人

古川 優香(ふるかわ ゆうか)
1997年1月15日生まれの有名人 大阪出身

古川 優香(ふるかわ ゆうか、1997年(平成9年)1月15日 - )は、日本の読者モデル、YouTuberユニット「さんこいち」の元メンバー。Garou株式会社(後年 OOO Entertainme…

古川 好男(ふるかわ よしお)
1934年7月5日生まれの有名人 大阪出身

古川 好男(ふるかわ よしお、1934年7月5日 - )は、大阪府出身の元サッカー選手。ポジションはゴールキーパー。 高校卒業後、関西大学に入学してサッカー部に入部。大学4年次の1956年に日本代…

古川 真奈美(ふるかわ まなみ)
1987年6月19日生まれの有名人 福岡出身

古川 真奈美(ふるかわ まなみ、1987年6月19日 - )は、日本の女性タレント、レースクイーン。愛称は、まなみん。福岡県出身。A.M.Entertainment業務提携のフリーランス。 福岡県…

古川 小百合(ふるかわ さゆり)
8月23日生まれの有名人 長崎出身

古川 小百合(ふるかわ さゆり、1984年8月23日 - )は、日本の声優、文化人、実業家。長崎県出身。トイプリッズ代表取締役社長、美声ラボ代表。 テレビの世界に憧れており、8歳で少女漫画誌で見つ…

古川 優奈(こがわ ゆうな)
2001年9月8日生まれの有名人 大阪出身

古川 優奈(こがわ ゆうな、2001年〈平成13年〉9月8日 - )は、日本の女性ファッションモデル、タレント、グラビアモデル、女優、YouTuber、元ダンサー。株式会社I'ma所属。株式会社Lov…

古川 小夏(ふるかわ こなつ)
【アップアップガールズ(仮)】
1992年6月5日生まれの有名人 神奈川出身

古川 小夏(ふるかわ こなつ、1992年6月5日 - )は、日本の女性ダンスインストラクター、タレント。神奈川県出身。女性アイドルグループ『アップアップガールズ(仮)』の元オリジナルメンバー。 モ…

古川 恵実子(ふるかわ えみこ)
1979年10月4日生まれの有名人 神奈川出身

古川 恵実子(ふるかわ えみこ、1979年10月4日 - )は、神奈川県出身のタレント、DJ。 1992年、ニューモモコグランプリに選ばれる。その後CM、グラビアで活動する。当時はオフィスパレット…

加古川 クエ(かこがわ くえ)
1975年9月22日生まれの有名人 広島出身

加古川 クエ(かこがわ くえ、1975年9月22日 - )は、日本のお笑い芸人、タレント。本名、加古川 久恵(かこがわ ひさえ)。旧姓、吉原(よしはら)。お笑いコンビ「チューチューチュー」のメンバーで…

古河 由衣(ふるかわ ゆい)
1993年3月27日生まれの有名人 千葉出身

古河 由衣(ふるかわ ゆい、1993年3月27日 - )は、日本の女性タレント。元グラビアアイドル。千葉県出身。 タレントで元グラビアアイドルの森下悠里が古河のInstagramを見て、以前に担当…

古川 杏(ふるかわ あん)
2002年12月1日生まれの有名人 大阪出身

古川 杏(ふるかわ あん、2002年12月1日 - )は、日本の女優、タレント、グラビアアイドル。大阪府出身。パラソル所属。 趣味は、ショッピング。 特技は、和太鼓と水泳。 出演 テレビ 新宿セ…

古川 英利子(ふるかわ えりこ)
1989年8月26日生まれの有名人 東京出身

古川 英利子(ふるかわ えりこ、1989年8月26日 - )は、東京都出身のタレント、モデル。サンミュージックブレーンに所属していた。 元、ミュージカル集団・東京メッツのメンバー。メッツ最年少なが…

古川 愛李(ふるかわ あいり)
【SKE48】
1989年12月13日生まれの有名人 愛知出身

古川 愛李(ふるかわ あいり、1989年〈平成元年〉12月13日 - )は、日本のイラストレーター。元アイドルで女性アイドルグループ・SKE48チームKIIの元メンバーである。 愛知県出身。Mous…

古川 慎(ふるかわ まこと)
1989年9月29日生まれの有名人 出身

古川 慎(ふるかわ まこと、1989年〈平成元年〉9月29日 - )は、日本の男性声優、歌手。熊本県出身。トイズファクトリー所属。 福岡スクールオブミュージック専門学校卒業。  5歳の時に見た『…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
古川ロッパ
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手) 石山順征

グループ

ONE N' ONLY BOYS AND MEN STA*M M!LK SOLIDEMO 10神ACTOR IMP. MAZZEL BMK_(音楽グループ) 祭nine. 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「古川ロッパ」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました