唐十郎の情報(からじゅうろう) 劇作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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唐 十郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
唐十郎と関係のある人
石橋蓮司: ハーメルンの鼠(1976年、第七病棟 作:唐十郎 演出:佐藤信) 清水紘治: 秘密の花園(1982年、本多劇場 作:唐十郎 演出:小林勝也) 伊達三郎: 二人の素浪人 第7話「闇を裂く隠密二代」(1972年、CX / 東映) - 犬塚唐十郎 江口のりこ: 「唐版 風の又三郎」(2019年2月8日 - 3月3日、作:唐十郎、演出:金守珍 / Bunkamuraシアターコクーン)- 桃子 役 出水憲司: 第12話 「非情剣!これが噂のオオカミ男」(1992年) - 大池唐十郎 佐川一政: 佐川は劇作家の唐十郎に依頼するも、唐は佐川が望んでいなかった小説版「佐川君からの手紙」(『文藝』1982年11月号)で第88回芥川賞を受賞する。 嵐山光三郎: 他に唐十郎、山野浩一、前田亜土、鎌田忠良、麿赤児、坂崎重盛、村松友視、篠山紀信、南伸坊、糸井重里、篠原勝之、鈴木いづみ、山際淳司らと知り合う。 山野浩一: 足立を介して、赤瀬川原平、オノ・ヨーコ、嵐山光三郎、唐十郎らと出会う。 延増静美: 日本の30代「ジャガーの眼 2008」(2015年8月、作:唐十郎、演出:木野花) 流山児祥: 唐十郎主宰の劇団状況劇場(1967年)、鈴木忠志主宰の劇団早稲田小劇場(1969年)に研究生として所属後、状況劇場、早稲田小劇場、青山学院大学劇研のメンバーらと1970年に劇団「演劇団」を設立。 阿井りんな: 東京倶楽部 脚本・唐十郎「少女都市からの呼び声」 - 主演 藤原竜也: 退学した理由は、学校帰りに稽古場を訪れた際、蜷川幸雄と唐十郎の会話を聞いて「小説を読んでいるような高貴な言葉の連続で、僕が学ぶべき場所は高校じゃなくて稽古場なんだ」と思ったからだという。 湯江健幸: 腰巻きおぼろ 妖鯨編 (2017年6月17日 - 2017年6月26日、新宿梁山泊、花園神社特設紫テント、作・唐十郎、演出・金守珍) 流山児祥: 流山児★事務所は1984年創立以来30年、鶴屋南北、河竹黙阿弥の歌舞伎から寺山修司・唐十郎・佐藤信らのアングラ演劇、北村想・岸田理生・山元清多・鄭義信・ケラリーノ・サンドロヴィッチ・ラサール石井・鈴江俊郎・鐘下辰男・坂手洋二・佃典彦・天野天街・千葉哲也・中屋敷法仁・中津留章仁・鹿目由紀・西沢栄治・平塚直隆・村井雄・戌井昭人・日澤雄介といった最前線の劇作家・新鋭演出家との共同作業、カナダ・オーストラリアの新作戯曲、楽塾に代表される中高年演劇からブロードウエイ・ミュージカルまで上演している。 佐野史郎: 1980年、唐十郎主宰の「状況劇場」へ移り、1984年まで在籍。 浜口庫之助: 銭ゲバ大行進(歌:唐十郎)(1970年) - 映画『銭ゲバ』主題歌 渡辺えり子: 逢魔が恋暦(1998年、主演:三田佳子、作:唐十郎) 李麗仙: 少女仮面(1990年、うらら舎 作:唐十郎 演出:李麗仙) 山崎哲: 上京し、唐十郎の状況劇場に入団。 今江冬子: 高校時代、佐藤信や唐十郎や寺山修司の芝居に熱中し、吉田日出子主演の「上海バンスキング」を観て演劇を志す。 緑魔子: さすらいのジェニー(1988年、唐組 作・演出:唐十郎) 李麗仙: 愛の乞食(1987年、李麗仙秘演会 作:唐十郎 演出:李麗仙) 石橋蓮司: 雨の塔(2000年、第七病棟 作:唐十郎 演出:石橋蓮司) 篠原勝之: 唐十郎『糸姫』 (画)青林堂, 1983.7 清水綋治: 秘密の花園(1982年、本多劇場 作:唐十郎 演出:小林勝也) 石橋蓮司: ビニールの城(1985年、第七病棟 作:唐十郎 演出:石橋蓮司) 阿井りんな: 東京倶楽部 脚本・唐十郎「秘密の花園」 - 主演 長門勇: 幻之介世直し帖(1981年 - 1982年、NTV / 国際放映) - 神崎唐十郎 役 コビヤマ洋一: 2003年 唐組春公演『泥人魚』(作・演出/唐十郎) 林竜多郎: 演劇研究会に所属し、在学中は寺山修司、唐十郎らのアングラ演劇に影響を受けた。 |
唐十郎の情報まとめ
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唐 十郎(から じゅうろう)さんの誕生日は1940年2月11日です。東京出身の劇作家のようです。
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人物、逸話などについてまとめました。卒業、映画、テレビ、ドラマ、事件、解散、結婚、離婚、再婚、父親に関する情報もありますね。今年の情報もありました。84歳で亡くなられているようです。
唐十郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)唐 十郎(から じゅうろう、1940年2月11日 - 2024年5月4日)は、日本の劇作家・演出家・俳優。本名:大靏 義英(おおつる よしひで)。位階は従四位、勲章は旭日中綬章。劇団「唐組」主宰、文化功労者。紅テントの「状況劇場」を結成。アングラ演劇の始祖。 東京府東京市下谷区下谷万年町出身。明治大学文学部文学科演劇学専攻卒業。作家としても活躍、『佐川君からの手紙』(1981年)で芥川賞を受賞。俳優として自作以外の映画やテレビドラマに出演することもある。他の演出家への戯曲提供も多い。2012年4月より明治大学客員教授に就任。 下谷区立坂本小学校、私立駒込中学校、東邦大学付属東邦高校を経て、1958年に明治大学文学部文学科演劇学専攻入学、1962年に同大学卒業。同年に松田政男、山口健二、川仁宏らが企画した自立学校に、学生として参加。 演劇の新テーゼ「特権的肉体論」を提唱して、1963年に笹原茂峻(笹原茂朱)らと共に劇団「シチュエーションの会」(翌年「状況劇場」に改名)を旗揚げ。旗揚げ公演はサルトル作の『恭しき娼婦』。翌1964年の処女戯曲『24時53分「塔の下」行きは竹早町の駄菓子屋の前で待っている』で、初めて唐十郎の筆名を用いる。 この時期、李礼仙(李麗仙の旧芸名)と共に「金粉ショー」をしながらキャバレーを巡り、芝居の資金や紅テントの購入費用を調達した。なお、金粉ショーで窒息死することはないが、唐十郎はこの都市伝説を真に受け、窒息するから早く金粉を落とさなければならなかったと語っていた。 1967年2月、新宿ピットインで、ジャズ・ピアニスト山下洋輔とジョイント公演。この時の、入場待ちの行列を見て、自分のやっていることに自信が出てきたという。また、67年には若松孝二監督『犯された白衣』に主演した。 1967年8月、新宿・花園神社境内に紅テントを建て、『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を上演。当初、神社側から「『腰巻』では国体に反する」とのクレームが入ったため、『月笛お仙』と改題して上演したが、1週間程度で元の『腰巻』に戻している。この紅テントが話題を呼び、後の「状況劇場」の方向性を決定づけた。花園神社の紅テントではその後も、『アリババ』、『傀儡版壺坂霊験期』、『由比正雪-反面教師の巻』の上演を行ったが、「公序良俗に反する」として地元商店連合会などから排斥運動が起こり、ついに神社総代会より1968年6月以降の神社境内の使用禁止が通告された。1968年6月29日、「さらば花園!」と題するビラをまき、1979年に和解するまで状況劇場は花園神社から一旦姿を消した。 1969年1月3日、東京都の中止命令を無視し、新宿西口公園にゲリラ的に紅テントを建て、『腰巻お仙・振袖火事の巻』公演を決行。200名の機動隊に紅テントが包囲されながらも最後まで上演を行った。これが世に知られる「新宿西口公園事件」である。上演後、唐十郎、李麗仙ら3名が都市公園法違反の現行犯で逮捕された。同年12月12日、天井桟敷と状況劇場の団員らが乱闘事件を起こし、寺山修司とともに暴力行為の現行犯で逮捕される。きっかけは双方の劇団がお祝いとして中古の花輪や葬儀用の花輪を贈り合ったことによるもの。唐は天井桟敷に真意を聞こうと訪れたもので、殴り込みではないと主張した。 1970年、自身による作詞・歌のレコード『愛の床屋』を発売。歌詞に対して全日本床屋組合よりクレームがつき、発売禁止、放送禁止となる。 この頃から、マスコミにしばしば取り上げられるようになった。「天井桟敷」の寺山修司、「早稲田小劇場」の鈴木忠志、「黒テント」の佐藤信と共にアングラ演劇の旗手とみなされた。 状況劇場は初期には麿赤児、不破万作、大久保鷹、四谷シモン、吉澤健ら、後に根津甚八、小林薫、佐野史郎、六平直政、菅田俊、渡辺いっけいらの俳優を輩出した。ほか、横尾忠則、金子國義、赤瀬川原平、篠原勝之らがポスターを描いた。 また韓国の抵抗詩人で、当時保釈中の金芝河との合同公演をもくろみ、戒厳令下の韓国に渡航して取材をし、『二都物語』を執筆。1972年3月に再度渡韓し、無許可のまま、ソウルにて、金芝河作の『金冠のイエス』とともに『二都物語』を韓国語で上演する。翌1973年にはバングラデシュのダッカ、チッタゴンで『ベンガルの虎』、1974年にはレバノン、シリアの難民キャンプで『アラブ版・風の又三郎』といずれも現地語での公演を行った。若松孝二によれば、紅テントの買い替え費用は酒の席の約束にも拘らず赤塚不二夫が出したそうである。1970年代半ばのことで、750万円であった。 中央公論社『海』の編集者だった村松友視の薦めで小説を書くようになり、1983年、「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞する。NHK教育テレビ番組に出演した際、大衆は豚であると発言し、出演した学者から「恵まれた立場におられる方」と論評されたこともある。 1988年、状況劇場を解散して劇団「唐組」を旗揚げ。作・演出・出演を務める。1997年10月には横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程教授に就任し、「舞台芸術論」などの講義と学生・中野敦之らの「劇団唐ゼミ☆」を指導(第2回公演まで作・演出を、それ以降は作・監修を務めた)。2005年、同大学を定年退職。同年、近畿大学文芸学部客員教授就任。2010年1月、同大にて最終講義を行った。2012年4月より、母校である明治大学文学部の客員教授に就任し「演出論A」の講義を担当するも同年5月、脳挫傷の大ケガを負い療養生活に入る。その後リハビリと脳外科の専門医によるトレーニングをへて2015年『ダイバダッタ』を上梓した。 2024年5月4日午後9時1分、急性硬膜下血腫のため東京都中野区内の病院で亡くなった。1日に自宅で転倒し、救急搬送されたという。84歳没。死没日付をもって従四位に叙され、旭日中綬章を追贈された。 人物父は理研映画で監督・プロデューサーを務めた大鶴日出栄。前妻は女優の李麗仙(1967年結婚、1988年離婚)、長男は俳優・小説家・映画監督の大鶴義丹。1989年の再婚後にもうけた長女は女優の大鶴美仁音(みにおん)、次男は俳優の大鶴佐助。 逸話
21歳で土方巽の門下となるまでは、謹厳な父親の指導で「朝6時半に起き、夜は7時半に寝る」という真面目一方の人間であった。なお、当時の土方の門下には、石井金八、麿赤児、中嶋夏、李麗仙らがいた。 貧乏時代のなごりで、戯曲を書く際は、カレンダー等の裏に横書きで、しかも紙を節約するため非常に細かい字で書く癖がついた。それを、劇団のメンバーが原稿用紙等に清書していた。 唐十郎の喧嘩武勇伝については枚挙に暇がない。1969年12月5日、寺山修司は状況劇場のテント興業の初日に祝儀の花輪を「冗談のつもり」で葬式用の花輪にした(これは寺山の天井桟敷の旗揚げ公演の際に中古の花輪を送られた事への意趣返しだった)。一週間後の12月12日、唐は劇団員を引き連れて天井桟敷を襲撃、大立ち回りを演じて、乱闘事件を起こしたかどで唐と寺山を含む双方の劇団員9人が暴力行為の現行犯で逮捕される。寺山曰く「ユーモアのつもりだったが分かってもらえなかった」、唐曰く「ユーモアのつもりなら自分で持って来い、そもそも話を聞こうと思って行っただけ。これは殴り込みではない」。また、野坂昭如とも新宿ゴールデン街の飲み屋で大喧嘩し、包丁をまな板に突き立ててしまったこともある。また、赤塚不二夫の著書によれば、酒場で喧嘩があると聞くと乱入し、大立ち回りをし、見得を切ることもしばしばだったという。 小林薫が状況劇場を退団したいという話を聞いた唐は、小林のことを高く評価していたため、退団を考え直すよう説得しようと包丁持参で小林の住んでいたアパートに向かう。しかし先に小林が逃げ出していたため説得はできず、結局小林の退団をなし崩しに認めてしまったと『唐十郎血風録』にある。 母校の明治大学で担当した「演出論A」の講義では「教室の中にテントが張られる」「床を這いつくばって登壇」「歌を熱唱する」など実験的講義を行った。 2024/07/04 14:09更新
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kara juurou
唐十郎と同じ誕生日2月11日生まれ、同じ東京出身の人
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