基満男の情報(もといみつお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
基 満男さんについて調べます
■名前・氏名 |
基満男と関係のある人
稲尾和久: 4月に入ると永易や藤縄から事件に関与した選手の実名が晒され、5月下旬に、コミッショナー委員会から池永正明・与田順欣・益田昭雄の3投手が永久追放、船田和英・村上公康が1年、基満男が1ヶ月の出場停止の処分が下された。 谷村智啓: 長坂以外の1年上のチームメイトに捕手の水沼四郎、二塁手の基満男、右翼手の三宅昇がいる。 土井淳: 打撃陣では4番の田代富雄が36本塁打を放ったほか、3番に入った基満男がチームトップでリーグ4位の.314を記録。 斉藤巧: 1981年には主に二塁手・三塁手として49試合に先発出場を果たすが、基満男・フェリックス・ミヤーン・田代富雄・山下大輔ら内野陣の選手層が厚かったためレギュラーには定着できなかった。 別当薫: 最後の1979年は優勝を狙うべくクラウンから基満男を、中日からジーン・マーチンをそれぞれ獲得。 竹之内雅史: ライオンズでは「中西太二世」と呼ばれ、土井、基満男、大田卓司、東田らと共に低迷期のライオンズの中心打者として活躍し、特に同期の東田とは「トンタケ・コンビ」として親しまれた。 吉岡悟: 1976年には基満男の負傷欠場もあって、5月から二塁手のレギュラーを獲得しチャンスメーカーとして活躍。 稲尾和久: 翌1972年になると、東尾がリーグ4位の18勝(25敗)を挙げ、加藤初が17勝(16敗)で新人王を獲得、6年目の基満男が打率.301を打って二塁手のベストナインに選ばれるなど、若手が実績を出し始める。 高木豊: 1983年は開幕戦のみ基満男が二塁手で起用されたが、2試合目以降は高木が起用され、初めて規定打席(6位、打率.314)に到達。 梅田邦三: 29999号へ訂正され、30000号は、同じ近鉄戦で梅田の後に左中間へ本塁打を打った基満男ということになった。 佐藤義則: 初奪三振:同上、4回表に基満男から 北角富士雄: 1回戦で水沼四郎、基満男らがいた報徳学園に9回サヨナラ負け。 根本隆: 1978年オフに基満男との交換トレードで、鵜沢達雄と共に西武に移籍。 松原誠: 2000試合出場:1979年8月12日、対読売ジャイアンツ17回戦(後楽園球場)、5回裏に基満男に代わり一塁手で出場 ※史上14人目 槌田誠: 当時中学3年生の基満男がラジオにかじりついてこの試合を聞き、感動して報徳を受験し見事合格している。 滝内弥瑞生: ライオンズコーチ時代は試合前にノックバットを振るい、基満男・真弓明信らを鍛えて一人前の内野手に育てた。 鵜沢達雄: 1978年オフに基満男との交換トレードで、根本隆と共に西武に移籍した。 大久保弘司: 8月からは20試合に二番打者として起用され、基満男の後継を期待される。 三宅昇: 高校同期に基満男、水沼四郎、1年下に控え投手の谷村智博がいた。 野村収: 1982年6月18日のヤクルト戦(神宮)で大洋は2回表に基満男が四球で出塁すると、暴投と高木由一の内野ゴロで一死三塁として屋鋪要の犠飛で1点を先制した。 松原誠: 1979年8月12日の巨人戦(後楽園)で5回裏に基満男に代わって一塁に入り、史上14人目の2000試合出場を達成。 山崎賢一: 1984年に打撃コーチ兼任の基満男から「ホームランバッターと競争して勝てるか?」と言われ、単打を狙う打撃に切り替えたが、新たなノーステップの打撃フォームには当時のバットは合わなかった。 藤波行雄: 1977年のシーズン前にクラウンライターライオンズの基満男らとの交換トレード(藤波と竹田和史=基の2対1で内定)を言い渡され、契約上トレード拒否権がなかったものの、任意引退も辞さない構えでトレードを拒否し、結局トレードによる移籍を免れた。 水沼四郎: 他の高校同期に基満男、三宅昇、1年下に控え投手の谷村智博がいた。 鬼頭政一: 土井正博・白仁天・竹之内雅史・基満男らベテラン選手と対立しながらも、鬼頭は「走る野球」で若返りを断行していった。 |
基満男の情報まとめ
基 満男(もとい みつお)さんの誕生日は1946年11月10日です。兵庫出身の野球選手のようです。
父親、事件、引退、テレビ、現在に関する情報もありますね。基満男の現在の年齢は78歳のようです。
基満男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 基 満男(もとい みつお、1946年11月10日 - )は、兵庫県武庫郡(後の神戸市東灘区)出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者・評論家。 少年時代はサッカーをやっていたが、中学3年時に当時の担任の勧めで野球を始めた。報徳学園高校では1年から二塁手のレギュラーとなる。同期のエース長坂正稔(中大-東芝)を擁し、1964年の第36回選抜高等学校野球大会に出場。1回戦で東邦高を9回サヨナラ勝ちで降すが、2回戦では、この大会に優勝した徳島海南高の尾崎正司に完封負けを喫する。同年夏の甲子園県予選では、準決勝で育英高の鈴木啓示に抑えられ惜敗。他の高校同期に捕手の水沼四郎、右翼手の三宅昇、1年下に控え投手の谷村智博がいた。高校1年生の時に父親が亡くなる。 駒澤大学に進学するが、大学1年の夏に中退。地元・神戸に戻るも大企業の野球部は年度途中採用をしておらず、篠崎倉庫に入社し1年半勤めた。報徳時代の先輩が、同じく報徳の先輩だった西鉄ライオンズスカウトの深見安博へ紹介し、1966年秋に香椎球場で打撃、平和台球場で守備のテストを受け合格。阪神タイガースの入団テストも受験したが、ドラフト会議の結果を待って合否を決定するという阪神を蹴り、西鉄に入団した。 1967年は遊撃手と二塁手を兼ね91試合に先発出場、8月には2番打者に定着する。入団したての頃は技術修得のために、自ら授業料を払い教えを請うという、かなりの努力家であった。 1968年は開幕から二塁手として起用され、初の規定打席(24位、打率.235)に達する。 1969年には打率.295(8位)の好記録を残した。以後パシフィック・リーグを代表する二塁手となる。 1970年の黒い霧事件で嫌疑がかかるが、コミッショナー委員会は八百長の依頼を断ったこと、八百長の報酬を渡されるも拒否したことを評価し、既に球団から出場停止となっていたことも考慮して出場停止処分は課さず「戒告処分」にとどめた。 1972年にはプロ6年目で初の3割となる打率.301、20本塁打、盗塁25を記録し、ベストナインを受賞した。 1973年5月20日の近鉄戦にてプロ野球通算3万号本塁打を打つ。当時は同僚の梅田邦三が記録したとされていたが、1976年に報知新聞社の調査で記録の間違いが判明した。 1975年4月5日の日本ハムとの開幕戦にてサヨナラ二塁打を記録した。1976年、二塁手のポジションを吉岡悟に奪われ72試合の出場に留まる。吉岡は同年、パ・リーグの首位打者を獲得した。同年オフ、中日ドラゴンズの藤波行雄と竹田和史との2対1の交換トレードが内定した。基は中日への移籍を早々に快諾し、竹田も不本意ながらクラウンへの移籍を了承した。ところが藤波が任意引退も辞さないという態度でトレードを拒否し中日も認めたためトレードは不成立に終わり、基はチームに残留し、竹田と松林茂のトレードで決着した。 1977年は吉岡が不振に陥り、出番を得た基が再び正二塁手の座についた。 西武ライオンズの誕生により所沢移転が決まった1978年オフ、鵜沢達雄、根本隆との交換トレードで横浜大洋ホエールズに移籍。セ・リーグの大洋へ移籍すれば巨人戦の中継があり、福岡のファンに自分の姿を見てもらえることが、移籍了承の理由であった。 1979年は三塁手も兼ねて活躍、勝負強い打撃で3番打者としても57試合に起用された。 1980年は二塁手に専念、監督の別当薫から振り子打法の助言を受けた。打席に立ちバットの先で本塁ベースの3点を軽く叩き、バットを持ち上げた後、ゆするようにバットを立て左足を軽く上げてから、体の反動でボールを上から叩く打法を身につけた。自己最高の打率.314(リーグ4位)を記録、ダイヤモンドグラブとベストナインに輝いた。両リーグでのベストナイン受賞は当時としては史上5人目だった。 1983年には高木豊が成長し定位置を譲る。 1984年はコーチ補佐を兼任し、同年限りで現役引退。 引退後は大洋二軍打撃コーチ(1985年 - 1986年)→日本ハム二軍外野守備・打撃コーチ(1987年 - 1988年)を経て、テレビ神奈川「ハイアップナイター」・RKB毎日放送「エキサイトナイター」(1989年)→TVQ「スーパースタジアム」(1991年 - 2001年)解説者、西日本スポーツ評論家などを歴任。 現在は福岡市西区のウエストコート姪浜で少年少女バッティング教室の講師を務めている。 基には独自の技術として「ウッドペッカー」がある。西鉄のジム・バーマがしていた、グラブにボールを入れて右拳で叩いて上げるという遊びを真似していたものを、大洋時代に実践したものである。これは二塁手として二遊間のゴロをバックハンドでさばいた時に二塁ベース上の遊撃手に向かって出すバックトスなのだが、グラブそのものを動かすのではなく(グラブの先にひっかかることがある)、グラブを二塁ベースに向けて軽く開口し、拳状にした右手でボールの入ったグラブのポケット部分を裏からトンカチのように叩き、ふわっとしたちょうど良い加減のトスを出すというものである。 太平洋・クラウンで同僚だった真弓明信は「基さんには、守備から打撃から野球を教わったよ。特にダブルプレーは鍛えられた。基さんはとにかくトスが速い。ショートにとって、トスが速いのは本当に助かるんやね。捕ってからベースを踏んでもいいし、すでにベースに入っているときにはランナーもいないし。速いに越したことないから」と語っている。 各年度の太字はリーグ最高 西鉄(西鉄ライオンズ)は、1973年に太平洋(太平洋クラブライオンズ)に、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に球団名を変更 ベストナイン:2回(二塁手部門:1972年、1980年) ダイヤモンドグラブ賞:1回(二塁手部門:1980年) 初出場:1967年4月15日、対東京オリオンズ2回戦(東京スタジアム)、9回表に植田征作の代走で出場 初先発出場:1967年4月23日、対阪急ブレーブス4回戦(平和台球場)、8番・遊撃手で先発出場 初安打:1967年5月9日、対東映フライヤーズ3回戦(後楽園球場)、2回表に尾崎行雄から 初打点:1967年5月13日、対近鉄バファローズ4回戦(今治市営球場)、4回表に佐々木宏一郎から適時三塁打 初本塁打:1967年5月23日、対近鉄バファローズ7回戦(平和台球場)、3回裏に板東里視からソロ 100本塁打:1974年4月28日、対ロッテオリオンズ前期4回戦(川崎球場)、1回表に木樽正明から左越先制ソロ ※史上77人目 1000試合出場:1975年5月17日、対南海ホークス前期5回戦(大阪スタヂアム)、7回表に梅田邦三の代走で出場 ※史上181人目 1000安打:1975年9月18日、対阪急ブレーブス後期7回戦(平和台球場)、5回裏に竹村一義から中前安打 ※史上94人目 150本塁打:1979年8月25日、対阪神タイガース17回戦(阪神甲子園球場)、8回表に山本和行から左越ソロ ※史上53人目 1500安打:1981年4月11日、対ヤクルトスワローズ1回戦(明治神宮野球場)、8回表に鳥原公二から左中間安打 ※史上41人目 1500試合出場:1981年4月15日、対広島東洋カープ2回戦(横浜スタジアム)、2番・二塁手で先発出場 ※史上62人目 プロ野球通算3万号本塁打:1973年5月20日 対近鉄バファローズ前期9回戦(平和台球場)、7回裏に井本隆から左中間へ2ラン 1試合4二塁打:1979年5月9日、対阪神タイガース4回戦(横浜スタジアム) オールスターゲーム出場:6回 (1968年、1971年 - 1973年、1977年、1980年) 78(1967年) 4(1968年 - 1978年) 5(1979年 - 1984年) 90(1985年 - 1986年) 77(1987年 - 1988年) ^ 週刊ベースボール1982年11月29日号「シリーズ ザ・マン 第31話 基満男(大洋) 野球の醍醐味を自ら楽しむ『仕掛け人』」p106-p109 ^ 澤宮優『ドラフト外』河出文庫、2013年、ISBN 9784309412603 ^ 西日本スポーツ1972年10月12日2面「基 テスト生から3割打者 苦節6年 汗と努力の結晶」 ^ 報知新聞1976年1月17日1面「基が打っていた『3万号』本塁打通算記録に1本のズレ」 ^ 読売新聞1975年4月6日14面「"江藤太平洋"サヨナラ勝ち」読売新聞縮刷版1975年4月p166 ^ 毎日新聞1976年12月16日15面「藤波のトレード白紙に」毎日新聞縮刷版1976年12月p515 ^ サンキュー テレQ 30周年 | テレQ - 株式会社TVQ九州放送 ^ 少年少女バッティング教室開催中!! | 福岡市西区内浜にある商業施設 ^ 『野球小僧 6月号 2012』白夜書房、p.210 兵庫県出身の人物一覧 駒澤大学の人物一覧 埼玉西武ライオンズの選手一覧 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 個人年度別成績 基満男 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 野村克也 一 大杉勝男 二 基満男 三 有藤通世 遊 大橋穣 外 長池徳二 / 張本勲 / 福本豊 表 話 編 歴 投 江川卓 捕 大矢明彦 一 谷沢健一 二 基満男 三 衣笠祥雄 遊 高橋慶彦 外 山本浩二 / 若松勉 / 杉浦亨 表 話 編 歴 1972 J.シピン 1973 J.シピン 1974 高木守道 1975 大下剛史 1976 D.ジョンソン 1977 高木守道 1978 土井正三 1979 高木守道 1980 基満男 1981 篠塚利夫 1982 篠塚利夫 1983 高木豊 1984 篠塚利夫 1985 岡田彰布 1986 篠塚利夫 1987 正田耕三 1988 正田耕三 1989 正田耕三 1990 正田耕三 1991 正田耕三 1992 和田豊 1993 和田豊 1994 和田豊 1995 立浪和義 1996 立浪和義 1997 立浪和義 1998 R.ローズ 1999 仁志敏久 2000 仁志敏久 2001 仁志敏久 2002 仁志敏久 2003 今岡誠 2004 荒木雅博 2005 荒木雅博 2006 荒木雅博 2007 荒木雅博 2008 荒木雅博 2009 荒木雅博 2010 平野恵一 2011 平野恵一 2012 田中浩康 2013 菊池涼介 2014 菊池涼介 2015 菊池涼介 2016 菊池涼介 2017 菊池涼介 2018 菊池涼介 2019 菊池涼介 2020 菊池涼介 2021 菊池涼介 2022 菊池涼介 2023 中野拓夢 2024 吉川尚輝 日本の野球選手 報徳学園高等学校出身の野球選手 駒澤大学硬式野球部の選手 篠崎倉庫硬式野球部の選手 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 野球解説者 北海道日本ハムファイターズ関連人物 兵庫県出身のスポーツ選手 神戸市出身の人物 1946年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/20 12:23更新
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